介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

スピリチュアルな話

風の時代の生き方について



今日は、

1が3つ並んだ神の日でもあるので、

少しスピリチュアルな話を。


地球が、

本格的に次元上昇を始めた2012年


僕は、

幸福の科学を退会しました。


退会前の3年間は、

我が人生において、

精神的には、

最も葛藤した時期でした。


その脱皮の苦しみの3年間が終わったのが、

2012年で、

マヤ歴にもあるように、

とても重要な年でした。


そのときから12年が過ぎて、

今は、2024年。


階段を一段ずつ上るように、

地球は次元上昇してきましたが、

来年はエレベーターでスッと上がるように、

垂直に上昇することになっています。


なので、

ちょっと大変な年にはなるのですが、

日々楽しく生きている人は、

そのまま人生を楽しんでいればいいので、

何の問題もありません。


ここからは、

水を例えにして、

話します。


ガチガチの唯物論の人

あるいは一見信仰がありそうで、

ネタニヤフのように、

自分の正しさに凝り固まっている人は、

氷の状態。


これは、

分離意識の極みです。


霊性が多少なりとも向上した人というのは、

肉体が自分ではなく、

霊というか、

より精神的な何かが、

自分なのだということに気づいています。


多少なりとも宗教心があり、

死んだ後も命は永遠に続くと思っている人は、

この範疇にあります。


これは、

水で例えれば、

氷の状態として生きながらも、

自分は水である、

と思っている感じ。


で、今は、風の時代なので、

この水の意識からも脱皮して、

水蒸気の意識に向かう感じですね。


より広く、

より自由に、

自己が拡大していく感じ。


なぜ、

水蒸気の状態になると、

広々として自由になるのか。


それは、根源の意識、に近づくことになるから。

この根源の意識こそが、究極の神、とも言えますね。


シルバーバーチは、

大霊と呼んでいますが、

呼び方はどうでもよい。


ちなみに、老子は、道、と呼んでいます。

イエスは、父、と呼んでいます。


歴史上、

根源の意識に、

人間としてかなり近づいた人は、

イエス、ゴータマ・ブッダ、老子、墨子、の4人。


彼らが生きていた時代は、

地球の波動がとても重く、

覚醒するのは、

大変だったと思います。


でも今は、

地球の波動が、

年々軽くなっているので、

目を覚ますには、

追い風が吹いています。


僕のような凡人でも、

そうした風に後押しされて、

年々、軽くなっているのを、

実感しています。


つまり、

根源の意識に向かって、

自己を拡大させていくことが、

以前よりもはるかに楽に、

できるようになっているということ。


非常にざっくり言うと、

こういうことです。


今、世界中で、

いろいろな障壁が崩れつつあります。


その理由は、

統合に向かっているからです。


人は、

統合すればするほど、

ワンネスの意識に近づき、

他者を自分のように感じられるようになります。


だから、

他人の幸せを、

自分のそれのように感じられるのです。


一方、

統合とは反対の分離の状態にある人は、

他人の幸福を喜ぶことができません。


それどころか、

他人の幸せな姿を見ると、

自分が惨めになったり、

寂しく感じたりします。


この辺りの体感を、

注意深く自己観察すると、

自分がいまどのような状態にあるかが、

わかります。


分離すればするほど、

他人の不幸が、

自分の安心材料に、

なったりします。


分離状態がひどい人になると、

他人に対して、

平気で残酷なことをしたりします。


分離状態にあると、

他人の痛みがわからないし、

無関心だったりするからです。



で、夜明け前が一番暗いといいますが、

中東でもウクライナでも東南アジアでもアフリカでも、

