何もしないことの幸福がわかってくると、
人生における焦燥感といったものは、
なくなっていきます。
何もしないことを、無為と、言いますが、
本来はその無為こそが自然であり、
何かと忙しく急き立てられている現代社会というのは、
僕の目には、病的に見えます。
一昨日のことになりますが、
自動車を運転しているときに、
白いワゴン車に煽られました。
やけに車間距離を取らない車だなとは思ったのですが、
僕も、制限速度よりは少し速く走っていたので、
そんなに遅いスピードでもない。
なのに車間距離を詰め、
煽ってきた車のドライバーは、
ちょっと見、50代くらいの女性。
僕は軽自動車に乗っているので、
大きな車に急接近されると、
身の危険を感じます。
僕は、若干の恐怖と同時に、
怒りを覚えました。
そのときに、
仏教の矢のたとえが脳裏をよぎり、
待てよ、と、
怒る自分に距離を置きました。
煽られて、
恐怖と怒りの感情が想起したのは、
第一の矢を受けたということ。
その怒りに任せてやり返そうなどと思い、
ましてや行動に移したりしたら、
それは、第二の矢を自ら進んで受けることになります。

そうした観察者になることで、
怒りの感情は勝手に静まっていきました。
そのうちに、
その車間距離を詰めて走っていた女性も、
右折して、
どこかの会社の駐車場に滑り込んでいきました。
僕は、毎日急かされることなく暮らしていますが、
彼女は、急いでいたのかもしれません。
その焦りが、
車間距離を詰めて威嚇するという行為に、
つながったのかもしれません。
多くの人が、
日々の暮らしに追われています。
毎日生きるのに精いっぱいで、
自分と向き合う時間などないのかもしれません。
でも、本当に大切なものは、
急かされている社会にあるのではなく、
自分の内なる世界にこそ、
あるのでは、
ないでしょうか。