【快と引き替えに「生きる意味」を見失い】と、
森岡正博は、その著書、無痛文明論の中で、述べている。
バブル期の退廃の中、
多くのまじめな若者が、
オウム真理教へと引き寄せられましたが、
快楽は充満しているけれども、
生きる意味が見いだせないと嘆く人の心に響くものが、
そのカルト教団の中にも、
あったのかもしれません。
こういうタイプの本は、
若い頃にこそ、
読んでおいたほうが良いと思います。
以下は、読者の若者が書いたコメントの一部抜粋。
無痛奔流に飲まれることで、我々は「生命のよろこび」を失い、家畜の如く "死につつ生きる” 人生を歩むことになるのだという。
20代があと数年で終わろうとしている僕は、人生を振り返り、改めて「幸福とは何だろうか?」と疑問を持った。
努力して努力して努力して何かを掴み取ることだろうか。
欲を捨て、現状に満足し、日常に溢れた小さな出来事に喜びを見出すことだろうか。
ネガティブ思考を捨て、ポジティブ思考の癖をつけることだろうか。
しかし、どれもすっきりしない。
中島義道は、著書『不幸論』で「本当の幸福などは存在しない」と断言し、「自らを幸福だと言う人間は真実から目をそむけているだけだ」と言い切った。
哲学者カントは、自分自身に誠実であることを、幸福であることよりはるかに重要なことと見なしたという。
関連して、マコなり社長(真子就有氏)は動画『結婚式は行かなくていい』で、幸福の定義を
「いかに自分の信念を貫いて生きたか、自分の心に嘘をつかなかったか」とした。
なるほど、「自らを幸福だという人間」は無痛奔流に飲み込まれた人間と言え、
「自分の信念を貫く」ことを選んだ人間は、無痛奔流からの脱出を決意した人間と見ることもできるのではないか。
岡本太郎は著書『自分の中に毒を持て』で、
「自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。」
と言った。
まさに、これは『無痛文明論』で言うところの
「身体の欲望」が「生命のよろこび」を奪い取る、ということではなかろうか。
これらの本を読んで、僕は「生きがい」と「安楽」はトレードオフの関係にあると考えた。
「安楽」を選択すれば「生きがい」を失うという意味で幸福にはなれず、
「生きがい」を選択すれば「安楽」を失うだろうし、その選択はある意味最もつらいことだろう。
生きるとは、自分自身の「不幸のかたち」を選ぶことなのかもしれない。
上記は、好意的なコメントですが、
批判的なコメントもあり、
それは、以下のような感じ。
著者自身の思い入れは激しそうだが、流し読みできるほど密度は薄く、読み応えに乏しい。タイトルの卓抜さ、インパクトは大であるだけにいかにも残念。やたら「戦え」とアジっているが、本人が山谷暮らしで日々の仕事にあぶれて苦労してるならともかく、ぬくぬくと大学教授の椅子から訓戒を垂れてるわけで説得力不足。それほど「無痛文明」を憎むなら、一度辞職して内戦下のコンゴあたりにヴォランティアラーとして身を投じてみては?
本にせよ、ブログにせよ、
支持する人もいれば、批判的な人もいる、と。
政治もそうだし、宗教もそう。
雑多な世界の中で、
自分が腑に落ちるものを、
探せばいいわけで。

買うには、そこそこ値段の張る本なので、
図書館で借りるのがよろしいか、と。
若いうちに、
うんと悩んでおくと、
年を取ってから、
精神的には、
楽になりますからね。

