介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

シルバーバーチ

カルト信者の認知の歪み(ゆがみ)についての考察



安倍さんロスの痛手は、未だ多くの人の心に、

多大なる苦しみと悲しみを与えたままです。

僕も、その一人です。

悲しんでばかりもいられず、

また、食べていかねばならないため、

先週の21日に、3つ目になるアルバイトをスタート。


しかし、その初日に熱中症になり、

3日間も寝込むことに。

ブログを書くどころでは、ありませんでした。


そして、日曜日頃には回復してきたので、

アルバイト先に電話し、一日でやめることを告げました。


なので、3つ目のアルバイトの話は、消えました。


本当はそうしたことを綴るのが、

このブログの趣旨なのですが、

今は、このカルトの問題を放置しておけず、

統一教会をはじめとしたカルトの話題が続きますが、

ご理解ください。


僕自身が、統一教会の食口(シック)として、

専従生活を送ったのはわずか2年間ですが、

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その2年間の息苦しさ、閉塞感、兄弟姉妹たちとの心情的高まり、使命感に生きる生活、自己矛盾、自家撞着、などなど、その凝縮があって、その後の廃人生活、塗炭の苦しみ、闇の中の呻吟、そして、そこからの解放、へとつながっています。


カルト信者の思考を理解する手助けとして、

バーンズが取り上げている、10のパターンは参考になるかと思います。


もし、不幸にして、家族の誰かがカルト教団に絡め取られた場合、

その洗脳を解く手助けになると思います。 

以下が、その10のパターン。


1. 全か無か思考 all-or-nothing thinking

物事を極端に白黒つけたがり、オール・オア・ナッシング、○×思考で考えることです。

たとえば、就職試験に落ちたときに「社会人としての価値がない」と考えたり、何かの失敗をしたときに「次に失敗したら、もう終わりだ」と考えたりするような、完璧主義的な発想です

2. 一般化のしすぎ overgeneralization

何か悪いことが起こったときに、それがまた起こるに違いない、それが起こる運命なのだ、というように一般化して捉えてしまうことです。

3. 心のフィルター mental filter

考えることがネガティブなことばかりで、「マイナス」のフィルターを通して物事を見ていることです。

たとえば、ニュースの事件を見るたびに「世の中、どんどん悪い方向に向かっている。もうこんな世の中、誰も信じられない」「もう日本の経済はダメだ」というように、悪い方向にばかり受け取ってしまう状態です。


4. マイナス化思考 disqualifying the positive

良いことや何でもないことを、悪いことにすり替えてしまうことです。


5. 結論の飛躍 jumping to conclusions

事実とは違うのに、悲観的な結論に飛躍してしまうことです。これには、次の2種類があるとバーンズは述べています。

A 心の読みすぎ mind reading

人の態度や言葉を、悪い方に深読みしてしまうことです。

たとえば「今日のファッション似合ってるわね」と褒められているのに、「口では褒めてるけど、内心馬鹿にしてるんだろう」「お世辞を言ってるな。何かの魂胆があるに違いない」と悪い風に捉えてしまうことです。

B 先読みの誤り the fortune teller error

これから起こることが不幸なことばかりだと信じ込んでしまうことです。



6.拡大解釈と過小評価 magnification and minimization

悪い面ばかり大きく捉え、良い面をあまり評価しないことです。



7.感情的決めつけ emotional reasoning

感じていることが、真実であるように考えてしまうことです。

たとえば、「みんなに無視されているように感じる。やっぱり私は嫌われているんだ」「いつも悪い風にばかり考えてしまうのは、性格が悪いからだ」というように、感じたことがそのまま真実とイコールであるように考える場合がそうです。


8.すべき思考 should statements

「~しなければならない」「~べきである」と考えて、追い込んでしまうことです



9.レッテル貼り labeling and mislabeling

根拠もないのに、ネガティブなレッテルを貼ってしまうこと

たとえば、1つの失敗をしただけなのに「あいつは無能人間だ」と決め付けたり、なかなか結婚相手が見つからない自分に対し、「私は『負け犬』だ」と悪いレッテルを貼ってしまうようなこと



