介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

介護

介護が長引くと貯蓄がゼロになることもあり得る



僕の場合は、父の在宅介護も長くはなく、

また、その2年後に亡くなった母も、

入院後すぐだったため、

介護が長引くことによる弊害はなかったのですが、

世の中には、3000万円もの貯蓄がありながらも、

介護離職後に使い果たしてしまうケースもあるようです。


以下は、その一例で、

幻冬舎オンラインからの抜粋。


「介護離職」で生活が破綻…3,000万円の貯蓄がゼロに



うーん、 800万円の年収が300万円台に。

そして、預貯金は底をついている、と。

独身者の一人介護の1例ですが、

人生いろいろ、介護もいろいろ。

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僕の親戚の子供部屋おじさんも、

今は、介護の日々。

ときどき、手伝いに行っていますが、

いろいろあるようです。




54歳貯金ゼロでも楽天家だった自分のその後



預貯金がゼロになってみると、むしろ爽やか、という心境は、

実は、この時が初めてではありませんでした。

そもそもが、貯金をするメンタルではなかったのです。


それというのも、35歳で幸福の科学に入信し、

53歳で退会するまでの間、活動信者でしたから、

その間に、60万円の御本尊を一回、

100万円の御本尊を2回、など、

お金が貯まる暇もなく、出ていくのです。


これは、数年ごとに御本尊がリニューアルされるため、

熱心な会員は、そのたびに100万単位の支出となります。

まあ、この調子で話していくと、

幸福の科学の話になってしまうので、

この辺にするとして、

常にお金を吐き出し続ける環境下にいたため、

少しお金が貯まりだすと吐き出すみたいな、感じ。


ただ、50歳のときに、教義に疑問を持ち、

お布施の支払いをセーブしていたため、

多少はお金を貯めることができていました。


で、そのお金も親の介護で自宅に戻ることになり、

マンションの売却前に繰り上げ返済に充てたりなどし、

何とか残債をゼロにしたという綱渡り経済。

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一文無しにはなりましたが、株が2銘柄ありました。

ただ、民主党政権下の悪い環境で、

その2銘柄もほぼ塩漬けに近く、

売っても、たかが知れていて、

そのまま放置。


なので、資産は、その2銘柄の株だけという惨状。


当時は、仕事と介護の両立で忙しく、

そもそも、株どころの騒ぎではありませんでした。


で、そこから、鬼のようにお金を貯めまくりました。

生活費は、親の年金でできるので、

毎月、20万円前後を貯金。

給料は、手取りで27万円前後だったと思います。


一年で、250万円くらいは貯めたと思います。

ただ、その後介護離職となったため、

鬼のようにお金を貯めた時期は、2年半ほど。


お金を貯めるだけでは増えないので、

株式投資のほうにも資金を投入。


その後、日本を取り戻す、を謳い文句にして、

安倍さんが総理に返り咲いてからは、

投資環境も改善し、

僕も多少は、

株式投資の波に乗ることができました。


バリアフリー化して建て替えた家で、

父を在宅介護し、

父が老衰で他界後、

母も末期癌で他界し、

今は天涯孤独者として、

質素な暮らしで、

生きています。




54歳貯金ゼロでも楽天家だった自分



親の介護が必要になり、

自宅を建て替えたのが54歳のとき。

で、その前年、53歳は、

僕の人生で最も慌ただしいときでした。


当時は民主党政権で、経済もどん底のとき。 


そのとき住んでいた分譲マンションは、

まだ住宅ローンが残っており、

まずはそれを売却するのが一仕事。


駅前マンションなので売れるとは思ったのですが、

不動産は底値。

売るには最悪の時期でしたが、

売らねば先へ進めません。


何とか売却でき、

ギリギリ残債もゼロにできましたが、

引っ越し費用はその月の給料から捻出。


預貯金ゼロで実家に戻り、

親の介護をしながらの往復4時間の通勤生活。

バリアフリー化のために実家を建て替えるにも、

頭金がない状態。


やむなく、

母に頭金として100万円だけ出してもらい、

あとはローンで何とか建て替えました。

当時フルタイムで働いていた僕は、

頭金を入れるまでの間に給料も何回かもらえたので、

