介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

2020年04月

一寸先はわからないことを実感した昨日


昨日は、金曜日なので、通常であれば、アルバイトがある日なのですが、有休を申請していたのですね。

まあ、ぼんやりと何をするかぐらいの計画は立てていたのですが、昨日の朝起きてみると、めまいが。

天井が回っていて、これはなんだかおかしいぞ、と。

まあ、起き上がって、階下へと降りていったのですが、視点も定まらず、気分も良くない、と。

まず思ったのは、今日が有休でよかった、ということ。 

とてもではないが、この目の回る状態で、車の運転などしたら、危ない、と。

で、ざっくりとした計画をしていた貴重な有給ではありますが、即座に、外出はしないことに決め、様子を見ることに。

起きているのがつらいので、横になったのですが、たっぷりと寝た後なので、さして眠くもなく、それならばと本を読もうとしたのですが、長くは読めず、寝たようなのですよ。

一時間ほど寝て、少しは良くなったかなと思い、また階下に降りたのですが、まだ、少しめまいを感じていて、食欲もなく、と、まあ昨日は、そういった一日でした。

遅い昼食を食べたのが、14時ごろ。

朝食は、普段から、食べませんからね。

で、昨日は、食事は、その昼食一回だけ。

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まあ、有休をとったタイミングが良く、体調不良でも、会社に連絡する必要もなく、それはラッキーだったのですが、前回の足首の痛み、あるいは今年になって経験した生れてはじめての猛烈な便秘、さらにさかのぼれば、一昨年味わった、これまた生まれて初めての歩行も困難になるほどの激しい腰痛、などなど、体調不良や病気、あるいは、災害、というものは、こちらの事情とは関係なく、ふいに襲うものだと実感した次第。

こういう時は、自然と心が内向きになり、内省に入るのですが、ベッドに横たわっていても、内省していると退屈とは無縁。

と言うよりも、この内省している自分こそが自分であるとの実感。

つまり、体調不良も、悪いことばかりではないと。

外向きの心を、内に向ける機会でもある、と。


苦楽は表裏一体、というのは、仏教の基本的な考えですが、昨日感じためまいや食欲不振などは、それだけを取れば、苦、なのですが、そのおかげで、昨日は、だいぶ内省が進みました。

内省が進むと、自分がより鮮明に見えてきて、自分が進むべき本来の方角が見えてきます。これは、恵み、つまり、苦楽は表裏一体の楽、ですね。

なので、昨日は、めまいから始まった一日だったのですが、内的には充実した一日でした。


職場において自分を見失った出来事


コロナの影響で、アルバイト先でも、少し、仕事のやり方が変わってきています。

それは、僕のようなアルバイトにも及び、僕の主な業務は、メール便の集配送と廃棄物の仕分け作業なのですが、まあ、それ以外にも、こまごまとした雑用はありますが、メインはその二つ。

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で、メール便を集めるときに、これまでは、各フロアを回っていたのですが、受け取りも戻しも、一階の二つの場所だけで済ませることになりました。

そのため、少し昨日は、自動車の停車位置を変えてみたのです。

自動車を、いつもとは違う位置に停車し、その間に、メールを置きに行ったのですが、戻ってみると、大型のトラックが、僕が移動するのを待っていました。

その時に、僕の中で、待たせてはいけないという思いが強く働き、移動する際に、バックモニターを殆ど見ずに、バックし、別の場所に車を移動させたのですが、その後すぐに、この行為は危険であると、反省しました。

待たせてはいけないと思うあまり、車がいないことを前提に、モニターを確認せずにバックさせたことは、その時点で、自分を見失っています。

工場内の広い構内のこと、そこに車が止まっている確率は極めて低いにせよ、トラックのほかにも移動する車もあり、しっかりと確認してから、慎重に行動するべきであったと、反省し、自分に言い聞かせました。


これと似たことですが、一般道でも右折する際にウィンカーを出していると、時折、右折していいよとパッシングしてくる対向車線のドライバーがいたりしますね。

だいたい、トラックドライバーなどの、プロのドライバーが多いのですが、それは、僕1台の右折車のために、後続の車が前に進めない不経済さを解消することでもあるのですが、だいたいこういう場合で多いのは、僕の後ろに、トラックがいる場合です。