10.個人化 personalization

良くない出来事が起こったときに、何でも自分のせいにしてしまうことです


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バーンズは、認知の歪みについて述べているだけで、

とりわけカルト宗教をターゲットにしているわけではありません。

それでも何故か、見事に、この認知の歪みが、

カルト宗教の信者に当てはまってしまうのです。


やたらと自分の教団の正しさを主張するところは、特に危険です。

自分たちの正しさを強化するには、強烈な敵が、必要だからです。

敵が強力であればあるほど、信者は危機感を持つし、真剣にもなりますからね。


敵役として多用されているのが、サタン。

サタンは、キリスト教的概念ですが、

単に、魔、という言葉を使う教団もあります。

あるいは、敵も宇宙的広がりを見せ、悪質宇宙人、などの異星人や、

宇宙的悪魔が登場する場合もあります。


いずれにせよ、敵が強大であればあるほど、緊張感が増すし、

無意識のうちに自分たちの偉大さも感じられますからね。


これは、無自覚であるほど、顕著です。

そもそも、カルト教団に嵌まっている時点で、

自覚的ではないわけですからね。


上記10のパターンすべてを解説していくと膨大な量になるので、

顕著な例として、一つだけ、取り上げます。

これは、僕自身もそうだったので。


7.感情的決めつけ emotional reasoning

感じていることが、真実であるように考えてしまうこと


僕は、かなり霊的に感じるタイプだったので、

まさに、感性で信じ、実感して確信を持つパターンが多かったのです。

事実、多くの信者に、この傾向がみられました。

自分の感覚を信じて疑わないタイプで、

女性信者に多いのですが、男性信者にも散見できます。

このタイプが厄介なのは、

本人が実感を伴って確信しているので、

どれほど、事実を突きつけても、

まともに見ようとはしません。


自分の見たいものしか見ない、典型例。


センサーが、自分に心地良い、

自分の信仰生活に都合の良い情報だけを、

自動的に選び取っているので、

何を言っても無駄、です。


この、感性タイプの信者は、

自分に都合の良い信仰生活を生きているので、

小さなお花畑の中で、自己充足していると言えます。


で、教団の目指す理想世界、ユートピアが、実現することはありません。

つまり、信者は、実現することのない幻を目指して、

自分の時間とお金を捧げる、と。


そして、年だけは、確実に取っていきます。


今、多くのカルト教団で、信者の高齢化が問題になっていますが、

二世信者というのは、親の信仰を引き継ぐ割合が少ないのです。


やがて、カリスマ性のあった初代教祖がなくなると、

大半の教団は、分裂します。


それは、誰が後を継ぐにせよ、

初代ほどのカリスマ性はなく、

一方で、宗教法人は無税なので、

その集めた巨額の金をめぐって争いも起こるからです。

権力欲、金銭欲、支配欲は、教祖とその家族だけでなく、幹部連中にも浸透していますから、中心的カリスマ亡き後の分裂は、自然の流れ。


シルバーバーチが、すべての宗教組織は清らかさがない、と断罪している所以です。


組織が、人を救うのでは、ありません。

あなたの心が、

あなたを救うのです。



裸の王様とウクライナの子供たち



ロシアのウクライナ侵略で苦しんでいるのは、

ウクライナ国民だけでなく、大半のロシア人も一緒。

そしてまた、ロシア兵の大半も、

苦しみと葛藤の中にいるのではないでしょうか。


裸の王様プーチンは、今、世界で一番孤独な人間。


因果の理法という宇宙法則があります。

また、天網恢恢疎にして漏らさず、という言葉があります。

プーチンは、自らの行いに対する反作用を、

免れることはできません。

他者を脅しで屈服させることができたとしても、

宇宙法則が、彼に反作用を与えます。


「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」
ローマ12:19



ここで言う私とは、神である宇宙法則のこと。 

宇宙法則であるがゆえに、

天網恢恢疎にして漏らさず、で、

万人に作用します。


もし、神に依怙贔屓があるならば、

僕たちは、そのような神を信頼することはできません。

分け隔てなく、法則として働くから、神、なのです。


その神をシルバーバーチは大霊と呼んでいます。

その大霊が、宇宙法則として、

この宇宙を統べているという事実。

だからこそぼくたちは、安心していられるのです。

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信仰というものがあるとすれば、

それは誰か特定の個人を神としてあがめることではなく、

大霊が統べる宇宙法則を信頼し、

因果の理法を道理としてわきまえて、

道に則った生き方をすること、

それ以外の信仰を、

僕は知りません。


その信仰であれば、

宗派の違いを乗り越えて、

人類が、互いに進化向上をしていけると、

思っています。


ウクライナでは、この戦時下でも、

子供が生まれています。

そうした子らが、

すこやかに育つように願い、

歌を送ります。



大霊は依怙贔屓しません。

自分自身を信じてください。




咳をしても一人、死ぬときも一人



ムラサキさんとのコメントのやり取りを契機に、改めて孤独について考えてみました。

実は僕は、ときどき、息苦しいような孤独と虚無を感じることがあります。

そんな時は、人間存在、というものと向き合うとき。

死というゴールをもって無に帰す命ならば、 何をしても空しい、と。


これは、若い頃からある感覚で、だからこそ、仏教などにも興味を持ったのだと思います。

仏教の基本は諸行無常であり、常なるものはない、ものごとは絶えず変化する、というもの。

それは、虚無を感じる教えであると同時に、執着から離れることもできる教えでもあります。


浅く考えると、どうせ死というゴールがあるのだから、欲望のままに生きて、せめて生きているうちは快楽を貪ったほうが良いのではないか、ととらえる人もいますが、苦楽は表裏一体というのも、また仏教の教え。

まあ、仏教の話で終わってしまってはつまらないので、孤独について話を戻すと、孤独は克服するものではなく、上手く付き合うものではないか、と思うのです。

どう転んでも、人は孤独です。

ならばむしろその孤独を避けるのではなく、向き合ったほうが良い、と。

自分も孤独だけど、本当はすべての人が孤独である、と。

ただ、同時に、その孤独と向き合うことの先に、人類共通の意識、なるものがあるように思っています。

その意識を探求するのが、哲学であり、宗教なのかもしれません。


僕は、天涯孤独者として生きていて、深夜に寝床で咳をした時など、孤独の咳の音を聴きます。

そして思うのです。

俺は、あと何年生きるのだろう、と。

それは、数年かもしれず、10年かもしれず、30年かもしれませんが、

確かなことは、死に向かって日々生きているということ。

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僕は、程よい田舎町に住んでいるので、他人様の家が目に映りますが、ポツンと一軒家、などで見るような、山の中で年寄りが一人で住んでいる姿などを見るにつけ、自分にはああいう生活は無理だなあ、と思います。

あんまり過去記事をさかのぼるのも難しいのですが、今年になってから孤独について書いたものはあっただろうかと思い、探してみました。


僕が寂しさを感じた時のこと






上記の記事などは、孤独を書いたものかもしれません。

事程左様に、僕も、孤独です。

そして多分、これを読んでいる人も孤独なのかもしれません。

たぶん人類全員が孤独であり、

同時に何かでつながっている、

という感じでしょうか。

孤独だからこそ、小さな自分を何かに仮託して、

一体感を求めているのかもしれません。

今、オリンピックをやっていますが、日本が勝つと嬉しいことの一つは、

やはり自分のアイデンティティの一部分を、日本に仮託しているからでしょう。

戦争中の、靖国で会おう、という言葉も、この命は国のために捧げるが、

より大きなもののために散る命、だと思って死んで行ったのかもしれません。

僕は、3つの宗教団体を経験していますが、程度の違いこそあれ、

やはりその団体の教え、さらに言えばその教祖に、より上位の仮託先を見出し、

それを、信仰という言葉で糊塗して、安心していたのだと思います。

確かにそれは、一時的な安心を得られはしますが、

様々な矛盾や自家撞着には蓋をしたままの状態で、

真の安心立命ではありませんでした。


今は、特定の団体に属すとかいうことはなく、

宇宙意識とでも言うほかはない、法則によって統べる神、

まあ、それを神と呼べばの話ですが、

そのような存在としての神への信仰はあります。

シルバーバーチは、大霊と呼んでいますが、

法則としてこの全宇宙を統べる存在に言及しています。

シルババーチについては、スピリチュアルな話カテゴリーの中で、

かなり書き込んでありますので、参考にしてもらえれば幸いです。


おそらく僕が、何とか孤独と付き合っていけるのは、

今、親から貰った名前で生きているこの自分以上の、

より本質的な自分、自己は、この肉体の死後も不滅であり、

本来的な意味では死ぬことのない存在であることを、

信じている、

あるいは、

信じようとしているから、

なのかもしれません。


その必然として、この世は旅の途中であり、

主イエスの言葉、

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」が、

腑に落ちるのです。




長くなったので、今日はここまでとします。





沈黙や調和や愛のなかにいるとき


今日も朝から雨で、このような雨の月曜日に出勤するサラリーマンは、なかなか心が晴れることはないかもしれません。

昨日、都知事選の投票がありましたが、コロナの感染者は連日3ケタ台が続いており、そうした中での雨の日の出勤は、月曜日ということもあり、長い一週間を想ってため息をつくサラリーマンの憂鬱な顔。

僕自身、憂鬱だった時期も長く、山あり谷ありのサラリーマン生活でした。

昨日の記事でいただいたコメントは、まるで小説でも読んだような、そんな映像の浮かぶ内容だったのですが、そのコメントを書いてくださった凪子さんが、言及していた二つの曲を、今日はアップして、僕も、子供の頃に思いを馳せたいと思いました。

まずは、吉田拓郎の、夏休み。



吉田拓郎や井上陽水は、僕が中学生の頃に、ある友だちの影響を受けて、良く聴いていました。

 中学卒業後は、別々の高校になり、それ以降付き合いはなくなってしまったのですが、もうずいぶん大人になってからのことですが、若くして彼が死んだことを知りました。

体格の良い男だったので、その若すぎる死があまりにも意外でした。

幼馴染みも、もうすでに何人か他界しており、人の寿命というものはいつ尽きるかわからないものだと、自分にも言い聞かせています。



少年時代や少女時代の思い出は、誰にでも、あると思います。


今日も、どんよりとした空で、天涯孤独無職の僕にはうってつけですが、被災地などは、また雨が続くと復興も手間取るのではないかと、心配もしています。


今日は、最後に、シルバーバーチの言葉を紹介します。

 あなた方の魂が常に進歩していくのは、沈黙や調和や愛のなかにいるときなのです。その進歩は遅いかもしれませんが、間違いはなく、確実です。

千変万化の地上生活ですが、永遠の死後の生活のための準備期間であり、霊性を高めるためのまたとない機会でもあります。

そう思うと、この世の苦しみの受け取り方も、変わってくるのではないでしょうか。


ただでさえ人を見る目のない僕なのだから


アトランティスは、ギリシャの哲学者プラトンが、彼の著作の中で語ったことが始まりです。

で、プラトンというネームバリューと、アトランティスという島に対するロマンから、その後、実に多くの人が、このアトランティス幻想とでも言うべきものに魅せられてきました。