アメリカ合衆国内でも、

いたるところで分断が起きているのも、

その表れ。


もう地球どうなっちゃうの、

みたいなことが、

次々に起こっています。


来年は、

その度合いが、

さらに強くなります。


ただ、

世界がどれほど混乱しようと、

大切なのは、

自分の意識
です。


可能な限りリラックスし、

可能な限り人生を楽しむこと。


合言葉は、リラックス&エンジョイ


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あなたの中に愛があれば、

世界も愛になります。


あなたの中の調和が、

世界の調和に繋がっています。


それが、

主体的に生きるということであり、

世界がどうであろうと、

自分次第の人生が、

展開していくということです。


これが、

僕の言うところの、

自分軸で生きる、

ということ。


そして、

それが、

風の時代の、

生き方でもあります。


あまりにも簡単な説明で、

スイマセンです。 


なんとなくでも、

わかってもらえれば、

嬉しいです😊。




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僕が一周忌法要を断った理由



先日、父方の親戚の叔母から、

一周忌法要をするから来てくれとの連絡が。


少し考えたのち、

お断りしました。


僕自身、

死んだ父や母の一周忌法要を、

していないというのもありますが、

率直な気持ちは、

行きたくない、というもの。


この叔母は立正佼成会の信者で、

先祖供養に熱心です。


で、僕も、そういったことに、

一定の理解があることから、

呼べば来てくれると思ったのでしょう。


この叔母の夫は、

父の兄弟の中で最も年下であり、

最後に残っていた人。


昨年の、

この叔父の死によって、

父の兄弟は、

すべてあの世に。


その葬儀に参加した甥は、

本家の従兄弟と僕だけ。


他の甥たちは、

通夜にも告別式にも、

来ていませんでした。


それ自体は、

別に責められるべきことでもなく、

自由なこと。


僕は、

この叔父への思いがあったので、

花輪も出したし、

香典も多めに包みました。


でも、

今回の一周忌法要は、

まったく気持ちが乗りませんでした。


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ある程度、


霊界のことがわかってくると、

そのような法要には、

ほとんど意味がないことがわかるから。


そのような法要を喜ぶ霊がいるとしたら、

未だに地上に執着があり、

スムーズにあの世に行けていない、

いわゆる不成仏霊。


叔父の場合は、

とっくに天国に行っているし、

法要など全く必要なし。


ただ、親戚が集まって、

自分の思い出話などを、

語ったりするのを見るのは、

それなりに嬉しいものでしょうね。


そうしたことは良いと思いますが、

坊さんを呼んで経を上げてもらうのは、

僧侶の生活の助けにはなるでしょうが、

参列者にとっては退屈で、

足が痛くなって苦痛でしかない。


そのような不毛な時間を過ごす気は、

僕には皆無なので、

お断りした、と。


まあこうした宗教関係の儀式は、

半ば習慣化され、

坊さんたちの既得権益にもなっているのですが、

風の時代がすすむにつれて、

こうした不毛な行事も、

次第になくなっていくでしょうね。





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天国は死後に行くものじゃない



天国は、

死んでから行くものだと思っている人がいますが、

それは間違い。


まあ、

間違ってもいいんですよ、

ノープロブレム。


人は、

何回も生まれ変わって、

魂修行していますからね。


今、

わからなくたって、

良いんです。


天国って、

今天国にいる人が行くもの。


わかりにくいですか? 


