介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

2019年04月

平成最後の日はシロアリ予防と住宅修繕計画

平成最後の日は雨で、こういう日は、割合好きです。

雨は嫌いではありません。

落ち着きますからね。

こういう日は、掃除が進んだりします。

さて、今日は、シロアリ予防工事をしてもらいました。

ほんとは、去年やる予定でしたが、母の入院や、その後の葬儀と、いろいろとお金が必要だったので、住宅の維持費関連は、後回しになっていました。

それと、僕も、前職がホテルの設備管理全般だったので、建築についても全くの素人というわけではなく、まあ、大丈夫だという目算はありました。

ベタ基礎なので、そうそうシロアリにやられることはありませんしね。

でも、予防は大事なので、今日、やってもらったわけです。

諭吉さんが何枚か出ていくわけですが、必要経費ですね。

そうそう諭吉さんが、今度は渋沢さんになるとのことで、渋沢栄一といえば、埼玉の偉人です。

諭吉さんも偉かったが、渋沢さんも偉かったですね。

で、今日、今後、僕が生きていくうえで、出ていくお金を、ざっと見積もってみました。

まずは、住宅関連。

そして、あと一度は買い替えるであろう車。

さらに、今後買い替えが必要となってくる家電関係。

概算で、だいたいこのくらいかな、という予算は頭の中にあります。

僕の強みは、電気工事を始め、設備管理関係の資格保有者であること。

まあ、自分でできてしまう工事も、多々あります。

今になって、仕事で磨いてきた技術や経験が生かされ、ありがたいというか、天の配剤を感じます。

やっぱ、俺は、ついてるなあ。

得難き友との対話は、いかなるレジャーにも勝る

昨日は、僕が普段お世話になっている、隣の市に住むAさんのところに行き、いくつかのアドバイスをしてもらいました。

ちなみに、Aさんは、僕よりも年下ですが、精神年齢は僕よりも高く、会ったときからタメ年の友人と話しているような感覚があります。

一昨日、時間をとれる日はありますかと打診したところ、昨日の午前中が良いのでは、ということになったのですね。

このAさん、この時期は、仕事が詰まっており、また、今年は特にプライベートでもやり遂げねばならない仕事が山積していて、その忙しい日々の中に対話の時間をこじ開けてもらった、という感じでした。

対話の場所は、Aさんが長年暮らしているアパートの一室。

まあ、話の内容は割愛しますが、9時ちょっと過ぎに行って、13時近くまで話していたので、3時間半くらいは対話していたでしょうか。

中身のある対話をしているときというのは、時間が一瞬にして過ぎ去ります。

これは、会社などでの会議とはエライ違いです。

で、こうした対話というのは、いかなるレジャーにも勝る、と僕は思うのですよ。

アパートの一室で、Aさんがドリップしてくれたコーヒーを飲みながら話をしていたのですが、お互いに共通するのは、真理の求道者である、という点。

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ここは、共通しています。

ただ、違いもあって、Aさんは、今も、幸福の科学の信者、というよりも、会員。

大川隆法の言うことを何でも鵜呑みにするのが信者だとするならば、Aさんは、そういうタイプではありません。だから、会員、と言い直しました。

Aさんは、幸福の科学は、宗教組織にはなってほしくなかったそうです。そのような枠に収まらない、世直し団体、であってほしかったとのこと。

で、このAさんは、ヒトラーの研究家でもあります。

ヒトラーの影響力は、人類史を見渡してみても、稀有であるとのこと。

また、Aさんの政治や国際情勢に関する知見は広く、深いものがあり、その分野では子供レベルの僕は、質問しながら頷くくらいのことしかできません。

ただ、ともに求道者であるという共通認識が、毎回、対話を深めているように思います。

つまり、求道者ということは、道、すなわちタオを求めて歩んでいるわけで、その共通項さえあれば、お互いの気づきを交換し合うことで、また、新たな認識を加えていくことができるのですね。

この、新たな認識を加えていく喜びは、何物にも代えがたいのです。

Aさんは、日ごろから脚下照顧の精神を忘れないようにしているので、一部の信者に見られるようなオカルトのほうにねじ曲がっていくこともなく、また、一隅を照らす、ことを座右の銘にしているので、職場では常に誠意ある仕事を心がけています。

