まだまだ終わる様子のないロシアのウクライナへの攻撃。
そうした中で、ある一人の青年のことが気になっています。
まだ少年の面影の残る二十歳くらいの青年。
彼は、ウクライナ人を射殺した罪で終身刑となりました。
彼の戸惑う顔を見た時、
何が何だかわからない様子が伝わってきて苦しくなりました。
彼は、ウクライナ人に罵倒されていましたが、
罵倒する側の気持ちに立てばそれも当然のことです。
一方で、彼の母親が、息子は親孝行で優しく、
人を殺せるような人間ではないと、泣いていました。
彼個人は、母親が言うような優しい子だったとしても、
戦争に駆り出され、
年上の厳つい上官から射殺を命じられれば、
抗うことはできないでしょう。
僕は、
自分を彼の立場に置いて考えてみましたが、
僕も、
射殺したと思います。
その場は戦場であり、
上官の命令に従うことは当然とされ、
また、相手は市民を装った兵隊の可能性もあります。
勿論少年の素朴な感性からすれば、
その射殺相手はどう見てもただの老人であり、
逃走中の市民に見えたと思いますが、
上官の命令に従い、
さらには自分の良心をも納得させるためには、
老人を敵兵だと思い込むことで、
その瞬間、引き金を引いたのではないか、と。
麻原彰晃を尊師と仰ぎ、
救済の名のもとにサリンを撒いたかつてのオウム信者の中にも、
同じ様な葛藤があったかもしれません。
第二次世界大戦においても、
田舎では優しい父親であった青年が、
戦地では、
かなり非道なことをしていたかもしれません。
安全な立場から、正論を言うのは簡単です。
しかし、くだんの終身刑となったロシアの青年のことを思うとき、
僕はイエスの言葉を思い出します。

あなた方の中で罪のない者がいれば、この女を打つが良い。
イエスは、売春婦を石で打ち殺そうとする者たちに向かって、そう言いました。
その売春婦も、好きでそうなったわけではなく、
悲しい経緯があることを見て取ったのです。
イエスの言葉におのれにかえった群衆は、
一人また一人と、女の元から去っていきました。
僕も、売春婦であり、ロシアの青年です。
その状況に置かれれば、
そのような役割りにならざるを得ない弱い人間です。
その、弱い人間であるという自覚、を、
芯の部分で持っていれば、
おいそれと他人を裁くことはできなくなります。
むしろ、他者への理解が、
進むのでは、ないでしょうか。

