介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

老子

永遠に終わらない迷いの森から抜け出そう



多くの修行者が、

迷い込んでいる森があります。

それが、

向上しようと努力する在り方。


これは、

最近まで、

僕も気づかなかったことですが、

一般的に言って、

向上心を持つことは良いことと、

されています。


しかし、

向上しようと努力を積み重ねる行為は、

土の時代、あるいは、地の時代には、

通用したのですが、

風の時代にはそぐわないのです。


理由を、言いましょう。


向上心を発露するベースとなる意識は、

「足りないという思い」です。

あるいは、欠けている、

という意識、です。


つまり、「ない、という意識」が、ベースにあり、

その欠乏感を埋めるために何かをする、

あるいは、

その欠乏感から出発した修行なわけです。


その意識の上に、

努力を積み重ねるのは、

永遠に終わらない迷いの森の中を歩くようなもの。

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まだ足りない、

まだ自分は至らない、

まだ修行が足りない、

足りない、足りないと、

焦り、

呻吟し、

さらに精進に邁進する、と。


修行し、

向上し、

成長したあかつきに覚醒に至ると、

思い込みたがるのが、

エゴの罠。


では、

真の覚醒とは何か。


それは、自分の完全性を思い出すこと。

完全な意識だった自分を思い出すこと。

それこそが、覚醒です。


だから、

努力を積み上げる修行では、

ベクトルが違うのです。


エゴは向上を焦り、

成長しようとする、

まだ足りない、

もっと成長しなきゃ、となり、

それが際限もなく続きます。


そして、

そうしたエゴが目指すのは、

人格者であり、

聖人君子のような人だったりします。


その目指すべき聖人君子と自分とを比べて、

落胆し、

自分はまだまだだ、となる。


ここに、深い罠があります。


覚醒とは、

もともと完全な意識だった自分の本質を思い出すことであり、

向上したり成長したりして辿り着くものではないんです。


そして覚醒への道は、

自分という存在のすべてを、

丸ごと肯定するところから始まります。


肯定から始まるのが覚醒への道で、

「ない」という意識をベースにして、

その欠落感を持ちながら向上しよう、

成長しようと悟りへの道を歩むのが、

エゴが好きなやり方です。


今の状況に不満があるから、

向上しようと思うわけで、

出発点が、

不満足感、

不足感なんですね。


一方、今の状況を丸ごと受け入れていたら、

向上しようなどとは思いません。


そして、風の時代の本当の修行、

まあ、修行という言葉自体が堅苦しいので、

ワークとでも言い換えましょう、

有効なワークは、

今この時のあり方を、

これはこれでオッケーだよね、と、

受け入れるところから始まります。


つまり、肯定が、ベースにあり、

そこから始まるのが、

自分の本質につながる道
なのです。


それが、

エゴを手放すことにもなり、

より高次の自分であるハイヤーセルフ、

あるいは、

心の奥深くに在る、真実在、につながり、

さらには、

それと、

一体化する道なのです。


真実在が現れるということは、

自分の中の完全性が現れるということです。


そこには、

焦りとは無縁の静かな境地があります。

魂の本質の静かなる喜びがあります。


どの瞬間も肯定し、

今にフォーカスして、

ニュートラルな意識であり続ければ、

自らのうちにある完全性が、

自動的に、

顕現してきます。


なぜなら、

それこそが、

最も自然な在り方だから、

です。


このことを、

老子は、

無為自然という言葉で、

表現しました。


その瞬間その瞬間を、

丸ごと受け入れて、

自らを慈しんでいると、

真実在の完全性が現れて、

より完全な状態が見えてくるようになります。


そしてその完全性の奥には、

さらなる完全性があるという、

奥深い道でもあります。


老子は、学を断てば憂いなし、と、言いました。

頭で考える修行では、

波動は重くなるばかり
です。


永遠に終わらない迷いの森から抜け出て、

軽やかな風の時代の生き方に、

ギアをアップして
いきましょう。



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僕は弱い人間です



僕が、自分は本当に弱い人間だなと気づかされたのは、

学校という温室から放り出された後でした。

人によってはもっと早く、

例えば学生時代にいじめにあうなどして、

自分の弱さに直面する人もいるかもしれません。


僕の場合は、概ね幸福な学生時代を送ったせいで、

