昨日は、友人Oと、隣町の低山の中腹のベンチで話をしたのですが、
共に、生まれた場所とは違うところに住んでいて、
今に至っています。
まあ、僕の場合は、同じ県内の移動ですが、
友人Oは、池袋だったように思っています。
あのIWGPのある池袋。
で、彼はその後埼玉県内に引っ越してきて、
入間市、というところで、
僕たちは知り合いになるのですが、
そしてまた彼は20歳ころには都内へ。
それも、池袋からほど近い桜台へ。
まあ、僕もその桜台のアパートには遊びに行きましたが、
桜台から江古田あたりは、いろいろな思い出があります。
で、そうした界隈で出会った、故郷を持たない人たちのことを、
ふと、考えました。
故郷を持たない人間、というと、どのような人を思い浮かべますか。
僕の場合ですと、都内まで通勤して働いていたときに出会った人たち。
実にいろんな地方から、
そして時には外国から、
人々が集まっていました。
特に介護離職するまで働いていたホテルでは、
中国人、ミヤンマー人、韓国人、フィリピン人、など多国籍でしたね。
さて、今日は、エグザイルとディアスポラについて。
「エグザイル」とは追放された者・亡命者・流浪の身を意味する言葉であるが,パレスチナ出身の批評家エドワード・サイードは,この言葉に比喩的な意味を与えている.エグザイルの身になるとは,生まれ故郷から完全に切り離されることではない.むしろ今日の世界では,故郷は実際にはそれほど遠くにあるわけではない.かといって,いつでも戻れるわけでもなく,この不安定などっちつかずの立場をつねに感じながら生きることを余儀なくされているのが,エグザイルの身なのである.エグザイルの位置が意味するのは,こうした苛立たしい中間的状態のことである.
ディアスポラは離散するだけでなく,離散の記憶をもったまま別の場所で「集まる」ことにおいて,独特の「現在」を生きている.この「現在」は,マジョリティの均質化された文化の中では周縁化されているが,周縁化されることによって,それは支配的な現在に対する批判的な視野をいっそう深めてゆく.
「もはや故郷をもたない人間には,書くことが生きる場所となる」と書いたのは,ユダヤ系ドイツ人の哲学者アドルノであった.
上記は、姜尚中さんの『思想読本 ポストコロニアリズム』からの抜粋ですが、
エグザイルと聞いて、踊る男の集団を思い浮かべる人も多いかも。
まあ、流浪の民、とも、言えるわけで。
ユダヤ系ドイツ人哲学者の言葉、
「もはや故郷をもたない人間には,書くことが生きる場所となる」は、
たとえば日本で言えば、その人口に比して、
在日韓国人、あるいは在日朝鮮人の方で、
作家とか、映画監督とか、
あるいは芸能系でも、そうですが、多いと思うのですよ。
で、やはり、彼らは、書くこと、あるいは、表現することが、
生きる場所となるのかなあ、などと思っています。