介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

シルバーバーチ

カルト信者の認知の歪み(ゆがみ)についての考察



安倍さんロスの痛手は、未だ多くの人の心に、

多大なる苦しみと悲しみを与えたままです。

僕も、その一人です。

悲しんでばかりもいられず、

また、食べていかねばならないため、

先週の21日に、3つ目になるアルバイトをスタート。


しかし、その初日に熱中症になり、

3日間も寝込むことに。

ブログを書くどころでは、ありませんでした。


そして、日曜日頃には回復してきたので、

アルバイト先に電話し、一日でやめることを告げました。


なので、3つ目のアルバイトの話は、消えました。


本当はそうしたことを綴るのが、

このブログの趣旨なのですが、

今は、このカルトの問題を放置しておけず、

統一教会をはじめとしたカルトの話題が続きますが、

ご理解ください。


僕自身が、統一教会の食口(シック)として、

専従生活を送ったのはわずか2年間ですが、

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その2年間の息苦しさ、閉塞感、兄弟姉妹たちとの心情的高まり、使命感に生きる生活、自己矛盾、自家撞着、などなど、その凝縮があって、その後の廃人生活、塗炭の苦しみ、闇の中の呻吟、そして、そこからの解放、へとつながっています。


カルト信者の思考を理解する手助けとして、

バーンズが取り上げている、10のパターンは参考になるかと思います。


もし、不幸にして、家族の誰かがカルト教団に絡め取られた場合、

その洗脳を解く手助けになると思います。 

以下が、その10のパターン。


1. 全か無か思考 all-or-nothing thinking

物事を極端に白黒つけたがり、オール・オア・ナッシング、○×思考で考えることです。

たとえば、就職試験に落ちたときに「社会人としての価値がない」と考えたり、何かの失敗をしたときに「次に失敗したら、もう終わりだ」と考えたりするような、完璧主義的な発想です

2. 一般化のしすぎ overgeneralization

何か悪いことが起こったときに、それがまた起こるに違いない、それが起こる運命なのだ、というように一般化して捉えてしまうことです。

3. 心のフィルター mental filter

考えることがネガティブなことばかりで、「マイナス」のフィルターを通して物事を見ていることです。

たとえば、ニュースの事件を見るたびに「世の中、どんどん悪い方向に向かっている。もうこんな世の中、誰も信じられない」「もう日本の経済はダメだ」というように、悪い方向にばかり受け取ってしまう状態です。


4. マイナス化思考 disqualifying the positive

良いことや何でもないことを、悪いことにすり替えてしまうことです。


5. 結論の飛躍 jumping to conclusions

事実とは違うのに、悲観的な結論に飛躍してしまうことです。これには、次の2種類があるとバーンズは述べています。

A 心の読みすぎ mind reading

人の態度や言葉を、悪い方に深読みしてしまうことです。

たとえば「今日のファッション似合ってるわね」と褒められているのに、「口では褒めてるけど、内心馬鹿にしてるんだろう」「お世辞を言ってるな。何かの魂胆があるに違いない」と悪い風に捉えてしまうことです。

B 先読みの誤り the fortune teller error

これから起こることが不幸なことばかりだと信じ込んでしまうことです。



6.拡大解釈と過小評価 magnification and minimization

悪い面ばかり大きく捉え、良い面をあまり評価しないことです。



7.感情的決めつけ emotional reasoning

感じていることが、真実であるように考えてしまうことです。

たとえば、「みんなに無視されているように感じる。やっぱり私は嫌われているんだ」「いつも悪い風にばかり考えてしまうのは、性格が悪いからだ」というように、感じたことがそのまま真実とイコールであるように考える場合がそうです。


8.すべき思考 should statements

「~しなければならない」「~べきである」と考えて、追い込んでしまうことです



9.レッテル貼り labeling and mislabeling

根拠もないのに、ネガティブなレッテルを貼ってしまうこと

たとえば、1つの失敗をしただけなのに「あいつは無能人間だ」と決め付けたり、なかなか結婚相手が見つからない自分に対し、「私は『負け犬』だ」と悪いレッテルを貼ってしまうようなこと



10.個人化 personalization

良くない出来事が起こったときに、何でも自分のせいにしてしまうことです


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バーンズは、認知の歪みについて述べているだけで、

とりわけカルト宗教をターゲットにしているわけではありません。

それでも何故か、見事に、この認知の歪みが、

カルト宗教の信者に当てはまってしまうのです。


やたらと自分の教団の正しさを主張するところは、特に危険です。

自分たちの正しさを強化するには、強烈な敵が、必要だからです。

敵が強力であればあるほど、信者は危機感を持つし、真剣にもなりますからね。


敵役として多用されているのが、サタン。

サタンは、キリスト教的概念ですが、

単に、魔、という言葉を使う教団もあります。

あるいは、敵も宇宙的広がりを見せ、悪質宇宙人、などの異星人や、

宇宙的悪魔が登場する場合もあります。


いずれにせよ、敵が強大であればあるほど、緊張感が増すし、

無意識のうちに自分たちの偉大さも感じられますからね。


これは、無自覚であるほど、顕著です。

そもそも、カルト教団に嵌まっている時点で、

自覚的ではないわけですからね。


上記10のパターンすべてを解説していくと膨大な量になるので、

顕著な例として、一つだけ、取り上げます。

これは、僕自身もそうだったので。


7.感情的決めつけ emotional reasoning

感じていることが、真実であるように考えてしまうこと


僕は、かなり霊的に感じるタイプだったので、

まさに、感性で信じ、実感して確信を持つパターンが多かったのです。

事実、多くの信者に、この傾向がみられました。

自分の感覚を信じて疑わないタイプで、

女性信者に多いのですが、男性信者にも散見できます。

このタイプが厄介なのは、

本人が実感を伴って確信しているので、

どれほど、事実を突きつけても、

まともに見ようとはしません。


自分の見たいものしか見ない、典型例。


センサーが、自分に心地良い、

自分の信仰生活に都合の良い情報だけを、

自動的に選び取っているので、

何を言っても無駄、です。


この、感性タイプの信者は、

自分に都合の良い信仰生活を生きているので、

小さなお花畑の中で、自己充足していると言えます。


で、教団の目指す理想世界、ユートピアが、実現することはありません。

つまり、信者は、実現することのない幻を目指して、

自分の時間とお金を捧げる、と。


そして、年だけは、確実に取っていきます。


今、多くのカルト教団で、信者の高齢化が問題になっていますが、

二世信者というのは、親の信仰を引き継ぐ割合が少ないのです。


やがて、カリスマ性のあった初代教祖がなくなると、

大半の教団は、分裂します。


それは、誰が後を継ぐにせよ、

初代ほどのカリスマ性はなく、

一方で、宗教法人は無税なので、

その集めた巨額の金をめぐって争いも起こるからです。

権力欲、金銭欲、支配欲は、教祖とその家族だけでなく、幹部連中にも浸透していますから、中心的カリスマ亡き後の分裂は、自然の流れ。


シルバーバーチが、すべての宗教組織は清らかさがない、と断罪している所以です。


組織が、人を救うのでは、ありません。

あなたの心が、

あなたを救うのです。



裸の王様とウクライナの子供たち



ロシアのウクライナ侵略で苦しんでいるのは、

ウクライナ国民だけでなく、大半のロシア人も一緒。

そしてまた、ロシア兵の大半も、

苦しみと葛藤の中にいるのではないでしょうか。


裸の王様プーチンは、今、世界で一番孤独な人間。


因果の理法という宇宙法則があります。

また、天網恢恢疎にして漏らさず、という言葉があります。

プーチンは、自らの行いに対する反作用を、

免れることはできません。

他者を脅しで屈服させることができたとしても、

宇宙法則が、彼に反作用を与えます。


「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」
ローマ12:19



ここで言う私とは、神である宇宙法則のこと。 

宇宙法則であるがゆえに、

天網恢恢疎にして漏らさず、で、

万人に作用します。


もし、神に依怙贔屓があるならば、

僕たちは、そのような神を信頼することはできません。

分け隔てなく、法則として働くから、神、なのです。


その神をシルバーバーチは大霊と呼んでいます。

その大霊が、宇宙法則として、

この宇宙を統べているという事実。

だからこそぼくたちは、安心していられるのです。

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信仰というものがあるとすれば、

それは誰か特定の個人を神としてあがめることではなく、

大霊が統べる宇宙法則を信頼し、

因果の理法を道理としてわきまえて、

道に則った生き方をすること、

それ以外の信仰を、

僕は知りません。


その信仰であれば、

宗派の違いを乗り越えて、

人類が、互いに進化向上をしていけると、

思っています。


ウクライナでは、この戦時下でも、

子供が生まれています。

そうした子らが、

すこやかに育つように願い、

歌を送ります。



大霊は依怙贔屓しません。

自分自身を信じてください。




咳をしても一人、死ぬときも一人



ムラサキさんとのコメントのやり取りを契機に、改めて孤独について考えてみました。

実は僕は、ときどき、息苦しいような孤独と虚無を感じることがあります。

そんな時は、人間存在、というものと向き合うとき。

死というゴールをもって無に帰す命ならば、 何をしても空しい、と。


これは、若い頃からある感覚で、だからこそ、仏教などにも興味を持ったのだと思います。

仏教の基本は諸行無常であり、常なるものはない、ものごとは絶えず変化する、というもの。

それは、虚無を感じる教えであると同時に、執着から離れることもできる教えでもあります。


浅く考えると、どうせ死というゴールがあるのだから、欲望のままに生きて、せめて生きているうちは快楽を貪ったほうが良いのではないか、ととらえる人もいますが、苦楽は表裏一体というのも、また仏教の教え。

まあ、仏教の話で終わってしまってはつまらないので、孤独について話を戻すと、孤独は克服するものではなく、上手く付き合うものではないか、と思うのです。

どう転んでも、人は孤独です。

ならばむしろその孤独を避けるのではなく、向き合ったほうが良い、と。

自分も孤独だけど、本当はすべての人が孤独である、と。

ただ、同時に、その孤独と向き合うことの先に、人類共通の意識、なるものがあるように思っています。

その意識を探求するのが、哲学であり、宗教なのかもしれません。


僕は、天涯孤独者として生きていて、深夜に寝床で咳をした時など、孤独の咳の音を聴きます。

そして思うのです。

俺は、あと何年生きるのだろう、と。

それは、数年かもしれず、10年かもしれず、30年かもしれませんが、

確かなことは、死に向かって日々生きているということ。

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僕は、程よい田舎町に住んでいるので、他人様の家が目に映りますが、ポツンと一軒家、などで見るような、山の中で年寄りが一人で住んでいる姿などを見るにつけ、自分にはああいう生活は無理だなあ、と思います。

あんまり過去記事をさかのぼるのも難しいのですが、今年になってから孤独について書いたものはあっただろうかと思い、探してみました。


僕が寂しさを感じた時のこと






上記の記事などは、孤独を書いたものかもしれません。

事程左様に、僕も、孤独です。

そして多分、これを読んでいる人も孤独なのかもしれません。

たぶん人類全員が孤独であり、

同時に何かでつながっている、

という感じでしょうか。

孤独だからこそ、小さな自分を何かに仮託して、

一体感を求めているのかもしれません。

今、オリンピックをやっていますが、日本が勝つと嬉しいことの一つは、

やはり自分のアイデンティティの一部分を、日本に仮託しているからでしょう。

戦争中の、靖国で会おう、という言葉も、この命は国のために捧げるが、

より大きなもののために散る命、だと思って死んで行ったのかもしれません。

僕は、3つの宗教団体を経験していますが、程度の違いこそあれ、

やはりその団体の教え、さらに言えばその教祖に、より上位の仮託先を見出し、

それを、信仰という言葉で糊塗して、安心していたのだと思います。

確かにそれは、一時的な安心を得られはしますが、

様々な矛盾や自家撞着には蓋をしたままの状態で、

真の安心立命ではありませんでした。


今は、特定の団体に属すとかいうことはなく、

宇宙意識とでも言うほかはない、法則によって統べる神、

まあ、それを神と呼べばの話ですが、

そのような存在としての神への信仰はあります。

シルバーバーチは、大霊と呼んでいますが、

法則としてこの全宇宙を統べる存在に言及しています。

シルババーチについては、スピリチュアルな話カテゴリーの中で、

かなり書き込んでありますので、参考にしてもらえれば幸いです。


おそらく僕が、何とか孤独と付き合っていけるのは、

今、親から貰った名前で生きているこの自分以上の、

より本質的な自分、自己は、この肉体の死後も不滅であり、

本来的な意味では死ぬことのない存在であることを、

信じている、

あるいは、

信じようとしているから、

なのかもしれません。


その必然として、この世は旅の途中であり、

主イエスの言葉、

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」が、

腑に落ちるのです。




長くなったので、今日はここまでとします。





沈黙や調和や愛のなかにいるとき


今日も朝から雨で、このような雨の月曜日に出勤するサラリーマンは、なかなか心が晴れることはないかもしれません。

昨日、都知事選の投票がありましたが、コロナの感染者は連日3ケタ台が続いており、そうした中での雨の日の出勤は、月曜日ということもあり、長い一週間を想ってため息をつくサラリーマンの憂鬱な顔。

僕自身、憂鬱だった時期も長く、山あり谷ありのサラリーマン生活でした。

昨日の記事でいただいたコメントは、まるで小説でも読んだような、そんな映像の浮かぶ内容だったのですが、そのコメントを書いてくださった凪子さんが、言及していた二つの曲を、今日はアップして、僕も、子供の頃に思いを馳せたいと思いました。