社気に出てからの落ち込みのほうが多かったですね。


さらに言えば、一人っ子で、家庭内で兄弟間の葛藤もなく、

親の愛情にも恵まれていたため、

自分中心の世界観になりやすく、

自己肯定感は高いものの、

自分の相対的な立ち位置がわからないといった、

弱点はありました。


で、世の中に出て、当然のことながら凹にされるのですが、

自己肯定感が無駄に高かっただけにその落ち込みはひどく、

紆余曲折を繰り返しながら世間を漂流。


さて、昨日はコロナワクチンについて少し触れたのですが、

少なくともNHKは、公共放送を謳っている以上、

情報は偏りなく、流すべきだと思うのですよ。


コロナで何人死んだという報道は律儀なまでに繰り返す一方、

ワクチン後遺症で苦しんでいる人、

あるいは接種後、のたうち回って死んで行った人については、

殆どというか、僕の知る限り、報道していません。


ネットから情報を取りに行ける人ばかりではなく、

大半の国民は、受け身状態で生きています。

テレビ、あるいは新聞、この辺りが大方の情報源。

烏合の衆は、その情報に促されて右往左往。


僕は、ハンドルネームをタオにしているくらいですから、

老子が大好き。

今の、共産中国は嫌いですが、

古代中国の思想家は、

老子、荘子、孫氏、など、

生きる上での頼りとなる思想家も多い。

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老子を軸にして、

孫子の教えなどを上手く活用すれば、

この世知辛い世の中も、

何とか乗り切っていけます。


これを読んでくれているあなたよりも、

ずっと、社会不適合者で、

弱っちい僕が言っているのですから、

間違いありません。


陰謀論とかそんな軽薄な話ではなく、

自分にとって何が本当に大切なのかを知ることが、

コロナワクチンをはじめとする偏向報道の向こうにある、

闇と真実を見極めることにも、

役立つと、思っています。





 

年金受給者の家賃負担の重さ



昨日は、図書館の有効活用などに言及したように、

エンタメ系の支出というのは、

実は、限りなくゼロに持って行けるのです。


ところが、人間は、

住むところと食べるものだけは、

削るにせよ、限界があります。


住むところがあって、食べるものがある。

これが基本であるのは、動物と同じ。


動物は、ねぐらがあって食べ物があれば、

あとは、天敵に襲われなければ、

それで不満はありません。


人間だけが、

あーだこーだと不満を垂れる。


だから老子は言うのです。

小欲知足。

欲を少なくして、

足ることを知って生きようね、と。


そうすれば、平安が得られます。


その、生活の大前提である住居費である家賃が、

老後生活の負担になるのは明らか。


年金生活者は、

まずはこの家賃、

あるいは持ち家であれば、

維持費などを、

いかに抑えるかがキモ。


年金受給者の、

家賃負担の重さはあなどれないし、
 
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高齢者には部屋を貸さない大家も多い。


住むところの確保こそが、

年金生活者の最重要課題なのだと、

思っています。




水は低きに流れ、人は易きに流れる



年を取ってからでも学び続けたほうが良い理由の一つが、

心身における健康寿命の維持のため。

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体の健康も大事ですが、心の健康も大事ですからね。

「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

とは、佐藤一斎の言葉ですが、

小泉純一郎が、彼の知名度を上げましたね。

 
老いて学べば、則ち死して朽ちず

生涯学び続け、生涯楽しみ続ける。 

僕も、そうありたいと、思っています。


あ、ちなみに今日のタイトルは、孟子の言葉、から。

孟子といえば、

僕の尊敬する吉田松陰先生も、

学んでいたほどの思想家。


でも、なまけものの僕は、




老子や荘子のほうが、

好きですけどね。




柔弱不争で静かに死んでいきたいのです


喧嘩っ早かった自分が、ほとんど怒らなくなり、軽挙妄動する自分が、多少は穏やかに物事を見つめられるようになり、近視眼的だった自分が、少しは遠くを見られるようになったのは、運命そのものに、導かれてきたから、としか、言いようがありません。

というのも、いかに自分が愚かで、頭が悪かったかは、このブログでも多少は披露していますが、かなり桁外れの馬鹿者であったことは、事実で、10代20代30代40代と、それぞれ、質の違う愚かさと、共通する愚かさを持っており、50代で、いくらか、人並みの理性を持つに至ったように、思います。 