斎藤一人さん的に言うと、

今幸せな人が、

幸せな人。


天国も、同じ。

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今、

天国的に生きている人が、

死後、

天国に行くの。


きわめてシンプル。 


40代の頃、

本も出しているカトリックの神父と、

話したことがありますが、

この単純な真理が、

彼はわからなかったですね。


神学を勉強し過ぎて、

教条主義的になっていて、

素朴な信仰が、

わからなくなっている人でした。


聖書に、

善きサマリア人のたとえがありますが、

クリスチャンでない人のほうが、

主イエスに近かった例を、

僕は、

たくさん見てきました。



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高い視点を持つことの恵み



前記事で、

新潟市の、

高層タワーの展望室からの眺めを、

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お届けしたのですが、

高い建物の展望室に行くと、

その街の四方を、

俯瞰することができます。


これが、

全体を把握するのには、

とても大事。


そしてこれは、

人生にも、

あてはまると、

思っています。


主観どっぷりの人生だと、

疲れてしょうがない、と。


大波小波に翻弄され、

まさにその人生は、

浮草のごとき頼りなさと、

なってしまいます。


そうした周囲に翻弄される人生から、

脱するには、

高い視点を持つことが肝要。


自分の視点を、

はるか上空の高みに置き、

自分の場所、

立ち位置を眺めるのです。


そして、

諸々の事象を、

自由尊重、の3つの観点から俯瞰します。


他者との関係性も、

この3つの視点から点検します。


「愛があるか、自由があるか、尊重しているか」


これは、

他者にも向けるし、

自分自身にも向ける観点です。


愛と自由と尊重の3つの視点から、

自分の人生を、

照らすのです。


自分自身を真に愛するからこそ、

他者の重要性も見えてくるし、

自然発生的に、

同じ仏性を宿す相手に対しても、

尊敬や尊重する気持ちが、

生じてくるようになります。


このことを、

深く掘り下げて記述すると、

膨大な量になるので、

今回は、

簡潔に、

要点のみを話してみました。



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天使になるための準備



ある一定の割合で、

天使になるための準備のために、

この地上に、

生まれてくる人がいます。


仏教的に言えば、

菩薩、

ですね。


天使、

あるいは、

菩薩は、

大衆を導くガイド。


より有能なガイドになるためには、

地上で、

衆生の苦しみを理解する必要があります。


そのために、

生まれてくる人たちが、

います。

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生まれる前に、

自ら、

人生計画を立てて、

親や環境、

時代を、

選んで生まれます。


そして、

概ね、

その人生計画に、

沿った形の生き方をします。


そのことがわかるのは、

ある程度、

年を取ってからですが、

若い頃は、

無我夢中と言うか、

塗炭の苦しみを舐めながら、

生きづらさと戦いつつ、

右往左往しますが、

それこそが、

人生計画の範疇。


試練は、

人それぞれですが、

必ず、

自らの課題を解決しつつ、

同時に、

他者の苦しみも理解するのが常。


その共感力が、

天使であることの証左。


そして、

自ら定めた試練を乗り越えた後は、

得も言われぬ平安が、

待っています。


その境地に達するのは、

たいてい、

早くて50代、

概ね60代には達し、

それ以降は、

自由自在の人生と、

なります。


これを、

僕は、

自在力

と、

呼んでいます。



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「違和感」というナビゲーションシステム



人生の様々な場面で、

僕たちは、

違和感を感じることがあります。


たとえば、

結婚相手を選ぶとき。


条件的には良いのに、

どうも心が納得しない、とか。


これは、

会社選びのときもそう。


違和感の正体は、

頭と心が戦っているから。


さらに言えば、

違和感を発している心のほうが、

より霊的な本質に近いから。


この霊的な本質部分が発する違和感こそが、

この困難な人生を生きていくうえで、

頼もしい助けとなるナビゲーションシステム。


僕が、

この違和感を強く意識できたのが、

3つの宗教団体を経験し、

そこから、

離れるときでした。

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この違和感は、

人生の局面を左右するような場面で、