まあ、それ自体は、夢があって楽しいのですが、その幻想に乗っかって、人が、あらぬ方向に誘導されるとしたら、それは、あまりいいことではありません。

僕が、8年ほど前に、幸福の科学を退会した話はすでに何度かしていますが、その退会前には、いくつもの疑問が生じていて、その一つが、まさにアトランティスをはじめとする古代大陸の話。

幸福の科学の総裁である大川隆法氏によれば、アトランティスは、海中に没したとされています。そして、その頃に、アトランティスにいたのが、アガシャーという王で、彼は、イエスキリストの、過去世の一人、とされています。確か、生き埋めにされて殺された、とか、そういう話だったと思います。

で、大川さん自身の過去世も、トスという名の大導師としてアトランティスの最盛期を導いた、とされています。

イエスキリストの過去世のときは失敗が多く、大川さんの過去世のときは毎回繁栄した、とされているのが、面白い点。ムー大陸のときは、ラムーとして、最盛期を導いたとされています。

で、以前の記事でもどこかで書きましたが、今は、海底の様子もかなり明らかになっているので、そうした大陸が沈んだ形跡はどこにもないことが判明しています。

そもそも、ムー大陸という名前自体が、言い出しっぺのチャーチワードの誤読から始まっていて、このチャーチワードも、自分の経歴を偽っている信用のおけない人間ですから、大川さんに限らず、ムー大陸話は、すべて妄想だと判断しても良いと思います。

仏陀釈尊が、最も戒めたのが、妄想の類い。

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寄る辺なき子さんが、最初にコメントしてくれたのが、確か、太陽の法の書き換えで、不信感を持ったというような内容だったと思いますが、その太陽の法の中にも、人類誕生に関する変な記述があったと思います。

九次元パワーの総力を挙げて地上に物質化現象を起こしました。まずは蜃気楼のような透明なゆらめきが地表に現われ、次第に人の影のように見えはじめ、最後には、白く輝くばかりの肉体が出現しました。(中略)初めての人類が、五人、十人、百人、そして五百人と、続々空中より出現した時、彼らを二つの集団に分け、右半分の集団には、金星人の智慧と勇気の光を投げかけ、左半分の集団には、同じく金星人の優美さ、優雅さの性質を帯びた光を投げかけました。こうして人類の男性と女性が分かれました。

つまり、物質化現象を起こして、人類を誕生させた、と。

会員だった頃には、抵抗もなく受け入れていたのですが、素朴な疑問を持って以降の3年間の検証期間中は、こうした記述に対しても、吟味していきました。

当時の僕は、まずは、自分自身への反省から始めました。

自分は思い込みが激しく、熱中しやすい人間である、と。それを、いのしし年で、猪突猛進だからと、それを半分言い訳に、半分そんな自分を美化もしていたのだ、と。

そして、ただでさえ人を見る目のない自分なのだから、もう、可能な限り思い込みは排除していこう、と。

そうは言っても、長年の習い性で、すぐに決めつけたがる自分が首をもたげましたが、その度に、第三者の立場に身を置く努力をしました。

さて、話を先に進めましょう。

よく、幸福の科学では、キリスト教を批判するときに、処女マリアから生まれたとされる部分をそんなことはなく、正常な男女の営みから生まれたのであって、どうしてそこまでして信じさせねばならないのか、みたいな批判を、大川さんが法話の中でしたことがありますが、空中から人類を何百人も出現させるほうが処女降誕以上に無理感がありませんかね。

 シルバーバーチの教えなどでは、

進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、

と述べているように、肉体そのものは、下等なものから進化してきているわけで、いきなり、空中からこの人体が現れたわけではありません。

なぜなら、この3次元には3次元の法則があり、その法則を曲げる必要もないし、その法則の中で人類誕生へと導いてきたと考えるほうが、僕などは納得がいきます。

神は、そうした法則を通して全てのものを統べているのです。


さて、こうしたことを話しているときりがないので、寄る辺なき子さんの質問、どうやって、総裁の、霊言の間違いに気づいていったのか、もう少し具体的に教えてもらえますか、に対する答えとしては、誰の霊言でも構いませんが、ご自分で最も気になる点や、気になる人、のものを深く吟味することをおすすめします。

たとえば、野球が好きでそれなりに詳しい人なら、イチローの守護霊霊言を吟味するのが良いかもしれません。

あの天才とも思える大打者を指導し、見守ってきた守護霊であれば、イチロー自身が、仮にそれを読んだとしたら、まず第一に、彼自身が最も感動し、驚愕するはずです。

なぜなら、守護霊とは、本人以上に本人を知り、導いている存在、ですからね。

今のは一例で、たくさんの霊言本が出されているので、寄る辺なき子さんのご自宅にあるもので、まずは自分が一番気になるものから、妥協することなく、気になる点に赤線を引くなどしておき、あとで徹底的にその部分を調べ上げるのです。

僕の場合ですと、内村鑑三をはじめ、多くの霊言を調べ上げました。そしてその矛盾の多さに、改めて自分でも驚いたし、なぜ自分はこんな大事なところを見落としていたのか、と、自分自身にあきれる始末でした。

いったい自分は、どれほど多くの矛盾を気づかずにスルーしてきたのだろう、と思いました。

純粋な信仰、とか、主と一体となれ、といった言葉に感性を刺激されて、エルカンターレ信仰者としての自分に酔っていたのかもしれません。

酔う、とはつまり、正気を失っているということ、です。

君よ、涙の川を渡れ、などの御法話CDは、それこそ何度も聴いて、涙さえ流し、まだまだ自分の信仰は生ぬるいと自らを戒めて、御本尊の前で正心法語を全編読誦したことも何度もありました。

そして、最後にある、仏説降魔経は、強力ですから、この信仰の命綱だけは離してはいけないと、何度も自分に言い聞かせていました。

なので、熱心な信者さんほど、気づきの機会は失われていきます。

なぜなら、今話したような、自己洗脳のループにからめとられてしまうから、です。

それと、今、改めて思いだしても、大川隆法氏は、説法の天才だと思います。その言葉には力があるし、魂を揺さぶるものがありますからね。

しかし、どれほど感動的な説法をしたとしても、彼は神ではありません。どこまで行っても、人間は人間なのです。そこを、見誤ってはいけません。


それと昨日、用事があって外出した際に、書店に立ち寄り、宗教書のコーナーに行ったら、何冊かの幸福の科学出版の本を見つけました。

もうすでに、8年も前に退会した僕は、今は大川さんの書籍を一冊も、所有していません。

そのため、確認のしようもないのですが、先ほどアップした、人類誕生のくだりの記述は、出典を明らかにしておくと、ゆーぱさんという会員さんのサイト内で探したものです。

で、その書店で見つけた黄金の法で、毛沢東の記述を確認してみました。

僕の記憶では、毛沢東は、わずかに善の部分が多かったために、5次元善人界に帰っているはずだったからです。僕が確認した黄金の法は、4回目の改訂版で、2011年のものでした。