それらも頭金に回し、金策はクリア。


その後、家は建ったものの、

外構の費用がない、と。

外構は、

僕の友人の会社にやってもらいましたが、

ちゃんともうけは出してくれよ、と言いました。


外構費用は85万円ほどかかりましたが、

これが払えたのも、働いていたから。

幸い、実家に戻ったため、

親の年金で暮らせていたので、

給料は全額、住宅関係につぎ込むことができました。


介護をしながらの長時間通勤、長時間勤務でしたが、

不安を感じる暇もないほど忙しかったのを覚えています。

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お金は全部はたいて何もなく、

むしろ気持ちいいほどのスッカラカン。


とにかく家を建て替えることにだけ全力集中し、

あとは何とでもなる、と、思っていた日々。


長くなったので、続きは、明日とします。




60代の住宅ローン残高の平均と老後計画に狂いが生じた知人



13日は、台風の西側だったせいか、

思ったよりも雨風が強くなかったです。

しかし用心して検針業務はやめにしました。


その分、昨日14日は、

炎天下の中、

汗をかきながらの検針。


車で回る地域と、

車を、いなげややヤオコーの駐車場に停めて、

歩いて回る地域があり、

歩いて回るほうは、

水分補給が欠かせません。


今年は、

軽い熱中症を経験しているので、

用心に越したことはありません。


さて、今日は、住宅ローンの話。

60代になっても住宅ローンが残っている人、

僕みたいにね、が、

どのくらいいるのか、調べてみました。


60代になってもまだ、

多額の借金を背負っているのって、

何気にきついよね、とは、

誰しもが思うこと。


以下は、金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査](令和2年)」の「各種分類別データ(令和2年)金融負債の状況等」からの抜粋。


世帯主が60歳代の住宅ローン残高を確認してみます。 【平均:619万円(中央値:500万円)】  ・50~100万円未満:1.8%  ・100~200万円未満:0.9%  ・200~300万円未満:1.8%  ・300~500万円未満:8.8%  ・500~700万円未満:6.2%  ・700~1000万円未満:12.4%  ・1000~1500万円未満:14.2%  ・1500~2000万円未満:4.4%  ・2000万円以上:3.5%
多くの人が属すると思われる中央値は500万円です。


うーん、 住宅ローン残高の平均額を見て、

まるで自分のことを、

言い当てられているかのように、

感じました。


中には、

1000万円以上のローンを残す世帯もいて、

僕などはまだましか、

とも思ったのですが、

60歳時点で、

住宅ローン残高と金融資産を、

同額にまで持って行く計画で生きている、

僕の友人のIさんなどは、

実に堅実に生きていると言えます。


僕の場合は、

介護の必要があっての建て替えのため、

後悔は微塵もありません。


僕の知人の中には、

高額な施設に親が入ったため、

親の年金だけでは足りず、

持ち出しとなり、

自分の老後計画に狂いが生じた者もいます。

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ケア型の老人ホームの中には、

びっくりするほど高額なものが、

ありますからね。


僕と同世代でも、

親がまだ生きている友人、知人は、

それなりにいますから、

自分の老後のお金も、

そうした親の介護次第、

なのかもしれません。



親の介護が終わった後に自分の老後資金不足に気づく悲劇



台風が近づいているというので、

昨日は、

今日の分も前倒しで検針業務をしたため、

ほぼ一日仕事となりました。


それなのに今は、

何か空が明るく、

まあ、嵐の前の静けさ、

なのかもしれません。


さて、今日は、介護の話。

僕の場合も、介護離職でしたが、

介護の後に、

気がついたら自分の老後資金がだいぶ少なくなっていた、

ということもあります。


今日は、そんなケースをネットで見たので紹介します。


問題は両親が亡くなった後に気づきます。介護していた兄弟姉妹の老後資金不足です。あるケースでは、両親が亡くなった時には、その娘も60代以降になっており、老後資金に困窮したという事例もありました。介護のため離職して以降、長年働いていなかった人が、その年になって急に働くのは困難極まりありません。

