落ち着いた大きな心、平安に至る道は、いくつかありますが、その一つが、仏教思想の中にあると、僕は思っています。

今日は、その仏教思想の中核をなす四無量心を、取り上げてみたいと思います。

ちなみに、無量とは、量ることができない、ということ、あるいは、量ることができないほど多い、という意味ですね。

で、その四無量心とは、慈悲喜捨のこと。

慈、とは、足ることを知って貪らず、他者の幸福を望むこと、です。

悲、とは、 他者への同情心、とでも言えばいいでしょうか。

喜、とは、妬みを超えて、他者の幸福を喜ぶこと、です。

捨、とは、差別をしない平静な心を維持すること、です。これは、他人が自分に向ける悪意に対しても、無頓着であること、も意味します。

あっさりとした説明なので、なんか、慈と喜は同じじゃね、と、思えるかもしれません。

そこで、別の側面から見てみると、

慈、は、貪りの克服、であり、

悲、は、冷淡さの克服、であり、

喜、は、妬み心の克服、であり、

捨、は、怒り心の克服、でもあるでしょう。

この、四無量心を培うことにより、落ち着いた大きな心に至る、ということですね。

慈悲喜捨のうちの、慈悲、は、他に喜びを与え、苦を取り除く、という意味で、抜苦与楽、とも言えます。

健やかに生きるためには、必要以上のものを求めない、という生き方そのものが、すでに、四無量心の第一、慈、なる生き方の始まりになります。

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このような仏教的な幸福感の対極にあるのが、一般的な幸福感です。

その理由は、自分が今よりも多く、そして、他者よりも多く、を得ることが、一般的には幸福なことだと、思われているからです。

ただ、この他人よりも多くを得たいという欲望に導かれて、首尾よく多くを得る喜びを得たとしても、その裏側には、得たものを失う苦しみがあります。

また、そもそも、得たいと思っても得られない、という苦しみもありますね。これは、四苦八苦のうちの、求不得苦とも言われる苦しみのことです。

一般的な幸福とされる、今よりももっと、そして、他者よりももっと多くを得ることは、その瞬間の喜びはあるものの、同時に、失うことを怖れる苦しみ、そもそも得ることさえできない苦しみ、そして、他者と奪い合う苦しみ、をはらんでおり、これを、仏教では、苦の裏には楽があり、楽の裏には苦がある、と言います。

つまり、苦楽は表裏一体である、ということですね。

このように、楽の裏には苦があるという生き方は、どうしても、不安定にならざるを得ません。

そして、常に自他の対立があるので、心の広がりも妨げる結果になります。

つまり、不安定で広がりのない心に、束縛された日々を送ることになります。

しかし、学校教育で教えていることは、他者との競争であり、優劣を競うことです。

そして、その中で劣等感や優越感、卑屈な心や他を見下す心が、雑草のように蔓延っていきます。

求めても求めても、得ても得ても、満足できない心、それこそが、貪りの心、です。

しかしこの心が向かう先は、他者との諍いであり、どんなに能力のある人でも、勝ち続けることはできません。

そして、どんなに多くを得たとしても、老いと、病と、死が、その先には待ち受けています。

つまり、一般的な幸福とされているところの、今より多くを求め、他者より多くを求めるという生き方は、得たとしても失う、そもそも得られない、他者と奪い合う、という、非常に不安定な生き方である、ということ。

そして、そのような生き方は、人生の後半になるほど、不利になり、苦しみが増すことになります。

その点、四無量心を土台にした生き方であれば、足ることを知って生きるので、その心は安定しており、年を取るほど、その安定感と平安は不動のものになっていきます。



僕自身、貪りの心や怒りの心に、ずいぶん苛まれてきました。今でも、そうした心がまったくないとは思っていません。

ただ、感情や揺れ動く心が自分だと思っていたころは、その主観から離れられず、苦しみが尽きることはないのですが、感情や心、思考といったものは移ろいゆくもので本来の自分ではないと気づいたときから、心に安らぎが生じるようになりました。

主観べったりの自分、と、それを客観視する自分の間に、心地良い空間、スペースが生まれ、それ以降、聖書の中のイエスの言葉や、仏陀釈尊の言おうとしていた四法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦)などが、無味乾燥なものではなく、生きた言葉として感じられるようになりました。


今日は、四無量心を土台とした落ち着いた大きな心の幸福と、今より多く他者より多くを求める一般的な幸福を、初歩的なレベルで比較してみました。

簡略な考察ではありますが、生きる上でのヒントになれば、嬉しい限りです。