8月は、二度、原爆を落とされた月。

原爆投下直前、

アメリカ軍の
従軍チャプレンであった、

ウィリアム・ダウニー大尉が、

テニアン基地で、

原爆を搭載したB29「エノラ・ゲイ」の、

乗組員たちに向けて捧げた祈りは、以下のもの。


全能の父なる神よ、あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、
わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。

彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。
彼らも、わたしたちと同じく、あなたのお力を知りますように。
そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることができますように。

戦争の終りが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。
あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。

わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。
イエス・キリストの御名によって、アーメン。


以下は、日本ルーテル福音教会の刊行物からの引用。

原爆を積んだ爆撃機は、戦争を終結させる平和の使者として、従軍チャプレンによって祝福祈祷を受けて送り出されていきました。悲しいことに、広島に飛び立ったエノラ・ゲイを祝福したのはルーテル教会の牧師。長崎の場合はカトリックの神父でした。浦上天主堂の真上で原爆が炸裂した時、礼拝堂では罪の懺悔告白の最中でした。


そして、 以下は、カトリック教会の、説教からの引用。

戦艦アウグスタでアメリカに向かっていたハリー・トゥルーマン大統領に、広島への原爆投下が「成功」したことが告げられます。するとトゥルーマン大統領は、「これは歴史上、最も偉大なことだ!」と歓喜の声を上げました。人類が歴史上初めて目にした原爆の巨大な光は、3日後の8月9日に、日本で最も多くのカトリック信者が暮らす街、長崎で再び輝きます。浦上天主堂がある長崎に原爆を落としたのも、アイルランド出身のカトリック信者でした。「バプテスト教会の偉大な信徒」と評されたハリー・トゥルーマン大統領が、「歴史上、最も偉大なこと」と讃えた原爆の栄光と、変容貌のキリストの栄光の違いを識別することを学ばなければ、私たちは「平和を作る者」となることはできません。


この教会の説教によれば、

ハリー・トゥルーマン大統領は偉大な信徒だそうですが、

残念ながら大統領は、

マタイ5:44(新共同訳)
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

については、ご存じないようです。


いや、
偉大な信徒だそうですから、

読んだことはあるのでしょうが、

単なる知識にとどまっていたのかもしれません。



ハリー・トゥルーマン大統領には、

以下の主イエスの言葉を送りたいと思います。

マタイ7:21–23(1955年口語訳)
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。 また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。 不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

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以下は、
仏教的観点からの読み解きになります。

クリスチャンの方も、参考にしていただけたら、幸いです。

1. 言葉(名)と実践(行)の乖離

イエスは「主よ、主よ」と呼ぶだけでは天国に入れないと言います。毎週日曜日に教会に行き、使徒信条を読み上げても、天国に入れる保証はありません。

日々の思いと行いこそが大切であり、信徒の義務だからと言って、礼拝に参加し、賛美歌を歌い、使徒信条を唱和しても、救われたような気分になるだけのこと。

これは仏教でいう「口先だけの信仰」や「形式的な修行」に通じます。

  • 仏教では、言葉や儀式だけでは悟りに至らないとされます。
  • 例えば『法華経』では、真の修行者は「法を聞いて実践する者」であり、単なる読誦や礼拝だけでは不十分とされます。
  • 禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があり、言葉に頼らず、直接体験によって悟りを得ることが重視されます。

2. 「我執」への警告

イエスが「あなたがたを知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言う場面は、自我への執着に対する警告とも読めます。

  • 仏教では「我執(がしゅう)」――つまり「自分が何かを成し遂げた」「自分は特別だ」という思い――が煩悩の根源とされます。
  • 聖句の中で「わたしたちはあなたの名によって預言し、悪霊を追い出し…」と誇る者たちは、まさに自分の行為に執着している存在です。
  • 仏教では、こうした執着は「空(くう)」の理解によって乗り越えられると、説かれています。

    ここで僕自身の恥をさらすと、
    「自分は特別だ」という思いが究極の形で現れたカルト教祖を神と仰ぎ、その高等な教えを理解し、この団体に集っている自分も選ばれた人間なのだと思っていました。教祖も、そして僕自身も、まさに誇る者たち、であり、自分の行為に執着している存在、でした。

3. 「御心を行う者」=「法に従う者」

イエスが「天の父の御心を行う者だけが天国に入る」と言う部分は、仏教でいう「法(ダルマ)に従う者」に通じます。

  • 仏教では「法に従って生きる」ことが悟りへの道です。
  • これは戒律や教義に従うというよりも、宇宙の真理(縁起・空・中道)に沿って生きるという意味です。
  • イエスの「御心」も、神の真理に沿った生き方を意味していると解釈できます。

    「戒律や教義に従うこと」に熱心なのはパリサイ人でした。

    偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」(マタイ23:13~36)

    なぜ、イエスは再三にわたって、律法学者を糾弾したのでしょう。また、なぜイエスの弟子には、漁師や売春婦といった下層階級が多かったのでしょう。人は簡単に形骸化していきます。これさえやっておけば大丈夫なのだ、と。

    イエスの素朴な教えは、教義と戒律に凝り固まったエリート層よりも、その日を生きるのに精いっぱいだった人たちにこそ、響いたのではないでしょうか。

本当のキリスト教仏教に共通するのは、

外面的な信仰や行為ではなく、内面的な真実と実践こそが救い(悟り)につながる

ということですね。


僕は、

アメリカ軍の従軍チャプレンを、

裁く気はありません。


一人は牧師であり、

もう一人は神父でしたが、

敬虔なキリスト教徒だったのでしょう。


僕も彼らのような教育を受け、

彼らのような信仰を持ち、

彼らのような立場にあったら、

同じようにしたかもしれません。


「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ 8:7、新共同訳)

この場面は、

姦淫の罪で捕らえられた女性を前に、

律法に従って石打ちにすべきだと迫る人々に対して、

イエスが語った言葉です。


人類の最初の被爆地となった広島のことを思い、

8月6日から今朝までの時間、

厳かな気持ちで、

過ごしていました。


唯一の被爆国、

日の本の国に住む邦民(くにたみ)の一人として、

長崎を、

最後の被爆地にしなければならないと、

強く思っています。




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