昨日は、
友人のAさんと飯能に行き、
きなりでラーメンを食べ、
キラリで風呂に入ってきました。
キラリの露天風呂は、
宮沢湖と森が間近に見られて、
解放感があります。
入浴後、
テラスで、
メッツァビレッジをパチリ。
その後、
美術館へ。
浮世絵と、
観光煙草パッケージ展。
Aさんも僕も、
ともに60代。
人生の残り時間を意識しながら、
日々を暮らしています。
そして昨日の夜、
とある場面を、
唐突に思い出したのです。
「粗末なものを食べて育ち、
男に触れられることもなく年を取り、
身ごもることもなく閉経し、
痛む関節をさすりながら、
死んでいくんだわ」
その人は、
自嘲的な笑みを顔に貼り付けて、
つぶやくように言いました。
今から9年ほど前、
別所温泉近くの、
無言館という美術館のある、
草原でのことです。
別所温泉が、
父を連れて行った、
最後の温泉場になりました。
その一年後、
父は自宅にて、
老衰で死去しましたからね。
さて、
草原で出会った、
老婆のことです。
その容姿には、
無残なばかりに老いが刻まれていましたが、
年を訊けば、
65だとのこと。
今の僕と同じ年。
初対面の女性に年を訊くことができたのは、
彼女のほうが饒舌に自分語りを始めたから。
自己評価の低い、
その女性の話を聞きながら、
僕は唐突に、
豪姫とマグダラのマリアのことを、
想っていました。
豪姫は、
宇喜多秀家の妻ですね。
宇喜多秀家については、
いずれ、
別の形で語りたいのですが、
今回は、豪姫。
前田利家の娘として生まれ、
そののち、
豊臣秀吉の養女となり、
宇喜多秀家に嫁ぎました。
夫の没落とともに、
八丈島に流されることを覚悟していた豪姫でしたが、
それもかなわず離れ離れに。
キリスト教の洗礼を受け、
マリアという名を授かった豪姫は、
島流しにされた夫や子供たちに、
仕送りをし続けます。
マグダラのマリアは、
娼婦とも呼ばれていますが、
主イエスを一途に慕い求めた女性。
罪深い女が、
イエスの足に涙を落として、
自らの髪でそれを拭い、
高価な香油を塗る場面が聖書にありますが、
その罪深い女とされる女性が、
マグダラのマリアであると解釈する聖書学者もいます。
確定していることとしては、
磔にされたイエスを遠くから見守り、
埋葬に立ち合い、
復活の主にいち早く再会したことです。
豪姫も、
マグダラのマリアも、
あの時代にあって、
しなやかな自分軸で生きた人で、
僕はこの二人の美徳に、
敬意を持っています。
カトリックなどでは、
聖母マリアへの信仰が強いですが、
僕は、
マグダラのマリアのほうに、
より強い信仰を見ますね。
聖書の中に、
「婦人よ、あなたは私と何の関係があるのか」と、
イエスが、
自分の母のマリアに対して言う場面があります。
自分が産んだ子という意識があるマリアは、
他の弟子たちのようには、
イエスを見ていなかったのでしょう。
僕が物思いに耽っているうちに、
彼女は、
草原を歩いている後ろ姿を、
小さくしていきました。
僕に絵心があれば、
その姿をぜひ描きとめておきたいものだと、
思いながら、
無言館のほうに目をやったのを、
覚えています。