まずは、吉田拓郎の、夏休み。



吉田拓郎や井上陽水は、僕が中学生の頃に、ある友だちの影響を受けて、良く聴いていました。

 中学卒業後は、別々の高校になり、それ以降付き合いはなくなってしまったのですが、もうずいぶん大人になってからのことですが、若くして彼が死んだことを知りました。

体格の良い男だったので、その若すぎる死があまりにも意外でした。

幼馴染みも、もうすでに何人か他界しており、人の寿命というものはいつ尽きるかわからないものだと、自分にも言い聞かせています。



少年時代や少女時代の思い出は、誰にでも、あると思います。


今日も、どんよりとした空で、天涯孤独無職の僕にはうってつけですが、被災地などは、また雨が続くと復興も手間取るのではないかと、心配もしています。


今日は、最後に、シルバーバーチの言葉を紹介します。

 あなた方の魂が常に進歩していくのは、沈黙や調和や愛のなかにいるときなのです。その進歩は遅いかもしれませんが、間違いはなく、確実です。

千変万化の地上生活ですが、永遠の死後の生活のための準備期間であり、霊性を高めるためのまたとない機会でもあります。

そう思うと、この世の苦しみの受け取り方も、変わってくるのではないでしょうか。


ただでさえ人を見る目のない僕なのだから


アトランティスは、ギリシャの哲学者プラトンが、彼の著作の中で語ったことが始まりです。

で、プラトンというネームバリューと、アトランティスという島に対するロマンから、その後、実に多くの人が、このアトランティス幻想とでも言うべきものに魅せられてきました。

まあ、それ自体は、夢があって楽しいのですが、その幻想に乗っかって、人が、あらぬ方向に誘導されるとしたら、それは、あまりいいことではありません。

僕が、8年ほど前に、幸福の科学を退会した話はすでに何度かしていますが、その退会前には、いくつもの疑問が生じていて、その一つが、まさにアトランティスをはじめとする古代大陸の話。

幸福の科学の総裁である大川隆法氏によれば、アトランティスは、海中に没したとされています。そして、その頃に、アトランティスにいたのが、アガシャーという王で、彼は、イエスキリストの、過去世の一人、とされています。確か、生き埋めにされて殺された、とか、そういう話だったと思います。

で、大川さん自身の過去世も、トスという名の大導師としてアトランティスの最盛期を導いた、とされています。

イエスキリストの過去世のときは失敗が多く、大川さんの過去世のときは毎回繁栄した、とされているのが、面白い点。ムー大陸のときは、ラムーとして、最盛期を導いたとされています。

で、以前の記事でもどこかで書きましたが、今は、海底の様子もかなり明らかになっているので、そうした大陸が沈んだ形跡はどこにもないことが判明しています。

そもそも、ムー大陸という名前自体が、言い出しっぺのチャーチワードの誤読から始まっていて、このチャーチワードも、自分の経歴を偽っている信用のおけない人間ですから、大川さんに限らず、ムー大陸話は、すべて妄想だと判断しても良いと思います。

仏陀釈尊が、最も戒めたのが、妄想の類い。

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寄る辺なき子さんが、最初にコメントしてくれたのが、確か、太陽の法の書き換えで、不信感を持ったというような内容だったと思いますが、その太陽の法の中にも、人類誕生に関する変な記述があったと思います。

九次元パワーの総力を挙げて地上に物質化現象を起こしました。まずは蜃気楼のような透明なゆらめきが地表に現われ、次第に人の影のように見えはじめ、最後には、白く輝くばかりの肉体が出現しました。(中略)初めての人類が、五人、十人、百人、そして五百人と、続々空中より出現した時、彼らを二つの集団に分け、右半分の集団には、金星人の智慧と勇気の光を投げかけ、左半分の集団には、同じく金星人の優美さ、優雅さの性質を帯びた光を投げかけました。こうして人類の男性と女性が分かれました。

つまり、物質化現象を起こして、人類を誕生させた、と。

会員だった頃には、抵抗もなく受け入れていたのですが、素朴な疑問を持って以降の3年間の検証期間中は、こうした記述に対しても、吟味していきました。

当時の僕は、まずは、自分自身への反省から始めました。

自分は思い込みが激しく、熱中しやすい人間である、と。それを、いのしし年で、猪突猛進だからと、それを半分言い訳に、半分そんな自分を美化もしていたのだ、と。

そして、ただでさえ人を見る目のない自分なのだから、もう、可能な限り思い込みは排除していこう、と。

そうは言っても、長年の習い性で、すぐに決めつけたがる自分が首をもたげましたが、その度に、第三者の立場に身を置く努力をしました。

さて、話を先に進めましょう。

よく、幸福の科学では、キリスト教を批判するときに、処女マリアから生まれたとされる部分をそんなことはなく、正常な男女の営みから生まれたのであって、どうしてそこまでして信じさせねばならないのか、みたいな批判を、大川さんが法話の中でしたことがありますが、空中から人類を何百人も出現させるほうが処女降誕以上に無理感がありませんかね。

 シルバーバーチの教えなどでは、

進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、

と述べているように、肉体そのものは、下等なものから進化してきているわけで、いきなり、空中からこの人体が現れたわけではありません。

なぜなら、この3次元には3次元の法則があり、その法則を曲げる必要もないし、その法則の中で人類誕生へと導いてきたと考えるほうが、僕などは納得がいきます。

神は、そうした法則を通して全てのものを統べているのです。


さて、こうしたことを話しているときりがないので、寄る辺なき子さんの質問、どうやって、総裁の、霊言の間違いに気づいていったのか、もう少し具体的に教えてもらえますか、に対する答えとしては、誰の霊言でも構いませんが、ご自分で最も気になる点や、気になる人、のものを深く吟味することをおすすめします。

たとえば、野球が好きでそれなりに詳しい人なら、イチローの守護霊霊言を吟味するのが良いかもしれません。

あの天才とも思える大打者を指導し、見守ってきた守護霊であれば、イチロー自身が、仮にそれを読んだとしたら、まず第一に、彼自身が最も感動し、驚愕するはずです。

なぜなら、守護霊とは、本人以上に本人を知り、導いている存在、ですからね。

今のは一例で、たくさんの霊言本が出されているので、寄る辺なき子さんのご自宅にあるもので、まずは自分が一番気になるものから、妥協することなく、気になる点に赤線を引くなどしておき、あとで徹底的にその部分を調べ上げるのです。

僕の場合ですと、内村鑑三をはじめ、多くの霊言を調べ上げました。そしてその矛盾の多さに、改めて自分でも驚いたし、なぜ自分はこんな大事なところを見落としていたのか、と、自分自身にあきれる始末でした。

いったい自分は、どれほど多くの矛盾を気づかずにスルーしてきたのだろう、と思いました。

純粋な信仰、とか、主と一体となれ、といった言葉に感性を刺激されて、エルカンターレ信仰者としての自分に酔っていたのかもしれません。

酔う、とはつまり、正気を失っているということ、です。

君よ、涙の川を渡れ、などの御法話CDは、それこそ何度も聴いて、涙さえ流し、まだまだ自分の信仰は生ぬるいと自らを戒めて、御本尊の前で正心法語を全編読誦したことも何度もありました。

そして、最後にある、仏説降魔経は、強力ですから、この信仰の命綱だけは離してはいけないと、何度も自分に言い聞かせていました。

なので、熱心な信者さんほど、気づきの機会は失われていきます。

なぜなら、今話したような、自己洗脳のループにからめとられてしまうから、です。

それと、今、改めて思いだしても、大川隆法氏は、説法の天才だと思います。その言葉には力があるし、魂を揺さぶるものがありますからね。

しかし、どれほど感動的な説法をしたとしても、彼は神ではありません。どこまで行っても、人間は人間なのです。そこを、見誤ってはいけません。


それと昨日、用事があって外出した際に、書店に立ち寄り、宗教書のコーナーに行ったら、何冊かの幸福の科学出版の本を見つけました。

もうすでに、8年も前に退会した僕は、今は大川さんの書籍を一冊も、所有していません。

そのため、確認のしようもないのですが、先ほどアップした、人類誕生のくだりの記述は、出典を明らかにしておくと、ゆーぱさんという会員さんのサイト内で探したものです。

で、その書店で見つけた黄金の法で、毛沢東の記述を確認してみました。

僕の記憶では、毛沢東は、わずかに善の部分が多かったために、5次元善人界に帰っているはずだったからです。僕が確認した黄金の法は、4回目の改訂版で、2011年のものでした。

そしてやはり、僕の記憶通り、毛沢東は、5次元に帰っている、という記述になっていました。

なぜ僕が、それを確認したのかというと、去年発刊された毛沢東の霊言では、地球最大級の悪魔、と書いてあるからです。

この霊言を僕は読んでいませんが、幸福の科学出版の公式サイトのコラムにそう書いてあるので、今はそういう設定なのでしょう。

あるいはその霊言の中で、5次元に帰ったがその後地獄に行った、ということになっているのかどうかまではわかりませんが、それもまた、おかしな話です。

スピリチュアリズムを学べばわかることですが、明るい霊界に行った霊はそれなりの覚醒を得ているはずだから、です。

地上界での一時的な覚醒であれば、また、その後の心境の変化で波動を下げることもあり得るかもしれませんが、明るいほうの霊界の住人が、その後堕落して地獄に落ちることは、あり得ません。

この、毛沢東の例などは氷山の一角で、当初信長や秀吉の生まれ変わりとされていた政治家もいましたが、その後、実は別の人だったとか、そうした設定の変更が多すぎます。

僕などは、大川さんを主宰先生と呼んでいたころからの信者だったので、再誕の仏陀であり、それどころかイエスが父と仰いだ存在であり、本佛であると思うからこそ、彼の書籍を読むときは正座をし、合掌してから読んでいたものです。

本佛の教えを、一字一句、見落とすことなく、学び尽くそうと思うからこその、弟子の態度でした。

それゆえ、退会して8年が過ぎた今も、まだかなりの記憶が頭の中に残っています。

そのようにして吸収した教えが、ころころと変えられたのでは、これは本当にたまったものではありません。






退職日に想う十年一昔と今の僕


2年前の5月に母が亡くなり、その後、49日法要を終えてから、7月にアルバイトを始めて2年弱。

そして、今日が、アルバイト最後の日で、自己都合退職なのに、お花までいただきました。嬉しいよお。
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実は、今日は、実母の誕生日でもあります。大正13年の生まれですから、生きていたら90代も半ばくらいになるのでしょうか。

まあ、僕が16歳のときに亡くなっているので、もう、霊界に行ってから、かなりの年数になります。母は、バリバリの唯物論の人でしたが、正直者でユーモアのある人でした。

十年一昔、という言葉がありますが、まあこれは、世の中は移り変わりが激しく、10年も経てば、もう昔のことになってしまう、といった意味だとは思います。

で、僕が、幸福の科学を退会したのが2012年の3月。

つまり、8年と2か月前。

まあ、十年一昔と言ってもいいくらい、前のことになります。

時代のスピード感、を、加味すれば、今は、もう、5年も経てば、一昔前、といった感じなのかもしれません。

で、このところ、幸福の科学関係の話が続いていますが、もう、僕の中では、過去の宗教体験となっていて、多少、距離感がある感じなのですね。

ただ、いただいたコメントなどから、僕も当時のことを思い出し、また、僕自身、今は、強い内省への思いが今年の初めごろから生じていて、 何やら、こうした宗教体験の振り返りも、意味のあることではないのか、と、思い始めています。

で、寄る辺なき子さんのコメントに対する流れで、僕が、悶々と苦しみながらも、真実を見極めようと格闘した日々の中でやったことは、大川隆法という人の、初期のころからの発言そのものを、時系列とともに並べる、という作業だったことは、前記事で述べたとおりです。

霊言、などの矛盾は、霊の意見、という言い訳ができますが、教祖自らの意見、であれば、そうした逃げ道はなくなりますからね。

大半の活動会員は、目の前の活動を消化するのに忙しく、そのような、俯瞰的視点に立つ機会すらないのが実情でしょう。そして、活動していれば、それなりの充実感もあるので、疑問に目を向けることもしなくて済みます。

僕にとって益があったのは、その3年間の検証作業を通じて、ものごとをありのままに見ることの大切さに気づいたこと、です。

この3年間がなければ、おそらく僕は、不都合な真実は見て見ないふりをし、自分の見たい現実だけを搔き集めて見るような、バイアスのかかった人間のままだったでしょう。そのほうが楽だし、これまでの自分を否定しなくていいので。

しかし人は、どうにも逃げられない状況になれば、たとえ不本意でも、取り組まざるを得なくなります。

まさに、それこそが、自らの運命が自らを導く、ということなのかもしれません。


さて、ここからが、どうにも説明の難しい領域に足を踏み入れねばならないのですが、何とか可能な限り、言い表してみます。

僕が、幼少のころから、入信していた世界救世教では、お光、というペンダントを、首からぶら下げていました。小学校の頃、体育の授業で逆上がりなどをすると、そのお光が、引力で下にさがり、クラスメイト達の注目を浴びました。

それが、恥ずかしくもあり、誇らしくもあったのですが、そのお光に対して、ときどきですが、ひどく冷めた視点を持つもう一人の自分、がいるのを、感じることがありました。

そのもう一人の自分は、大切なものはすでに備わっているはずだ、という思いを、持っていました。

お光は、常に丁重に扱わねばならず、お風呂に入るとき以外は、絶えず身に着けていました。小学生のころ、何かの拍子にお光をつけるのを忘れたときなどは、一気にテンションが下がり、不安な気持ちを覚えたものです。

ただ、子供ながらに、お光に対する一種の違和感は覚えていて、当時は、それを言語的に解釈できる語彙力もないので、ありがたいけど同時に不自由なもの、くらいに思っていました。

話は変わって統一教会に専従として、身を捧げていた時代のころ。

毎週日曜日は、朝5時に起きて、文鮮明夫妻の写真に向かって土下座をする参拝敬礼式という儀式がありました。

それは最も神聖な儀式とされ、もちろん当時の僕はバリバリの統一教会員でしたから、真剣に取り組んでいたのですが、ときどきですが、もう一人の自分が冷静な視線で、その参拝敬礼式の渦中にいる自分を見ているのを感じることがありました。

この感覚を、言葉にするのはとても難しいのですが、違和感、としか、とりあえずは言いようがありません。それは違う、と、もう一人の意識としての自分が感じているのです。

そして、幸福の科学時代。

何度も行った、宇都宮の正心館ですが、外階段を上がって館内に入ったところに、まずは、小さなエルカンターレ像があるのですが、その像に手を合わせたときに、違和感がありました。偶像崇拝への違和感、ですね。

エルカンターレ像はどの精舎にもあり、また、支部にもあるのですが、普段は、それに手を合わせることは慣れっこになっており、違和感はないのですが、ときおり感じる違和感は、もう一人の意識としての自分が、感じているものだということが、あとになって、わかりました。

