介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

イエス

ひとりの時間が耐えられない人たち



前前前世じゃなくて、前前アルバイトのときに、

同僚先輩社員から言われたのは、

ひとりで、休みの日は、暇でしょうがなくね? 

という問いかけ。

そう言ってきた人は複数おり、彼らは、

仕事がないと、暇でしょうがない、と言います。

もう65を過ぎている人たちで、

それなりに趣味などもあるようですが、

それでも、時間を持て余すと。


で、そういう人たちは、

会社員を、苦もなく続けられる人たち。

どうでしょうねえ、僕が出会った人たちの中では、

そのタイプが一番多いように思います。

ひとりの時間が耐えられない人たち、です。

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逆に、一人じゃないと耐えられない人もいて、

僕も、そちらのカテゴリー。

とにかく、一人で、自由にしているのが好きなのですよ。

それで、ときどき、友人と会う、というのが最適解。

僕のようなタイプは、

一人でいることにも、

お金がないことにも、

耐えられますが、

逆に、時間の余裕のない生活には、

耐えられません。

だから、サラリーマン生活は、

なかなかに大変でした。

今は、自由時間がたっぷりあるローコスト生活。





だから、楽に生きられるのかもしれません。


 

本当に割に合わない労働



昨日は、貧乏リタイア暮らしについて書きましたが、

Kから、この冬の寒かった話を聞くうちに、

僕も、雪国で暮らしていた頃を想起。


二十代の頃、新潟県の豪雪地方で暮らしていた経験があるのでわかるのですが、

あの雪搔きというのは、本当に割に合わない労働。

越後湯沢に住んでいたころは、冬になると、ほぼ毎朝雪掻き。

何しろ、雪搔きをしないと、寮から出られないのですよ。

で、これが一仕事。

その一仕事をした後に、本番の労働が待っているわけで。 

これって、二度疲れるよね、っていう話。

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それと、僕は当時、寮暮らしだったから暖房費はかからなかったけど、

あれが、一人暮らしであれば、暖房費が半端なくかかりそう。


うーん、今では、遠い思い出ですが、

関東地方に住んでいてよかったなと思えるのは、

冬に雪掻きがないこと、かな。


まあ、上州名物のからっ風には、吹かれていますがね。





今世紀の終わりごろには、画期的な技術革新で、

人々が雪掻きから解放されるのではと、考えています。





楽しいことにアンテナを張る



何だよ、また、風の時代の話かよ、と言われるかもしれませんが、乗り掛かった舟なので、もう少しだけ。

昨年、御岳山に登り、御嶽神社に行ったときから、楽しいことにアンテナを張る、ということを、心がけています。 

御嶽神社にしても、三峯神社にしても、ああした霊域では、インスピレーションを受けやすくなるもの。

で、何が言いたいのかというと、楽しいことにアンテナを張っていると、楽しいことが目につきやすくなり、人生が軽快になっていきます。

同時に、波長同通の法則から、自分の波長が軽妙になってくると、重い波長の人とは合わなくなっていきます。

つまり、そうした重苦しい人とは、勝手に縁が切れていきます。

で、大切なのは、中心を意識するということ。

自分の中心は何なのかを知り、その中心に意識を向けることが、きわめて大切です。

そうでないと、ランキングだとか、この世の評価に、振り回されます。

たとえば、食べるところを選ぶときも、自分の舌ではなくて、星の数で選んだりします。

それは、思考、に、蹂躙される、と、いうこと。

思考優位の人には、気づき、が、訪れにくいので、風の時代には、不利になります。

まあ、そうした話をしだすと長くなるし、キリがなくなるので、やめておきますが、自分の中心、を意識すれば、勝手に物事が良い方向に流れていきます

努力、は、必要ありません。

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努力、とは、努める力、のこと。

これは、ストレスがかかっているときの在り方。

ストレスは、それは間違っていますよ、という、中心からのメッセージ、つまり、お知らせ、です。

風の時代のキーワードは、努力ではなくて、ワクワク。

ワクワクして楽しいからやる。

そうすると、楽しいことが連鎖して繋がっていきます。

その連続が、自動運転のように、快適な世界へと、自然に導いてくれます。






人生は、本当にワクワクして楽しいもの、ですからね。

まあ、それを信じるか信じないかは、あなた次第、です。





幣舞橋(ぬさまいばし)で会いましょう


2017年と2018年に北海道に行ったとき、どちらのときも小樽にも行ったのですが、どちらのときだったかは失念しましたが、小樽の飲み屋さんで飲んでいた時に隣り合わせた人と話して、釧路も、良いところですからぜひ来てみてください、と、言われたのですよ。