Aさんのような地に足のついた誠実な会員が増えているならば、幸福の科学はもっと足腰の強い団体になっていただろうと、思わずにはいられません。

さて、このAさんは、誰よりも早く職場に行き、黙々とトイレ掃除をしています。もうそれは、Aさんの生活の中の良き習慣として組み込まれているので、本人はそれを修行とも思っていないのかもしれません。修行などという肩ひじ張ったものではなく、良き習慣にまで昇華しているのだと思います。

Aさんのことを話すと長くなるのでこの辺にしますが、得難き良き友がいれば、長い老後も退屈しないよ、ということですね。

また、良き友との対話は、いかなるレジャーにも勝るんじゃね、ということを言いたかったのです。

僕も、Aさんの生き方を見習って、一隅を照らす、ことを肝に銘じているところです。

いやでも、自分を見つめる時間が長くなる老後

僕が子供の頃、二間しかない市営住宅の縁側で、秋になると、お月見をしました。

母が、茹で饅頭とか、蒸かし饅頭を作ってくれ、それを近所の友達と食べながら、月を見て、話しました。

ウサギが餅をついているとか、そんなことを言われて、そういう目で見れば、見えないこともなく、夜空というのは不思議で、宇宙も不思議で、子供時代は不思議に満ちていましたね。

その不思議への好奇心が、求道心となり、宗教遍歴などにつながっていったのですが、今日は宗教の話ではなく、長い老後生活の話。

どうしても、年を取るほどに、体は言うことを聞かなくなっていきます。

また、家族のいない僕は、一人でいる時間が今でも長いのですが、それにも拍車がかかっていきます。

今は、なんだかんだ言って、生きるためにアルバイト生活をしているので、そちらで若干のストレスと刺激を受けているのですよ。

ほぼストレスがないようなものなのですが、それは正社員時代と比べての話で、やっぱりアルバイト先でも、人間関係とか仕事のストレスは多少はあります。

でも、そうしたストレスも刺激となって、いろいろと役に立っているように思います。

いつまで働けるかはさておき、やがては、そうしたアルバイトもできなくなり、家にいる時間が圧倒的に長くなり、つまり、嫌でも、自分を見つめる、自分と向き合う時間が長くなります。

で、そうしたときに、お金を使わないと気を紛らせない人というのは、お金がある程度は必要でしょうね。

現役で働いていた頃は、僕もたまには、一人でスナックに行くこともありました。居酒屋はよく一人で行っていましたが、スナックは、多少は勇気が要るのですよ。

でも、そうしたスナックに、意外なほど、一人で来ている人がいたりします。

で、一般的に言うと、やっぱ寂しいのかなあ、なんて思ったりするのですが、何かで気を紛らせたいのでしょうね。

そう言う僕も、スナックに行っていた頃というのは、どこか、人恋しいような時だったと思います。

僕が住んでいるような田舎町でも、それなりにスナックの数はあり、潰れもせずに営業している店は、それなりにお客がいるわけで、別にスナックって、エッチなことをするわけではないので、まあ、ママさんと少し話をするぐらいでも、やっぱ、気がまぎれたというか、慰められていたのでしょうね。

もっとも僕は、そんなには、回数は行っていません。

いちばん行っていたのは、30代で、不動産の営業をしていた頃ですね。仲間が、そういう店が好きで、影響を受けて、行ったりしていましたが、歌うときの定番は、サザンでした。

パチンコも、付き合いで行きましたが、パチンコには、はまりませんでした。あれは、遊んでいるつもりで遊ばれている感じがして、音もうるさいし、自分には合いませんでしたね。

なんか話が、横にそれていますが、そうそう、老後の話。

で、やっぱ老後は、働かないとなると、かなり時間は長く、人によっては持てあますのではないでしょうか。

幸い僕は、あまり退屈は感じない方なのですが、体力の低下と有り余る時間の中で、やはりやることは、自分と対峙することではないか、と。
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で、この、自分との対峙、というのが苦手な人は、かなりつらい老後時間になるかもしれません。

