昨日は、中神に行った話をしましたが、

会ってきたその人たちは、クリスチャン。


かつて、

キリスト教には批判的だった僕ですが、

今では、

まったく考えが変わりました。


その人が、

キリスト教で救われていると感じるならば全然オッケー、

という感覚になったのです。


あ、このキリスト教のところを、

創価学会や天理教や幸福の科学など、

その他あらゆる団体を当てはめても、

いいですよ。


仏教に、「6人の盲人が象を触るたとえ」があります。

それぞれの盲人は、

触っている場所が違うので、

まちまちなことを言います。

象の長い鼻を触っている人は、

そのことを伝えます。


ここで大事なことは、

それぞれの人は皆、嘘は言っていない

ということ。

ただ、

全体を把握する能力がないので、

部分的な真実にとどまっています。


僕が、

人の数だけ真実がある、

と思うようになったもう一つの視点は、

フィルターの存在。


僕は昨日の記事で、

かつては、

生きることの虚しさと漠とした不安を感じていたことを、

書きました。


それは、当時の僕にとっての真実、です。


では、今の僕と、何が違うのか。

それは、フィルターです。

色眼鏡、あるいは、偏見、と言ってもいい。

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20代の頃の僕は、

濃淡の違いこそあれ、

灰色の悲しみの伴ったフィルターで、

世の中を見ていたということ。


だから、

どんな風景を見ても、

そこには虚しさや悲しみがありました。

ここのところを、

もう少し掘り下げて語ると長くなるので、

平面的な説明にならざるを得ませんが、

端的に言うと、

人は自分のフィルターを通して世界を見ている、と。 


仏教の群盲象のたとえ、

そして、

誰しもがそれぞれのフィルターを通してしか世界を見ることができないという限界値、

ゆえに、

人の数だけ真実があるのだ、と、

思えるようになったのです。


だから、

かつてはどうしても批判的になっていたクリスチャンに対しても、

ああ、それも有りだよね、と、

思えるようになったのですね。


そして、

そう思えるようになって、

誰よりも楽になったのが、

自分自身であることも、

付け加えておきたいと思います。