で、そのときに、では、幣舞橋で会いましょう、と言い合ったのですね。

こんな他愛のないことを言い合えるのも、旅の途上という、非日常空間だからでしょうねえ。

いつ会うということではなく、話の流れの中で、そんなことを言ったのですが、それを思い出して、その橋をググってみました。


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上の写真は、ネットで拾ったものです。

どうやら、これが、幣舞橋らしい。

うーん、なかなかいい雰囲気です。 

釧路に行く機会があったら、その橋で、ばったり会ったりとかね。




まあ、そういうことが起こり得るのが、人生の面白いところ。




それぞれの仕方で、究極を目指す


昨日は、AさんとIさんと僕の3人で、忘年会。

コロナ禍であることを、鑑み、個別中華のコースでの食事会。

そこで、改めて、3人の共通点と修行課題を確認。

シンクロニシティという言葉がありますが、まさに、それを、感じた次第。

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3人とも、確実に、それぞれの修行の階段を上っています。




うーん、僕たち3人は、それぞれの仕方で、それぞれの究極を、目指しているのかもしれません。


 

自分の理想像など持たないほうが良い理由


自分はこうあるべきだ、という思いが強い人は、絶えずストレスに晒されています。

なぜなら、実態は、全然自分の理想像とはかけ離れているから。

まあ、勝手に理想像を描き、勝手に苦しんでいるという、自縄自縛の状態。

実は、これ、若い頃の僕の姿、でした。

もう遠い過去のことだから、こんなことが言えるのですが、ね。

で、こういう人は、マイナスの感情を持ちやすいので注意が必要。

理想の自分を描くのは、思考、すなわちエゴのなせる業。

理想の自分という幻想よりも、今ここにある自分の尊さに気づけば、すべては解決します。

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僕たちに必要なのは、思考、ではなく、気づき、なのですよ。

 


まあ、気づきは、あなた(自分)次第だということですね。


自分自身の深さを発見した人は、この事実に気づいている


実は、どの宗教団体の教えも、良い教えです。

カルト宗教などでも、教えそのものは、立派だったりします。

そしてどの団体の信者も、もっと良い人間になろうと努力しています。

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その努力は尊いのですが、当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しません。

良い人間になろうとするのも、微妙でわかりにくい形のエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに変わりはないから、です。

実は、カルト教祖そのものが、良い教えを説きながら、彼こそが、自意識や自己イメージの強化に最も邁進している無明の人間なのです。


もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史が、一つの参考になるのではないでしょうか。

共産主義の理想自体はそれなりに素晴らしいものなのですが、その考えに共感した人々が、まず自分の意識状態という内なる現実を変化させようとはせずに、ただ外部的現実を変えようとしたわけですね。

その結果は、惨憺たるものでした。

スターリン統治下のソ連で、階級の敵、裏切り者、として2000万人が殺されました。

こうした事例を挙げていくときりがないので、一例のみにとどめますが、これを、他山の石としてはいけないのです。

オウム真理教が、その独善的な教義により、サリンをまき、罪なき人々を多数殺しました。死は免れたものの、今も、その後遺症に苦しんでいる人もいます。 

イデオロギーもカルト教義も、根っ子は同じです。

思想なり、教義なりで、自己イメージを強化した人たちによって引き起こされた、正義という名のもとの殺戮、残虐行為。

エルカンターレを信じるまで火責め水攻め食料危機だと、勝ち誇ったように息巻く幸福の科学の信者の内面は、実際に手を下さないまでも、意識状態としてはスターリンやポルポト、麻原彰晃と何ら変わりません。

