父の在宅介護をきっかけに、2年ほど前にこのブログを書き始めた僕ですが、その父を自宅で見送り、そして母も、一昨日、病院にて看取りました。

母の、あまりにも早すぎる死に、当初は茫然自失の状態でしたが、その後の対応に追われ、悲しみに暮れている暇もありませんでした。

死の前日の10日には、普通に会話ができ、トイレにも、自分で立って歩いていくことができました。

病院側の配慮で、10日から個室の病室に移してもらい、暑がりの母は周囲を気にせず、エアコンを使えるようにもなりました。

5月14日から、ターミナルケアの環境が整っている別の病院に転院することも決まっていました。

5月10日の夕方、担当医と話す機会があり、あと数週間から数か月の余命だと思われる、ということを告げられました。そして、その覚悟をしたうえで、今後どのようなケアをしていくのが良いのかを、話し合いました。

母の弱り方が加速度を増しているように感じていた僕は、ターミナルケアの環境が整う病院に転院してから、親せきや友人など、縁の深い方たちを呼んで対面する時間を持とうとの当初の考えを変更し、個室に移ったことでもあり、今の病院で迎える最後の週末の2日間を使って、僕のいとこで、母からは甥にあたる、HMさんを12日に、母と僕が何かと頼りにしているAOさんを13日に、それぞれ来てもらう手はずを整えていました。

まず、その二人に来てもらい、そして、ターミナルケアの環境が整った病院に移ったあとは、順次、縁ある方たちとの対面をしてもらう予定でした。

ところが、思いもよらぬ事態が起こったのです。

11日の朝、病院から緊急の電話を受けた僕が、母の病室に直行すると、そこには、昨日までの母とは打って変わった姿の母が、口に酸素マスクをされた姿でベッドに横たわっていたのです。

膨れ上がったおなかが痛々しく、目もうつろな状態でした。

昼頃一度帰宅した僕は、午後1時半から4時ごろまで、病室にいて、その後症状が安定してきたため、いったん帰宅したのですが、またすぐに病院に呼び出されました。

この日3度目の病室で、僕は母の遺体と対面することになりました。

その後の慌ただしい時間のことは、順を追ってここに記す気力がありません。

ただ、今日も葬儀に向けてのさまざまな準備があり、その束の間の時間に、これを書いています。

母とは、縁あって親子になって、来月でちょうど40周年になります。毎年、5回乃至7回は、泊りがけの温泉旅行に行っていますが、たいがいは一泊旅行です。

毎年、おおざっぱな年間の旅行計画を立てます。予定が変わってしまうこともありますが、だいたいは母の希望を取り入れる形で、行くことにしています。

今年は親子になって40年の節目なので、少し遠出をして、愛知県の西浦温泉に行く予定でした。そして途中か帰りのどちらかに、長野県の昼神温泉にも立ち寄る予定でした。久しぶりの、2泊3日の旅行を計画していたのです。

昨夜、ぽっかり空いた一人の時間に、旅行日和カテゴリーを見ていました。そこには、このブログを書き始めて以降の、母と行った旅行の記憶が記されています。

このブログを書き始める前にも、たくさんの旅行に行きました。父が生きているときには、3人で、あるいは母の兄である、伯父を含めて4人で行くことも数多くありました。

後悔は尽きませんが、これからは一人で生きていくことになります。