転職も多かったのですが、それ以上に、精神の旅は、思いだすだに、興味は、尽きません。

自分の人生が、なぜ、そんなに、面白く思えるのか、不思議ではありますが、ここを見つめ直すことが、今の僕の、最大の関心事、なのですよ。

どんだけ自分が好きで、自分中心のナルシストなんや、との批評も、意には介しません。

僕が知りたいのは、僕の人生が、どのようにして僕を導いてきたかの再確認を通して、生まれてくる前の僕自身の人生計画の全容に迫りたい、のです。

で、ここでいう僕自身とは、今、こうしてブログを書いている僕よりも、もっと純度の高い僕、のことです。

その僕、仮に、真我とでも呼んでおきましょう、その真我の視点に立って、今の僕を見たら、より、自分の立ち位置が明確になると、思うのですよ。

そして、自分の立ち位置が明確になれば、今後進むべき道筋も、より明確になるのではないか、と、思うのですね。

まあ、大袈裟な言い方をすると、人生の定期点検、みたいな、モノでしょうか。

で、そうした内省的な気持ちと同時に、今、僕が、深めたいと思っているものが柔弱不争。

老子の言葉で、柔弱謙下、とか、柔弱不争、は、瞑想に入りやすいキーワードのようなもの。

老子、自体が知恵の宝庫ですが、老子以外にも、向き合いたいものがいくつかあり、やはり、アルバイトなど、している場合ではない、と、感じます。

労働も尊いが、もう初老の僕には、残り時間を視野に入れながら、時間を、より価値のあるものに傾斜配分していく必要があるのです。

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死ぬときに無一文でも、心が充実し、悔いがなく、こんな素晴らしい境地にまで、よくぞ導かれたものだ、という実感の中で、静かに、死んでいきたいのです。

苦しい時は逃げていいし、逃げなきゃダメなこともある


逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ、と、かつてノストラダムスは言った。

僕は言う。

逃げよ逃げよ、すべてのブラック企業から逃げ出せ、と。

今朝、テレビをつけたら、電通で過労自殺した高橋まつりさんのお母さんが出ていた。まだ、50代で僕より若い。

それなのに、最愛の娘をなくし、今もその悲しみを抱えたまま生き、活動している。


彼女は、過労死がなくなるような活動をしていて、その彼女のもとには、企業で働く若者から便りが寄せられているようだ。

母子家庭なのに、母が苦労して大学まで出してくれた、だから苦しくても会社を辞められない、でも、苦しい、そんな手紙が寄せれれているようだ。

親思いのいい子ほど、親の苦労を考えたりして、ブラックな会社でも頑張ってしまう。

置かれた場所で咲きなさい、などという言葉を、狡猾に利用されることもある。

置かれた場所で咲きなさい、を書いたシスターも、理不尽な環境で耐え抜け、などという意味で書いたわけではない。

親鸞の悪人正機説にしろ、悪い奴が狡猾に利用すれば、善人は騙される。


主イエスの言葉も同じだ。

都合の良いところだけ抜き取られ、カルト教祖に利用される。


孔子の言葉なども、権力者にいいように使いまわされている。


その点、老子の言葉は、悪用されることは、ない。

タオは、道であり、無用の用を説き、付け入る隙がない。


真理とは、常に単純素朴であり、誰にでも理解できるものだ。


主イエスの教えも老子の教えも、シンプル極まりない。
そして、シルバーバーチの伝える真理もまさに同じだ。

宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。


祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです
そうでないと神の公正が根本から崩れます

うーん、僕も、いくつかの宗教団体の中で、自分たちこそ真理を知っている選ばれた人間だと思い込み、スピリチュアルエゴに陥りながらそうと気づいていない人間を、いやというほど見てきました。

何より僕自身が、その、スピリチュアルエゴの塊のような人間でした。

スピリチュアルエゴの思考の枠の中にいたら、そこから抜け出すのは、容易ではありません。

それは、僕自身の体験からも、よくわかります。

思考ではなく、気づき、が、覚醒をもたらします。

そしてその気づきは、単純素朴なものです。

なんだ、そういうことか、と、幼子のような気持でわかる、感じです。

宇宙の理法、真理というものは、一つの団体が独占できるものではありません。

それは、公正にして無私であり、法則として働くからです。

だからこそ、スピリチュアルエゴに毒された神を信じると称する信者よりも、往々にして、彼らが蔑む唯物論者や無神論者のほうが、はるかに霊格が高かったりするのです。

ブラック企業にしろ、宗教団体にしろ、苦しいと感じたり、疑問を感じたら、このあり方でいいのかと、一度距離をとる。

そして、逃げたほうがいいと判断したら、
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躊躇なく、全力で、逃げる

それが、大切だと、思います。

令和初日の墓参り、令和は霊和に通じる

令和初日は、晴れていた午前中に、墓参りを済ませました。

まずは、墓石の周りの草を抜き、墓石周りを濡らしたタオルで清掃。

その後、線香をあげて、4人の家族のことを想いました。

その墓には、生まれてすぐになくなった僕の弟、僕が16歳のときに他界した僕の実母、そして、3年前に他界した父、去年亡くなった母、が眠っています。

まあ、眠っていると言っても、すでにその霊は、霊界に行っていて、そこには遺骨しかありませんが。

今、改めて思うに、僕は今、60歳。平均年齢まで生きるとしても、あと20年ほど。父と同じくらいまで生きるとしても、30年ほど。

いずれにせよ、そう長い時間が残されているわけではありません。

そう思うと、この世の憂いはほどほどにして、実在界、あるいは霊界の、視点に立って、改めて自分の人生の今後を見定めるべきであるとの思いを強くしています。

そこで昨日は、もう何年も前に読んだ本、オーエンの「ベールの彼方の生活」、を取り出して、再読を始めました。全4巻からなるこの本は、コナン・ドイルも激賞する霊界本です。