世界救世教のときも、統一教会のときも、そして幸福の科学のときも、ときどき、そうした、もう一人の意識としての自分が、顔を出したのです。

この、もう一人の意識としての自分、こそが、真実在、あるいは、ハイヤーセルフ、と僕が今現在では認識している意識です。

まあ、この呼び名は、何でも良いのですが、自分が一番ピンとくる名称で、僕は、そう呼んでいます。

で、この真実在こそが、全体意識としての神、とつながっていて、安らぎの源泉、でもあるのです。

実は、僕が、今現在、アイデンティティの基盤を置いているのが、この真実在であり、さらに言えば、その真実在とつながり重なり合っている全体意識としての神、なのです。

この、真我、であるところの、真実在を実感し、その気づきを得てからは、自分が、とても広くて明るくて自由な世界に生きていることがリアルにわかるようになりました。

そして、個人として傷つくことが、格段に少なくなりました。

勿論、生身の人間として生きている以上、様々な苦しみがあることは事実ですが、すべては一過性のものであり、真実在としての自分は、まったく傷ついてもいないし、何一つ損なわれていないことが、ありありとわかるようになったのです。

そのため、ほとんどすべてのことを、肯定的にとらえられるようになっています。

で、僕の話はこのくらいにして、何を言いたいのかと言うと、神とは遍満する意識のことであり、宇宙全体であり、有りて在るものであり、始めもなく終わりもないものであり、理屈をはるかに超えた実感的実在、なのですね。

で、イエス・キリストが凄いと思うところは、その全体としての神を結実させた生き方をしたところ、です。

主イエスこそが、人類史上まれに見る霊能者です。

イエスについては、ここで語ることは控えますが、あらゆる点で、手本となる人格であることだけは、言っておきたいと思います。

話を戻すと、自分の中の違和感と向き合い、真実と向き合う誠実さをもって、大川隆法という人の発言を並べ、同時に、霊言等の矛盾点も検証していく中で、呪縛から解放されていきました。

言葉を変えて言えば、個人崇拝を強いる支配からの卒業、でもありました。



 この支配からの、卒業

 俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか
 これからは何が俺を縛り付けるのだろう
 あと何度自分自身卒業すれば
 本当の自分にたどり着けるだろう

尾崎豊が叫んでいるように、本当の自分にたどり着きましょう。

そしてその卒業の際、大きな救いとなったのが、シルバーバーチをはじめとする本物の霊訓であり、真実の霊界知識、でした。







広くて明るい自由な世界には、その人はいない


戦争が終わり、日本は焼け野原から立ち上がり、復興しました。天皇が人間宣言をして、国民の価値観も総入れ替え。そんなことが、国家規模で起こったわけです。

僕は、1959年生まれなので、もちろん、戦争経験はなく、その後の全共闘などの学生運動の盛り上がりの時期はまだ小学校低学年で、何を騒いでいるのだろうと、子供ながらに思った程度。

子供ながらにして、弟と実母を亡くすという経験はしているものの、幸せな家庭で育ったと、思っています。

そんな僕でしたが、20代の頃にこの世の仕事を投げ捨てて入った統一教会で、やや比ゆ的な表現ではありますが、徴兵に行ったような体験をしました。睡眠時間は4時間未満で、休みなく、およそ2年間、専従生活を送りましたからね。

若かったので、ブレーキをかけることを知らず、自分がぶち壊れるまで頑張ってしまい、ついには、精神崩壊。

使い物にならず、解放されましたが、生きながら死んだ状態が、何年も続きました。

60キロほどだった体重も、2年間の無理な生活で47キロほどにまで落ち、実家に戻ってからは、体重はすぐに回復したものの、傷ついた心が癒えるには足掛け8年ほどかかりました。

ただ、結果論ですが、その、苦しみの8年間が、のちに役立つこととなりました。

その後、幸福の科学に入り、統一教会の呪縛を完全に打ち砕きました。

幸福の科学には、正心法語という経文があり、その中の、光のみ実在、愛のみ実在、という、この、生長の家にも似た、光明思想と言いますか、光の実在を強く押し出す言霊の力が、統一教会の暗黒思想を打ち砕くのに、大変役に立ちました。

さて、そのようにして幸福の科学に入り、18年弱の活動ののち、退会したわけですが、寄る辺なき子さんのコメントの返信を書いてから、また、改めて、僕が退会した8年前のことを思い返すと同時に、自らの人生を振り返り、それを通して、今、喪失感に苦しんでいるであろうところの寄る辺なき子さんのお役に立てないかと、考えた次第です。


退会したときの心境は、「不都合な真実に向かい合う勇気を」と「感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安」で詳しく書いているので、重複は避け、今日は別の視点から、記してみたいと思います。


相模原の障害者施設で起こった殺傷事件は、まだ記憶に新しいところですが、事件を起こした男は、障害者に対して生きる価値がないと自分勝手に判断し、殺人事件を起こした後も、悪びれる様子もなく、死をも厭わぬ態度ですが、あの独善性と変わらぬものを、僕は、カルト教祖の中に、見ます。

カルト教祖自身が、誰よりも確信をもって、自分自身を妄信しています。

そして、そういう人の周りに信者が集まれば、彼は教祖となり、一つの団体が形成されていきます。それが、宗教法人格を取れば、宗教団体となります。

カルト教祖は、自己を絶対視するがゆえに、自分を否定する対象を、悪魔、と、見る傾向があります。

日本のみならず、世界には、実に様々なカルト教団が存在しますが、この点は、共通しています。

神である自分を受け入れない社会のほうがおかしいということになり、彼自身の中に、誇大妄想、被害妄想の心理状態が展開していきます。

自分を受け入れない社会に対する不満はくすぶり続け、満たされない自尊心(カルト教祖の場合はこの自尊心が特に顕著)を補強するために、本当の自分はこんなに偉いのだ、ということを、様々な手段を使って訴えます。

それを真に受けるのは信者さんだけで、一般の人は、そもそも関心を持っていないか、何らかのきっかけで目を向けたとしても、その子供じみた精神構造を見抜いて、あきれるか冷笑するぐらいが関の山。

よく、世間が誤解するのは、カルト教祖を詐欺師のように思っている傾向があるのですが、詐欺師というのは自分が相手を騙している自覚があるので、それほどの情熱も、パワーも、ありません。

よく、金儲け主義とも誤解されますが、お金は二次的なもので、詐欺師などと同じレベルの話ではありません。

何よりも、カルト教祖自身が、自分が神であるとの確信を持っている点が、大きな違いです。

その確信がなければ、活動など継続できるものではないし、人もついていきません。

カルト教祖の感化力には、常人の想像も及ばないものがあり、そのいい例が、麻原の死後も存続しているアレフ、などです。今もなお、崇拝の対象を欲するアレフは、麻原の長男を教祖として祭り上げていますが、当の長男はいい迷惑だとして、訴訟を起こしています。

何が言いたいのかと言うと、アレフに見られるように、崇拝の対象を人に求める信者がいる限り、カルト教祖は、なくならない、ということです。

つまり、両者は、相互依存、の関係にあるわけです。

寄る辺なき子さんは勇気をもって不都合な真実を見つめ、今まさに、人間信仰からの脱却を図ろうとしているとき、です。

人間を神と仰いでいる限り、心に真の平安は、ありません。

なぜなら、どれほど、その教祖なる存在が、自らの無謬性を主張しても、そこには必ず矛盾が生じ、信者の側はその矛盾を糊塗し、合理化するための暗黙の努力を余儀なくされるから、です。

その不自然さは、精神の中に何とも言えぬ違和感を生じさせ、本人も、釈然としないが一応は信じている、という状態が長く続きます。

勿論、教祖と同レベルか、それに近いところまで妄信している信者さんは、そうした矛盾さえ感じることは、ありませんが。

しかし大半の、理性が働いている信者さんは、少なからぬ矛盾を、何とか自分の中で無意識のうちに合理化してやり過ごすようになります。

神から与えられた理性が、真に嫌気がさすまでは、そうした足踏み状態は続き、時間だけが過ぎていきますし、この世的に言えば、年だけは取っていきます。

寄る辺なき子さんは、そうした足踏み状態からの脱却の時が来ているわけで、謂わば、脱皮の時期なのです。脱皮には、それなりの負荷がかかるものです。

しかし、そこを通過しなければ、広くて明るい自由な世界には行けません。

広くて明るい自由な世界には、その人、カルト教祖は、いません。

そしてその世界から、カルト教祖を見ると、憎しみよりもかわいそうな気持が生じてくるようになります。

今は憎しみのほうが大きいかもしれませんが、やがては、そうした広くて明るい自由な世界の中で、過去の自分を俯瞰できる視点を持つようになると思います。

そうした広い世界が待っているということを、寄る辺なき子さんに、もっとうまく伝えられたら、と、思うのですが。

それともう一点、良いことをお伝えせねばなりません。

それは、カルト教祖の独善的世界から離れれば離れるほど、むしろ周りにいる人、一人一人の中にある仏性が、より、鮮明に見えてくるようになることです。

それまで、悪魔、に見えていた人が、まだ至らぬにせよ紛れもない神の子である、ということが、わかっていきます。

寄る辺なき子さんは、コメントの中で、「最大の心残りは、夫に対する申し訳なさ、です。主の教えを理解できないバカ夫と思っていましたが、バカなのは私でした。息子にも、申し訳ないですと、おっしゃっていましたね。

かつては、旦那さんを見下し、時には、悪魔のようにも、見えたかもしれません。でも、今は、自分の愚かさに気づいたのですね。

愚かさに気づいた人は、もう愚かではありません。もうそれ以上、自分を責める必要はありません。

もう、今の寄る辺なき子さんであれば、旦那さんや息子さんを悪魔のようには思わないはずですからね。

まだ十分に、自分を客体化するところまではいかないでしょうが、やがては、時の経過とともに、落ち着いて自分自身を眺められる時が来ると思います。

その経過は、人それぞれだとは思いますが、カルト教団から離れるにつれ、むしろ、この世界を、ありのままに見ることができるようになっていきます。

なぜなら、そうした教団で与えらえる情報には偏りがあり、その偏った情報だけを過飽和入力されている状態では、到底ありのままに見ることなど、不可能だからです。

たとえて言えば、毒の入った材料だけで作る饅頭は、毒饅頭にならざるを得ないのと、同じことです。

事程左様に、情報というものは、食べ物と一緒で、よく吟味しなければいけません。

僕は、三帰請願した後、先輩のある信者さんから、素直さが大事だと、繰り返し言われました。

その人が言うには、本佛が御降臨されている奇跡の時代なのだから、自分の小さな頭で判断せず、ただひたすらに主を信じ、ついていくことが大切なのだと教えられ、その通りだと感動して、そのように努めました。

我を信じ、集い来よ、と、主は、言われましたから、ね。

まさに今回、寄る辺なき子さんが言及された、太陽の法のまえがきにも、あなたの常識を入れ替えてほしい、というようなことが書かれていたように思います。

ただ、このまえがきは、初版本のものではなく、方便の時代は終わった、と言われていたころのものかもしれません。僕が、三帰請願したのは、1994年だったと思うので、当時の、すでに、書き換えられていた太陽の法、かもしれません。

その太陽の法も、その後、何度か、書き換えられた、ということなのでしょうが、今回の書き換えが、正確には何度目になるのか、すでに8年前に退会している僕には、よくわかりません。

で、話を戻すと、そのように、とにかく素直さが大事だと思い、歩んでいたわけですが、理性が疲弊していった経緯はすでに過去記事で記したとおりです。

教団から距離を置き、落ち着いた心で世の中を眺められるようになれば、やがては、悪魔に囲まれていると思っていた世界から、未熟ながらも仏性ある人たちのいる世界に生きている自分に、気づくようになります。

それまでには、多少の時間はかかるでしょうが、大切なのは、理性が矛盾を感じるところの疑問に、誠実に向き合うことだと、思います。

僕の場合で言いますと、カルト教祖やカルト教団の矛盾と正面から向かい合って、納得するまであきらめない、粘り強い姿勢で取り組みました。

具体的には、教団の裁判を傍聴するために東京地裁にも足を運びましたし、大川きょう子さんにも、二度、じかに会って話を聞いています。

さらには、元職員の人にも会い、ここではとても話せない内容の教団の実態も、知ることとなりました。

ただ、元職員の人の話であっても、それをまるごと受け入れるのではなく、まず、その人の表情や波動を見極める必要があります。なぜなら、その元職員の中に恨み心があれば、その情報にも、多分に私憤が入り込んで、歪曲してしまうから、です。

いずれにせよ、労を惜しんでいては、価値あるものを手に入れることはできません。

ここで言う価値あるもの、とは、カルト教祖とカルト教団を客体化して観ることのできる認識力であり、その結果得ることのできる、理性が息苦しさを感じることのない自由な世界、です。

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そして、その自由な世界にこそ、本物の信仰がある、のです。

寄る辺なき子さんの未来には、そのような明るくて、公明正大な世界が、待っています。

寄る辺なき子さんの、幸福の科学での長い信仰生活も、決して無駄ではないことを示唆する、シルバーバーチの言葉を紹介します。


「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。


シルバーバーチは、メソジスト派の牧師に対して、上記のように語りました。

少し説明を加えると、その牧師は牧師なりの善意と使命感から、伝道などの宗教活動をしていたのですが、その後、真実に目覚め、自分の長きに渡る牧師生活を悔やんだことに対する、シルバーバーチの答え、なのですね。

そしてシルバーバーチは、真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのですと、助言しています。


寄る辺なき子さんは、今まさに、それまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになったわけです。

なので、ここが、正念場、です。

まずは、心身を休めること、だと、思います。

色心不二という教えはご存知かと思いますが、体と心は互いに影響を及ぼし合っていますからね。

まずはゆっくり休んでください。

そして、自分の運命を、信じてください。

長くなったので、今日はここまでとしますが、この世は、霊界という永遠の世界に行く前の試練の場であり、魂の足腰を強くする場であるとの認識をもって、落ち着いて生きられることを、祈っています。






赤木さんの死と誠実な仕事について


コロナ騒動で、すっかり忘れ去られたかのようになっている近畿財務局職員だった赤木俊夫さんの死。

彼のパソコンには、手記が残されていて、誠実な仕事をしようとする彼の実直な態度と、それを、寄ってたかって捻じ曲げようとさせる上からの圧力、を見て取ることができ、僕自身、何ともやり切れない気持ちになりました。