トラックドライバー同士、右折車を行かせることで、後続のトラックを先に進ませようという、暗黙の了解。

で、このように譲られたときが、実は、危ないケースが多いのですよ。

特に、譲ってくれたのだからと恩に感じ、焦って右折したりすると、横断歩道を歩行者が歩いていたりしますからね。

まずは、慎重に横断歩道を確認してから、素早く右折する、ようにしています。 


人に迷惑をかけたくない、という思いが強すぎると、それが逆にアダとなって、自分を見失うこともあるということで、なんにせよ、自分を見失うことほど、人生を棄損することはないと思っている僕なので、大いに反省した次第。

睡眠力は幸福力、は全くその通りだと思う


今日は、水木しげるさんの名言、睡眠力は幸福力、を、取り上げてみたいと思います。

水木さんは、徹底的にマイペースを貫いて生きた人、という印象を、僕は持っています。

そして、彼が強調したのは、睡眠の大切さ。


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同世代の多くの漫画家が短命だったのは、寝ないで仕事をしていたからだ、とも、おっしゃっていますね。

僕は、子供のころから寝るのが大好きで、まあ、社会に出るまでは、睡眠は十分とれていたあのですが、社会に出ると、大体が寝不足。

いちばんひどかったのは、カルト教団に身を置いていたころで、一日4時間以上眠ることは罪だ、くらいに洗脳されていたので、もう、5時間も寝た日には、自らを攻める始末。

当時は、偽りの使命感だけで生きていたので、むちゃな生活でもなんとかなっていたのですが、やがて、精神を病むことに。 

そうした、カルト教団での日々は、折に触れて過去記事でも書いているので、繰り返すのは避けますが、要は、何が言いたいのかというと、睡眠の大切さ。


まあ、カルトを辞めた後も、人は生きるために仕事をせねばならず、現代日本では、企業で生きるとは、ほぼほぼ慢性的な睡眠不足になることを意味します。


そして、そうした睡眠不足を長年続けるわけで、体にいいわけがない、と。

今は、というと、もう、フルタイムワーカーではないので、睡眠だけはしっかりとれていて、これが、何よりの幸福の基本。


実は、昨日も、のどの痛みと微熱があり、風邪の初期症状が現れたので、早めに蒲団にもぐりこみました。

そして、10時間ほど寝て、今は、復活。

僕は、これまでの人生で、寝てなおす、ということを、繰り返してきました。

で、僕は、それでいいのですが、この時期、あるいは、立場上、寝たいのに十分に寝られない人がたくさんいます。

そういう人は、大変だとは思いますが、僕だと、体と精神を病むでしょうね。

そのくらい、僕は、弱いのですよ。

で、その弱さを知るがゆえに、低エネルギー、低消費、低支出で、何とかつつがなく生き延びようとしているわけ。

快適な家とたっぷりの睡眠と十分な食事、これだけあれば、大満足、です。

やっと買えたマスクと困難な時における人としての生き方


深夜だったでしょうか、寝ているときに、かなり大きな揺れがありました。すぐに地震だということはわかったのですが、少し前の記事でも書いたように、このような時に、たとえば、首都直下型地震などがあったら、大変なことになるな、と、思った次第。

手持ちのマスクは数枚しかなく、それらを洗いながら繰り返し使っていましたが、今朝、買い物に行ったライフで、やっとマスクを買うことができました。


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サージカルマスク5枚入りが税込みで437円のところ、シールだけ貼ってもらって持ち帰ったので、エコ還元2円引きで、435円でした。

さて、昨日、9000万年前の南極大陸のことを書いたのですが、当時、まだ、人類は誕生していませんでした。食物連鎖の頂点には恐竜が君臨し、まあ、その恐竜も一様ではないのですが、人類はおらず、その肉体祖先にあたる哺乳類はいましたが、まだ、知能もさしてない状態。


では、人間のいない世界で、霊なる存在はどうしていたのか。

これを話すと、また長くなるので、ここで語ることは控えますが、以下の、シルバーバーチの言葉が参考になるかもしれません。


大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。


実はこのシルバーバーチ、高い霊界から膨大な量の通信を送ってきています。 

僕たちの肉体先祖は、あるいはネズミのような形をした哺乳類かもしれませんが、変化する地球環境の中で、そうした肉体を進化させながら、やがては類人猿、人間へと、進化させていき、人としての霊が宿るにふさわしい時に、大霊の息吹としての、霊が宿ったのではないでしょうか。