そしてやはり、僕の記憶通り、毛沢東は、5次元に帰っている、という記述になっていました。

なぜ僕が、それを確認したのかというと、去年発刊された毛沢東の霊言では、地球最大級の悪魔、と書いてあるからです。

この霊言を僕は読んでいませんが、幸福の科学出版の公式サイトのコラムにそう書いてあるので、今はそういう設定なのでしょう。

あるいはその霊言の中で、5次元に帰ったがその後地獄に行った、ということになっているのかどうかまではわかりませんが、それもまた、おかしな話です。

スピリチュアリズムを学べばわかることですが、明るい霊界に行った霊はそれなりの覚醒を得ているはずだから、です。

地上界での一時的な覚醒であれば、また、その後の心境の変化で波動を下げることもあり得るかもしれませんが、明るいほうの霊界の住人が、その後堕落して地獄に落ちることは、あり得ません。

この、毛沢東の例などは氷山の一角で、当初信長や秀吉の生まれ変わりとされていた政治家もいましたが、その後、実は別の人だったとか、そうした設定の変更が多すぎます。

僕などは、大川さんを主宰先生と呼んでいたころからの信者だったので、再誕の仏陀であり、それどころかイエスが父と仰いだ存在であり、本佛であると思うからこそ、彼の書籍を読むときは正座をし、合掌してから読んでいたものです。

本佛の教えを、一字一句、見落とすことなく、学び尽くそうと思うからこその、弟子の態度でした。

それゆえ、退会して8年が過ぎた今も、まだかなりの記憶が頭の中に残っています。

そのようにして吸収した教えが、ころころと変えられたのでは、これは本当にたまったものではありません。






退職日に想う十年一昔と今の僕


2年前の5月に母が亡くなり、その後、49日法要を終えてから、7月にアルバイトを始めて2年弱。

そして、今日が、アルバイト最後の日で、自己都合退職なのに、お花までいただきました。嬉しいよお。
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実は、今日は、実母の誕生日でもあります。大正13年の生まれですから、生きていたら90代も半ばくらいになるのでしょうか。

まあ、僕が16歳のときに亡くなっているので、もう、霊界に行ってから、かなりの年数になります。母は、バリバリの唯物論の人でしたが、正直者でユーモアのある人でした。

十年一昔、という言葉がありますが、まあこれは、世の中は移り変わりが激しく、10年も経てば、もう昔のことになってしまう、といった意味だとは思います。

で、僕が、幸福の科学を退会したのが2012年の3月。

つまり、8年と2か月前。

まあ、十年一昔と言ってもいいくらい、前のことになります。

時代のスピード感、を、加味すれば、今は、もう、5年も経てば、一昔前、といった感じなのかもしれません。

で、このところ、幸福の科学関係の話が続いていますが、もう、僕の中では、過去の宗教体験となっていて、多少、距離感がある感じなのですね。

ただ、いただいたコメントなどから、僕も当時のことを思い出し、また、僕自身、今は、強い内省への思いが今年の初めごろから生じていて、 何やら、こうした宗教体験の振り返りも、意味のあることではないのか、と、思い始めています。

で、寄る辺なき子さんのコメントに対する流れで、僕が、悶々と苦しみながらも、真実を見極めようと格闘した日々の中でやったことは、大川隆法という人の、初期のころからの発言そのものを、時系列とともに並べる、という作業だったことは、前記事で述べたとおりです。

霊言、などの矛盾は、霊の意見、という言い訳ができますが、教祖自らの意見、であれば、そうした逃げ道はなくなりますからね。

大半の活動会員は、目の前の活動を消化するのに忙しく、そのような、俯瞰的視点に立つ機会すらないのが実情でしょう。そして、活動していれば、それなりの充実感もあるので、疑問に目を向けることもしなくて済みます。

僕にとって益があったのは、その3年間の検証作業を通じて、ものごとをありのままに見ることの大切さに気づいたこと、です。

この3年間がなければ、おそらく僕は、不都合な真実は見て見ないふりをし、自分の見たい現実だけを搔き集めて見るような、バイアスのかかった人間のままだったでしょう。そのほうが楽だし、これまでの自分を否定しなくていいので。

しかし人は、どうにも逃げられない状況になれば、たとえ不本意でも、取り組まざるを得なくなります。

まさに、それこそが、自らの運命が自らを導く、ということなのかもしれません。


さて、ここからが、どうにも説明の難しい領域に足を踏み入れねばならないのですが、何とか可能な限り、言い表してみます。

僕が、幼少のころから、入信していた世界救世教では、お光、というペンダントを、首からぶら下げていました。小学校の頃、体育の授業で逆上がりなどをすると、そのお光が、引力で下にさがり、クラスメイト達の注目を浴びました。

それが、恥ずかしくもあり、誇らしくもあったのですが、そのお光に対して、ときどきですが、ひどく冷めた視点を持つもう一人の自分、がいるのを、感じることがありました。

そのもう一人の自分は、大切なものはすでに備わっているはずだ、という思いを、持っていました。

お光は、常に丁重に扱わねばならず、お風呂に入るとき以外は、絶えず身に着けていました。小学生のころ、何かの拍子にお光をつけるのを忘れたときなどは、一気にテンションが下がり、不安な気持ちを覚えたものです。

ただ、子供ながらに、お光に対する一種の違和感は覚えていて、当時は、それを言語的に解釈できる語彙力もないので、ありがたいけど同時に不自由なもの、くらいに思っていました。

話は変わって統一教会に専従として、身を捧げていた時代のころ。

毎週日曜日は、朝5時に起きて、文鮮明夫妻の写真に向かって土下座をする参拝敬礼式という儀式がありました。

それは最も神聖な儀式とされ、もちろん当時の僕はバリバリの統一教会員でしたから、真剣に取り組んでいたのですが、ときどきですが、もう一人の自分が冷静な視線で、その参拝敬礼式の渦中にいる自分を見ているのを感じることがありました。

この感覚を、言葉にするのはとても難しいのですが、違和感、としか、とりあえずは言いようがありません。それは違う、と、もう一人の意識としての自分が感じているのです。

そして、幸福の科学時代。

何度も行った、宇都宮の正心館ですが、外階段を上がって館内に入ったところに、まずは、小さなエルカンターレ像があるのですが、その像に手を合わせたときに、違和感がありました。偶像崇拝への違和感、ですね。

エルカンターレ像はどの精舎にもあり、また、支部にもあるのですが、普段は、それに手を合わせることは慣れっこになっており、違和感はないのですが、ときおり感じる違和感は、もう一人の意識としての自分が、感じているものだということが、あとになって、わかりました。

世界救世教のときも、統一教会のときも、そして幸福の科学のときも、ときどき、そうした、もう一人の意識としての自分が、顔を出したのです。

この、もう一人の意識としての自分、こそが、真実在、あるいは、ハイヤーセルフ、と僕が今現在では認識している意識です。

まあ、この呼び名は、何でも良いのですが、自分が一番ピンとくる名称で、僕は、そう呼んでいます。

で、この真実在こそが、全体意識としての神、とつながっていて、安らぎの源泉、でもあるのです。

実は、僕が、今現在、アイデンティティの基盤を置いているのが、この真実在であり、さらに言えば、その真実在とつながり重なり合っている全体意識としての神、なのです。

この、真我、であるところの、真実在を実感し、その気づきを得てからは、自分が、とても広くて明るくて自由な世界に生きていることがリアルにわかるようになりました。

そして、個人として傷つくことが、格段に少なくなりました。

勿論、生身の人間として生きている以上、様々な苦しみがあることは事実ですが、すべては一過性のものであり、真実在としての自分は、まったく傷ついてもいないし、何一つ損なわれていないことが、ありありとわかるようになったのです。