僕が思うに、赤木さんのことは、まだ、このように表沙汰にもなりましたが、似たようなことは、これまでにも、そして、もしかしたら、今も、起こっているかもしれないし、また、これはなにも、官僚の世界だけに限ったことではないでしょう。

誠実な仕事をしていた赤木さんが直面していたストレスは、想像するに余りあります。

 鉄の結束を誇る財務省では、そもそも内部告発などほとんど考えられない。さらに森友事件は、組織としての不祥事で、しかも、安倍総理夫人直結なのだから、告発しても返り討ちに遭うのが落ち。検察に期待しても、本格立件どころか、むしろ、検察の狙いは、赤木さん一人に罪をかぶせて一件落着というシナリオだった可能性すらある。

上記のように述べるのは、自身も官僚であった古賀茂明さん。

赤木さんのようなまともな官僚が追い詰められ、彼を間接的に殺したともいえる上層部が今もろくに処罰されることなく、むしろより厚遇されているさまを見て、この世を生きることのむなしさを感じずにはいられません。

僕は、この赤木さんの死を想うとき、 藤沢周平の小説を思い出します。

彼の小説の主人公は、ほとんどが名もなき一庶民や、武士であっても下級武士。

軋轢は、今も昔も、同じ。

所詮は、人間社会に違いなく、上からの理不尽や、不条理、濡れ衣、行き違い、などなど。

現在、赤木さんの奥さんが、訴訟を起こしていますが、成り行きを見守りたいと思います。

汚濁にまみれた世の中ではありますが、以下の、シルバーバーチの言葉が救いになります。


神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。


そうです、たとえこの世の法律で裁くことができなくても、天網恢恢疎にして漏らさず、と、言うように、宇宙法則が、赤木さんを間接的に死に追いやった輩を裁きます。

パウロは、ローマの信徒への手紙12章で、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ(19節)と、言っていますが、復讐、と言ってしまうと、そこには人間的な感情が入ってしまいます。つまり、神があたかも、人間のような喜怒哀楽がある、との誤解のもとです。

そこで、僕なりに、より、正確に言うと、宇宙法則として統べる神の法則が因果の理法として自動的に裁く、と、現代的に解釈するのが良いように思います。

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そして、もうすでにこの世の存在ではない赤木さんに目を転じれば、赤木さんの誠実な仕事ぶり、そしてそのまじめな人柄は、肉体を脱ぎ捨てた今も、霊として存在する彼の中の美なる徳目として生き続けているはずです。

この世は、正しいことが必ずしも通らない世の中ではありますが、この世とあの世を貫く宇宙法則が存在することが、絶対的な救いであり、結果的には、悪いことをすることは割に合わないのです。

そうした、損得の観点から見ても、赤木さんを追い詰めた小賢しい輩は、大いに割の合わない、あとで大変な代償を支払わされる未来が待っていることになります。

なぜなら、すべての存在が、この世だけを生きているのではなく、むしろこの世は、永遠の実在である霊界に行く前の、準備段階の世界ですからね。






感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安


霊的な光の感覚が、その頃の僕の、最後の拠り所でした。

この拠り所とは、幸福の科学で言うところの、信仰の命綱、でもありました。

精舎で感じる光、あるいは、東京ドームの講演会での光体験、これらが、実に強力な動機となって、僕の幸福の科学での信仰を支えていました。

それは、僕にとっての、エルカンターレ信仰の根拠でもあり、原動力でもありました。

しかし、その一方で、僕の理性が、度重なる矛盾の数々を、どうしても受け入れられずにいたのです。

よっぽど、矛盾になど気づかずに、無邪気に、信じ切っていた頃のほうが幸せだったとも思いましたが、いや違う、という自分がいて、苦しくても、不都合な真実と向き合う今の自分のほうが尊い、という思いもありました。

この、ぎりぎりのところの攻防は、到底短い文章で語ることはできません。

感情が揺れ動き、自分を制御することが難しいときも、ありました。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性との、戦いでもありました。

この苦しみは、他人に話しても到底理解される類いのものではないことを、僕自身、わかっていました。

わかってくれる人がいるとしたら、同じ様な体験を通過した人だけだろうと思いましたが、そのような人は周りにはいませんでした。

そのように悶え苦しんだ日々ではありましたが、退会すると決めた頃だったでしょうか、僕の親友でもあり、法友でもあり、年下ではありますが、何かと頼りにしていたAさんに、苦しい心情を打ち明けた記憶があります。

Aさんは、自分の仕事が忙しいにもかかわらず、辛抱強く、僕の話を聞いてくれました。

当時、僕は、マンションで独り暮らしをしており、Aさんの住居も、僕のところから歩いてすぐのところにありました。

Aさんは、僕の気持ちを尊重してくれ、それで僕が本当に幸せになるのであれば退会するのは構わない、という趣旨のことを言ってくれました。

また、Aさん以外にも、僕よりもだいぶ年上の会員のSさんも、僕のマンションを訪ねてきて、話を聞いてくれました。まあ、このSさんには、僕の気持ちや考えは全く理解はしてもらえませんでしたが。それでも、わざわざ訪ねてきてくれたことは、ありがたく思いました。

それ以外には、当時の支部長とも話しましたが、こちらは短い時間でした。僕の、退会の決意が固いことを知るとあきらめたようでしたが、別れ際に、せめて6月まで保留しないか、と言われました。その間に、富士山の大爆発が起こるから、と、言っていました。

僕は、富士山も活火山だから、いずれ、そういうこともあるでしょうが、6月までに噴火するということはないと思います、と、答えたのを覚えています。

僕自身、当時、そうした、教団の天変地異の予言に、本当に嫌気がさしていたので、それは、即座に答えました。

寄る辺なき子さんは、おそらく、僕より信仰歴が長いと思われるので、法友を失う苦しみ、自分が根拠として立っていた足下の大地が消えていく苦しみを、体験されたことでしょう。

そしてその苦しみは、今も継続中かもしれませんが、その葛藤があってこそ、真実を見つけることが可能となるのだと、思います。

話を、元に戻しましょう。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性、とのせめぎ合いに、どのように決着をつけたのか、あるいは、どのように、運命が僕を導いたのか、の続きです。

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結論から言うと、僕の、過去の宗教体験が、役に立ちました。

僕は、父が世界救世教の信者であったために、自然に父と同じ信仰を持つようになりました。学生部、青年部と、順調に、信仰生活を続けていたのですが、善悪の問題で悩み、教団職員に相談しても、そこでは答えが得られないことを知り、やがて、真理を求めて、さすらうようになります。

その後、統一教会の堕落論を知ることとなり、長年心を去らなかった善悪の起源の問題が解決しました。そして、統一教会に入信し、全財産を献金し、専従生活に入りました。

で、実は、世界救世教時代にも、統一教会時代にも、僕は、タイプの違う、神体験、をしていたことを、思いだしたのです。

世界救世教のときは、熱海にある救世会館という、建物内で、突然、霊感に打たれて号泣したことがありました。一緒にいた人が、びっくりした顔で、僕を見たことを、今でも、覚えています。当時は、十代で未成年でもあり、多感でもありましたが、霊体質でもあったのだと思います。

統一教会では、ツーデイという合宿で、神が現れて、長い間探し求めていた我が子よ、と言って、僕を泣きながら後ろから抱きしめる、という体験をしました。ああ、これが、生きた神なのか、と、思いました。それだけではなく、専従生活で、日々、伝道に明け暮れている中で、奇跡とも思える体験を、いくつかしています。

そうした、過去の宗教団体における神体験、光体験を思いだすに及び、この、幸福の科学での光体験も、それに類するものではないのか、と、冷静に分析できるようになりました。

少し余談になりますが、今年1月に、上祐史浩氏に会いに行った話は以前しましたが、彼の友人で、広瀬という人だったと思いますが、やはりオウム信者で、大変な秀才だったそうですが、その人も、最後は理屈ではなく、神秘体験によって、麻原に心酔し、サリン事件を起こしたとのことでした。

つまり、結論を言うと、個人の神秘体験や個人の霊的能力には、普遍性はない、と、いうことなのです。

ただし、普遍性はないが、その人にとっては、強力な体験であり、信仰を継続する上での大きな動機付けになる、ということ。

ここが、神秘体験や霊的能力の、功罪相半ばするところではないか、と、思います。

そして、そのことに気づいた僕は、さらなる検証と内省の日々を重ねていきました。


僕が今でも、貴重な体験だったと思う研修を、一つ紹介します。

それは、日光精舎での、八正道研修でした。

礼拝堂のピンと張りつめた空気の中、出された公案に対して思慧していく、というものでした。

このとき、僕の守護霊がすぐ背後に立ち、この機会を逃すまじ、という強い気迫で、僕にメッセージを送ってきたのです。僕は、自動書記のような感じで、送られてくる言葉をノートに殴り書きしていきました。

そして、その公案が終わったときには、その与えられた言葉の数々に、自分でもびっくりしたのを覚えています。そこには、自分でもうすうす気づいていた自分の欠点や課題、これからの方向性などが、書かれていたのです。

こうした体験から、僕は、精舎での研修などにも、かなりのめり込んでいきました。

こうした体験を積み重ねていくと、信仰の確信が深まるばかりで、その結果として、活動にも、熱心になっていきます。

その後、幸福の科学を退会した僕ですが、たとえば、今例に挙げた日光精舎での研修における体験は、今でも、守護霊からのメッセージであったと、思っています。

事実、その研修の後、僕は、そのメッセージを、日々の生活の中に生かすようにしましたからね。

シルバーバーチが説くように、守護霊なり、指導霊なり、導きの霊存在は、ラベルを選びません。

つまり、その機会、そのときで言えば、日光精舎での八正道研修が、メッセージを伝えるのに最適の機会であれば、それを活用するのですね。

たとえそのことによって、僕がさらにその信仰にのめり込むことになったとしても、それ以上に、その時僕に必要なメッセージを伝えることのほうが有益であれば、そうするわけです。

事実僕は、その後、そのメッセージを日々の生活の中に生かし、日常生活を改善していきました。

だから、僕にとって、幸福の科学での日々は、決して無益なものではありませんでした。

今でも付き合いのある、Aさんや、Iさんなど、有徳の人との出会いも、ありましたからね。

さて、僕の、こうした体験が、どれほど、寄る辺なき子さんのお役に立てるかわかりませんが、僕が退会するときのこと、そしてその退会は、決して安易な気持ちからのものではなかったことをお伝えできれば、多少なりとも参考になるのではないかと思い、記してみました。

もし、また、何か、書き込みたいことや、あるいは、僕の記述が飛んだ見当違いであれば、そうした指摘でもかまいませんので、コメントしていただければ、と、思います。

長い信仰から離れるときの不安は、それまで立っていた大地が失われるに等しいと、思います。

しかし、真実に向き合う勇気は、その不安に比例して、あるいは、その不安以上に、尊いものです。

それはまさに、真摯に人生を生きていることの証、でもあるからです。

そして、そうした、真実に向き合う勇気は、誰もが持てるものではありません。

大半の人は、それまでの自分の信念、あり方、費やしてきた時間や金銭や心情、その他もろもろの自我に付随する総体を捨てきれず、自覚するとしないにかかわらずそこに縋り付き、自己を客観視することなく正当化し、臭いモノには蓋をして見ないようにし、自分の見たいものだけを見て、自分の在り方を合理化するからです。

また、いかに優れた人であっても、その時期が来なければ、向き合う気にもなれないでしょう。

ただ、すべての人に言えることかと思いますが、それぞれの人のその人生こそが、その人の導き手なのだと思います。

そういう意味では、すべての人が、尊い修行者であり、永遠の旅人なのだと、思っています。




圧倒的な神の公平さ


神という存在が、もし、自分の信者だけをえこひいきするような偏狭な存在であるならば、僕たちに平安はありません。

しかし、聖書に描かれている神は、喜怒哀楽が激しく、人間的で、依怙贔屓をしまくる神です。

そのような神の概念を植え付けられてしまうと、それが、生涯にわたって暗い影を落とすことになります。

その神の概念を覆したのはイエスで、イエスの説く父なる神は、愛の神、です。

イエスは、宗教団体を作ろうとしたのでもなく、三位一体などと言って、神の座に祭り上げられることを望んだのでもありません。

ただ、素朴に、人々に、神の愛と宇宙法則を説いただけです。
  
そのようなことができたのは、イエスが、宇宙法則と一体となり、すなわち、主イエス、となっていたからでもあります。

神の愛の公平さは、聖書の中にも見出すことができます。

それは、善きサマリア人のたとえ、の部分でも、知ることができますし、他にも、ありますが、今日は、話を先に進めます。

たとえば、どんな宗教団体でも構いませんが、あなたの信じる教団の教祖が、唯物論者はみな地獄行きだと、言ったとします。

その発言だけで、彼は霊界のことを何も知らないか、あるいは、その発言によって信者を自分の操りたい方向へと誘導しているか、のどちらかであることが推測できます。

唯物論者でも、心根が良かったり、この世界に大きな貢献をした人は数多くいます。

一方、何らかの教団の信者であって、自分は真理を知っていて、教祖の教えを理解できるそれなりの人間だとの自負がありながら、聖書の善きサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人のような振る舞いをする人も多いでしょう。

何が言いたいのかと言うと、ラベル(何々の信者である、とか、唯物論者、などの分類上の決めつけ)は、一切関係がなく、その人の全人格がありのままに判定される、あるいは、評価される、のが、霊界という世界だ、ということです。


─── 生前スピリチュアリズムを否定し、生涯を合理主義者で通したH・G・ウェルズ(※)のような人はそちらでどんな気持ちを抱いたのでしょうか(※世界的に知られた英国の文明評論家で、主著に「世界文化史体系」「生命の科学」等がある)との質問に対し、シルバーバーチは、以下のように答えています。

 「ウェルズは不幸にして強烈な知性がかえって禍した偉大な魂です。もしこうした偉大な知性が童子のような無邪気さと一体となれば大変な人種が地上に誕生するのですが・・・

 こうした人は生涯かけて築いてきた人生哲学をそっくり捨て去らないといけないのですが、それが彼らにはどうしても得心がいかないのです。彼らにしてみれば、あれだけ論理的に且つ科学的に論証したのだから、その思想と合致しない宇宙の方がどうかしているに相違ないとまで考えるのです。そんな次第ですから、色々と修正していかねばならないことがあり、長い長い議論が続きます」

 その議論の相手となって説得に当たったのがチャールズ・ブラッドローとトーマス・ペインだったという。(二人とも地上時代は自由思想家として人権擁護の為に貢献した人物である)

 それを聞いてスワッハーが「ペインは偉大な人物でした」と言うと、すかさずシルバーバーチが「でした、ではありません。今でも偉大な人物です」と訂正してこう述べた。

 「彼は地上での評価よりはるかに偉大な人物です。時代を抜きんでた巨人です。霊的な巨人です。先見の明によって次々と問題を解決していった生まれながらの霊格者でした。人類は本来自由であるべきで、決して束縛されてはならないとの認識をもった偉大な宗教的人物でした。真の意味で〝宗教的〟な人物でした」


神の裁きは、公平にして見落としがありません。

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シルバーバーチは、長い霊界生活で、神の本質をよく知り抜いています。


 あなたが神と仰ぐ教祖は、人間を安易にラベル分けしていませんか?