そういう意味では、聖書の記述も、比喩的ではありますが、真実を、突いているように思えます。


大霊としての神性を宿した人間が神のごとく生きることの可能性に言及しているシルバーバーチですが、たとえば、今のこの時期であれば、寝食を忘れて、コロナウィルス感染者のために働いている医療従事者の多くが、その、人の命を救うという使命感のみで生きるとき、それは神のごとき生き方、であろうと、思います。


あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。

上記のシルバーバーチの言葉にもあるように、大霊は宇宙法則としてこの世界を統治しているので、その働きは、人間を通して行います。

誰でも、一度や二度は、自分のことなど忘れて、誰かのために、夢中で働いたり、奉仕したりした経験はあるのではないでしょうか。そうした時には、まるで、自分が真空地帯にいるように感じたりしますが、もう、働き、そのものになっていて、そうした時には、確かに、神のエネルギーというか、大霊が働いているのを感じます。

この時期は、ほとんどの宗教団体が、宗派の違いを乗り越えて、礼拝の自粛などで、足並みをそろえています。

そして、実に多くの宗教団体で、自発的に、それぞれの仕方で、コロナ過の終息を願う祈りがささげられています。

先日見た番組では、仁和寺の僧侶がコロナウィルスの終息を願う祈願をしている様子を見ましたが、仏教、キリスト教、イスラム教の枠を超えて、それぞれの仕方で、そうした祈りをすることは、良いことだと、思います。

また、仁和寺では、僧侶の手作りのマスクも、無料配布していました。

僕は、今は、いかなる団体にも所属していませんが、宗教団体においても、それぞれの仕方で、人類の危機に立ち向かっていることは、良いことだと思いました。

9000万年前の南極大陸の想像図がカッケー


二つ前の記事で、ネットカフェに住んでいる人たちが追い出されて大変そうだという話をしたのですが、昨日見たニュースで、都によって、ホテルの個室などに移動させられた人のインタビューを見て、ほっとしました。

ネットカフェの狭苦しいところよりも、ホテルの個室のほうが、快適ですからね。

まあ、ネットカフェにいる人全員ではないでしょうが、人それぞれだと思うので、移動できる人は、ホテルに移ったほうが、体も伸ばせて、良いと思います。

さて、今日は、コロナから離れて、非日常空間へ。

ドイツのアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所などの国際研究チームが、公開した内容が興味深いものでした。

以下は、その内容。


南極大陸の沿岸付近は約9000万年前(白亜紀半ば)には温暖で、森林や湿地があったと推定されるとドイツのアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所などの国際研究チームが3日までに英科学誌ネイチャー電子版に発表した。当時は大陸を覆う氷床がなく、大気中の二酸化炭素濃度が現在よりはるかに高かったと考えられるという。

沿岸の海底下を観測船で掘削し、9300万年前から8300万年前の土を採取したところ、温暖な地域に生息する植物の根や花粉などが多く含まれていた。

掘削地点は南米寄りの南緯73度、西経107度。しかし、この地点は約9000万年前は南緯82度に位置し、当時の南極点から約900キロしか離れていなかった。1年のうち、一日中太陽が出ない極夜が4カ月も続いたとみられる。

当時の気候を復元するシミュレーションを行ったところ、年間平均気温は12~13度、年間降水量は1120ミリと推定された。夏には月間平均気温が18.5度、河川や沼の最高水温が20度に達したとみられる。白亜紀は恐竜が繁栄し、温暖な時代だったことが知られるが、従来の推定を上回った。

うーん、 そして、当時の南極の想像図が、以下のもの。

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うーん、温暖で森林や湿地があったようですね。

ちなみにこの時期は、まだ恐竜がいて、人類は誕生していません。僕たちのご先祖様は、恐竜に怯えて、逃げ回っていた時代。

地球そのものが、プレートテクトニクスで、大陸移動していますからね。

一億5000万年前の地球が、以下の図。


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9500万年前の地球が、以下の図。南極の想像図に近い、時代の地図です。