なかには、兄弟姉妹のことが原因で配偶者からクレームが発生し、夫婦問題に発展することも。できたら、両親が健在のうちによく話し合っておく方がよいでしょう。親が遺言書を残してくれれば理想ですし、せめてその兄弟姉妹の老後資金を準備対策しておいてもらわないと、大変なことになります。

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うーん、 僕自身の親の介護は、すでに終わっていますが、

今、親戚の介護の手伝いをしていて思うのは、

子供部屋おじさんの増加と、一人介護。


僕もそうでしたが、

配偶者のいない中年男が一人で介護を担うと、

煮詰まる場合も、あります。


僕の介護は、50代で終わりましたが、

世の中には、老々介護もあります。


親の介護も大切ですが、

親亡き後、

自分も年老いてくるわけで、

そのときに、

老後資金が不足していたら、

困るのは、

自分
です。


その辺のことも勘案しながら、

同時に、

後悔のない介護ができるのが、



一番いいですね。



「お金がない」と言いながら

「お金がない」と言いながら、Oさんは、僕には理解不能の支出をしていました。

まず、びっくりしたのが、電気代です。老いた母親との二人暮らしなのに、月2万円はかかると言っていました。僕も、母との二人暮らしですが、電気代が多くかかった月でも、1万円どまりです。たいがいは、数千円で済みます。

「それはかかりすぎですね」と僕は言いました。5人家族ならそのくらいかかっても理解できますが、どう使えば、2万円も電気代がかかるのか。

それだけではありません。石油ストーブなどの灯油代に1万円はかかるとも言っていました。

僕は家を新築した際に、そのときはまだ24時間勤務で家を長い時間離れなければならないこともあり、暖房はすべて電気と決めました。だから我が家は灯油代はゼロです。

僕もOさんも、雪国に住んでいるわけではありません。ともに埼玉県民です。秩父や三峰山のほうに行けば、寒さも変わってくるでしょうが、それでも、雪もあまり降らない恵まれた土地です。

聞けば、2万円の電気代の多くを占めるのは、暖房費ではないかと言っていました。電気代と灯油代で、すでに3万円の支出です。

年寄りは、一般的に寒がりですから、昼間家にいる母親が、ずっと暖房をつけているのでしょう。そのエアコンが古ければ、電気を食うことは想像できます。

あまり根掘り葉掘り聞くのもどうかと思い、食費やその他については聞きませんでした。電気代に無頓着なOさんのことですから、食費などもかなりかかっているのだと推測できます。

ただ、市営団地ということで、家賃は年収に応じて違うということは言っていました。

余計なお世話かと思い、黙ってはいましたが、Oさんの場合、煙草代も大きいと思いました。副流煙を浴びながら、僕は肺の痛みに耐えていました。狭いトラックの室内に充満する煙がOさんの人生を蝕んでいるように思いました。

煙草がいくら値上がりしてもやめる気はない、と言っていました。そして言い訳のように、その代わり酒は飲まないのだと言いました。

僕は焼酎派で、鹿児島の芋焼酎を飲んでいますが、家で飲む限りは、一か月3000円もあれば十分です。タバコなどよりも、間違いなく健康にいいはずです。焼酎は、糖質ゼロですからね。

たまに、発泡酒も飲みますが、安い酒屋で24缶セット買いすれば、税込みでも一缶当たり90円台でゲットできます。

「お金がない」を口癖にしている人は、本当にお金がない生活を送ります。これはほぼ間違いがなく、人は言葉に左右されるからです。

お金がないと愚痴をこぼす代わりに、家計を見直すべきです。自力でできることに、まずベストを尽くす。それが先決です。

実は今日、14日も、会社から電話があり、夕方から来れないかと言われましたが、夕方からだと帰りは深夜になるので、母の介助のことを考え、断りました。

僕の母は、できれば運転の仕事はしてほしくないようです。僕自身も、電話がかかってきて必要なときだけ駆り出される仕事では、気持ちが安定しません。

今、もう一つ別の会社の面接を受けています。そちらは結果待ちですが、地道な工場労働です。母の介助を考えると、そちらのほうに、気持ちが傾いています。

今は、介助で済んでいますが、今後さらに年を取っていくと、介護になるかもしれません。先はわかりませんが、少なくとも、介助や介護と両立できる仕事でなければなりません。