 あなたの理性は、教祖のすべての言動に得心が行きますか?


僕が、ありとあらゆる新興宗教の信者に対して問いかけたい質問は上の2点です。


日本は、世界でもまれにみるほど、新興宗教の多い国です。

戦後、仏教系、キリスト教系、あるいは神道系、さらには、それらをごちゃまぜにしたものや、神智学をベースにしたものなど、百花繚乱ならぬ、魑魅魍魎の世界が展開しています。


新興宗教の信者だけでなく、キリスト教の信徒や仏教徒にも、問いかけたい質問はありますが、今日は、ここまでと、します。




人はパンのみにて生きるにあらずだが、パンがなければ生きられない


人はパンのみにて生きるにあらず、とは、イエスの言葉ですが、パンよりも大切なことがあることを伝えたものだと思います。

ただ、イエスは、もちろん、パンを否定しているわけではありません。

また、俺はパン食ではなく、ご飯派だから関係ない、ということではなく、このパンは、広く、経済、と考えることもできます。あるいは、お金、でもいい。

今、日本経済がほぼ止まっている状態で、これは、人間の体で言えば、血液が流れていない状態。

血液のこない細胞は、やがて壊死してしまうように、お金の流れが止まってしまうと、その影響は深刻なものになっていきます。

コロナ騒動が収束し、そして本当の意味での終息に向かうことを祈るばかりです。


さて、今は、多くの教会が、礼拝も自粛しているようですが、シルバーバーチが教会のあるべき姿についても語っているので、紹介します。

例によって、こういうたぐいの話が嫌いな人はスルーしてください。

 「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。

私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。

教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。

 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。

いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。

あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。

 内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。

自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。

そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」


教会のあるべき姿、というよりも、宗教のあるべき姿、そのものについて、語っている感じですね。

僕自身、プロテスタント、カトリック、あるいは異端とされているモルモン教の礼拝にも参加したことがありますが、シルバーバーチが示す基準を満たしているモノは、一つもありませんでした。

そもそも、牧師なり、神父なりが、霊界についての知識が皆無なので、せいぜいのところが道徳的な説教に終始するか、カビの生えた人工的なキリスト教神学を、自分なりに解釈し直して話すのが関の山だからです。

これは、バカにして言っているのではなく、人間的にはそれなりに立派ではあっても、圧倒的な認識不足は否めませんでした。

ただ、人工的なキリスト教神学であっても、その中には、微かながらも主イエスの語った命の言葉の残り香くらいはあり、その愛の霊流を、感じることもありました。

既成の教会での礼拝に、生きる拠り所を置いている人もいるわけですから、それは尊重しなければいけないと、思っています。

ただ、シルバーバーチをはじめとした霊界からの霊知識としての光がおろされているのですから、そちらに目を向けないのはあまりにももったいない、と、思っています。

そして、それこそが、主イエスの復活、そのものなのですから、ね。

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コロナウィルス対策には、換気が大切ですが、宗教界にも、真実の霊知識を取り入れる換気が必要だと、僕は、強く思っています。




61歳になっても、僕には知らないことが多い


先日、テレビをつけたら、鎌田實さんという人が出ていて、その人の話にすぐに引き込まれました。

どこかで見たことのある人だな、とは思ったのですが、僕は、この人をほとんど知らなかったのです。 

医師で、作家でもあるようで、その生い立ちが、養父母に育てられたとかで、特に、義父とのことを、話していました。

貧乏人は勉強などしなくていい、働け、と、義父に言われても、医者になりたい鎌田さんの意志は固く、苦学してアルバイトを掛け持ちしながら、医者になったこと、その後、つぶれかけた病院を再建したり、難民支援に奔走したりの人生。

恥ずかしながら、僕は、61歳になるこの年まで、鎌田實さんという人が、こんなすごい人だとは、知りませんでした。

鎌田さんを見ていて、シルバーバーチの言葉を思い出しました。

少し引用が長くなるので、読むのがだるい人は読まなくていいですよ。


 〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。

「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。

私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ヒト)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。

そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。

そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。

私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。

その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。


そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ホウハイ)として存在する霊的生命の幽(カス)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。

そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。 以上の如く私は述べるつもりです」

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モーリス・バーバネルという霊媒を通じて、3000年前に地上生活を卒業して今は高い霊界にいるシルバーバーチが、1920年から約60年にわたって、膨大な量の霊界通信を送ってきましたが、その内容は、一貫しており、この世とあの世を貫く宇宙法則としての神の摂理を説いたものです。

また、シルバーバーチは、名称にもこだわりを見せません。

以下もまた、霊訓からの引用です。


───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。

「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。

人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。 

ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。

皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。

今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。

神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。

宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。

教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。

内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。

人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。

私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」


上記のように、宗教の本来あるべき姿が、述べられています。

まあ、日曜日に教会に行くことが悪いわけではありませんが、それ以上に大切なことは、日々の暮らしの中でどのように生きているか、です。

シルバーバーチの語る言葉はシンプルで、誠実そのものです。

僕は、テレビで鎌田實さんを見ていて、シルバーバーチが説いているような生き方をしている人だなあ、と思いました。

僕たちの周りにも、鎌田實さんほどではないにしろ、小さな善意を向けている人は無数にいると思います。

たとえば、飢えている野良猫に食べ物を与える、とか、道に迷っている人に声をかけ、探している場所を教える、とか。

そうしたことも、シルバーバーチの言う宗教的な行為です。

一昨日、僕は飯能に行き、郵便局のATMで、お金をおろそうと思ったのですが、入り口に人が並んでいました。

ああ、みんなATMに並んでいるのだな、と思った僕は、通帳を取り出して立っていたのです。

そんな僕を見た、若い女性が僕に声をかけ、ATMだったら、空いていますよ、と、教えてくれたのです。

そのアドバイスのおかげで、僕は、すぐにお金を下すことができました。

その女性の小さな思いやりの声掛けも、シルバーバーチの言う宗教的な行為です。

つまり、簡単に言えば、人や動物、その他、あらゆるものに、親切にする行為すべてが宗教的な行為です。

だから、難しく考える必要はありません。

この世界には、そうした善意の個人が無数にいます。

あなたもきっと、その一人です。


様々な現場で苦しんでいる人たちがいる


たまたま見たのですが、NHKの今週のクローズアップ現代は、コロナ禍による自粛で首を切られた人たちや、仕事がなくなった現場の苦悩、あるいは、それ以外にも、通常の暮らしが立ち行かなくなった人たちを取り上げていました。

で、こうした困難の中にある時ほど、その直面する個人、だけでなく、たとえば、宗教団体なども、その本質が現れる、と、思っています。

以前、仁和寺の僧侶が、祈祷をしているだけでなく自ら手作りマスクを作り、無償供与している記事を書きましたが、今、多くの、宗教団体も、自粛しながら、静かな祈りをささげています。

しかしその一方で、人々が苦しんでいる状況を逆利用して、自己拡大に走る宗教団体が存在するのも、事実です。

また、マスクの送り付け商法に見られるように、金儲けの機会ととらえる輩もいます。 

事程左様に、このような苦難、困難の時には、その組織の真の姿が、露わになるものです。



人間には、神の子としての神性が宿っているので、自らの自助努力で、この困難にも立ち向かっていかねばなりません。


昨日はテレビで、いろいろな人が、坂本九さんの、上を向いて歩こうを歌っている映像を見ましたが、苦難の中でこそ、霊性もまた、磨かれていくものだと、思っています。


地上のあなた方は、自分で自分たちを救う方法を学ばねばなりません、と、シルバーバーチは言います。

The world must learn to perform its own salvationThere is no ready-made plan. There is no prepared. cut-and-dried system. Your world has to learn that, behind what it regards as the manifestations of life, there is the eternal reality of the spirit, that the children of matter are not only worldly beings but spiritual beings expressing themselves through bodies of matter.


地上のあなた方は、自分で自分たちを救う方法を学ばねばなりません。予め用意された救いの道はなく、すでに出来上がった救済組織もないのです。あなた方が生命の現われと思っているものの背後には、不滅の霊的存在が控えており、あなた方地上世界の子たちは、肉体を持った人間であると同時に、肉体を通して自己を表現している霊であることも学んでいかなければなりません。


最近気づいたことですが、僕の中には、まだまだ自分は生きられる、という慢心がありました。

その慢心ゆえに、努力精進を怠っていた部分があります。




ぐずぐずしてちゃいけねえ、と、僕も、思いました。

もっと俺は俺でありますように、とね。


やっと買えたマスクと困難な時における人としての生き方


深夜だったでしょうか、寝ているときに、かなり大きな揺れがありました。すぐに地震だということはわかったのですが、少し前の記事でも書いたように、このような時に、たとえば、首都直下型地震などがあったら、大変なことになるな、と、思った次第。

手持ちのマスクは数枚しかなく、それらを洗いながら繰り返し使っていましたが、今朝、買い物に行ったライフで、やっとマスクを買うことができました。


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サージカルマスク5枚入りが税込みで437円のところ、シールだけ貼ってもらって持ち帰ったので、エコ還元2円引きで、435円でした。

さて、昨日、9000万年前の南極大陸のことを書いたのですが、当時、まだ、人類は誕生していませんでした。食物連鎖の頂点には恐竜が君臨し、まあ、その恐竜も一様ではないのですが、人類はおらず、その肉体祖先にあたる哺乳類はいましたが、まだ、知能もさしてない状態。


では、人間のいない世界で、霊なる存在はどうしていたのか。

これを話すと、また長くなるので、ここで語ることは控えますが、以下の、シルバーバーチの言葉が参考になるかもしれません。


大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。


実はこのシルバーバーチ、高い霊界から膨大な量の通信を送ってきています。 

僕たちの肉体先祖は、あるいはネズミのような形をした哺乳類かもしれませんが、変化する地球環境の中で、そうした肉体を進化させながら、やがては類人猿、人間へと、進化させていき、人としての霊が宿るにふさわしい時に、大霊の息吹としての、霊が宿ったのではないでしょうか。

そういう意味では、聖書の記述も、比喩的ではありますが、真実を、突いているように思えます。


大霊としての神性を宿した人間が神のごとく生きることの可能性に言及しているシルバーバーチですが、たとえば、今のこの時期であれば、寝食を忘れて、コロナウィルス感染者のために働いている医療従事者の多くが、その、人の命を救うという使命感のみで生きるとき、それは神のごとき生き方、であろうと、思います。


あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。

上記のシルバーバーチの言葉にもあるように、大霊は宇宙法則としてこの世界を統治しているので、その働きは、人間を通して行います。

誰でも、一度や二度は、自分のことなど忘れて、誰かのために、夢中で働いたり、奉仕したりした経験はあるのではないでしょうか。そうした時には、まるで、自分が真空地帯にいるように感じたりしますが、もう、働き、そのものになっていて、そうした時には、確かに、神のエネルギーというか、大霊が働いているのを感じます。

この時期は、ほとんどの宗教団体が、宗派の違いを乗り越えて、礼拝の自粛などで、足並みをそろえています。

そして、実に多くの宗教団体で、自発的に、それぞれの仕方で、コロナ過の終息を願う祈りがささげられています。

先日見た番組では、仁和寺の僧侶がコロナウィルスの終息を願う祈願をしている様子を見ましたが、仏教、キリスト教、イスラム教の枠を超えて、それぞれの仕方で、そうした祈りをすることは、良いことだと、思います。

また、仁和寺では、僧侶の手作りのマスクも、無料配布していました。

僕は、今は、いかなる団体にも所属していませんが、宗教団体においても、それぞれの仕方で、人類の危機に立ち向かっていることは、良いことだと思いました。

年末年始は格差が身に染みる時期かもしれないが


大手企業の冬のボーナスの平均は95万円で、二年連続過去最高を更新。

こうしたニュースが流れると、大半の労働者は、自分と比較して、様々な思いを持つでしょうね。

僕も、現役時代は、そうでした。

また、この時期、海外に繰り出す親子連れなどを見ると、金のない独身者などは、みじめな思いになるかもしれません。

事程左様に、年末年始のこの時期は、世の中が浮かれる分、不遇を託つ人にとっては、つらい季節。

さて、昨日は、和食よへいで、ここ数年、恒例になっているしゃぶしゃぶ食べ放題忘年会を、AさんとIさん、の、3人でやりました。

ここで思ったのも、考え方や感じ方は、三人三様であるということ。

それ故に、違う見解を持った人たちとの、語らいは、世の中を複眼的に眺めるのに役立ちます。


ただ、この3人は、基本的に、精神的なことを優位に置いているという共通項はあります。

それゆえ、それぞれの事象に対する見解の相違を認め合いながらも、より高次の視点を模索するという発展的な関係が築けているのだと思います。

Aさんからは、グレタさんやローマ教皇についての、また別の視点を、提示してもらいました。

また、Iさんは霊的感性が優れていて、たとえば、霊臭、と言って、霊のにおい、あるいは、霊界のにおい、などが、わかるようです。

Iさんは、日蓮系の宗教家庭で育ち、まあ、日蓮系と言っても、日蓮宗、日蓮正宗、あるいは、日蓮正宗からたもとを分かった創価学会、さらには、顕正会、など、あるのですが、千葉の、あるお寺の名前を出して、そこの霊的雰囲気の話などをしていました。