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そして、4000万年ほど前に、オーストラリアと南極が離れて、ほぼ、以下のような現在の形となります。

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うーん、地球も、変化し続けている途上にあるということ、ですね。

時々でも、日々の暮らしから視点をずらして、地球をはじめとしたいろいろなものを俯瞰してみるのも、良い気分転換になるかもしれません。


住宅ローンは家賃だと思って支払っていく


今年の6月で、親の介護を機縁として建て替えたこの家も、築7年になります。

もう僕も61歳ですから、健全な家計であれば、住宅ローンを完済していなければならない年齢です。

しかし、54歳で、実家を建て替えざるを得なくなった時、当然、長い期間のローンは組めないので、さりとて、現金払いで家を建てられるはずもなく、15年のローンとなったのですが、完済は69歳。

当初、少しでも早く住宅ローンを返済し終えたいと、焦る気持ちがありました。

しかし今は、今回のコロナ禍により、考えを変えました。

手持ちの現金は、大切にしなければならず、いたずらに住宅ローンの完済を急ぐべきではない、と。

なので、住宅ローンは、家賃のつもりで、コツコツと支払って行こうと思います。

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家賃には終わりはないが、住宅ローンには完済という、ゴールがある。

それを、励みにしたいと思います。

今は、以前は毎日、350ミリリットル1缶、飲んでいた発泡酒も、やめました。

やめてみれば、飲まずにいられます。

もともと、酒は強いほうではないし、まあ、習慣で飲んでいたようなものでしたからね。酒に弱いというのは、節約生活には強みになります。

節約を土台として、まずは、固定費の住宅ローンをしっかりと支払う。

そのうえで、質素な生活をし、その中に最大限の喜びを見出す、生活です。

ただでさえ、多いとは言えない預貯金です。

また、手持ちの株式も、大きく値を下げています。

こんな状況の中で、アルバイトも、辞めるつもりでいるのですから、無謀と言えば、無謀なのですが、以前にも書きましたが、自分の心の命じるままに生きようと、思っています。

幸い、あと2年で、年金の約半分がもらえます。

63歳から支給される、報酬比例部分、です。

5万円に満たない金額ですが、それがあれば、一か月は暮らせます。

あとは、住宅ローン分を、やりくりすれば、いいだけ。

そして、さらに2年後の、65歳になれば、年金が、満額の9万円が、もらえます。

そこに至れば、住宅ローンを支払っても、3万円弱のお金が残り、それを、生活費に充てることができます。

僕が実験したところ、切り詰めれば4万円でやれるので、質素な生活であれば、時間が味方して、69歳で、住宅ローン完済と、なります。

その後は、住宅ローンという固定費がなくなるので、9万円の年金は、純然たる生活費として使えます。

その時点で、預貯金に不安があれば、質素な生活を継続して、9万円の年金の中から、貯金をしてもいいし、その必要がなければ、全額使い切ってもいいと思います。

今回のコロナ禍でも、フローの大きい人、入りも多いが、出も多い人は、フローが止まると、大変です。

その点、生活の経済規模が、普段から小さければ、小さい被害で済むし、場合によっては、無風状態でしょう。

巨大な恐竜は絶命し、小さな哺乳類が生き残って今があるように、柔弱なるものほど、危機に強いのかもしれません。

住処を失うことの深刻さと苦しみ


今、都内では、自粛要請により、多くの業態が影響を受けていますが、ネットカフェもその一つ。

で、こうしたネットカフェを根城にしている人たちは、不安定な仕事をしている人が多いと聞きます。

収入が止まれば、ネットカフェへの支払いも滞って、いられなくなるわけですが、そうしたリスクの中で生きてきた彼らも、今回は、自分の都合ではなくて、コロナ禍による営業自粛による追い出し。

叩き出されても、受け皿がなければ、即、野宿が決定。

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頼れる人でもいれば、しばらくは居候も可能でしょうが、それも長引けばストレスがたまりまくります。