これは、カルト宗教に顕著なことですが、その一見、良い教えが、イデオロギーになり、信者が自分をそれに同一化させ、自我意識を強化する信念体系になり果てています。

信者は、この信念を拠り所として無自覚なまま自分の信仰に酔い、自分が正しくて、相手が間違っていると、断じます。

このような信念は、それがどのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしません。

それどころか、その信念と自分を同一化すればするほど、自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていきます。

結論を言うと、自分がスピリチュアルかどうかは、何を信じているかではなく、どんな意識の状態に在るかによって決まる、ということです。

自分自身の深さを発見した人は、この事実に、気づいています。

そしてこの気づき、こそが、あなた自身に変容をもたらし、その変容こそが世の中を変えていくのです。

仏陀釈尊もイエスも、自分を崇拝せよとは言わず、あなたの中にある深さに気づきなさい、と、教え諭したのです。

この調子で話していると長くなるので、この辺にしておきますが、人工的解釈によって歪められたキリスト教が、僕にはとても残念でなりません。

主イエスの教えから、遠いところにあるのが、今の、そして、歴史上の、キリスト教です。





明日のことは明日自身が思い煩う


今日のタイトルは、イエスの言葉です。

「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」

この、さっぱりとした心、今日だけに、さらに言えば、今、この時だけに、焦点を当てた生き方、を、イエスは説きました。

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大乗仏教で最も人気のある観音菩薩は、観音菩薩になる前の生涯で、親と生き別れ、人さらいに騙され、陸の離れ小島に送られて一生苦役を課された人生でした。

彼は、苦しみ抜いた人生の終わりに、飢えや渇きの苦しみに加えて、人に騙される悲しみを味わったからこそ、この苦しみを縁として、同じような苦しみに嘆く人たちを、来世救っていくことにしよう、と、決意しました。

苦しみの連続の生涯を逆に活用して、同じ様な苦しみを持つ人たちを救う財産に変えようと発願しました。

この逆転の発想が、観音菩薩の慈悲の源でした。

愛されなかった苦しみを、他を愛するために使う、という最も尊い慈悲の心が、喜びからではなく苦しみから生まれた、という例ですね。

仏教を表す蓮の花は、美しい場所に咲くのではなく、泥水の濃いところほど大きな花を咲かせます。

僕は、観音菩薩のことを想うたびに、蓮の花が脳裏に浮かびます。

前回の記事で、河野義行さんのことを少し書きましたが、彼が当然受け取るべき賠償金も受け取らず、仏陀釈尊の慈悲の生き方を実践しているという事実を、僕に教えてくれたのが、かつて、ああ言えば上祐とまで揶揄された上祐史浩氏でした。

実は僕は、今年1月に、上祐氏に会い、いろいろと話を聞いてきたのですね。

どうしても、僕が上祐氏に会いたかった理由は、僕自身、二つのカルト宗教を経験し、激しい煩悶の末に克服できたとは言え、その生木を裂かれるような体験は、筆舌に尽くし難いものであり、おそらく上祐氏も、同じ様な体験をしているはずだ、と思ったからです。

さらに言えば、僕は無名の凡夫ですが、彼の場合は、一時期とは言え、テレビに出続け、顔も知られ、さらには、サリン事件の被害者への賠償責任もあるという、大変な重荷を背負っています。

