朝、起きた時に、寝室の窓から電線が見え、その電線に雀が止まっているのを見て、恐竜を連想しました。
恐竜は、1億6000万年ほどの長きにわたって、生態系の頂点にいて繁栄していたとされていますが、白亜紀末期に、今のユカタン半島に、小惑星が衝突し、その後の地球環境の激変によって絶滅したと、されています。
まあ、あらゆる物証や、状況から、正確なことはわからないまでも、だいたいそのようなことなのだとは思いますが、 恐竜に怯えながら何とか生き延びてきた僕たちの祖先は、やがて、ほ乳類全盛の時代を迎え、その中から、紆余曲折を経て、人類種が誕生します。
どこからを人類種とするかは、意見の分かれるところだと思いますが、何とか、人類と呼べるであろう存在の出現が、今から700万年前。
現代人の感覚からすれば、1万年でも長く感じますが、キリストの生誕を2000年前、とすれば、その5倍の長さの範囲に、ピラミッドの建造なども入るとすれば、1万年は長いよね、と、思えます。
その700倍の長さの昔に、ようやく出現した人類、と、1億6000万年もの長きに渡って繁栄した恐竜種から、時間的空想をしてみると、長く生きて100年の、この人生は、あたかも、自分という意識が、泡のようにこの空間に顔を出し、パチンとはじけて消滅するような、感覚です。
なので、この、人間としての個体に執着すると、苦しくもなり、切なくもなるのですが、無我を説いた釈尊の教説によれば、そもそも実体なる我、は、ないのですから、そこで、苦もまた、消滅していくわけですね。
一見すると、単に死ねば終わりという、唯物論にも誤解されかねない無我の悟りですが、諸法無我は、仏陀釈尊の四法印の一つ。
四法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦、のこと。
朝、電線に止まっていた雀から、恐竜を想起し、時の長さを空想し、絶えざる変化を想い、今もまた、その変化の途上にある自分に立ち返り、仏陀釈尊の類い稀な洞察力に、改めて感じ入った次第。
1億年、あるいは、数億年後の未来。
人類とは別の種で、地層を読み解く能力のある存在が、地球の歴史が刻まれた痕跡を見て、恐竜種の繁栄の長さに比して、やけに短い人類種の地層を見て、何を思うのでしょうか。
無駄に知能を発達させたがゆえに、自ら滅んでいった愚かな種、と、彼等は名付けるもしれません。
あるいは、こういう名でも、呼ばれるかもしれません。
小賢しさが災いとなり、利己主義で滅びた種、と。