そのため、ほとんどすべてのことを、肯定的にとらえられるようになっています。

で、僕の話はこのくらいにして、何を言いたいのかと言うと、神とは遍満する意識のことであり、宇宙全体であり、有りて在るものであり、始めもなく終わりもないものであり、理屈をはるかに超えた実感的実在、なのですね。

で、イエス・キリストが凄いと思うところは、その全体としての神を結実させた生き方をしたところ、です。

主イエスこそが、人類史上まれに見る霊能者です。

イエスについては、ここで語ることは控えますが、あらゆる点で、手本となる人格であることだけは、言っておきたいと思います。

話を戻すと、自分の中の違和感と向き合い、真実と向き合う誠実さをもって、大川隆法という人の発言を並べ、同時に、霊言等の矛盾点も検証していく中で、呪縛から解放されていきました。

言葉を変えて言えば、個人崇拝を強いる支配からの卒業、でもありました。



 この支配からの、卒業

 俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか
 これからは何が俺を縛り付けるのだろう
 あと何度自分自身卒業すれば
 本当の自分にたどり着けるだろう

尾崎豊が叫んでいるように、本当の自分にたどり着きましょう。

そしてその卒業の際、大きな救いとなったのが、シルバーバーチをはじめとする本物の霊訓であり、真実の霊界知識、でした。







広くて明るい自由な世界には、その人はいない


戦争が終わり、日本は焼け野原から立ち上がり、復興しました。天皇が人間宣言をして、国民の価値観も総入れ替え。そんなことが、国家規模で起こったわけです。

僕は、1959年生まれなので、もちろん、戦争経験はなく、その後の全共闘などの学生運動の盛り上がりの時期はまだ小学校低学年で、何を騒いでいるのだろうと、子供ながらに思った程度。

子供ながらにして、弟と実母を亡くすという経験はしているものの、幸せな家庭で育ったと、思っています。

そんな僕でしたが、20代の頃にこの世の仕事を投げ捨てて入った統一教会で、やや比ゆ的な表現ではありますが、徴兵に行ったような体験をしました。睡眠時間は4時間未満で、休みなく、およそ2年間、専従生活を送りましたからね。

若かったので、ブレーキをかけることを知らず、自分がぶち壊れるまで頑張ってしまい、ついには、精神崩壊。

使い物にならず、解放されましたが、生きながら死んだ状態が、何年も続きました。

60キロほどだった体重も、2年間の無理な生活で47キロほどにまで落ち、実家に戻ってからは、体重はすぐに回復したものの、傷ついた心が癒えるには足掛け8年ほどかかりました。

ただ、結果論ですが、その、苦しみの8年間が、のちに役立つこととなりました。

その後、幸福の科学に入り、統一教会の呪縛を完全に打ち砕きました。

幸福の科学には、正心法語という経文があり、その中の、光のみ実在、愛のみ実在、という、この、生長の家にも似た、光明思想と言いますか、光の実在を強く押し出す言霊の力が、統一教会の暗黒思想を打ち砕くのに、大変役に立ちました。

さて、そのようにして幸福の科学に入り、18年弱の活動ののち、退会したわけですが、寄る辺なき子さんのコメントの返信を書いてから、また、改めて、僕が退会した8年前のことを思い返すと同時に、自らの人生を振り返り、それを通して、今、喪失感に苦しんでいるであろうところの寄る辺なき子さんのお役に立てないかと、考えた次第です。


退会したときの心境は、「不都合な真実に向かい合う勇気を」と「感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安」で詳しく書いているので、重複は避け、今日は別の視点から、記してみたいと思います。


相模原の障害者施設で起こった殺傷事件は、まだ記憶に新しいところですが、事件を起こした男は、障害者に対して生きる価値がないと自分勝手に判断し、殺人事件を起こした後も、悪びれる様子もなく、死をも厭わぬ態度ですが、あの独善性と変わらぬものを、僕は、カルト教祖の中に、見ます。

カルト教祖自身が、誰よりも確信をもって、自分自身を妄信しています。

そして、そういう人の周りに信者が集まれば、彼は教祖となり、一つの団体が形成されていきます。それが、宗教法人格を取れば、宗教団体となります。

カルト教祖は、自己を絶対視するがゆえに、自分を否定する対象を、悪魔、と、見る傾向があります。

日本のみならず、世界には、実に様々なカルト教団が存在しますが、この点は、共通しています。

神である自分を受け入れない社会のほうがおかしいということになり、彼自身の中に、誇大妄想、被害妄想の心理状態が展開していきます。

自分を受け入れない社会に対する不満はくすぶり続け、満たされない自尊心(カルト教祖の場合はこの自尊心が特に顕著)を補強するために、本当の自分はこんなに偉いのだ、ということを、様々な手段を使って訴えます。

それを真に受けるのは信者さんだけで、一般の人は、そもそも関心を持っていないか、何らかのきっかけで目を向けたとしても、その子供じみた精神構造を見抜いて、あきれるか冷笑するぐらいが関の山。

よく、世間が誤解するのは、カルト教祖を詐欺師のように思っている傾向があるのですが、詐欺師というのは自分が相手を騙している自覚があるので、それほどの情熱も、パワーも、ありません。

よく、金儲け主義とも誤解されますが、お金は二次的なもので、詐欺師などと同じレベルの話ではありません。

何よりも、カルト教祖自身が、自分が神であるとの確信を持っている点が、大きな違いです。

その確信がなければ、活動など継続できるものではないし、人もついていきません。

カルト教祖の感化力には、常人の想像も及ばないものがあり、そのいい例が、麻原の死後も存続しているアレフ、などです。今もなお、崇拝の対象を欲するアレフは、麻原の長男を教祖として祭り上げていますが、当の長男はいい迷惑だとして、訴訟を起こしています。

何が言いたいのかと言うと、アレフに見られるように、崇拝の対象を人に求める信者がいる限り、カルト教祖は、なくならない、ということです。

つまり、両者は、相互依存、の関係にあるわけです。

寄る辺なき子さんは勇気をもって不都合な真実を見つめ、今まさに、人間信仰からの脱却を図ろうとしているとき、です。

人間を神と仰いでいる限り、心に真の平安は、ありません。

なぜなら、どれほど、その教祖なる存在が、自らの無謬性を主張しても、そこには必ず矛盾が生じ、信者の側はその矛盾を糊塗し、合理化するための暗黙の努力を余儀なくされるから、です。

その不自然さは、精神の中に何とも言えぬ違和感を生じさせ、本人も、釈然としないが一応は信じている、という状態が長く続きます。

勿論、教祖と同レベルか、それに近いところまで妄信している信者さんは、そうした矛盾さえ感じることは、ありませんが。

しかし大半の、理性が働いている信者さんは、少なからぬ矛盾を、何とか自分の中で無意識のうちに合理化してやり過ごすようになります。

神から与えられた理性が、真に嫌気がさすまでは、そうした足踏み状態は続き、時間だけが過ぎていきますし、この世的に言えば、年だけは取っていきます。

寄る辺なき子さんは、そうした足踏み状態からの脱却の時が来ているわけで、謂わば、脱皮の時期なのです。脱皮には、それなりの負荷がかかるものです。

しかし、そこを通過しなければ、広くて明るい自由な世界には行けません。

広くて明るい自由な世界には、その人、カルト教祖は、いません。

そしてその世界から、カルト教祖を見ると、憎しみよりもかわいそうな気持が生じてくるようになります。

今は憎しみのほうが大きいかもしれませんが、やがては、そうした広くて明るい自由な世界の中で、過去の自分を俯瞰できる視点を持つようになると思います。

そうした広い世界が待っているということを、寄る辺なき子さんに、もっとうまく伝えられたら、と、思うのですが。

それともう一点、良いことをお伝えせねばなりません。

それは、カルト教祖の独善的世界から離れれば離れるほど、むしろ周りにいる人、一人一人の中にある仏性が、より、鮮明に見えてくるようになることです。

それまで、悪魔、に見えていた人が、まだ至らぬにせよ紛れもない神の子である、ということが、わかっていきます。

寄る辺なき子さんは、コメントの中で、「最大の心残りは、夫に対する申し訳なさ、です。主の教えを理解できないバカ夫と思っていましたが、バカなのは私でした。息子にも、申し訳ないですと、おっしゃっていましたね。