なんかまとまりませんが、今日は、ここまで。

土曜の夜はただの不良で傷だらけでもまぶしかったあの頃

今日で、年に一度回ってくる自治会のごみ置き場清掃も終わり。

箒と塵取りと、当番日誌を持って、ご近所の次の当番の家に持って行きました。

この家の主婦は、ポメラニアンが好きなようで、飼っている犬は、代々ポメラニアン。チワワよりもちょっとだけ大きいくらいでしょうかね。

まあ、2週間とは言え、清掃当番が終わって一区切り、ついでに、今日から、ゴールデンウイークで、10連休。

まずは、朝一で、たまった洗濯ものを洗い終えたところです。


で、話は変わります。

桑田佳祐とかつては比べられたこともある世良公則。

いつの間にやら差を開けられ、でも、ときどき俳優で頑張ったりとか。

でも、やっぱミュージシャンなんですよね。

ぶっちゃけ、才能では桑田佳祐でしょう。

だけど、世良公則、ときどき、めっちゃいい曲を作りますよ。

この曲、大好きで、カラオケで必ず歌う曲の一つです。





この、真っすぐな感じが好きです。

合理的倹約はするが無理な節約はしない

ときどき覗く節約系のブログでは、涙ぐましい節約の日々を綴ったものも散見できますが、度を越した節約は、人生を毀損すると思います。

それに対し、合理的な思考による倹約は、大いにするべきでしょう。

たとえば、たびたび登場する、こくうまキムチ。

これの値段は、店によって、238円、258円、278円と、値段がバラバラ。

しかしスーパーマーケットというのは、8円が好きなのだなあ、と思いますね。

まあ、それはともかく、僕の場合は、こくうまキムチを、常に198円でゲットしています。

これは、ライフが、たまに客寄せのために、一人2個までという条件で売るのですが、寒い冬場は、キムチ鍋の出番も多く、毎回2個買っていましたが、いかんせん、賞味期限というモノがあります。

キムチ鍋にするのであれば、多少酸っぱくなった奴のほうがうまみが増すくらいなのでいいのですが、それでも一人暮らしでの消費はたかが知れていて、賞味期限を過ぎてしまうことも。

だから、冬の終わった今は、2個買いはしないようにしています。

で、何が言いたいのかと言うと、同じ商品なら、最安のところで買う、というのは、合理的な倹約だと思うのですね。これは、オッケー。

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それに対し、トイレの水は、一度の使用では流さないとかの、行き過ぎた節約は、本末転倒、だということです。

生活の質を落としてまで節約しても、生活そのものが台無しになったら、何のために生きているのかわからなくなりますからね。

ムーミンバレーパークは混みそうだとミイが言う

僕の家の比較的近所にできたムーミンバレーパーク。

車で15分くらいのところなのですが、駐車場料金がかなりお高い。

で、このゴールデンウイーク、ムーミンバレーパークは、かなり混雑が予想されます。

まだ、行ってない人のために、僕が開園前に下見に行った記事を貼り付けておきます。


ムーミン谷の隣村、メッツァビレッジに行ってきた

で、ムーミンと並んで人気のあるキャラクターが、ミイ。

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この人、ですね。

で、このミイ。

結構、深いこと言っているのですよ。





迷わないことが強さじゃなくて
怖がらないことが強さじゃなくて
泣かないことが強さじゃなくて
本当の強さって
どんなことがあっても
前をむけることでしょ。
前をね。


女ってね、時々、好きな人といたくて。
時々、好きな人の前から消えたくなるの。
それをわがままっていう男とは、
一緒にいれないわ。
それをかわいいって思う男とは、
長くいれそうね。





みてるわよ、あなたがしていること。
あのね、神様じゃないわよ。
もうひとりのあなたが
あなたを見ているのよ。
見放されないようにね。
嫌われないようにね。



どうでしょう。

ミイ、なかなかのものではないでしょうか。


借金地獄への道は、安易な誤認から始まる

新社会人が入社後、そろそろ会社にも慣れてきたころに、ゴールデンウイークがあり、しかも今年は10連休。

慣れない仕事となれない人間関係で、ストレスもマックスに。

そんなときの10連休は、おそらく、砂漠で見るオアシスのようにも感じるのではないでしょうか。

で、そのタイミングで、甘い誘いが。

休みはあるのに金がない、という状況でのこの誘い。

そう、リボ払いです。


キャッシングはとても高い金利がかかる借金ですし、リボ払いも金利に相当する「手数料」がかかる、れっきとした借金です。それなのに、キャッシングもリボ払いも利用者は多い。そうでなければ、クレジット会社は高い広告費を使って積極的に宣伝などしないでしょう。