あとは、節約の腕を磨き、やりくり上手になることですね。今日はライフがポイント5倍なので、そちらに行きます。ライフ、ベルグ、マミーマートが、今、利用しているスーパーです。

重い介護負担と兄弟からのサポートがないという追い打ち

「23年間介護、59歳、貧困」の続きになりますが、Oさんの問題点は、兄弟が4人(Oさんは次男)いるにもかかわらず、全く協力が得られないことでした。

ただ、僕が素朴な疑問として思ったことは、おそらく他の兄弟にもそれ相応の言い分があるだろうということでした。親の介護を全くせず、経済的なサポートもしないということは、かなり異常です。

たった一日、トラックに乗り合わせて、話しただけなので、あまりその辺のことを深く訊くこともできず、ただ、Oさんがはっきりと明言したことは、4人兄弟が全て、バラバラで仲が悪いということでした。

兄弟が多ければ、たとえば、一人ぐらいは気の合う者がいるような気がして、その辺も訊いたのですが、みんなバラバラでお互いに仲が悪く、父親の葬儀に来たのは二人の弟のうちの一人だとかで、長男ともう一人の弟は葬儀にも来なかったそうです。

成り行きでOさんだけが介護することになったのかもしれませんが、一人で、親の介護を負担した23年間は、想像するだけで大変だったのだろうということはわかります。

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僕の場合は、介護離職後4か月の介護で、父が老衰で亡くなったため、ほとんど介護を負担に感じたことはありませんでした。

だから、僕とOさんとを安易に比較することはできません。

兄弟がいても、協力を得られないのならば、むしろ一人っ子介護のほうが、感情の縺れがないだけましでしょう。人を恨むことは、それがまして身内であったならば余計に、心理的ストレスは大きいものになると思います。

「重い介護負担と兄弟からサポートがないという追い打ち」が、Oさんを追い詰めていったのだと思います。

兄弟や社会への不満を口にしていたOさんですが、唯一救いを感じたのはその表情が、あまり険しいものではなく、飄々としていたところです。

おそらく、度重なる失望が、Oさんを諦観へと導いたのかもしれません。諦観が良いほうに展開すれば、仏教的な悟りへとつながるのですが、そこに至るまでには、Oさんの場合、かなりの乖離があると思いました。

介護についての兄弟への恨み、そして、医者や病院、市役所など、社会に対する恨みを口にしていたOさんですが、もう一つ僕が気になったのは、金銭管理の拙さでした。

お金がないと言いながら、僕には理解不能の支出をしていたのです。

長くなったので、Oさんの金銭管理については、また改めて、書いてみます。


23年間介護、59歳、貧困

7日に、トラックでの配送のアルバイトに行ってきました。助手席に乗り、ルート配送の手伝いをしたのですが、運転手は、Oさんと言い、僕と同じ50代で独身。

さらに共通していたのは、父親の介護の経験があることでした。しかし、Oさんの介護は、23年と長く、壮絶なものだったようです。

境遇が似ていることから、僕に親近感を持ったらしく、初対面にして、人間関係は問題なく進展しました。

ただ一つ、つらかったのは、彼が車内でタバコを吸ったときです。狭い空間にたばこの煙が充満し、たちまち僕の肺は副流煙の侵入を受けて、痛みを感じました。

窓をあからさまに開け放つのも嫌味かもしれないと思い、我慢しました。僕自身も以前はタバコを吸っていたため、多少の煙は大丈夫ですが、トラックの室内は狭いため煙の濃度は半端ではありません。