発動されることが多いのですが、

ささやかな違和感は、

日々の暮らしの中でも、

体験しているはず。


たとえば、

あとで忘れ物を気づくときとか、ね。


家を出るときに違和感があり、

外出先で、

忘れ物に気づいた時などに、

小さな違和感が、

実はナビゲーションになっていたことがわかります。


まあこの話をしていくと、

とても長くなるのでこの辺にしますが、

「違和感」を見つめることは、

意外な突破口になったり、

人生の大切な鉱脈を見つけることになったりするので、

覚えておいて損はないと思います。





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一人でも楽しく生きる方法



日々の暮らしに「楽しい」がないと、

人生から活気が失われていきます。


だから、

どんな状況にあっても、

その中から、

少しでも、

楽しい要素を見つけ出していくことが肝要かな、と。


昨日は、

近所のスーパー銭湯に免許証を見せ、

お風呂に入った後は、

誕生日サービスの生ビールで、

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一人でお祝い。


人間は、

究極、

一人で生まれてきて、

一人で死んでいくのですから、

一人でも楽しく生きる工夫が必要です。


四面楚歌、という言葉があります。

これは、

四方が敵だらけの状況を表しています。


孤独な状況というのは、

自分だけが、

一人ポツンと取り残されている感覚です。


大なり小なり、

人は、

孤独を感じるように、

できています。


理由は、分離、にあります。


分離とは、

大いなる源からの分離です。


平たく言えば、

神からの分離です。


敬虔なクリスチャンが、

どんなに過酷な状況にあっても心に平安があるのは、

神を求め、

統合に向かおうとするからです。


僕は、

キリスト教は好きではないので、

クリスチャンではありません。


平安を得るのに、

クリスチャンである必要はありません。


神への祈りや平安は、

クリスチャンだけの特権ではないからです。


一人が寂しいときは、

その周波数を手放します。


手放して手放して、

向かう先は、

源の意識、です。


それを、

神と呼びたい人は、

呼んでも構いません。


自分がしっくりくる呼び方でいいのです。


シルバーバーチは、大霊、と呼んでいます。


その大霊や源の意識に、

より近い存在が、

ハイヤーセルフ、です。


そして、

そのハイヤーセルフは、

自分自身でもあります。


その、

より源の意識、

大霊、

神に、

より近い存在であるハイヤーセルフ(霊界にいる自分自身)と、

繋がることが、

最高にして最適な統合であり、

分離(孤独)からの脱却法です。


この事実に気づいた人は、

神社や教会に行く必要はありません。


パワースポットだと思って行った神社で、

不成仏霊に憑依されて、

より不幸になっていく人も、

いますからね。


触らぬ神に祟りなしとは、

よく言ったものです。


わけのわからないパワースポットに行くよりも、

自分の中にこそ、

神への道があるよね、

という話でした。



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値札の付いたものに価値はない



 誕生日でもある今日の朝は、

珍しく目覚めが早く、

昇ってくる太陽を、

見ることができました。


まだ、

輝きを強くする前の太陽は、

眺めながら感じることができます。


神社仏閣というものには、

あまり魅力を感じない僕ですが、

太陽とか月などの天体に対しては、

厳かな気持ちを持っています。

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そのようにして、

太陽と対峙していると、

値札の付いたものに価値はない

という言葉が、

やってきました。


だいたいこういう感じで、

唐突にくるんですよね。


そうですか、

という感じで、

また、

その与えられた言葉を思慧することにします。



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「感じていること」が現実になる



願望実現の方法として、

願いを紙に書く、

というのがありますよね。


でも、

多くの人が、

その紙に書いた願い事を、

かなえられずにいます。


その理由は至極簡単で、

本当に感じていること、

が、

現実になる、


から。


たとえば、

結婚願望がある適齢期の女性が、

理想の男性と結婚すると決め、

紙に書いて毎日一度はその紙を眺めるとします。


そのときに、

その女性が感じていることが、

現実を引き寄せます。


いくら願い事を紙に書いて眺めても、

そのとき、

でも私なんかにはそんな理想の男は現れないのでは、

と思っていたら、

その思いのほうが実現してしまうということ。 