カード「キャッシング」の金利は普通預金の1万8000倍

キャッシングは、クレジットカードを持つ人がそれを利用したいかどうかに関係なく、ほとんどのカードについています。キャッシングの金利、つまり、クレジットカード会社からお金を借りるときの金利は、どのカードでもほぼ18%です。2019年4月現在、大手銀行の普通預金の金利は0.001%ですから、それに比べると1万8000倍の高さです。

こんなに高い金利がかかるのに、カードのキャッシングを利用する人たちが大勢いるのです。お金をつい使いすぎているうちに金欠になり、当座しのぎにキャッシングを使ったという人もいると思いますが、私は、むしろ「気軽な」気持ちで借金してしまう人たちが少なくないような気がします。

それはなぜかというと、人間は金利のような「率」に弱いからです。「率」で表されると自分が負担することになる「額」を実感しにくい。そんな心理的傾向があるのではないでしょうか。


上記は、東洋経済オンラインからの抜粋ですが、若いときは、勢いが優先しますからね。

目の前の欲望には抗しがたいのかもしれませんが、借りた金は返さねばならないのが、世の常。

一番怖いのは、一度リボ払いの習慣がついてしまうと、そこから抜け出すのは容易ではないこと。

それは、喫煙然り、飲酒然り、ギャンブル然り。

わかっちゃいるけど、やめられない。

頭ではわかっているが、気持ちが言うことを聞かない。

こうなると、聖書にもあるように、二つの主人に仕えることになります。

これは、苦しい状況です。

長期休みの前だからこそ、お金の管理を改めて考え直してみるのもいいのではないでしょうか。

自治会のごみ置き場清掃当番と今日の猫ちゃん

年に一度、当番が回ってくる、自治会のごみ置き場清掃。

で、先週と今週が、我が家の当番。

我が家と言っても、僕一人しかいない単身世帯のため、自治会の活動には、いろいろな制約が。

たとえば、もし今月が午前勤務だったら、ごみ置き場清掃は、午後になってしまいます。

やはりごみ置き場の清掃は、朝と、午前中回収車がごみを持ち帰ったあとにやるのがよろしいか、と。

まあ、ラッキーなことに、今月は午後勤務なので、支障なく、ごみ置き場清掃の当番をこなせるという寸法。

で、今日、早速ごみ置き場をチェックしに行くとき、僕の家の前に猫ちゃんを発見。


僕を見ても、逃げずにいてくれました。

で、ごみ置き場から帰ってきてから、アイフォンを持ち出して、パチリ。


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人に恐怖を植え付けるのは愛じゃない

その人は、片づけで有名になったこんまりさんにちょっと似ている女性でした。こんまりさんを、もう少し弱弱しくしたような人。

見るからに、日本神道系と言うか、巫女さんが似合いそうな人。

とてもやさしい人だったので、僕も好意的に見ていました。

ところがその彼女、だんだん顔つきが暗くなっていくのがわかりました。

そこで僕は、彼女が好きな神社に誘ってみたのです。いくつかの神社はパワースポットで有名です。

ところが、神社には行かないほうがいいと言われている、と彼女が言いだし、そこから話はおかしなほうに。


かいつまんで話すと、最近興味を持ち、勉強を始めたキリスト教の教会で出会った年上の女性に、神社に行くのはよくないと言われたとのこと。

彼女が口にしたその教会は、プロテスタント系で、そこの牧師とも僕は話をしたことがあり、礼拝にも参加したことがありました。

彼女に神社に行くな、と言った女性の名前を訊いたところ、案の定Rさんの名前が。

このRさん、いつも不満そうな顔をして、ヨハネの黙示録ばかりを強調している人だったのです。

どんな人でも、その人特有の雰囲気というモノがあります。もう少し精密に言うと、周波数、とか、波長、のようなもの。

で、そのRさん、周波数がとても雑なのです。刺々しいオーラを発散していて、上から目線。不幸な出来事にはすぐに反応するのに、他人の幸せは喜べないタイプ。

まさに、イエスの教えと真逆の人生を歩んでいるような人なのに、自分はクリスチャンだから最後の審判では救われる、と思い込んでいる人。

このRさん、家族仲も悪く、友達も少なく、経済的に豊かではなく、リアルな生活では少しも幸せではないために、ヨハネの黙示録の終末論にしがみつき、主イエスを信じれば救われるという安易なキリスト信仰に胡坐をかいて、他者を見下すという、ごく一部の 偏執的なクリスチャンに見られる性向をすべて持ち合わせていました。


このRさん、に比べて、こんまりさんに似た僕の知人女性は、いつも優しい柔らかい波動を出していて、たいがいの人に好かれる性格でした。

そうした知人女性に対する嫉妬、も、このRさんの中にはあったのだと思います。そして、自分の吐き出す言葉でうろたえるKさん(こんまりさんに似ている僕の知人女性)を見て、喜んでいるRさんの顔が容易に想像できた僕は、Kさんに次のような話をしました。