僕は、こうした話はとても好きで、Iさんは、ほかにも、トラックドライバーで全国を回っていた時なども、熊本県から鹿児島県に入ると、雰囲気が全然違う、とも言っていました。

雰囲気は、霊域ともつながるので、幕末維新で活躍した鹿児島の地の独特の霊域というのがあるのだと思います。もちろん、幕末維新前から、島津家の家風というか、一本筋の通ったところがあるのだと思います。

熊本も、加藤清正が治めていた地ですから、こちらもそれなりの気風があるのだと思いますが、それぞれの地にはその地独特の霊域があるのかもしれません。

Iさんは、特に、伊勢神宮の霊域の荘厳さというか、そうした話もしてくれました。

まあそのように、人は、この世に生きながらも、実は、その本質は、霊、なのだと思います。

シルバーバーチは、あなたとは何か、という章の中で、次のように言っています。

いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。

あなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです

それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる〝神〟の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。


シルバーバーチの話をすると長くなるのでこの辺にしますが、霊臭を感じる能力のあるIさんは、それをギフトとして活用し、物事を判断する基準にしたり、あるいは、自分が間違った方向に行かないような歯止め、にもしています。

すべての人には、個性があり、特質があり、強みがあると思います。

それをどう活用し、生かしていくかは、当の本人に委ねられているのでしょう。

そう考えると、格差や、他人との比較ではなく、
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自己を掘り下げることこそが、まずはやるべきことだと思うのは、僕だけではないでしょう。

苦しい時は逃げていいし、逃げなきゃダメなこともある


逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ、と、かつてノストラダムスは言った。

僕は言う。

逃げよ逃げよ、すべてのブラック企業から逃げ出せ、と。

今朝、テレビをつけたら、電通で過労自殺した高橋まつりさんのお母さんが出ていた。まだ、50代で僕より若い。

それなのに、最愛の娘をなくし、今もその悲しみを抱えたまま生き、活動している。


彼女は、過労死がなくなるような活動をしていて、その彼女のもとには、企業で働く若者から便りが寄せられているようだ。

母子家庭なのに、母が苦労して大学まで出してくれた、だから苦しくても会社を辞められない、でも、苦しい、そんな手紙が寄せれれているようだ。

親思いのいい子ほど、親の苦労を考えたりして、ブラックな会社でも頑張ってしまう。

置かれた場所で咲きなさい、などという言葉を、狡猾に利用されることもある。

置かれた場所で咲きなさい、を書いたシスターも、理不尽な環境で耐え抜け、などという意味で書いたわけではない。

親鸞の悪人正機説にしろ、悪い奴が狡猾に利用すれば、善人は騙される。


主イエスの言葉も同じだ。

都合の良いところだけ抜き取られ、カルト教祖に利用される。


孔子の言葉なども、権力者にいいように使いまわされている。


その点、老子の言葉は、悪用されることは、ない。

タオは、道であり、無用の用を説き、付け入る隙がない。


真理とは、常に単純素朴であり、誰にでも理解できるものだ。


主イエスの教えも老子の教えも、シンプル極まりない。
そして、シルバーバーチの伝える真理もまさに同じだ。

宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。


祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです
そうでないと神の公正が根本から崩れます

うーん、僕も、いくつかの宗教団体の中で、自分たちこそ真理を知っている選ばれた人間だと思い込み、スピリチュアルエゴに陥りながらそうと気づいていない人間を、いやというほど見てきました。

何より僕自身が、その、スピリチュアルエゴの塊のような人間でした。

スピリチュアルエゴの思考の枠の中にいたら、そこから抜け出すのは、容易ではありません。

それは、僕自身の体験からも、よくわかります。

思考ではなく、気づき、が、覚醒をもたらします。

そしてその気づきは、単純素朴なものです。

なんだ、そういうことか、と、幼子のような気持でわかる、感じです。

宇宙の理法、真理というものは、一つの団体が独占できるものではありません。

それは、公正にして無私であり、法則として働くからです。

だからこそ、スピリチュアルエゴに毒された神を信じると称する信者よりも、往々にして、彼らが蔑む唯物論者や無神論者のほうが、はるかに霊格が高かったりするのです。

ブラック企業にしろ、宗教団体にしろ、苦しいと感じたり、疑問を感じたら、このあり方でいいのかと、一度距離をとる。

そして、逃げたほうがいいと判断したら、
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躊躇なく、全力で、逃げる

それが、大切だと、思います。

愛された犬や猫の死後の様子はどうなっているのか


ワンコやニャンコと暮らす人が増えていて、そうした日常を綴るブログも、多数、読むことのできる今は、僕のように、ペットを持たない人でも、それを読んで癒される、ということがあります。

また、僕の友人でも、ワンコやニャンコを飼っている人もいるし、先日、池袋で、K原君の、快気祝いをしたときも、そのK原君も猫を3匹飼っていて、写真を見せてもらいました。

また、快気祝いを企画したK内君も、やはり猫を複数飼っていると言っていました。

実は明日、友人でもあり先輩でもある、タクシードライバーのMさんのところに、最近家族になったという、ボストンテリアを見に行くのを、今から楽しみにしています。

さて、動物たちは、死後、どんな暮らしをしているのか、これは、ペットを飼っていない人でも、気になるところではないでしょうか。
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シルバーバーチが、このことについても言及しているので、少し見てみましょう。


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」

問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」

問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。



うーん、動物の霊界での様子の話は、この後も、問いかけと答え、という交霊会でのいつものやり取りという形で続くのですが、長くなるので引用はここまでとします。

まさにパウロが聖書の中で、そして何より、主イエスが語っていたように、愛こそが宇宙最大の力、のようです。

まあ、この、愛という言葉も、神という言葉と同様に、手垢にまみれ、誤解され、貶められてはいますが、それぞれの理解の及ぶ範囲で、愛、というものを考えてみるのもいいかもしれません。

モノを増やさない暮らし


ローコスト生活で質素な暮らしを実践するうえで大切なのは、モノを増やさないこと。

モノを増やさないことの利点は山ほどありますが、断捨離で多大な労力と時間を費やした経験のある人なら、わかるはず。

以前にも書きましたが、物を買うときというのは、僕にとってはよっぽどのとき。

そして、モノを買うときには、必ず、出口戦略を考えて、買います。これは、まあ、株を買うときと一緒ですね。

さて、先日、ノーマルタイヤをスタッドレスタイヤに換えたのですが、タイヤの収納場所は階段下の物入。

これまでは、タイヤを横にして積み上げ、実はその下に、食器類の予備品を入れた衣装ケースを置いていたのですよ。

しかしそれだと、タイヤの重みで衣装ケースが圧迫され、引き出しを抜くこともできませんでした。どうせ、食器の予備品だからいいか、と思っていたのですが、何か工夫はできないか、と。


そこで、今回はタイヤを立てて収納したのですが、その上の空間を利用するためにも、ツッパリ棚でも買おうかな、と、久し振りにモノの購入を考えたのですよ。

でも、ここで、待てよ、と。

何か家にあるもので、代用できるはずだとの思いが湧き、そこで閃き、かつて使い、今は使っていない、トレーニング器具が使えそうだということに。

タイヤをまたぐようにして置くことで、上の空間が使え、衣装ケースの引き出しも楽に動かせ、予備用の食器も簡単に取り出せるように。


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うーん、上手く収まってくれました。この赤いトレーニング器具は、ディップス用で、主に大胸筋下部を鍛えるものですが、今は、筋力もさほど必要なく、使っていませんでした。

かつて、ビジネスホテルで働いていた頃は、夜一人でベッド移動などという作業もあり、ベンチプレスで、70キロは、挙げるトレーニングもしていました。


まあ、そんな話はさておき、昨日、

何でもお金を出して解決しようとはせず、創意工夫で乗り越えようとするようになるので、人間の幅ができるというか、引き出しが増えます。

で、そういった節約や知恵や工夫が楽しいと思えるようになれば、これは、遊びになるし、ゲームをしているようなものです。

と、いう話をしたのですが、まさにその通りで、なるべくお金は使わず、知恵を出すと、こうなっております。

そして、モノを増やさず、今後も、更に物は減らしていく、と。

これは、「縮小期に入った自分に、何がどのくらい必要なのか」で書いた通りで、この世的なものは、どんどん捨て去っていき、それと比例して、霊的な覚醒のほうを拡大させていこうと、考えているからなのです。

そんなこんなで、今日も、シルバーバーチの言葉を少し。


人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。

霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達したことの指標でもあります。霊の宝は地上のいかなる宝よりも遥かに偉大であり、遥かに美しく、遥かに光沢があります。

物的なものが全て色褪せ、錆つき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

うーん、僕に残された時間がどのくらいあるかわかりませんが、今後も断捨離を継続し、モノに関わる時間と労力を減らしつつ、霊的覚醒のほうに、貴重な時間とエネルギーを傾斜配分していくことを考えています。

縮小期に入った自分に、何がどのくらい必要なのか


人生には、拡大していく時期と、その後、縮小していく時期があると、思っています。

今年還暦を迎え、年が明けて来年3月には、61になる自分。

人生の残り時間を考えると、このままで良かろうはずはない、と思える今日この頃。

実は、アルコールが、また一段と、弱くなりました。

もともと、酒には弱いほうで、父親などは、一滴も飲みませんでした。

僕は、社会の荒波にもまれるうち、酒の味も覚えましたが、それでも、強いほうではありません。まあ、付き合い程度に飲む程度。

ただ、今度の土曜日、先日も言いましたが、K原君の、快気祝いが池袋であり、飲み放題だそうですが、僕は、乾杯ビールだけにとどめて、あとはソフトドリンクにしようと思っています。まあ、集まるのは昼間だし、それが良いかな、と。

で、何が言いたいかと言うと、今、自分は、人生の縮小期に入っており、先日話した古代インド的な考えにも通じますが、林住期、ですね、まあ、内省し、おのれを見つめる時期なのかな、と。


そしていずれは、林住期ならず、ご臨終と相成るわけで、そのときに、少しでも後悔というものを少なくしておきたい、と、思っています。


どのように生きたとしても、十分ということはないのでしょうが、まあ、70点くらいは、自分に与えてあげたい、と、思っています。

僕は、自分の人生には満足しているし、後悔はないのですが、さらに、厳しく、自己採点すると、導かれてきた道筋には満足しているということであって、自助努力と言いますか、自分の日々のあり方については、大いに改善すべきとの思いがあります。

なので、今の自分は、甘く採点して65点。

まずは、平均して、70点くらいは自己採点できる日々にしたいと、思うようになりました。

そのためには、酒など、飲んでいる場合ではない、と。

まあ、気分転換で、たまに飲むのは良いし、他者との交流にもなる飲み会も、たまにはいいとは思うのですが、日々の暮らしの中からは、なるべく、アルコールは、遠ざけたほうがいいように思い始めています。

これにより、今後は、ますます、出費が減ることが予想されます。

まあ、これまでも、家飲みが基本ですから、月にしても、2000円以下だったと思いますが、今後は、これが、限りなくゼロに近くなるかもしれません。

今日も少しだけ、シルバーバーチの言葉を引用します。


 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。
 
あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。


その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。


同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません

ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。」

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長くなるので、引用はこのあたりでやめますが、縮小期に入った自分には、そう多くのものは要りません。

いやむしろ、必要なものを見極め、純度の濃い時間を生きなければもったいない、との結論に至りました。

お金を始めとした物質的なもの一切は、この地上を去るときに置いていかねばなりません。

仏陀釈尊の筏の例えの、筏のようなものです。

筏は、川を渡るときには必要ですが、渡り終えたらそれを捨ておいて、また歩き続けます。

魂は永遠であり、肉体はこの世を浮き渡っていく船のようなもの、ですからね。


皆さんはこれまでの人生に最善を尽くしたと思われますか


今、COP25が、スペインのマドリードで、開催されていますが、日本は、不名誉な化石賞を、受賞したようですね。

さて、地球温暖化対策を求めて、一人で座り込みの抗議を始めたグレタさん。

やむにやまれぬ思いに突き動かされて始めた行動ですが、この汚濁にまみれた3次元世界で、何かを成そうとすると、さまざまな困難に見舞われます。

また、彼女の思いは純粋だとしても、その彼女を利用して自団体の主張に結びつけようとするものが現れたり、彼女の行動そのものを邪推する者もあらわれます。

信念を持って、事を行い、貫く者は、他人からの批判や誤解は怖れませんが、彼女が影響力を持てば持つほど、さまざまな団体や個人までもが、その影響力に群がろうとします。

こうしたことは、あらゆる場所で起こっており、ダライ・ラマと一緒に写った写真を、自分の本の中表紙に差し込んで権威付けを行った麻原などは、そのいい例。

桜を見る会も、ジャパンライフという悪徳会社が、信用度を増すために、利用したように、悪いことを考えている人間は、どんな権威や影響力も、自分の利益のために利用しようとします。


グレタさんのことや、その周囲に群がる人たちのことも、僕は深く知る立場にはありませんが、彼女の発心、は、純粋なものであり、やむにやまれぬ、切実なものであったであろうことは推測できます。

そのような発心、情熱が、世の中を変えてきた歴史があります。


さて、今日は、少し、スピリチュアルな話になりますが、いつもは、交霊会で、質問されてそれに答える立場のシルバーバーチのほうから、参加者に質問する、ということがありました。以下が、その内容。


ある日の交霊会でシルバーバーチの方から一連の質問をしたことがある。

 最初の質問は 「皆さんはこれまでの人生に最善を尽くしたと思われますか」 というものだった。

 これに対してメンバーの一人が 「誰ひとりそう断言できる者はいないと思います」 と答えると、シルバーバーチは別のメンバーに対して 「あなたはどういう点がいけなかったとお考えですか」 と聞いた。

すると 「毎日、毎時間、数えきれないほどです。こうするのが自分の責務だと思っていながら全力を投じていないからです。これが正直な答えです。私にとっての〝赦し難き罪〟です」 と答えた。