それと、昨日、テレビで見たのは、昨年の台風で家屋に被害が出た千葉県の人の家。

まだ、修繕が終わらず、かび臭い部屋の中で暮らさねばならない現状。

そんなな中での、コロナ禍で、ボランティアの人も行きづらくなり、作業はさらに遅れそうだと言っていました。

このまま、また、台風シーズンになったらと思うと、不安だと、住人。

ネットカフェに住む人にしても、台風被害の家に住む人にしても、 今回のコロナ禍による影響は甚大で、住むところがないことのストレスと恐怖と不安は、量り知れません。


僕の近隣の市や町でも、去年の台風被害から、まだその傷が癒えずにいる人たちもいます。


年々巨大化する台風や地震も不安要素ですが、それに加えての今回のコロナ禍は、この世の無常を、いやでも感じざるを得ない出来事です。

このような状態で、今、首都直下型地震でも起きたら、もはや収拾はつかなくなるでしょう。


僕も、一昨日に発症した足首近くの痛みを抱えながら、今日も、昼から、アルバイトに行ってきます。

突然の痛みの発症と、うお座の女性ミュージシャン


ラブストーリーは突然に、ならいいんですが、痛みも、突然発症したりしますね。

今朝は、起きるときに、左足に痛みを感じました。足首近くの、アキレス腱の左側ですかね。

まあ、そんなに強い痛みではないのですが、すたすたと歩くのはできないかな、と。

旅の途中で、こういう状態になったりすると、サクサクと動けなくなるので、つらいですよね。

まあ、アルバイトでも、つらいのですが、そこは、のんびり動いて、かばいながら働くとします。

今月は、昼からの勤務なので、午前は体をいたわってリラックスします。

さて、話は変わります。

松田聖子がうお座だというのは知っているのですが、今日は、うお座の女性ミュージシャンを、調べてみました。

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尾崎亜美がうお座でしたね。




うーん、懐かしい曲です。 

それから、竹内まりやも、うお座。




うーん、これも懐かしい曲です。

それから、いきものがかりの吉岡聖恵も、うお座ですね。




うーん、いきものがかりは、いい曲が多いですよね。

それから、EGO-WRAPPINの中納良恵も、うお座です。




うーん、EGO-WRAPPINは、一時期、ハマっていました。

まだまだいそうですが、今日はここまで。


落ち着いた大きな心への道


落ち着いた大きな心、平安に至る道は、いくつかありますが、その一つが、仏教思想の中にあると、僕は思っています。

今日は、その仏教思想の中核をなす四無量心を、取り上げてみたいと思います。

ちなみに、無量とは、量ることができない、ということ、あるいは、量ることができないほど多い、という意味ですね。

で、その四無量心とは、慈悲喜捨のこと。

慈、とは、足ることを知って貪らず、他者の幸福を望むこと、です。

悲、とは、 他者への同情心、とでも言えばいいでしょうか。

喜、とは、妬みを超えて、他者の幸福を喜ぶこと、です。

捨、とは、差別をしない平静な心を維持すること、です。これは、他人が自分に向ける悪意に対しても、無頓着であること、も意味します。

あっさりとした説明なので、なんか、慈と喜は同じじゃね、と、思えるかもしれません。

そこで、別の側面から見てみると、

慈、は、貪りの克服、であり、

悲、は、冷淡さの克服、であり、

喜、は、妬み心の克服、であり、

捨、は、怒り心の克服、でもあるでしょう。

この、四無量心を培うことにより、落ち着いた大きな心に至る、ということですね。

慈悲喜捨のうちの、慈悲、は、他に喜びを与え、苦を取り除く、という意味で、抜苦与楽、とも言えます。

健やかに生きるためには、必要以上のものを求めない、という生き方そのものが、すでに、四無量心の第一、慈、なる生き方の始まりになります。

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このような仏教的な幸福感の対極にあるのが、一般的な幸福感です。

その理由は、自分が今よりも多く、そして、他者よりも多く、を得ることが、一般的には幸福なことだと、思われているからです。

ただ、この他人よりも多くを得たいという欲望に導かれて、首尾よく多くを得る喜びを得たとしても、その裏側には、得たものを失う苦しみがあります。

また、そもそも、得たいと思っても得られない、という苦しみもありますね。これは、四苦八苦のうちの、求不得苦とも言われる苦しみのことです。

一般的な幸福とされる、今よりももっと、そして、他者よりももっと多くを得ることは、その瞬間の喜びはあるものの、同時に、失うことを怖れる苦しみ、そもそも得ることさえできない苦しみ、そして、他者と奪い合う苦しみ、をはらんでおり、これを、仏教では、苦の裏には楽があり、楽の裏には苦がある、と言います。