僕が見るところ、Rさんは、イエスの心の教えには興味がなく、ひたすら、ヨハネの黙示録をはじめとした、恐怖の予言のほうにしがみつき、そこに、自分の存在意義を見出しているように思える。

また、Rさんの心の中には、たえず不平不満が渦巻いており、その毒を吐き出す相手を絶えず探している。多くの仲間からは相手にされておらず、ちょうど聖書を学び始めたばかりのKさんは、彼女の格好の餌食にされた。

今Kさんにとって大切なことは、ハッキリと拒絶の姿勢を取ること。Rさんがいろいろなことを言ってきても、耳を貸さないこと。

クリスチャンの先輩は、Rさんだけではない。いや、僕が見るに、Rさんは、そもそもクリスチャンではなく、不幸の予言者、不幸の信奉者である。彼女は不幸が大好きなのだから(事実、そのような波長を出している)、好きにさせておけばよい。

だけど、Kさんが、そのRさんの波長に合わせて、不幸に落ちる必要はない。そんなことは、主イエスも、望んではいないはずだ。

そもそも、人に対し、恐怖を植え付けるのは愛じゃない。どんな聖書の理屈をこねくり回してきても、そんな言葉よりも、その人が普段、どんな態度で生きているかだ。

そこで僕は、ルカによる福音書の中の、良きサマリア人のたとえ、の話をしました。

<10:25>するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

<10:26>彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

<10:27>彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

<10:28>彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

<10:29>すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

<10:30>イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

<10:31>するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

<10:32>同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

<10:33>ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

<10:34>近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

<10:35>翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

<10:36>この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

<10:37>彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。



僕が言いたかったのは、クリスチャンであるとか、仏教徒であるとか、そんなレッテルはどうでもよい。良い波動を出し、親切な行いをするものが、イエスの隣人である、ということです。

少し説明をすると、祭司というのは、職業的宗教者なので、その必然として、自分は神の側にいると思っている人です。レビ人というのも、イスラエル十二部族の一つで、自分たちは選ばれた人間だという特権意識を持っていました。

一方、サマリア人のほうは、ユダヤ人からは異邦人と呼ばれ、蔑まれていました。

ところが、良い行いをしたのは、サマリア人のほうで、こちらのほうがイエスの隣人である、というたとえ話です。

このようにイエスは、さまざまなたとえ話を用いて、人々を教え諭しました。その点は、対機説法で、相手の機根に合わせて法を説いた仏陀と同じですね。

このサマリア人のたとえ話は、現代のクリスチャンにこそ、肝に銘じてもらいたい話だと、僕は思っています。

つまり、口先だけのクリスチャンは、イエスに、「あなたのことは知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるでしょうね。

一方、Kさんのように、いつも笑顔で優しく人に接している人は、それだけで徳がありますから、イエスに近いのです。

ヨハネの黙示録などよりも、マタイをはじめとした、共観福音書のほうが、心の糧になる教えが多いことも付け加えました。

ヨハネの黙示録などは、キリスト教初心者が下手に手を出すものではありません。おかしな、オカルトの方向に引き摺られていくのが関の山だからです。そして最も肝心な、イエスの教えのほうはおろそかにされます。

