僕は、自分が無名の平凡な一市民であることを、心から幸福に感じています。
さらに言えば、容姿もいたって平凡、身長はやや低め、50代後半、無職、こういうスペックだからこそ、どこに行こうが、注目もされず、放っておいてもらえます。
これが下手に、テレビなどに出ている人であれば、自意識がいやがうえにも過剰になるのではないでしょうか。
それって、疲れますよね。
何にせよ、疲れることは、僕は嫌いです。
体を動かして、生物学的に疲れるのは致し方ありません。その疲れが、心地よい眠りを誘引したりもするので、これは良い疲れです。
そうでない疲れ、くだらない精神的な疲れ、人間関係とか、諸々の、寝ても取れない疲れは、いただけません。
昨日は、行きつけの飯能の床屋に行ってきました。飯能に行くと、たいがい床屋に行った後は磯丸水産で、株主優待で昼を食べ、街をぶらつくのですが、商店街も、だいぶ、シャッターが下りていましたね。
ばあさまの歯が抜け落ちるように、点在する商店。
商店街を抜け、飯能河原に行きました。子供の頃、何度か遊んだことのある飯能河原も、平日の昼間は人影も疎らです。
飯能には、古い由緒ある家が点在しています。これが、川越のように蔵造の街並みで固まっていれば、立派な観光資源になるのですがねえ。じい様の抜けた歯のような点在では、いまいち弱いのですよ。
ま、しかし、そんな古い家を使って開いている銀河堂へ。

あいにく定休日だった銀河堂
ということで、丸広の丸善書店へ。
あ、丸広というのは、埼玉の地方デパートですね。そこの丸善書店は、本の数も、種類も多くて、楽しいのです。
まあ本当に、アマゾンのせいかどうか、書店数が減っていますから、丸善書店は貴重な存在です。
ということで、何の変哲もない一日だったのですが、僕にとってはそういう日常こそが、至福の時間なのです。
あ、飯能河原の写真も一枚アップしておきましょう。老人が、何人かいました。

僕もこれからさらに年を取り、毎日を平凡に暮らすのでしょうが、平凡な日常にこそ、喜びを見出している僕にとっては、まさにそのような変哲のない日常こそが喜びであり、幸福であるわけです。
人によっては、それを退屈だと思う人もいるかもしれません。
変哲のない日常を喜べる人は幸せです。それは、一つの才能でもあるでしょう。
ということで、つくづく、平凡で良かったと思う僕なのでした。
さらに言えば、容姿もいたって平凡、身長はやや低め、50代後半、無職、こういうスペックだからこそ、どこに行こうが、注目もされず、放っておいてもらえます。
これが下手に、テレビなどに出ている人であれば、自意識がいやがうえにも過剰になるのではないでしょうか。
それって、疲れますよね。
何にせよ、疲れることは、僕は嫌いです。
体を動かして、生物学的に疲れるのは致し方ありません。その疲れが、心地よい眠りを誘引したりもするので、これは良い疲れです。
そうでない疲れ、くだらない精神的な疲れ、人間関係とか、諸々の、寝ても取れない疲れは、いただけません。
昨日は、行きつけの飯能の床屋に行ってきました。飯能に行くと、たいがい床屋に行った後は磯丸水産で、株主優待で昼を食べ、街をぶらつくのですが、商店街も、だいぶ、シャッターが下りていましたね。
ばあさまの歯が抜け落ちるように、点在する商店。
商店街を抜け、飯能河原に行きました。子供の頃、何度か遊んだことのある飯能河原も、平日の昼間は人影も疎らです。
飯能には、古い由緒ある家が点在しています。これが、川越のように蔵造の街並みで固まっていれば、立派な観光資源になるのですがねえ。じい様の抜けた歯のような点在では、いまいち弱いのですよ。
ま、しかし、そんな古い家を使って開いている銀河堂へ。

あいにく定休日だった銀河堂
ということで、丸広の丸善書店へ。
あ、丸広というのは、埼玉の地方デパートですね。そこの丸善書店は、本の数も、種類も多くて、楽しいのです。
まあ本当に、アマゾンのせいかどうか、書店数が減っていますから、丸善書店は貴重な存在です。
ということで、何の変哲もない一日だったのですが、僕にとってはそういう日常こそが、至福の時間なのです。
あ、飯能河原の写真も一枚アップしておきましょう。老人が、何人かいました。

僕もこれからさらに年を取り、毎日を平凡に暮らすのでしょうが、平凡な日常にこそ、喜びを見出している僕にとっては、まさにそのような変哲のない日常こそが喜びであり、幸福であるわけです。
人によっては、それを退屈だと思う人もいるかもしれません。
変哲のない日常を喜べる人は幸せです。それは、一つの才能でもあるでしょう。
ということで、つくづく、平凡で良かったと思う僕なのでした。