かつては、旦那さんを見下し、時には、悪魔のようにも、見えたかもしれません。でも、今は、自分の愚かさに気づいたのですね。

愚かさに気づいた人は、もう愚かではありません。もうそれ以上、自分を責める必要はありません。

もう、今の寄る辺なき子さんであれば、旦那さんや息子さんを悪魔のようには思わないはずですからね。

まだ十分に、自分を客体化するところまではいかないでしょうが、やがては、時の経過とともに、落ち着いて自分自身を眺められる時が来ると思います。

その経過は、人それぞれだとは思いますが、カルト教団から離れるにつれ、むしろ、この世界を、ありのままに見ることができるようになっていきます。

なぜなら、そうした教団で与えらえる情報には偏りがあり、その偏った情報だけを過飽和入力されている状態では、到底ありのままに見ることなど、不可能だからです。

たとえて言えば、毒の入った材料だけで作る饅頭は、毒饅頭にならざるを得ないのと、同じことです。

事程左様に、情報というものは、食べ物と一緒で、よく吟味しなければいけません。

僕は、三帰請願した後、先輩のある信者さんから、素直さが大事だと、繰り返し言われました。

その人が言うには、本佛が御降臨されている奇跡の時代なのだから、自分の小さな頭で判断せず、ただひたすらに主を信じ、ついていくことが大切なのだと教えられ、その通りだと感動して、そのように努めました。

我を信じ、集い来よ、と、主は、言われましたから、ね。

まさに今回、寄る辺なき子さんが言及された、太陽の法のまえがきにも、あなたの常識を入れ替えてほしい、というようなことが書かれていたように思います。

ただ、このまえがきは、初版本のものではなく、方便の時代は終わった、と言われていたころのものかもしれません。僕が、三帰請願したのは、1994年だったと思うので、当時の、すでに、書き換えられていた太陽の法、かもしれません。

その太陽の法も、その後、何度か、書き換えられた、ということなのでしょうが、今回の書き換えが、正確には何度目になるのか、すでに8年前に退会している僕には、よくわかりません。

で、話を戻すと、そのように、とにかく素直さが大事だと思い、歩んでいたわけですが、理性が疲弊していった経緯はすでに過去記事で記したとおりです。

教団から距離を置き、落ち着いた心で世の中を眺められるようになれば、やがては、悪魔に囲まれていると思っていた世界から、未熟ながらも仏性ある人たちのいる世界に生きている自分に、気づくようになります。

それまでには、多少の時間はかかるでしょうが、大切なのは、理性が矛盾を感じるところの疑問に、誠実に向き合うことだと、思います。

僕の場合で言いますと、カルト教祖やカルト教団の矛盾と正面から向かい合って、納得するまであきらめない、粘り強い姿勢で取り組みました。

具体的には、教団の裁判を傍聴するために東京地裁にも足を運びましたし、大川きょう子さんにも、二度、じかに会って話を聞いています。

さらには、元職員の人にも会い、ここではとても話せない内容の教団の実態も、知ることとなりました。

ただ、元職員の人の話であっても、それをまるごと受け入れるのではなく、まず、その人の表情や波動を見極める必要があります。なぜなら、その元職員の中に恨み心があれば、その情報にも、多分に私憤が入り込んで、歪曲してしまうから、です。

いずれにせよ、労を惜しんでいては、価値あるものを手に入れることはできません。

ここで言う価値あるもの、とは、カルト教祖とカルト教団を客体化して観ることのできる認識力であり、その結果得ることのできる、理性が息苦しさを感じることのない自由な世界、です。

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そして、その自由な世界にこそ、本物の信仰がある、のです。

寄る辺なき子さんの未来には、そのような明るくて、公明正大な世界が、待っています。

寄る辺なき子さんの、幸福の科学での長い信仰生活も、決して無駄ではないことを示唆する、シルバーバーチの言葉を紹介します。


「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。


シルバーバーチは、メソジスト派の牧師に対して、上記のように語りました。

少し説明を加えると、その牧師は牧師なりの善意と使命感から、伝道などの宗教活動をしていたのですが、その後、真実に目覚め、自分の長きに渡る牧師生活を悔やんだことに対する、シルバーバーチの答え、なのですね。

そしてシルバーバーチは、真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのですと、助言しています。


寄る辺なき子さんは、今まさに、それまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになったわけです。

なので、ここが、正念場、です。

まずは、心身を休めること、だと、思います。

色心不二という教えはご存知かと思いますが、体と心は互いに影響を及ぼし合っていますからね。

まずはゆっくり休んでください。

そして、自分の運命を、信じてください。

長くなったので、今日はここまでとしますが、この世は、霊界という永遠の世界に行く前の試練の場であり、魂の足腰を強くする場であるとの認識をもって、落ち着いて生きられることを、祈っています。






赤木さんの死と誠実な仕事について


コロナ騒動で、すっかり忘れ去られたかのようになっている近畿財務局職員だった赤木俊夫さんの死。

彼のパソコンには、手記が残されていて、誠実な仕事をしようとする彼の実直な態度と、それを、寄ってたかって捻じ曲げようとさせる上からの圧力、を見て取ることができ、僕自身、何ともやり切れない気持ちになりました。

僕が思うに、赤木さんのことは、まだ、このように表沙汰にもなりましたが、似たようなことは、これまでにも、そして、もしかしたら、今も、起こっているかもしれないし、また、これはなにも、官僚の世界だけに限ったことではないでしょう。

誠実な仕事をしていた赤木さんが直面していたストレスは、想像するに余りあります。

 鉄の結束を誇る財務省では、そもそも内部告発などほとんど考えられない。さらに森友事件は、組織としての不祥事で、しかも、安倍総理夫人直結なのだから、告発しても返り討ちに遭うのが落ち。検察に期待しても、本格立件どころか、むしろ、検察の狙いは、赤木さん一人に罪をかぶせて一件落着というシナリオだった可能性すらある。

上記のように述べるのは、自身も官僚であった古賀茂明さん。

赤木さんのようなまともな官僚が追い詰められ、彼を間接的に殺したともいえる上層部が今もろくに処罰されることなく、むしろより厚遇されているさまを見て、この世を生きることのむなしさを感じずにはいられません。

