実は、どの宗教団体の教えも、良い教えです。
カルト宗教などでも、教えそのものは、立派だったりします。
そしてどの団体の信者も、もっと良い人間になろうと努力しています。
その努力は尊いのですが、当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しません。
良い人間になろうとするのも、微妙でわかりにくい形のエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに変わりはないから、です。
実は、カルト教祖そのものが、良い教えを説きながら、彼こそが、自意識や自己イメージの強化に最も邁進している無明の人間なのです。
もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史が、一つの参考になるのではないでしょうか。
共産主義の理想自体はそれなりに素晴らしいものなのですが、その考えに共感した人々が、まず自分の意識状態という内なる現実を変化させようとはせずに、ただ外部的現実を変えようとしたわけですね。
その結果は、惨憺たるものでした。
スターリン統治下のソ連で、階級の敵、裏切り者、として2000万人が殺されました。
こうした事例を挙げていくときりがないので、一例のみにとどめますが、これを、他山の石としてはいけないのです。
オウム真理教が、その独善的な教義により、サリンをまき、罪なき人々を多数殺しました。死は免れたものの、今も、その後遺症に苦しんでいる人もいます。
イデオロギーもカルト教義も、根っ子は同じです。
思想なり、教義なりで、自己イメージを強化した人たちによって引き起こされた、正義という名のもとの殺戮、残虐行為。
エルカンターレを信じるまで火責め水攻め食料危機だと、勝ち誇ったように息巻く幸福の科学の信者の内面は、実際に手を下さないまでも、意識状態としてはスターリンやポルポト、麻原彰晃と何ら変わりません。
これは、カルト宗教に顕著なことですが、その一見、良い教えが、イデオロギーになり、信者が自分をそれに同一化させ、自我意識を強化する信念体系になり果てています。
信者は、この信念を拠り所として無自覚なまま自分の信仰に酔い、自分が正しくて、相手が間違っていると、断じます。
このような信念は、それがどのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしません。
それどころか、その信念と自分を同一化すればするほど、自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていきます。
結論を言うと、自分がスピリチュアルかどうかは、何を信じているかではなく、どんな意識の状態に在るかによって決まる、ということです。
自分自身の深さを発見した人は、この事実に、気づいています。
そしてこの気づき、こそが、あなた自身に変容をもたらし、その変容こそが世の中を変えていくのです。
仏陀釈尊もイエスも、自分を崇拝せよとは言わず、あなたの中にある深さに気づきなさい、と、教え諭したのです。
この調子で話していると長くなるので、この辺にしておきますが、人工的解釈によって歪められたキリスト教が、僕にはとても残念でなりません。
主イエスの教えから、遠いところにあるのが、今の、そして、歴史上の、キリスト教です。
自分がスピリチュアルかどうかは、何を信じているかではなく、どんな意識の状態に在るかによって決まる、とのご指摘、目からウロコです。
会員は、エルカンターレを信じているから自分たちは特別だとの思い込みがあります。そのくせ、会内では、人の批判ばかりで、会員ではない人のほうに人格者がいたりするのが不思議でしたが、なんかスッキリしました。
仏陀釈尊もイエスも、自分を崇拝せよとは言わず、あなたの中にある深さに気づきなさい、と、教え諭したのです、の部分も、本当にそうだと思いました。支部長なんかよりもブログ主さんのほうがずっと悟っていると思います。
大川の醜さが日を追うごとに見えてきて、気持ちは退会しているのですが、もめたくはないので、幽霊会員を続けます。