もう一人のメンバーも 「かくあるべきということに四六時中最善を尽くしている者はいないというのが正直なところだと思います」 と言い、さらにもう一人も 「もしそれが出来たらわれわれは恐るべき人間ですよ」 と答えた。

 シルバーバーチの次の質問は 「今お持ちの知識を携えてもう一度人生を初めからやり直すことができたら、もっと立派なことができたはずだと思われますか」 というものだった。

 これに対して一人は 「ええ、むろんです」 と答え、もう一人は 「私はそうは思いません。早くからこうしたことを知っておりましたから、それは私にとって言い訳にはなりません」 と答えた。すると最初に答えたメンバーがその人に 「少なくとも人生を歩む上での方向感覚を与えることにはなっていたでしょう」 と述べた。

 一方、かつてメソジスト派の牧師だったメンバーは「私の場合は、もし早くから知っていたらメソジスト派への改宗を説くことだけはしなかったろうと思われます」 と答えた。
 
 別のメンバーは「とにかく私は怠慢でした」とだけ答え、もう一人は「私は知らずにいたことを永い間悔やんでおります。早くから知っていたら大変な違いが生じていたはずだと思うからです」と答えた。そして最後の答えは「多くの好機を無駄にしてきました」というものだった。


 こうした答えを聞いてシルバーバーチは次のように語った。

 「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。

行く手に転がる石ころを一つ一つ取り除いてもらい、困難は生じる前に簡単に片づけられ、いかなる障害が地平線に浮かんでも、まるで魔法のように消されてしまうような人生を送っていては、未発達で、何の試練も体験しない、幼稚な霊をこしらえることにしかなりません」

 すると当の本人が「でも、私が説いた(誤った)教えを聞いた人たちはどうなるのでしょうか」と聞いた。
 「あなたがその人たちに及ぼした(悪い)影響を必要以上に誇張してお考えになってはいけません。その人たちはその人たちなりに、そうした誤りを通して学んでいかねばならないのです。葛藤と困難、苦悩と障害は霊性の開発にとって必須の要素なのです。

たとえあなたが霊的知識(スピリチュアリズム)を早くから知っていたとしても、相変わらず葛藤は葛藤として続いていたことでしょう。ただ、私がもっと早く、困難への対処の仕方を教えてあげておれば良かったということは言えましょう」

 次に“私は怠慢でした”、と答えた人にシルバーバーチはこう述べた。

 「あなたはご自分が怠慢だったと考えておられる。それはあながち間違っているとは言えませんが、あなたはもう大いにその埋め合わせをしておられます。ご自分では気づいていなくても、立派な貢献をしておられます。ご自分では小さく見くびっておられますが、その判断は公平を欠いております」

 “知らずにいたことを悔やんでいる”と答えた人に対しては「償いをすることによって却ってその有難さを知ることになることもあるものです」と答え、“早くから知っていたので今さら言い訳はしない”と答えた人に対しては 「あなたはずっと正しい指導を受けてこられました。

ほぼ物心がついた頃から今日までずっと霊的な糸で結ばれております。(全員に向かって)人生は釣合い、照合、再照合、そして埋め合わせといったことの繰り返しであることを認識して下さい。

皆さんはそれぞれの生活にとっぷりと浸っておられるために、これまでご自分がどれほど立派な貢献をしてきたか、そして今どんな貢献をしているかがお判りになりません。視野がぼやけております。天秤を水平に持つことができないのです。

しかし大切なことは、知識がすべてに優先するということです。ですから、霊的知識の普及にできるかぎりの努力をしなければなりません。私がこの仕事を依頼されて地上をいかなる世界にすべきかという未来像を画いた時に、何よりも優先させねばならないと考えたのもそのことでした」



こののち、シルバーバーチは、また違う質問をすることになるが、長くなるので、引用はここまでにします。

葛藤と困難、苦悩と障害は霊性の開発にとって必須の要素であると、シルバーバーチは言います。

今、苦難の中にある人も、その苦難困難は、無駄ではないはず。

人は人生の途上で、さまざまな紆余曲折や回り道も歩きますが、そのすべてが、無駄ではなく、それがあってこその、今、であると。


最近、引きこもって内省したい思いが強くなっている僕自身も、また新たな人生の転換点に、立っているのかもしれません。

そして、なにも、なくなった・・・

現生人類の歴史という観点で見れば、2万年ほど、そして、もう少し広く解釈した人類種という観点からすれば、700万年ほどが、人、あるいは、人らしき存在としての長さです。

一方、長くこの地球の王者として君臨した恐竜は、2億年には届かないものの、1億数千万年の繁栄を謳歌しました。

もし、隕石の衝突という外部要因がなければ、恐竜の繁栄は、さらに長いモノになっていたでしょう。

この、隕石の衝突がなかったならば、という仮定を元に、知能を持った二足歩行する恐竜の話が尾ひれを付けて、独り歩きしていきます。まあ、レプタリアンとか、レプティリアンなどに代表される、妄想話、ですね。

しかしですね、1億数千万年もの長い時間、進化もせず、同じような暮らしをしていた恐竜種と、わずか2万年で、急速の進化を遂げた人類種を、一緒には論じられないでしょう。

また、進化論を根拠として、神はいない、と結論付ける人に言いたいのは、神という言葉ほど、誤解を生みやすい単語はない、ということ。

確かに、白ひげを生やした仙人のような神がこの世を作ったとは思いませんが、宇宙の意志のような存在、さらに言えば、シルバーバーチの説く大霊なる神が、この世の物理法則にのっとった形で、霊的存在を徐々に進化させた、と、考えることは、大いに理性的でしょう。

さて、今日は、恐竜の話ではなく、無常についての考察。

僕たちの住むこの地球も、やがては最後を迎えます。

まあ、地球の寿命が尽きる前に、人類の愚かな行為が、自ら自滅の道を歩む可能性もあります。

まあ、そうした人類の愚かさは横においても、地球そのものにも惑星としての寿命があり、仮に地球が存続していても、太陽が恒星として年老いて、赤色矮星などになれば、その過程で、もはや地球は、今のような状態では存続しえません。

つまり、人類はおろか、生物種そのものが住めない死の惑星になるでしょう。

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そしてそのハルカのちには、この銀河系そのものが、お隣のアンドロメダ銀河と衝突します。

そのような視点に立って宇宙を眺めれば、仏陀釈尊の説く、諸行無常も、わかりやすいのではないでしょうか。

無常なのは、祇園精舎の鐘の音だけではありません。


令和初日の墓参り、令和は霊和に通じる

令和初日は、晴れていた午前中に、墓参りを済ませました。

まずは、墓石の周りの草を抜き、墓石周りを濡らしたタオルで清掃。

その後、線香をあげて、4人の家族のことを想いました。

その墓には、生まれてすぐになくなった僕の弟、僕が16歳のときに他界した僕の実母、そして、3年前に他界した父、去年亡くなった母、が眠っています。

まあ、眠っていると言っても、すでにその霊は、霊界に行っていて、そこには遺骨しかありませんが。

今、改めて思うに、僕は今、60歳。平均年齢まで生きるとしても、あと20年ほど。父と同じくらいまで生きるとしても、30年ほど。

いずれにせよ、そう長い時間が残されているわけではありません。

そう思うと、この世の憂いはほどほどにして、実在界、あるいは霊界の、視点に立って、改めて自分の人生の今後を見定めるべきであるとの思いを強くしています。

そこで昨日は、もう何年も前に読んだ本、オーエンの「ベールの彼方の生活」、を取り出して、再読を始めました。全4巻からなるこの本は、コナン・ドイルも激賞する霊界本です。


また、このブログでのコメントを通じ、スマイルサンさんから教えていただいたダスカロスの本、2冊も、4月末に入手し、読み始めています。


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ダスカロスはその生き様からして本物の覚者であり、まさに、組織宗教を打ち砕く先駆けとなった先覚者だと思います。

シルバーバーチも、繰り返し、組織宗教はすべてダメであると明言し、その理由も明確に示しているように、今後、いかなる組織宗教も、衰退の一途を辿っていくことでしょう。

この流れは、もはや止められないし、止める必要もありません。

まさに令和は、霊性の時代の幕開けです。

その意味で、令和は霊和でもあろうと、思います。

この地上から、宗教組織が無くなることが、天の願いです。

それは、公明正大な実在の世界である霊界が、宇宙法則でもある唯一の神を中心とした秩序が行き渡っている世界だからです。

その秩序を、この地上世界にも、もたらすことが、天の意志です。これは神の経綸でもあり、摂理でもあります。

宇宙法則により統治する神は、旧約聖書で描かれるような独善的偏執的な神ではありません。男でも女でもなく、宇宙意識とでも呼べるような存在です。

それは、シルバーバーチが、大霊と呼ぶ、えこひいきのない存在です。法則による支配なので、えこひいきが発生する余地はありません。

自分が蒔いた種は、自分が刈り取るのです。

誰かが十字架にかかって、その血のゆえに罪が許されることはありません。また、カルト教祖も、宇宙法則を免れることはできません。

公明正大な法則が、この全霊界、全宇宙に、張り巡らされています。

まさに、老子のいうところの、天網恢恢疎にして漏らさず、です。

だからこそ僕たちは、この宇宙法則に信頼を寄せることができるのです。

カルト教祖のエゴに苦しめられてきた僕だからこそ、シルバーバーチの説く大霊、法則を通してこの全霊界、全宇宙を支配する真実の神に出会ったときの喜びは、筆舌に尽くしがたいものがありました。

そのときから、カルト教祖のいかなる言動も、僕にとっては無力となりました。

組織宗教の寿命は、そう長くはありません。おそらく、数百年ののちには、この地上から、組織宗教はなくなっているでしょう。

組織宗教はなく、素朴な霊界知識が当たり前のように公認されている世の中に、なっているでしょう。







人類の歴史はまだ日が浅く、未熟者の集まりではありますが、少しずつ、世界はよくなっています。

3歩進んで、2歩下がっても、1歩は、前に進んでいるから。

そんなことを繰り返しながら、少しずつでもましになっていく人類。

そう、思います。


運命というのは、もしかしたら決まっているのかもしれない

これに対してはいろいろな意見があり、どの意見もそれなりに一理あるのですが、未だ僕の中で、こうだ、と断言できずにいるのが、運命について。

今現在の、僕のおおよその考え方では、生まれてくる前にある程度の人生計画は立ててくるが、生まれた後はいろいろな要素が絡んでくるので、そうそう計画通りに行かないこともあるし、概ね計画通りに進むこともあるという、不確定要素もかなりある、みたいな、考え方をしています。

たとえば、シルバーバーチなども、こうした質問は、降霊会で受けていて、だいたいは決めてあるが、そう細かなところまでは決めていないという、自由意思を尊重したものだったように思います。

僕は、シルバーバーチの教えであっても、はいそうですか、と簡単には納得しないので、一応自分で吟味します。まあそれは、何人かの教祖を妄信した過去の反省から来ているのですが。

で、今働いている僕のアルバイト先での面接のとき、工場側の課長と係長に初めて会ったのにもかかわらず、何とも言えない親しみのようなものを感じました。働いて9か月になる今も、それは変わりません。

何となく、昔から知っている人のように思えるのです。

どの時代かは明確にはわかりませんが、戦国時代かなあ、同じ藩にいて、ともに、外敵と戦った仲間のような感覚です。これは、ちょっと説明が難しい感覚ですね。

で、僕はいくつかの宗教団体を経験しているのですが、どうも僕は、それぞれの団体に所属すべきだった運命のようなものを感じます。

そして、それぞれの団体で、それぞれ学ぶべきこと、体験すべきことがあったのだ、ということを感じています。

だから、僕がかつて所属していた3つの団体について、恨み心はまったくありません。

つまり、その時の僕にとって、それぞれの団体は、僕の導き手であった、と思うのですよ。

それゆえに僕は、ダスカロスの言葉、「自分の人生こそが自分のグル【導き手】なのです」が、とても得心が行ったのですね。


その時々で、必要なグル、つまり導き手は、変わるのではないか、ということです。たとえそれが後になってカルト宗教であったとわかったとしても、そのときの自分には大切な教えであったわけです。

僕は、統一協会においても、幸福の科学においても、あるいは、幼少期から父の影響で信者になった、世界救世教においても、光体験というべきものを経験しています。

シルバーバーチが、ラベルを選ばずに指導する、と言っていることもうなずけます。

彼の言うラベルとは、共産主義などの主義主張や、民族、あるいは宗教団体、など、レッテルを張られたもののことです。

多くの人は、レッテルで人を判断します。まあ、そのほうが考えなくて済むし、楽ですからね。

たとえば、彼は共産党だから何々だ、彼女は在日だから何々だ、あいつは中卒だから何々だ、その人はオウムにいたから何々だ、みたいに、安易に判断を下し、レッテルを張って分類します。

しかし、レッテルを張られる前に、まずは、どの人も、一人の人間です。

その人間を見ずして、安易に人を決めつけるのは如何なものかと、昔から思っていました。

ただ、思い込みの強い人間には何を言っても喧嘩になるだけなので、僕はよほどのことがない限り静観していますが。

さて、僕の考えも固定したものではなく、今後も変化していくと思われますが、運命というモノは、大筋において、だいたい決まっているように、思っています。

最低限これだけをおさえておけば、生きるのがかなり楽になります


一昨日、昨日と、スピリチュアルな話をしてきましたが、多くの人が求めているのは、救いだと思います。

ところが、巷にあふれているのは、救いを表看板にした強欲な宗教屋が多い現実があります。彼らは宗教屋であって、宗教家ではありません。

はじめは宗教家であったのかもしれませんが、だんだん自分が偉いと思うようになり、実際に教団内で神様扱いされるうちに、ますます自己洗脳に拍車がかかり、次第に裸の王様のようになっていきます。

自分に対し意見をしてくる者は排除し、場合によっては、悪魔認定して、遠ざけるだけでなく、偏執的なまでに袋叩きにします。歯止めの効かないエゴが暴走を始めても、教祖である彼を、誰も止められません。下手に進言などしたら、今度は自分に矛先が向かってくることがわかるため、次第に、教祖の機嫌をとるようになっていきます。

こうなってくると、ますます教祖の側近にいるのはイエスマンばかりとなり、あるいは、その側近は女性ばかりが増え、本当に信仰心の熱い情熱ある職員は苦しい選択を迫られます。自分を犠牲にして真実を言うか、口を噤んで保身に走るか、です。