つまり、苦楽は表裏一体である、ということですね。

このように、楽の裏には苦があるという生き方は、どうしても、不安定にならざるを得ません。

そして、常に自他の対立があるので、心の広がりも妨げる結果になります。

つまり、不安定で広がりのない心に、束縛された日々を送ることになります。

しかし、学校教育で教えていることは、他者との競争であり、優劣を競うことです。

そして、その中で劣等感や優越感、卑屈な心や他を見下す心が、雑草のように蔓延っていきます。

求めても求めても、得ても得ても、満足できない心、それこそが、貪りの心、です。

しかしこの心が向かう先は、他者との諍いであり、どんなに能力のある人でも、勝ち続けることはできません。

そして、どんなに多くを得たとしても、老いと、病と、死が、その先には待ち受けています。

つまり、一般的な幸福とされているところの、今より多くを求め、他者より多くを求めるという生き方は、得たとしても失う、そもそも得られない、他者と奪い合う、という、非常に不安定な生き方である、ということ。

そして、そのような生き方は、人生の後半になるほど、不利になり、苦しみが増すことになります。

その点、四無量心を土台にした生き方であれば、足ることを知って生きるので、その心は安定しており、年を取るほど、その安定感と平安は不動のものになっていきます。



僕自身、貪りの心や怒りの心に、ずいぶん苛まれてきました。今でも、そうした心がまったくないとは思っていません。

ただ、感情や揺れ動く心が自分だと思っていたころは、その主観から離れられず、苦しみが尽きることはないのですが、感情や心、思考といったものは移ろいゆくもので本来の自分ではないと気づいたときから、心に安らぎが生じるようになりました。

主観べったりの自分、と、それを客観視する自分の間に、心地良い空間、スペースが生まれ、それ以降、聖書の中のイエスの言葉や、仏陀釈尊の言おうとしていた四法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦)などが、無味乾燥なものではなく、生きた言葉として感じられるようになりました。


今日は、四無量心を土台とした落ち着いた大きな心の幸福と、今より多く他者より多くを求める一般的な幸福を、初歩的なレベルで比較してみました。

簡略な考察ではありますが、生きる上でのヒントになれば、嬉しい限りです。


ちょっとのお金ちょっとの時間で日々の暮らしは違ってくる


コロナの影響が、様々な分野に及んでいますね。

特に、派遣社員が職場を失うと同時に住処まで失う話は、深刻です。

ハウステンボスの派遣切りは、まさに、そのケースのよう。 

なんか、年越し派遣村、の記憶がよみがえってきました。仕事を失うだけでなく、住処まで失った人たちが、炊き出しに並ぶ年末の光景。

人が生きられるぎりぎりの生命線。

住むところと食べるもの。

この二つだけは、必要です。

こうした時に重要になってくるのが、預貯金、ストック、つまり、お金。

当面、生き延びられるだけのお金。それがあれば、また、人生の再建に向かっていきやすくなります。

今の世の中を見渡してみると、持っている人は必要以上に持ちすぎていて、持っていない人は、今日を生き抜くお金さえなかったりします。

まあ、いつの時代にも、貧富の差はあったのでしょうが、経済のグローバル化とともに、その差は絶望的なまでに広がりすぎていると思います。

日本はまだ、格差はこれでも緩いほうで、アメリカなどは、悲惨です。

コロナの影響で、ウォレス・ルーニーも、亡くなったようです。まだ、59歳です。



忙しかった会社員時代、ちょっとした時間に立ち寄ったコーヒーショップで、ほっとする時間を持てるだけで、気分が変わったりしました。

スタバやタリーズなどの高いところでなくても、ドトールなどでも、つかの間の、ほっとできる時間が、貴重なように、こういうとき、つまり、派遣切りなどに遭ったときは、ちょっとのお金が、とても、貴重です。

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もう一度、人生を考え直せる程度の時間とお金、があれば、人はまた、ゆっくりとでも、歩き始めることができます。

ちょっとのお金とちょっとの時間が、人に与える余裕、あるいは、スペースが、本当に大事だと思っています。

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