僕は、この赤木さんの死を想うとき、 藤沢周平の小説を思い出します。

彼の小説の主人公は、ほとんどが名もなき一庶民や、武士であっても下級武士。

軋轢は、今も昔も、同じ。

所詮は、人間社会に違いなく、上からの理不尽や、不条理、濡れ衣、行き違い、などなど。

現在、赤木さんの奥さんが、訴訟を起こしていますが、成り行きを見守りたいと思います。

汚濁にまみれた世の中ではありますが、以下の、シルバーバーチの言葉が救いになります。


神とは法則です。それを悟ることが人生最大の秘密を解くカギです。なぜなら、世の中が不変不滅、無限絶対の法則によって支配されていることを知れば、すべてが公正に裁かれ、誰一人としてこの宇宙から忘れ去られることがないことを悟ることができるからです。


そうです、たとえこの世の法律で裁くことができなくても、天網恢恢疎にして漏らさず、と、言うように、宇宙法則が、赤木さんを間接的に死に追いやった輩を裁きます。

パウロは、ローマの信徒への手紙12章で、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ(19節)と、言っていますが、復讐、と言ってしまうと、そこには人間的な感情が入ってしまいます。つまり、神があたかも、人間のような喜怒哀楽がある、との誤解のもとです。

そこで、僕なりに、より、正確に言うと、宇宙法則として統べる神の法則が因果の理法として自動的に裁く、と、現代的に解釈するのが良いように思います。

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そして、もうすでにこの世の存在ではない赤木さんに目を転じれば、赤木さんの誠実な仕事ぶり、そしてそのまじめな人柄は、肉体を脱ぎ捨てた今も、霊として存在する彼の中の美なる徳目として生き続けているはずです。

この世は、正しいことが必ずしも通らない世の中ではありますが、この世とあの世を貫く宇宙法則が存在することが、絶対的な救いであり、結果的には、悪いことをすることは割に合わないのです。

そうした、損得の観点から見ても、赤木さんを追い詰めた小賢しい輩は、大いに割の合わない、あとで大変な代償を支払わされる未来が待っていることになります。

なぜなら、すべての存在が、この世だけを生きているのではなく、むしろこの世は、永遠の実在である霊界に行く前の、準備段階の世界ですからね。






感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安


霊的な光の感覚が、その頃の僕の、最後の拠り所でした。

この拠り所とは、幸福の科学で言うところの、信仰の命綱、でもありました。

精舎で感じる光、あるいは、東京ドームの講演会での光体験、これらが、実に強力な動機となって、僕の幸福の科学での信仰を支えていました。

それは、僕にとっての、エルカンターレ信仰の根拠でもあり、原動力でもありました。

しかし、その一方で、僕の理性が、度重なる矛盾の数々を、どうしても受け入れられずにいたのです。

よっぽど、矛盾になど気づかずに、無邪気に、信じ切っていた頃のほうが幸せだったとも思いましたが、いや違う、という自分がいて、苦しくても、不都合な真実と向き合う今の自分のほうが尊い、という思いもありました。

この、ぎりぎりのところの攻防は、到底短い文章で語ることはできません。

感情が揺れ動き、自分を制御することが難しいときも、ありました。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性との、戦いでもありました。

この苦しみは、他人に話しても到底理解される類いのものではないことを、僕自身、わかっていました。

わかってくれる人がいるとしたら、同じ様な体験を通過した人だけだろうと思いましたが、そのような人は周りにはいませんでした。

そのように悶え苦しんだ日々ではありましたが、退会すると決めた頃だったでしょうか、僕の親友でもあり、法友でもあり、年下ではありますが、何かと頼りにしていたAさんに、苦しい心情を打ち明けた記憶があります。

Aさんは、自分の仕事が忙しいにもかかわらず、辛抱強く、僕の話を聞いてくれました。

当時、僕は、マンションで独り暮らしをしており、Aさんの住居も、僕のところから歩いてすぐのところにありました。

Aさんは、僕の気持ちを尊重してくれ、それで僕が本当に幸せになるのであれば退会するのは構わない、という趣旨のことを言ってくれました。

また、Aさん以外にも、僕よりもだいぶ年上の会員のSさんも、僕のマンションを訪ねてきて、話を聞いてくれました。まあ、このSさんには、僕の気持ちや考えは全く理解はしてもらえませんでしたが。それでも、わざわざ訪ねてきてくれたことは、ありがたく思いました。

それ以外には、当時の支部長とも話しましたが、こちらは短い時間でした。僕の、退会の決意が固いことを知るとあきらめたようでしたが、別れ際に、せめて6月まで保留しないか、と言われました。その間に、富士山の大爆発が起こるから、と、言っていました。

僕は、富士山も活火山だから、いずれ、そういうこともあるでしょうが、6月までに噴火するということはないと思います、と、答えたのを覚えています。

僕自身、当時、そうした、教団の天変地異の予言に、本当に嫌気がさしていたので、それは、即座に答えました。

寄る辺なき子さんは、おそらく、僕より信仰歴が長いと思われるので、法友を失う苦しみ、自分が根拠として立っていた足下の大地が消えていく苦しみを、体験されたことでしょう。

そしてその苦しみは、今も継続中かもしれませんが、その葛藤があってこそ、真実を見つけることが可能となるのだと、思います。

話を、元に戻しましょう。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性、とのせめぎ合いに、どのように決着をつけたのか、あるいは、どのように、運命が僕を導いたのか、の続きです。

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結論から言うと、僕の、過去の宗教体験が、役に立ちました。

僕は、父が世界救世教の信者であったために、自然に父と同じ信仰を持つようになりました。学生部、青年部と、順調に、信仰生活を続けていたのですが、善悪の問題で悩み、教団職員に相談しても、そこでは答えが得られないことを知り、やがて、真理を求めて、さすらうようになります。

その後、統一教会の堕落論を知ることとなり、長年心を去らなかった善悪の起源の問題が解決しました。そして、統一教会に入信し、全財産を献金し、専従生活に入りました。

で、実は、世界救世教時代にも、統一教会時代にも、僕は、タイプの違う、神体験、をしていたことを、思いだしたのです。

世界救世教のときは、熱海にある救世会館という、建物内で、突然、霊感に打たれて号泣したことがありました。一緒にいた人が、びっくりした顔で、僕を見たことを、今でも、覚えています。当時は、十代で未成年でもあり、多感でもありましたが、霊体質でもあったのだと思います。

統一教会では、ツーデイという合宿で、神が現れて、長い間探し求めていた我が子よ、と言って、僕を泣きながら後ろから抱きしめる、という体験をしました。ああ、これが、生きた神なのか、と、思いました。それだけではなく、専従生活で、日々、伝道に明け暮れている中で、奇跡とも思える体験を、いくつかしています。

そうした、過去の宗教団体における神体験、光体験を思いだすに及び、この、幸福の科学での光体験も、それに類するものではないのか、と、冷静に分析できるようになりました。

少し余談になりますが、今年1月に、上祐史浩氏に会いに行った話は以前しましたが、彼の友人で、広瀬という人だったと思いますが、やはりオウム信者で、大変な秀才だったそうですが、その人も、最後は理屈ではなく、神秘体験によって、麻原に心酔し、サリン事件を起こしたとのことでした。

つまり、結論を言うと、個人の神秘体験や個人の霊的能力には、普遍性はない、と、いうことなのです。

ただし、普遍性はないが、その人にとっては、強力な体験であり、信仰を継続する上での大きな動機付けになる、ということ。

ここが、神秘体験や霊的能力の、功罪相半ばするところではないか、と、思います。

そして、そのことに気づいた僕は、さらなる検証と内省の日々を重ねていきました。


僕が今でも、貴重な体験だったと思う研修を、一つ紹介します。

それは、日光精舎での、八正道研修でした。

礼拝堂のピンと張りつめた空気の中、出された公案に対して思慧していく、というものでした。

このとき、僕の守護霊がすぐ背後に立ち、この機会を逃すまじ、という強い気迫で、僕にメッセージを送ってきたのです。僕は、自動書記のような感じで、送られてくる言葉をノートに殴り書きしていきました。