つまり、内面の葛藤の克服だけでは済まない立場です。

僕とは比較にならない重い十字架を背負った彼の今の本心と、その波動、を、知りたかったのです。

まあ、面談時間そのものは、そう長い時間ではなかったのですが、得るものは大きかったと思っています。

彼はかつて、麻原彰晃をグルと慕い、父親のように思っていたそうです。今の彼は、すでに偽物のカルト教祖の呪縛を超克し、仏教的な平安を得ているようでした。

僕が思うに、彼にとっての幸福は、偽物のグルと決別し、河野義行さんのような、本物の人格者と出会えたことだと思います。

河野義行さんは、上祐氏の主催する団体の外部監査人となっています。

つまり、彼は偽物のグルの後に本物の一市井の人と、出会ったわけですね。

本物は、偉ぶることなく、高ぶることなく、人を非難することなく、穏やかで平静な心を維持しています。あるいは、維持しようと心がけています。

そして、上祐氏が、あることで、河野義行さんに質問したことがあったそうです。

その時の河野さんの答えが、「これまでも何とかなってきた。だからこれからも、何とかなると思う」だったそうです。

それを聞いたときに、僕は、冒頭の主イエスの言葉を思い浮かべました。

明日のことは明日自身が思い煩うであろう、一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

だから今日も、僕は、さっぱりした気持ちで生きようと、思っています。


自分を見つめること以上に大切なことなど、あるのだろうか


長らく、グル(宗教的指導者)を求めて、彷徨ってきた人生でしたが、これは、ある種の救世主待望症候群、なのかもしれません。 

こうした傾向のある人は、その相関関係にあるメサイアコンプレックスを持つ教祖と、出会いやすくなります。

メサイアコンプレックスで有名なのは、人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズや、ブランチ・ダビディアンのデビッド・コレシュ。日本でいえば、オウム真理教の麻原彰晃。

この辺りは、実際に事件も起こしているし、わかりやすいのですよ。

問題は、事件にこそならず、表面化していないものの、カルト教祖の言動に振り回されて、自分の人生を翻弄される人が後を絶たない現実。

日本の宗教人口は、確か、日本の人口の2倍くらいだったと思います。

それだけ、日本では多くの人が宗教とかかわっていて、また、政治にも絡みますから、義理で信者になっている人や、商売上の付き合いから信者になっている人まで含めると、2億人くらいはいるのかもしれません。

で、そのような、百花繚乱と言うよりは、魑魅魍魎の世界に、心の安らぎはありません。


では、安らぎは、どこにあるか。

それは、自分の中にあります。

いや、自分の中にしか、本当の安らぎはありません。

つまり、グルであろうと、救世主であろうと、他者に、依存していては、真の安らぎなど訪れないのです。

で、仮に、素晴らしいグルがいたら、その人は、自分を崇めなさい、とは、決して言いません。

そうではなく、あなた自身の中にある真我、あるいはハイヤーセルフ、あるいは真実在、あるいは仏性、まあ、呼び方はどうでもいいのですが、それに、気づかせるようにするでしょうね。

それこそが、グルの役目ですからね。

ところが、偽物は、自分を崇拝させようとします。

自分に依存させ、自分に服従させ、魂の自由を奪い、束縛します。

そして、そうした信仰こそが尊いのだと、信者を洗脳します。

洗脳された信者は、無批判になります。

信者のほうでも、純粋なる信仰は美しいという自己陶酔に浸れます。

まあ、ある意味、winwinの関係でもあるわけです。

僕は、これを、相互依存、と呼んでいます。

さらに信者には、選ばれたる人間、であることの無意識の優越感が付きまといます。

教祖の高邁な理想や教えを理解できる自分は悟りが高い、との、自己陶酔の優越感、ですね。

お金がなかろうが、世間から相手にされなかろうが、この優越感や選民感覚があるうちは、信者は幸福と言えば幸福なのです。まあ、偽りの、誤魔化しの幸福なのですが。

しかし、僕に言わせれば、真実に向き合わない限り、真の平安は、ありません。

勇気をもって真実に向き合うことのできる人にだけ、その先にある真の平安への道が開けていきます。

まずは、不都合な真実と向き合うこと、そこを避けていては、いつまでも、その先にある、自分自身を見つめる段階には、行き得ません。

いったい、この世界に、自分自身を見つめること以上に大切なことなどあるのでしょうか。


肝心かなめの自分自身を見つめることをおろそかにして、いったいどんな救世活動ができると言えるのでしょうか。

これは、自分自身を見つめようとはせず、走り回っている、あるいは、走りまわされている、偽りの優越感や選民感覚を持っている信者が、灯りのない状態で闇雲に動いているに等しいのです。