もとより、教祖を妄信している能天気な職員には、そのような葛藤は生じません。教祖の言うことがすべて正しいと妄信しているので、葛藤など起こりようがないのです。それはある意味、この上なく楽なのです。

ただ、どのレベルで疑問を覚え、葛藤が始まるかは個人差があるので、何とも言えませんが、さすがに教祖が明らかに反社会的な行動を指示するようになったら、大半の職員はおかしいと思うのではないでしょうか。

しかし、オウム真理教の例もあり、日本のみならず、世界を見渡せば、破壊的カルトというのは、現に存在していますから、妄信者ほど恐ろしいものはありません。しかも、本人は、正しいことをしていると、信じ切っているのですから、もはやつける薬はないというべきでしょう。

さて、こうした話をしているときりがないので、結論を言うと、いかなる宗教組織にも、本当の意味であなたを救済する力はない、というのが、僕の意見です。

あなたを救済するのは、宗教組織ではありません。

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。

もともと仏陀とは、目覚めた人、という意味ですからね。

仏陀になる、と思う必要はありません。

少しだけ目が開けばいい、のですから。

それだけで、かなり、楽になります。

お布施も献金も要りません。

お布施や献金の向かう先はどこですか。

あなたの所属する宗教組織です。

その宗教組織は、清らかですか。穢れてはいませんか。詭弁を弄して、あの手この手であなたからお金を取ろうとしていませんか。

仏教には、三輪清浄という教えがあります。

これは、「布施というのは、施者・受者・施物の三輪(さんりん)が清浄(しょうじょう)であり、空寂となっていなければならない」

ということです。

つまり、受者、この場合は教祖、あるいは、その宗教団体、になりますが、これが穢れた存在であってはいけないのです。

そもそも、お布施で生活する人には、一般の人以上に、倫理観を求められるのは当然でしょう。その受者が、言動をころころ変えたり、すべてを人のせいにして独善的な立場に固執するとしたら、清浄どころの話ではありません。普通の人、凡人以下です。

僕が知る限り、あらゆるカルト宗教の教祖は頭がいいです。無駄に頭がいい、と言っておきましょう。

しかし、本当の意味での知恵はありません。なぜなら、因果の理法はくらませないからです。因果の理法、わかりやすく言えば、原因と結果の法則、です。

たかだか数十年のこの世の偽りの栄光のために、最も大切なものを失うからです。イエスも、「全世界をもうけても、あなた自身を失うとしたら、何の益があろう」と言っているように、カルト教祖の来世は、憐れなものにならざるを得ません。

しかし、ひとたび教祖という特権的な立場を手に入れてしまうと、その神の座は手放しがたいのでしょう。

ただ、これだけは言っておきます。

あなたを神とあがめているのは、一部の取り巻きとその信者だけですよ、と。その狭い世界で猿山の猿になっているだけですよ、と。

世間を舐めてはいけません。

この世間の中にこそ、実は知恵ある者、質実に生きながら真面目に暮らしている多くの善男善女がいるのです。教祖であるあなたは、彼らを救済すべき憐れなる者と見下しているかもしれません。

しかしあなたが本当に悟っているならば、人を見下すことは絶対にありません。なぜなら、すべての人に仏性が宿っていることがわかるからです。

相手の仏性が見える人間は、相手を尊重するようになります。決して、見下すような態度にはなりません。

宗教的指導者の役割は、相手がその仏性に気づくように手伝うことだけです。それ以外にやるべきことはありません。

まかり間違っても、自分を拝ませたり、自分の像を作って、それを売りつけることではありません。また、信者同士の自己顕示欲を刺激して、お布施や献金の額を競わせることでもありません。

あなたが真に神であるならば、存在するだけで感化力があるはずです。

あなたの周りに立ち現れる現象は、決して魔が競い立っているのではなく、あなたの言動が招いた因果応報の結果です。

少し、教祖に対する問いかけから離れましょう。

どのカルト宗教の教祖も、もはや救いようのないほどエゴ性が強いので(だからこそ教祖になれたのかもしれませんが)、彼らには、いかなる問いかけも徒労に終わるのですが、今日はあえて、試みてみました。

さて、我のかたまりの、エゴの権化たる教祖は放っておいて、大切なことは、苦しんでいる人が楽になる方法です。

それは、真実の霊的知識を得ること、です。

たとえば、シルバーバーチの霊訓などは、僕が最も信頼を寄せているものです。他には、アラン・カルデックやモーゼスなどがいますが、そうした外部チェックが厳しい中を潜り抜けてきた霊訓には、共通した真実性があります。

ここで言う外部チェックとは、その霊の発言の正邪を判断する審神者のようなものです。

シルバーバーチの霊訓などは、毒舌と率直で辛辣な批評家であり、当時もっとも懐疑的だったジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが、これでもかと吟味した後に本物であるとして自らホームサークルを主宰して自宅で降霊会を開き、その人脈を生かして、各界の著名人を招待したほどです。

そして招待された人たちは、最初は懐疑的だった人も、シルバーバーチの説く霊的真理の一貫性や、その誠実さ、謙虚さに感化を受け、死後の生活に確信を持つに至りました。

ただ、漠然と神を信じるよりも、真実の霊的知識に基づいた実感を伴った信仰のほうが盤石であることは言うまでもありません。

このことは、主イエスも、

「『そこで,わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆,岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲っても,倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆,砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家に襲いかかると,倒れて,その倒れ方がひどかった。』
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると,群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく,権威ある者としてお教えになったからである。」

と、マタイによる福音書の中で、述べています。

確かに宗教組織も、悟りに至る一つの段階として機能する場合もあり得ます。ですから、もしあなたが、どこかの団体に所属していて、その信仰で満足しているのならば、その信仰を続けるのも良いでしょう。

ただ、いずれ、その団体に嫌気がさしたり、活動がきついと思ったり、矛盾を感じたりして、その組織を離れようとしたときに、その組織はあなたを、離れたらサタンの側につくことになるとか言って、いろいろな形で暗に離れないように仕向けるかもしれません。

事実、サタンという名前ほど、さまざまな宗教組織の支配者にとって、便利な言葉はありません。

しかし、シルバーバーチの霊訓をはじめとした真実の霊的知識を得ることで、彼らの脅しは、何の効力もなくなる、のです。

さて、先ほど僕は、

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。」

と言いました。

スピリチュアリズム普及会、というのがあり、これは宗教団体でもなく、自発的なサークルだと思いますが(僕自身も、このグループの誰とも面識はありません)、まったくの善意で(これこそがシルバーバーチの教えにかなうことだからでしょうが)、押さえるべき基本的な霊的知識のすべてを無料公開しています。

紙の媒体、すなわち本が欲しければ買うこともできますし、訳の分からないものにお金を使いたくないと思えば、無料で、そのサイトで公開されている霊的知識を自分のペースで学んでいけば良いのではないかと思います。

特に初心者におすすめなのは、500に及ぶあの世からの現地報告、ではないかと思います。

僕も去年、母を亡くしましたが、身内の方を失った方や、死んだ後の生活がリアルな形で知りたい人には、うってつけの本ではないか、と思います。

死は永遠の別れではない、とわかれば、とても気持ちが楽になりますからね。

勿論、巷の既成宗教やカルト宗教でも、死後の世界を教えていますが、でたらめなものが多かったり、教祖の独善的な解釈であったりします。さらに、その教えの対価としてお金を要求してきます。

特にカルト宗教は、美辞麗句で飾りながら、その本質はどこまで行っても金・金・金、なのです。

一方、宗教組織ではないサークルは、自発的に行っているもので、営利団体ではありません。

聖書にも、『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』(マタイ10:8)とあるように、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバーチが、幾多の困難を乗り越えて、無償で届けた宝物です。

ですから、この種のサークルは、非営利団体であるべきなのです。

彼らは、神の道具としての役割に霊的な喜びを感じて行っているだけで、見返りなどは求めません。あなたが気づき、幸せになってくれれば、それで良しとしています。

しかも直接にはかかわらないので、あなたが喜ぶ姿すら知りません。まあ、存在の愛、に近いかもしれません。

では、そのスピリチュアリズム普及会のURLを貼り付けておきます。

www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

勿論、スピリチュアリズム普及会、で、検索しても上位表示されるので、そこから覗いてみても良いでしょう。

気が向いたときに学び、日々の生活の糧にしていただければ、と思います。


閲覧注意、ちょっとスピリチュアルな話なので(しかも話が長いので)


僕のブログは、当初は介護生活を中心にその記録を残そうと始めたものです。

その後、在宅介護していた父が老衰でなくなり、さらに去年母もなくなったことで、今は介護はしておらず、そのため、介護ブログではなくなっています。

今は、介護離職後のローコスト生活について、主に書いていますが、ときどき、スピリチュアルなことも話します。

それは僕が、そちら系の探求を長年続けてきたためで、どうしても多少は、そうした話もしてしまいます。

で、今日は、ちょっと少し掘り下げて話しますので、こういう種類の話が好きではない人は、このあたりで読むのをやめておいたほうがいいかもしれません。

では、本題に入ります。

僕は、これまで何度も話しているように、少ない預貯金、と、少々の株、がありますが、その総計を足しても、わずかな資産です。

で、今は、アルバイトをしています。

一般的に言って、経済的には豊かではありません。住宅ローンも抱えています。

しかし、別に、困ってもいないし、実は、幸せです。

前記事で、少しアイデンティティの話をしましたが、僕は、この地上世界に、アイデンティティを置いていません。

だから、楽なのです。

言ってしまえば、それだけのことです。

大半の人は、財産、家や土地、車、宝石、あるいは、容姿、地位、などに、アイデンティティを置いています。

たとえば、容姿。

僕は、頭が禿げかかっています。僕が容姿にアイデンティティを置いていたら、禿げることは苦しみです。僕は、そういうところにアイデンティティを置いていないので、そういうことは苦しみにはなりません。

しかし、先日のように、腰が痛いとか、実際に体の痛みが発生すれば、当然それに対しては、苦しみを感じます。

そういう苦しみは感じますが、そうした身体的な病とか怪我による傷とか、あるいはお金がなくて支払いに困るとか、そうした際には苦しみは感じますが、自分にできる対応をして、あとは天に任せます。

天のところを、神、と変えても良いです。

ただ、神、という言葉は、あまりにも誤解を受け、人によって、これほど違うとられ方をする言葉も珍しいほどなので、滅多には使いません。

仏陀は、諸行無常を説きました。

すなわち、常なるものはない、一切は変化する、と。

また、諸法無我を説きました。

あらゆる事物には実体がない、と。

で、この諸行無常と諸法無我を悟ることにより、涅槃寂静の境地に至る、というのが、本来の仏教です。

この、涅槃寂静の境地に、かなり近いところにいると思えるのが、白隠禅師です。

少し長くなりますが、白隠禅師の話に入ります。

日本のある町に白隠という禅の老師が住んでいた。彼は人々の尊敬を集めており、大勢の人が彼の教えを聞きに集まってきていた。
あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠した。怒り狂った両親に、子どもの父親は誰だと問い詰められた娘は、とうとう白隠禅師だと答えた。 両親は激怒して白隠のもとに怒鳴り込み、
「娘は白状したぞ、お前が父親だそうだな」、となじった。
白隠は、「ほう、そうか?」と答えただけだった。

噂は町中どころか近隣の地域にまで広がった。
禅師の評判は地に落ちた。だが禅師は意に介さなかった。
誰も説法を聞きに来なくなった。だが禅師は落ち着き払っていた。

赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとへ連れてきた。
「お前が父親なんだから、お前が面倒を見るがいい」。
禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をした。

一年経ち、慙愧に耐えられなくなった娘が両親に、実は赤ん坊の父親は近所で働く若者だと白状した。両親はあわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申し訳なかったと詫びた。
「ほんとうにすまないことをしました。赤ん坊を引き取らせてもらいます。娘が、父親はあなたではないと白状しましたんで」。
「ほう、そうか?」。
禅師はそう言って、赤ん坊を返した。

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。彼は、良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉えない。 
彼は誰の被害者でもない。

彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするから、その出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。

赤ん坊は慈しまれ、世話をされた。
抵抗しないという力のおかげで、悪い出来事が良い結果になった。
つねにいまという瞬間に求められたことをする禅師は、時が来たら赤ん坊を手放したのだ。


上記の、白隠禅師の逸話は、エックハルト・トールの「ニューアース」からの引用です。

果たして今現在生きている宗教家で、白隠禅師のような対応ができる人はいるでしょうか。

世界には、仏陀の生まれ変わりを自称する者がかなりいるそうです。キリストの生まれ変わりを自称する者は、数がさらに多いそうです。

あるいは、また、そこまでの自惚れはないにせよ、教団を持ち指導している宗教者も世間には数多くいます。

しかし、彼らを見ると、その多くが、執着のかたまりです。むしろ、世間一般の凡夫よりも欲が深く、業が深いように、僕の目には見えます。

シルバーバーチの霊訓に、以下のような記述があります。

その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

シルバーバーチのことを知らない人も多いと思いますが、3000年ほど前に地上に生きていたことは述べていますが、誰に訊かれても、最後まで、その名を明かしませんでした。現在は非常に高い霊界にいるため、霊界側に一人霊媒(この霊媒がレッドインディアンだった)を立て、さらに地上の霊媒、バーバネルの口を通して語るというツイン霊媒で、メッセージを送る方法をとらざるを得ませんでした。

トマス福音書には、イエスの言葉として、「通り過ぎるものでありなさい」という言葉が残っています。

で、話を整理すると、仏陀の説く、諸行無常、諸法無我も、主イエスの説く、「通り過ぎるものでありなさい」も、ともに、この地上にアイデンティティを置いていないのです。

僕たちの本籍は、プラトンがイデアと呼んだ、実在の世界、にあります。

簡単に言うと、僕たちは、実在の世界(霊界と呼んでも良い)から、この地上に出てきて、経験を積んでいるというか、まあ、旅をしているようなものなのですね。

だから僕たちは、一人の例外もなく、すべてが旅人です。

どこに行かなくても、
家に引きこもっていても、実は、旅人なのです。

とまあ、かなり長くなったので、今日はここまで。


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