僕が中学生の頃、北辰テストというのがあり、その点数が廊下に貼り出されたりしました。
誰でも通る廊下に貼り出されると、クラスの人間だけでなく、違う学年やクラスの人にも、自分の学力の順位が、晒されることになります。
向上心のある子どもであれば、それをモチベーションにして勉学に力を入れるでしょうし、劣等感を感じやすい子どもであれば、さらに落ち込む材料にもなるでしょう。
また、恋愛などにも目覚める年ごろなので、好きな異性の順位と自分のそれを比較して、つり合いが取れているだろうか、などと、余計なことも考えるかもしれません。
まあ、そうしたテストは、進学校を決める際の指針でもあったのでしょう。
そしてその進学先の高校も、偏差値なるものでランク分けされていたわけです。
つまり僕たちは、子供のころから、学業だけでなく、運動能力、見た目、家が裕福か否か、など、で、優越感を感じたり、劣等感を感じたりしやすい環境で、育ってくるわけです。
この、自他の比較、というのはあまりにも身近にあるので、よほど意識しないと、自動運転のように働きます。
一流大学という言葉もあるし、Fランク大学、という言葉もあるようです。
僕などは、大学にさえ行っていないので、最初、ネットで、Fランという言葉を見た時に、何を言っているのか理解できませんでした。
さて、事程左様に、比較の中で生きている僕たちですが、いちばん始末に悪い優越感が、宗教的エゴによる優越感、です。
これは、歴史を見ればわかりますし、今この時代でも、周囲を見渡せば、わかることです。
宗教的エゴが引き起こした悲惨な出来事は、書きだすと膨大な量になるので、具体例を一つだけ示すとすると、ローマカトリック教会の異端審問によって、300年間に400万人前後の女性が拷問され殺害されました。
彼女たちは、ただ動物をかわいがったり薬草を集めたりしただけで魔女の烙印を押され、拷問にかけられ火あぶりにされました。
彼女たちを魔女だと決めつけた宗教的支配者のエゴによって殺されたのです。
では、そのエゴなるものは、どういうときに最も強化されるのか?
それは、自分の正しさに執着するとき、です。
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはありません。
エゴは、自分が正しいと思いこむためには、好んで誰かが間違っていると決めつけたがります。
つまり、自分という存在を強化するためには、誰かが間違っていなければならないのです。
カルト宗教のすべてが、この罠に落ち込んでいます。
それ故に、独善的にならざるを得ません。
カルト宗教が独善的になるのは、必然なのです。
少し前の記事に対する幸福の科学の休眠会員、寄る辺なき子さんのコメントで記された彼女の法友の言葉、
「会員の呆れた言葉、エルカンターレを信じるまで火攻め水攻め食料危機も迫って来ると息巻いている姿に、ぞっとしました」も、スピリチュアルエゴの典型的な心理状態です。
因果の理法、などに代表される宇宙法則は、どこかの団体の独占物ではありません。
しかしカルト宗教は、自分たちこそが真理の団体であり、信仰心がある、と思っています。
まさにその思いこそが彼らのエゴを強固なものにしているのですが、何よりも教祖自身が自分を客観視できない状態の裸の王様なので、むしろ狡猾な取り巻き(教祖を信じているふりをして利益だけを抜き取ることに徹する輩)に利用される哀れなピエロに成り下がっていたりします。
まあ、この辺りの事情は、カルト教団によってそれぞれですが、共通しているのは、自分たちこそが正しい、という思い込み。
そしてその思い込みの背後にあるのは肥大化された優越感と強固なエゴ。
お金持ちが貧乏な人を見て感じる優越感などは、宗教的エゴによる優越感に比べれば、かわいいものかもしれません。
修道生活やお寺での修行は、共同生活を送り協業しますが、各々が個別に神仏や己と向き合い孤独の内に身を置いているようにも思うのです。
ですが、カルト教団にはそういった印象がありません。私の思い込みかもしれませんが。