12時半から始まった仕事を終えたのは19時半でした。

所沢、春日部、岩槻を周りました。仕事自体は難しいものではありません。トラックは4トンで、後ろが見えにくいため、バックをするときには注意が必要です。

Oさんは市営団地に住んでおり、今は母親と二人暮らしだそうです。

住まいの状況は違いますが、母親との二人暮らしという点でも共通点があります。

ただ一つ、大きな違いがありました。

それは、彼が極めて悲観的な人間だということでした。会話の端々で、それを感じました。

僕は、どちらかと言うと、楽観的な人間です。

Oさんは、医者を恨み、兄弟を恨み、住まいを提供している市を恨んでいました。彼がそれらを話すときは、僕は同意するでもなく、聞き役に回っていました。

病院に対する評価も僕とは正反対で、彼の父も僕の父も、同じ病院に入院していたことが分かったのですが、彼は「あんなひどい病院はない」と言っていました。

僕は、病院には感謝しかありません。医者も看護師も、みなよくやってくれていました。

同じ病院に対して、これほど評価が分かれるのはびっくりしましたが、彼があまりに病院をけなすので、僕は褒めるわけにもいかず、黙っていました。

彼は男ばかりの4人兄弟の次男で、長男はじめ、他の二人の弟も、一切、介護に協力してくれなかったとぼやいていました。お金も一切出してくれなかったそうです。

親と同居している彼だけが、介護の負担を負ったそうです。

彼は、老朽化した市営団地に老いた母と住み、その暮らしぶりの悲惨さを訴えていましたが、確かに、彼からは、貧困にあえぐ人の雰囲気を感じました。

23年間の介護の末、今は市営団地に母親と二人暮らし、59歳、独身、貧困。それが、Oさんでした。

長くなったので、Oさんについては、また改めて、書いてみたいと思います。

介護が、悔悟にならないように

 昨日、ホテルに勤めていた頃の、すでにその存在すら忘れかけていたブログを読み直した時に、当時の状況がつぶさによみがえり、特に、あの、4年前の夏の慌ただしさは、きついものがありました。

 2012年の7月7日、本当は、父も一緒に、川越のプリンスホテルに行く予定でした。斎藤一人さんのパーティーに参加するために、すでに3人分のお金を払い込んでいました。一人1万円で、計、3万円だったと記憶しています。

 ところが、父が行きたくないと言い出し、そのときは理由は言いませんでしたが、今思えば、すでに体調に異変が生じていたのでしょう。その数日後、緊急入院となりました。

 それからは、仕事と、僕自身の生活と、病院通いと、実家通いで、ブログの更新どころではなくなっていました。

 そしてその1か月後の8月に、長いお別れ、という、一文を書いて、そのブログは放置、ということになってしまいました。

 あれから、もう4年近くが経ったのかと思うと、感慨深いものがあります。

 2012年7月に入院した父が、最終的に退院し、家に戻ってきたのが、その翌年の2013年8月です。

 その間に、僕は、住んでいたマンションを売り払い、実家に戻り、さらに、その実家を建て直すために借家に移り、その後新築の家に戻って、父を迎え入れる準備をし、といったことをしていたわけです。

 2013年8月から、2015年7月に再入院するまでの、約2年間は、バリアフリー化した新築の我が家で、楽しく暮らしました。僕も仕事を続けながら、介護をすることが可能な状況でした。父は、杖をつけば歩くことができましたし、トイレも、自分の力で行くことができました。デイサービスにも、週に3回ほど、行っていました。

 去年の7月に再入院し、今年の1月末に、退院してきたときには、要介護5で、オムツ交換と痰の吸引が必要不可欠だったため、僕は仕事と介護の両立はあきらめ、介護離職による早期リタイアとなりました。

 今では、さらに、常時、酸素吸引が必要となったため、深夜でも、父が寝ているベッドをのぞき込み、ちゃんと鼻から酸素吸引ができているかを、確認します。

 仕事と介護が両立できていた時から数えると、今年の夏で、介護生活は3年になります。先は見えませんが、介護が悔悟にならないようにと、ときどき自分に、言い聞かせるようにしています。
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