「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。

イエスは、宗教団体を作ろうとはしていないし、ひたすら、宇宙法則、について、述べています。

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法則を指し示すことが、指導者の役割であり、無私にしてその役割に徹した人は、イエス以外にも、何人かいます。

そうした話をしだすと長くなるので、やめますが、そのイエスも、後世の人たちに、都合よく利用され、再臨のイエスを語る偽メシアも、後を絶ちません。

偽メシアの特徴は、自分を崇拝させること

ここは、国を問わず、時代を問わず、共通しています。

一方、本物の指導者の特徴は、無私であり、他からの称賛など微塵も求めず、ただ、まだ気づきを得ていない人たちを宇宙法則である神にいざなう役割に徹している、ことです。彼ら、本物は、すでに十分満たされているので、他からの崇拝や承認は必要としていないのです。

本物の救世主の生き方は、素朴です。

主イエスのように、ね。

長くなったので、今日はここまでとします。


矛盾した言葉の奥にある真実

齢60を超え、なりたい自分になりつつあるのを、感じています。

これは、聖書的に言うと、求めよさらば与えられん、を、地で行く感じ。

一方、仏教には、求不得苦、という教えがあります。

これは、求めても得られない苦しみ、のこと。

イエスも釈尊も、どちらも覚者ですが、切り口が違うと、一見、矛盾した教えのようにも見えます。

しかし、イエスの教えも釈尊の教えも、どちらも真実。

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さて、僕が、最近とみに感じるのは、今生きているこの人生は、まさに自分の求めているものだ、という実感。

つまりこれは、僕の人生そのものが、僕を導いてきた証しでもあります。

この喜び。

だからこそ僕は、過去にかかわりのあった統一協会も幸福の科学も、その誤りを明確に理路整然とわかりながらも、そこを通るべくして通ったのだという必然性もまた、理解できるのです。

で、僕は、僕の人生を慈しむがゆえに、その通ってきた道をも、慈しみの目で見ることができるのです。

その道を通らなければ、今の僕という存在にまで導かれることはなかったからです。

今の僕という存在が、幸福そのものである理由の一つが、その道、その道程に、あるからなのです。


その道のりがあって初めて、一見矛盾する主イエスや釈尊の教えの奥にある真実が見えるのです。


ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ。」



クリスチャンにも仏教徒にも、ムスリムにも、無神論者にも、そのようなラベルに関係なく、平安への道は、今、ここに、開かれています。


母が死んだのは、一年前の今日でした

早いもので、母が他界してから、今日で、ちょうど一年になります。

生きるということは、誰にとっても、それだけで精いっぱいで、瞬く間に時間は過ぎていきます。

一年前の今日の夕方、母は、病院で息を引き取ったのでした。

その経緯については、以下の記事で書き記しています。


母の死と、これからの僕


死は、誰にでも訪れるもので、それを免れられる人はいません。

記憶に新しいところでは、最近相次いで起きた、幼い子供が死んだ交通事故。

まだ幼い我が子を突然奪われた親の悲しみは、僕の想像を超えます。その喪失感はどれほどのものかと想像するだけで、胸が塞がる思いです。

そのように死は、年齢性別収入地位国籍など、一切に関係なく、不意に訪れるものです。

聖書の中の、主イエスの言葉が参考になるかもしれません。

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13~21より


この世で豊かに生きることは素晴らしいことで、それを軽んじてはいけませんが、しかし同時に、それは永遠のものではありません。

人は誰でも、人生のいずれかのときに、世の無常を感じる経験をするのではないでしょうか。

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そして、個人差はあるにせよ、そうしたときとは、霊性に目覚めるチャンスのときであるのかもしれません。