そして、その公案が終わったときには、その与えられた言葉の数々に、自分でもびっくりしたのを覚えています。そこには、自分でもうすうす気づいていた自分の欠点や課題、これからの方向性などが、書かれていたのです。

こうした体験から、僕は、精舎での研修などにも、かなりのめり込んでいきました。

こうした体験を積み重ねていくと、信仰の確信が深まるばかりで、その結果として、活動にも、熱心になっていきます。

その後、幸福の科学を退会した僕ですが、たとえば、今例に挙げた日光精舎での研修における体験は、今でも、守護霊からのメッセージであったと、思っています。

事実、その研修の後、僕は、そのメッセージを、日々の生活の中に生かすようにしましたからね。

シルバーバーチが説くように、守護霊なり、指導霊なり、導きの霊存在は、ラベルを選びません。

つまり、その機会、そのときで言えば、日光精舎での八正道研修が、メッセージを伝えるのに最適の機会であれば、それを活用するのですね。

たとえそのことによって、僕がさらにその信仰にのめり込むことになったとしても、それ以上に、その時僕に必要なメッセージを伝えることのほうが有益であれば、そうするわけです。

事実僕は、その後、そのメッセージを日々の生活の中に生かし、日常生活を改善していきました。

だから、僕にとって、幸福の科学での日々は、決して無益なものではありませんでした。

今でも付き合いのある、Aさんや、Iさんなど、有徳の人との出会いも、ありましたからね。

さて、僕の、こうした体験が、どれほど、寄る辺なき子さんのお役に立てるかわかりませんが、僕が退会するときのこと、そしてその退会は、決して安易な気持ちからのものではなかったことをお伝えできれば、多少なりとも参考になるのではないかと思い、記してみました。

もし、また、何か、書き込みたいことや、あるいは、僕の記述が飛んだ見当違いであれば、そうした指摘でもかまいませんので、コメントしていただければ、と、思います。

長い信仰から離れるときの不安は、それまで立っていた大地が失われるに等しいと、思います。

しかし、真実に向き合う勇気は、その不安に比例して、あるいは、その不安以上に、尊いものです。

それはまさに、真摯に人生を生きていることの証、でもあるからです。

そして、そうした、真実に向き合う勇気は、誰もが持てるものではありません。

大半の人は、それまでの自分の信念、あり方、費やしてきた時間や金銭や心情、その他もろもろの自我に付随する総体を捨てきれず、自覚するとしないにかかわらずそこに縋り付き、自己を客観視することなく正当化し、臭いモノには蓋をして見ないようにし、自分の見たいものだけを見て、自分の在り方を合理化するからです。

また、いかに優れた人であっても、その時期が来なければ、向き合う気にもなれないでしょう。

ただ、すべての人に言えることかと思いますが、それぞれの人のその人生こそが、その人の導き手なのだと思います。

そういう意味では、すべての人が、尊い修行者であり、永遠の旅人なのだと、思っています。




圧倒的な神の公平さ


神という存在が、もし、自分の信者だけをえこひいきするような偏狭な存在であるならば、僕たちに平安はありません。

しかし、聖書に描かれている神は、喜怒哀楽が激しく、人間的で、依怙贔屓をしまくる神です。

そのような神の概念を植え付けられてしまうと、それが、生涯にわたって暗い影を落とすことになります。

その神の概念を覆したのはイエスで、イエスの説く父なる神は、愛の神、です。

イエスは、宗教団体を作ろうとしたのでもなく、三位一体などと言って、神の座に祭り上げられることを望んだのでもありません。

ただ、素朴に、人々に、神の愛と宇宙法則を説いただけです。
  
そのようなことができたのは、イエスが、宇宙法則と一体となり、すなわち、主イエス、となっていたからでもあります。

神の愛の公平さは、聖書の中にも見出すことができます。

それは、善きサマリア人のたとえ、の部分でも、知ることができますし、他にも、ありますが、今日は、話を先に進めます。

たとえば、どんな宗教団体でも構いませんが、あなたの信じる教団の教祖が、唯物論者はみな地獄行きだと、言ったとします。

その発言だけで、彼は霊界のことを何も知らないか、あるいは、その発言によって信者を自分の操りたい方向へと誘導しているか、のどちらかであることが推測できます。

唯物論者でも、心根が良かったり、この世界に大きな貢献をした人は数多くいます。

一方、何らかの教団の信者であって、自分は真理を知っていて、教祖の教えを理解できるそれなりの人間だとの自負がありながら、聖書の善きサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人のような振る舞いをする人も多いでしょう。

何が言いたいのかと言うと、ラベル(何々の信者である、とか、唯物論者、などの分類上の決めつけ)は、一切関係がなく、その人の全人格がありのままに判定される、あるいは、評価される、のが、霊界という世界だ、ということです。


─── 生前スピリチュアリズムを否定し、生涯を合理主義者で通したH・G・ウェルズ(※)のような人はそちらでどんな気持ちを抱いたのでしょうか(※世界的に知られた英国の文明評論家で、主著に「世界文化史体系」「生命の科学」等がある)との質問に対し、シルバーバーチは、以下のように答えています。

 「ウェルズは不幸にして強烈な知性がかえって禍した偉大な魂です。もしこうした偉大な知性が童子のような無邪気さと一体となれば大変な人種が地上に誕生するのですが・・・

 こうした人は生涯かけて築いてきた人生哲学をそっくり捨て去らないといけないのですが、それが彼らにはどうしても得心がいかないのです。彼らにしてみれば、あれだけ論理的に且つ科学的に論証したのだから、その思想と合致しない宇宙の方がどうかしているに相違ないとまで考えるのです。そんな次第ですから、色々と修正していかねばならないことがあり、長い長い議論が続きます」

 その議論の相手となって説得に当たったのがチャールズ・ブラッドローとトーマス・ペインだったという。(二人とも地上時代は自由思想家として人権擁護の為に貢献した人物である)

 それを聞いてスワッハーが「ペインは偉大な人物でした」と言うと、すかさずシルバーバーチが「でした、ではありません。今でも偉大な人物です」と訂正してこう述べた。

 「彼は地上での評価よりはるかに偉大な人物です。時代を抜きんでた巨人です。霊的な巨人です。先見の明によって次々と問題を解決していった生まれながらの霊格者でした。人類は本来自由であるべきで、決して束縛されてはならないとの認識をもった偉大な宗教的人物でした。真の意味で〝宗教的〟な人物でした」


神の裁きは、公平にして見落としがありません。

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シルバーバーチは、長い霊界生活で、神の本質をよく知り抜いています。


 あなたが神と仰ぐ教祖は、人間を安易にラベル分けしていませんか?

 あなたの理性は、教祖のすべての言動に得心が行きますか?


僕が、ありとあらゆる新興宗教の信者に対して問いかけたい質問は上の2点です。


日本は、世界でもまれにみるほど、新興宗教の多い国です。

戦後、仏教系、キリスト教系、あるいは神道系、さらには、それらをごちゃまぜにしたものや、神智学をベースにしたものなど、百花繚乱ならぬ、魑魅魍魎の世界が展開しています。


新興宗教の信者だけでなく、キリスト教の信徒や仏教徒にも、問いかけたい質問はありますが、今日は、ここまでと、します。




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