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お金持ちになりたいでも、

ビジネスで成功したいでも、

異性にもてたいでも、

何を願ってもいいのですが、

肝心なのは、

そのときに、

あなたが「感じていること」

なのです。


この話は、

掘り下げていくと、

とても深いので、

まずは基礎となる心の状態を、

維持することが先決。


以下の記事は、

その参考になるかもしれません。

行きたい未来とつながる方法



金木犀の香りを嗅いだ昨日、

思い出した曲。





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永遠に終わらない迷いの森から抜け出そう



多くの修行者が、

迷い込んでいる森があります。

それが、

向上しようと努力する在り方。


これは、

最近まで、

僕も気づかなかったことですが、

一般的に言って、

向上心を持つことは良いことと、

されています。


しかし、

向上しようと努力を積み重ねる行為は、

土の時代、あるいは、地の時代には、

通用したのですが、

風の時代にはそぐわないのです。


理由を、言いましょう。


向上心を発露するベースとなる意識は、

「足りないという思い」です。

あるいは、欠けている、

という意識、です。


つまり、「ない、という意識」が、ベースにあり、

その欠乏感を埋めるために何かをする、

あるいは、

その欠乏感から出発した修行なわけです。


その意識の上に、

努力を積み重ねるのは、

永遠に終わらない迷いの森の中を歩くようなもの。

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まだ足りない、

まだ自分は至らない、

まだ修行が足りない、

足りない、足りないと、

焦り、

呻吟し、

さらに精進に邁進する、と。


修行し、

向上し、

成長したあかつきに覚醒に至ると、

思い込みたがるのが、

エゴの罠。


では、

真の覚醒とは何か。


それは、自分の完全性を思い出すこと。

完全な意識だった自分を思い出すこと。

それこそが、覚醒です。


だから、

努力を積み上げる修行では、

ベクトルが違うのです。


エゴは向上を焦り、

成長しようとする、

まだ足りない、

もっと成長しなきゃ、となり、

それが際限もなく続きます。


そして、

そうしたエゴが目指すのは、

人格者であり、

聖人君子のような人だったりします。


その目指すべき聖人君子と自分とを比べて、

落胆し、

自分はまだまだだ、となる。


ここに、深い罠があります。


覚醒とは、

もともと完全な意識だった自分の本質を思い出すことであり、

向上したり成長したりして辿り着くものではないんです。


そして覚醒への道は、

自分という存在のすべてを、

丸ごと肯定するところから始まります。


肯定から始まるのが覚醒への道で、

「ない」という意識をベースにして、

その欠落感を持ちながら向上しよう、

成長しようと悟りへの道を歩むのが、

エゴが好きなやり方です。


今の状況に不満があるから、

向上しようと思うわけで、

出発点が、

不満足感、

不足感なんですね。


一方、今の状況を丸ごと受け入れていたら、

向上しようなどとは思いません。


そして、風の時代の本当の修行、

まあ、修行という言葉自体が堅苦しいので、

ワークとでも言い換えましょう、

有効なワークは、

今この時のあり方を、

これはこれでオッケーだよね、と、

受け入れるところから始まります。


つまり、肯定が、ベースにあり、

そこから始まるのが、

自分の本質につながる道
なのです。


それが、

エゴを手放すことにもなり、

より高次の自分であるハイヤーセルフ、

あるいは、

心の奥深くに在る、真実在、につながり、

さらには、

それと、

一体化する道なのです。


真実在が現れるということは、

自分の中の完全性が現れるということです。


そこには、

焦りとは無縁の静かな境地があります。

魂の本質の静かなる喜びがあります。


どの瞬間も肯定し、

今にフォーカスして、

ニュートラルな意識であり続ければ、

自らのうちにある完全性が、

自動的に、

顕現してきます。


なぜなら、

それこそが、

最も自然な在り方だから、

です。


このことを、

老子は、

無為自然という言葉で、

表現しました。


その瞬間その瞬間を、

丸ごと受け入れて、

自らを慈しんでいると、

真実在の完全性が現れて、

より完全な状態が見えてくるようになります。


そしてその完全性の奥には、

さらなる完全性があるという、

奥深い道でもあります。


老子は、学を断てば憂いなし、と、言いました。

頭で考える修行では、

波動は重くなるばかり
です。


永遠に終わらない迷いの森から抜け出て、

軽やかな風の時代の生き方に、

ギアをアップして
いきましょう。



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