そして最後に、Kさんに、クリスチャンの中には高徳の人もいるから、そのような人と交わって、学んだほうが良い、と言い添えました。

そして、神社には、これまで通り、行っても良い、とも言いました。

たとえば、バイブルバブテストなど、厳格な聖書主義にのっとったプロテスタントでは、神社だけでなくお寺に行くことも良くない、と教えています。

まあ、プロテスタントもいろいろなので、おおらかな教会のほうがいいのでは、とも言いました。


気がつけば、今日は、イースター、つまり、復活祭。

クリスチャンにとっては、とても大切な日です。

僕は、クリスチャンではありませんが、ともに、主イエスの復活を祝いたいと思います。

ちょっとキリスト教の話になってしまいました。

まあ、たまにはいいか。

運命というのは、もしかしたら決まっているのかもしれない

これに対してはいろいろな意見があり、どの意見もそれなりに一理あるのですが、未だ僕の中で、こうだ、と断言できずにいるのが、運命について。

今現在の、僕のおおよその考え方では、生まれてくる前にある程度の人生計画は立ててくるが、生まれた後はいろいろな要素が絡んでくるので、そうそう計画通りに行かないこともあるし、概ね計画通りに進むこともあるという、不確定要素もかなりある、みたいな、考え方をしています。

たとえば、シルバーバーチなども、こうした質問は、降霊会で受けていて、だいたいは決めてあるが、そう細かなところまでは決めていないという、自由意思を尊重したものだったように思います。

僕は、シルバーバーチの教えであっても、はいそうですか、と簡単には納得しないので、一応自分で吟味します。まあそれは、何人かの教祖を妄信した過去の反省から来ているのですが。

で、今働いている僕のアルバイト先での面接のとき、工場側の課長と係長に初めて会ったのにもかかわらず、何とも言えない親しみのようなものを感じました。働いて9か月になる今も、それは変わりません。

何となく、昔から知っている人のように思えるのです。

どの時代かは明確にはわかりませんが、戦国時代かなあ、同じ藩にいて、ともに、外敵と戦った仲間のような感覚です。これは、ちょっと説明が難しい感覚ですね。

で、僕はいくつかの宗教団体を経験しているのですが、どうも僕は、それぞれの団体に所属すべきだった運命のようなものを感じます。

そして、それぞれの団体で、それぞれ学ぶべきこと、体験すべきことがあったのだ、ということを感じています。

だから、僕がかつて所属していた3つの団体について、恨み心はまったくありません。

つまり、その時の僕にとって、それぞれの団体は、僕の導き手であった、と思うのですよ。

それゆえに僕は、ダスカロスの言葉、「自分の人生こそが自分のグル【導き手】なのです」が、とても得心が行ったのですね。


その時々で、必要なグル、つまり導き手は、変わるのではないか、ということです。たとえそれが後になってカルト宗教であったとわかったとしても、そのときの自分には大切な教えであったわけです。

僕は、統一協会においても、幸福の科学においても、あるいは、幼少期から父の影響で信者になった、世界救世教においても、光体験というべきものを経験しています。

シルバーバーチが、ラベルを選ばずに指導する、と言っていることもうなずけます。

彼の言うラベルとは、共産主義などの主義主張や、民族、あるいは宗教団体、など、レッテルを張られたもののことです。

多くの人は、レッテルで人を判断します。まあ、そのほうが考えなくて済むし、楽ですからね。

たとえば、彼は共産党だから何々だ、彼女は在日だから何々だ、あいつは中卒だから何々だ、その人はオウムにいたから何々だ、みたいに、安易に判断を下し、レッテルを張って分類します。

しかし、レッテルを張られる前に、まずは、どの人も、一人の人間です。

その人間を見ずして、安易に人を決めつけるのは如何なものかと、昔から思っていました。

ただ、思い込みの強い人間には何を言っても喧嘩になるだけなので、僕はよほどのことがない限り静観していますが。

さて、僕の考えも固定したものではなく、今後も変化していくと思われますが、運命というモノは、大筋において、だいたい決まっているように、思っています。

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