また、このブログでのコメントを通じ、スマイルサンさんから教えていただいたダスカロスの本、2冊も、4月末に入手し、読み始めています。


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ダスカロスはその生き様からして本物の覚者であり、まさに、組織宗教を打ち砕く先駆けとなった先覚者だと思います。

シルバーバーチも、繰り返し、組織宗教はすべてダメであると明言し、その理由も明確に示しているように、今後、いかなる組織宗教も、衰退の一途を辿っていくことでしょう。

この流れは、もはや止められないし、止める必要もありません。

まさに令和は、霊性の時代の幕開けです。

その意味で、令和は霊和でもあろうと、思います。

この地上から、宗教組織が無くなることが、天の願いです。

それは、公明正大な実在の世界である霊界が、宇宙法則でもある唯一の神を中心とした秩序が行き渡っている世界だからです。

その秩序を、この地上世界にも、もたらすことが、天の意志です。これは神の経綸でもあり、摂理でもあります。

宇宙法則により統治する神は、旧約聖書で描かれるような独善的偏執的な神ではありません。男でも女でもなく、宇宙意識とでも呼べるような存在です。

それは、シルバーバーチが、大霊と呼ぶ、えこひいきのない存在です。法則による支配なので、えこひいきが発生する余地はありません。

自分が蒔いた種は、自分が刈り取るのです。

誰かが十字架にかかって、その血のゆえに罪が許されることはありません。また、カルト教祖も、宇宙法則を免れることはできません。

公明正大な法則が、この全霊界、全宇宙に、張り巡らされています。

まさに、老子のいうところの、天網恢恢疎にして漏らさず、です。

だからこそ僕たちは、この宇宙法則に信頼を寄せることができるのです。

カルト教祖のエゴに苦しめられてきた僕だからこそ、シルバーバーチの説く大霊、法則を通してこの全霊界、全宇宙を支配する真実の神に出会ったときの喜びは、筆舌に尽くしがたいものがありました。

そのときから、カルト教祖のいかなる言動も、僕にとっては無力となりました。

組織宗教の寿命は、そう長くはありません。おそらく、数百年ののちには、この地上から、組織宗教はなくなっているでしょう。

組織宗教はなく、素朴な霊界知識が当たり前のように公認されている世の中に、なっているでしょう。







人類の歴史はまだ日が浅く、未熟者の集まりではありますが、少しずつ、世界はよくなっています。

3歩進んで、2歩下がっても、1歩は、前に進んでいるから。

そんなことを繰り返しながら、少しずつでもましになっていく人類。

そう、思います。


なぜ僕は、幸せなのか

僕は、「なぜ、今、自分が幸せなのか」を、考えてみました。

そして得た自分なりの結論は、自分の望みがかなわなかったからこそ、この今の心境に至ったのだ、という逆説的なものでした。

わかりにくいですよね。

では、以下の詩を味わってみてください。


大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった

偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことをするようにと、病気をたまわった

幸せになろうと、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった

人生を享受しようとしてあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

求めたものは一つとして、与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた

私はもっとも豊かに祝福されたのだ


これは、作者不明の「グリフィンの祈り」と呼ばれているもので、アメリカのある病院の壁に、ベトナム戦争の帰還兵が書き付けたものと言われています。

作者が不明というのが、ますますいいですね。

僕は老子が好きなので、この詩に、道、すなわち、タオを、感じます。

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僕のことに話を戻すと、僕はやりたい仕事に就くことはできませんでした。

そしてまた、結婚したいと思った女性と、一緒になることはできませんでした。

仕事と恋愛、あるいは、仕事と愛、と言ってもいいでしょうが、人生におけるかなり重要な二つのことが、不如意に終わったわけですね。

仏教的に言うと、求不得苦、すなわち、求めても得られない苦しみ、です。

で、それは確かに、当時としては苦しかったのですが、人生は奥深いのですよ。

欲しいものが得られなかったからこそ到達しえる境地というものがあるのです。

別に僕は、悟りをひらいた聖人でもないし、ただの凡夫なわけですが、僕は、負け惜しみではなく、欲しいものが得られなくてよかったのだ、と、今は実感しています。

ここは説明が難しいし、もしかしたらその必要もないのかもしれませんが、人生は本当に奥が深いのだな、とは、思っています。

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