ときどきですが、生きることが息苦しく感じることがあります。
閉塞感、のようなものです。
存在の虚無感、とも、言い換えることができるかもしれません。
これは父を失い、内省的になっているせいもありますが、もともと、子供のころから、そのような傾向がありました。だから、カルト教団にも、一つでは懲りず、二つも、関わってしまったのだと思います。
この息苦しさは、存在そのものに起因していますから、健康状態も、お金の有無も、仕事の成功不成功も、一切関係がありません。
健康で、お金があり、仕事がうまくいっていても、生きることの息苦しさは、少しも減ることはありません。
では、愛はどうか。
僕はおひとり様で、伴侶はいませんが、素晴らしい伴侶に恵まれることは、よいことには違いありませんが、それが、生きることの息苦しさを、減じるとは、思えません。
むしろ、この素晴らしい妻を失ったらどうしよう、と、思ってしまうでしょう。
失うことの恐怖、というのもあります。
僕は、イケメンでなくて、よかったと思います。
極めて平凡なルックスなので、頭がはげても、白髪が増えても、あまり気になりません。
もし僕がイケメンだったなら、そうはいかなかったでしょう。イケメンでなくなってしまうことへの恐怖から、あるいは、もてる男のプライドから、育毛剤に手を出し、白髪も染めたでしょう。
普通の男でも、ルックスを気にして、頭に育毛剤を振りかけたり、カツラにしたりするのですから、イケメンであれば、なおのことでしょう。
美女も、大変なのではないでしょうか。
今、自他ともに、美人であると、認められている人は、そうでなくなることへの恐怖は強いと思います。美女であり続けるための努力も、怠れません。美女であるから、多くの人がチヤホヤしてくれ、視線を向けてくれるのだ、と思っている当の本人の、心の中は、穏やかではありません。
今受けている恩恵の条件が、美女であることだからです。少なくとも、そう、本人が思い込んでいたら、苦しいでしょう。
ですから、仮に僕が、健康で、イケメンで、お金は腐るほどあり、社会的地位も高く、美人で性格もよい妻がいたとしても、もちろんそれは幸福ではありますが、「生きることの息苦しさ」からは、逃れられないだろうと思います。
このことについては、また、改めて、書いてみたいと思います。
閉塞感、のようなものです。
存在の虚無感、とも、言い換えることができるかもしれません。
これは父を失い、内省的になっているせいもありますが、もともと、子供のころから、そのような傾向がありました。だから、カルト教団にも、一つでは懲りず、二つも、関わってしまったのだと思います。
この息苦しさは、存在そのものに起因していますから、健康状態も、お金の有無も、仕事の成功不成功も、一切関係がありません。
健康で、お金があり、仕事がうまくいっていても、生きることの息苦しさは、少しも減ることはありません。
では、愛はどうか。
僕はおひとり様で、伴侶はいませんが、素晴らしい伴侶に恵まれることは、よいことには違いありませんが、それが、生きることの息苦しさを、減じるとは、思えません。
むしろ、この素晴らしい妻を失ったらどうしよう、と、思ってしまうでしょう。
失うことの恐怖、というのもあります。
僕は、イケメンでなくて、よかったと思います。
極めて平凡なルックスなので、頭がはげても、白髪が増えても、あまり気になりません。
もし僕がイケメンだったなら、そうはいかなかったでしょう。イケメンでなくなってしまうことへの恐怖から、あるいは、もてる男のプライドから、育毛剤に手を出し、白髪も染めたでしょう。
普通の男でも、ルックスを気にして、頭に育毛剤を振りかけたり、カツラにしたりするのですから、イケメンであれば、なおのことでしょう。
美女も、大変なのではないでしょうか。
今、自他ともに、美人であると、認められている人は、そうでなくなることへの恐怖は強いと思います。美女であり続けるための努力も、怠れません。美女であるから、多くの人がチヤホヤしてくれ、視線を向けてくれるのだ、と思っている当の本人の、心の中は、穏やかではありません。
今受けている恩恵の条件が、美女であることだからです。少なくとも、そう、本人が思い込んでいたら、苦しいでしょう。
ですから、仮に僕が、健康で、イケメンで、お金は腐るほどあり、社会的地位も高く、美人で性格もよい妻がいたとしても、もちろんそれは幸福ではありますが、「生きることの息苦しさ」からは、逃れられないだろうと思います。
このことについては、また、改めて、書いてみたいと思います。