11月4日、5日と二日間、

旅行に行っていたのですが、

一人旅の途上でも、

目にするのは、

様々な事情を抱えて生きている人たち。


アメリカ合衆国の大統領選も、

始まるんですよね、というか、

もう今真っ最中なのか。


朝方、ミニバラさんのコメントを読み、

これに対する返事は長くなりそうだと思い、

独立した記事にしました。


この拙ブログにも、

これまで、

いろいろな方がコメントをくださり、

ハンドルネームで、

だいたいの印象は把握しているのですが、

時間が空いてしまうと、

あれ、どんな人だったかな、

ということになり、

過去のコメントをさかのぼってみました。


tao313さん、こんにちは。成功者にはサイコパスが多い。成功者を「自称勝ち組」に置き換えると理解できます。嘲笑いながら弱者から力ずくで奪う連中。いま最悪な形でその正体を見せているのがシオニストとそれに同意する連中だと思います(悲しいことに日本も)良心も罪悪感も最低限の倫理さえ自己正当化して赤ん坊を虐殺さえする恐ろしさに、宗教(彼らが自己正当化する理由としての)があるのを見ると、神も仏も人間の勝手な欲望によるでっち上げに過ぎないと感じます。各国の子どもたちが泣きながら「僕たちの仲間の子どもを殺さないで」と訴えるのを無視してガザで虐殺、破壊を続けるイスラエルとそれに連なる存在(自分を含む集合体)は、人間以下の倫理も道徳も持たない地球の寄生虫にさえ感じ、サイコパスという言葉に打たれるようです。何も感じなければ、見ないことにすればいい、という論調もサイコパスと同列ですよね…辛いです。

イスラエルの残酷さをさかのぼれば、旧約聖書に辿り着きます。モーセがイスラエルの民をエジプトから連れ出し、モーセの死後、ヨシュアがカナンの地に入る時、神が命じたのは、皆殺し、です。今、ガザで幼い命が殺されているのと同じことが、神の名において、3000年前にも行われていたということ。僕が、キリスト教を容認できない遠因の一つがそれ、です。キリスト教も、旧約聖書と新約聖書を土台にしていますから、非クリスチャンに対してはかなり残酷なことをしてきました。南米での殺戮、日本への原爆投下など、枚挙にいとまがありません。中世の魔女狩りも残酷そのもの。事程左様に、中東に根を持つユダヤ教とキリスト教は、独善的であり、残酷なのです。クリスチャンの大半は、ものごとを深く考えない、自分さえ救われればよいとする人たち。勿論、中には素晴らしい人もいますが、宗教の問題は根が深く、過去記事でも散々言及してきましたが、混迷を深めるばかりです


以上が、前回のミニバラさんと僕とのやり取り。

僕の宗教へのスタンスは、

イスラム教はよくわからない、

仏教は比較的好き、

キリスト教は嫌い、

ユダヤ教は大嫌い、

ざっくり言うとこんな感じ。


キリスト教は嫌いですが、

イエスは好きです。


今のキリスト教は、

神学的教義によって、

本来のイエスの教えが、

捻じ曲げられているのが最大の欠陥。


で、何が言いたいかというと、

教義に縛られると、

人間としての素朴さが、

失われていくということ。


キリスト教の中にも、

多くの洗脳があり、

信徒を縛り付けています。


主日礼拝で唱えられる使徒信条も、その一つ。

ユダヤ教にあっては、

時代に合わない化石のような教えの奴隷となって、

問題を引き起こしています。


前記事でも言及しましたが、

独善は分離意識の極み


他者への共感がないから、

平気で虐殺ができるのです。


アメリカが日本に原爆を落とした時の意識の底に、

非クリスチャンの国で、

神道とかいう、

邪教の神を祀る異教徒だから殺しても構わない、と。


伊勢神宮に行ったことのある人なら、

わかると思いますが、

あれが邪神の聖域でしょうか。


よくよく、あなた方に言っておく、と、

イエスは繰り返し、

パリサイ人たちに言いました。


パリサイ派の人たちは、

自分たちは律法を守っているから、

神の国に行けると信じている人たちでした。


律法は守っているけど愛がなく、

形骸的に生きている人たち。


人間は教義に縛られると、

ああ、これさえやっていればいいのだと、

形骸的になっていきます。


形だけになり、

愛や新鮮さが失われて行きます。


宗教の問題は、

アイデンティティに関わるだけに、

簡単には論じられませんが、

これだけは知っておいたほうがいいのは、

レッテルで人は決まらないということ。


レッテルやラベルで、

人を分かった気になるのは、

危険です。


イスラエルのガザへの残虐行為は、

まさにその典型例。

これは、他山の石ではありません。


何らかの宗教を信じる人の心の中に、

レッテルやラベルで人を分類し、

わかった気になっている人たちが多くいます。


信仰心は素晴らしいと思いますが、

相手の信仰もまた、

尊重する姿勢がないと、

神を理由に戦うことになってしまいます。


キリスト教もいいよね、

仏教もいいよね、

神道もいいよね、

イスラム教もいいよね、

ユダヤ教もいいよね、

ヒンズー教もいいよね、

それ以外の宗教もいいよね、と、

まずは相手のことを認めたうえでないと、

その先には行けません。


人には、それぞれ、

自分にしっくりする教えというのが、

あるのだと思います。


あるいは、

宗教は嫌いだけど、

物理は好きだという人の中にも、

霊性の高い人がいたりします。


そういう人は、

宇宙の法則に興味があって、

そちらを追求したい人。


それもまた立派な求道心であり、

下手な宗教をやるよりも、

はるかに主イエスに近い人かもしれません。


この調子で話していると、

際限もなく続いてしまうので、

結論に行きます。


争いは、分離意識から生じます。

平和をもたらすのは統合意識。


地球の波動が大変重かった二千年前、

イエスは神の愛を説きました。

人々はそれが理解できず、

彼を磔にしました。

そして今も、

自分たちの正義を振りかざしている人たちは、

殺戮を繰り返しています。


他人をラベルやレッテルで見ずに、

本質で見るようにする。

たったこれだけのことです。


真理はいつもシンプル。


複雑な教義が好きな人たちは、

それで既得権益を得ているから、

つまり、ポジショントークなのです。


で、結論です。

自分の信じている宗教に違和感が出てきたら、

真摯に自分と向き合い、

内なる声を聴きましょう。

その内なる声こそが、

ほかならぬあなた自身の真我なる声、

ハイヤーセルフからの導きです。


誰よりも信頼できる自分自身からの導きですから、

あなたを悪いほうに導くはずがないのです。


下手な牧師の説教よりも無限倍の尊い教えが、

あなた自身の中にあるということですね。


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そして世界に目を向けると、

混沌が広がっているように見えますが、

世界がどうであろうと、

大切なのはあなたの意識。


その意識を、

分離ではなく、

統合に向かわせていけば、

他人を、

ラベルやレッテルで分けて、

わかった気になることなく、

本質で見るようになります。


イエスは、

天国はあなた方の内にある、と、

言いましたね。


イエスや仏陀や老子は、

人類の良き導師です。

人には個性がありますから、

自分に合った導師でいいと思います。

天照大神でも、クリシュナでも、親鸞聖人でも良い、と。

自分がしっくりくるもの以外、

人は受け入れませんからね。


同じ山を登るにしても、

いろいろな道があるということ。


ただ、その頂上には、

固有名詞のない、

根源の意識がある、と。


非常にざっくり言うと、そんな感じ。


違和感を感じたら、

それに真摯に向き合い、

内なる導きに従うと、

また次の世界が開けてきます。


そのように、

段階的に、

統合していきます。



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