人に恐怖を植え付けるのは愛じゃない

その人は、片づけで有名になったこんまりさんにちょっと似ている女性でした。こんまりさんを、もう少し弱弱しくしたような人。

見るからに、日本神道系と言うか、巫女さんが似合いそうな人。

とてもやさしい人だったので、僕も好意的に見ていました。

ところがその彼女、だんだん顔つきが暗くなっていくのがわかりました。

そこで僕は、彼女が好きな神社に誘ってみたのです。いくつかの神社はパワースポットで有名です。

ところが、神社には行かないほうがいいと言われている、と彼女が言いだし、そこから話はおかしなほうに。


かいつまんで話すと、最近興味を持ち、勉強を始めたキリスト教の教会で出会った年上の女性に、神社に行くのはよくないと言われたとのこと。

彼女が口にしたその教会は、プロテスタント系で、そこの牧師とも僕は話をしたことがあり、礼拝にも参加したことがありました。

彼女に神社に行くな、と言った女性の名前を訊いたところ、案の定Rさんの名前が。

このRさん、いつも不満そうな顔をして、ヨハネの黙示録ばかりを強調している人だったのです。

どんな人でも、その人特有の雰囲気というモノがあります。もう少し精密に言うと、周波数、とか、波長、のようなもの。

で、そのRさん、周波数がとても雑なのです。刺々しいオーラを発散していて、上から目線。不幸な出来事にはすぐに反応するのに、他人の幸せは喜べないタイプ。

まさに、イエスの教えと真逆の人生を歩んでいるような人なのに、自分はクリスチャンだから最後の審判では救われる、と思い込んでいる人。

このRさん、家族仲も悪く、友達も少なく、経済的に豊かではなく、リアルな生活では少しも幸せではないために、ヨハネの黙示録の終末論にしがみつき、主イエスを信じれば救われるという安易なキリスト信仰に胡坐をかいて、他者を見下すという、ごく一部の 偏執的なクリスチャンに見られる性向をすべて持ち合わせていました。


このRさん、に比べて、こんまりさんに似た僕の知人女性は、いつも優しい柔らかい波動を出していて、たいがいの人に好かれる性格でした。

そうした知人女性に対する嫉妬、も、このRさんの中にはあったのだと思います。そして、自分の吐き出す言葉でうろたえるKさん(こんまりさんに似ている僕の知人女性)を見て、喜んでいるRさんの顔が容易に想像できた僕は、Kさんに次のような話をしました。


僕が見るところ、Rさんは、イエスの心の教えには興味がなく、ひたすら、ヨハネの黙示録をはじめとした、恐怖の予言のほうにしがみつき、そこに、自分の存在意義を見出しているように思える。

また、Rさんの心の中には、たえず不平不満が渦巻いており、その毒を吐き出す相手を絶えず探している。多くの仲間からは相手にされておらず、ちょうど聖書を学び始めたばかりのKさんは、彼女の格好の餌食にされた。

今Kさんにとって大切なことは、ハッキリと拒絶の姿勢を取ること。Rさんがいろいろなことを言ってきても、耳を貸さないこと。

クリスチャンの先輩は、Rさんだけではない。いや、僕が見るに、Rさんは、そもそもクリスチャンではなく、不幸の予言者、不幸の信奉者である。彼女は不幸が大好きなのだから(事実、そのような波長を出している)、好きにさせておけばよい。

だけど、Kさんが、そのRさんの波長に合わせて、不幸に落ちる必要はない。そんなことは、主イエスも、望んではいないはずだ。

そもそも、人に対し、恐怖を植え付けるのは愛じゃない。どんな聖書の理屈をこねくり回してきても、そんな言葉よりも、その人が普段、どんな態度で生きているかだ。

そこで僕は、ルカによる福音書の中の、良きサマリア人のたとえ、の話をしました。

<10:25>するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

<10:26>彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

<10:27>彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

<10:28>彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

<10:29>すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

<10:30>イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

<10:31>するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

<10:32>同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

<10:33>ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

<10:34>近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

<10:35>翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

<10:36>この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

<10:37>彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。



僕が言いたかったのは、クリスチャンであるとか、仏教徒であるとか、そんなレッテルはどうでもよい。良い波動を出し、親切な行いをするものが、イエスの隣人である、ということです。

少し説明をすると、祭司というのは、職業的宗教者なので、その必然として、自分は神の側にいると思っている人です。レビ人というのも、イスラエル十二部族の一つで、自分たちは選ばれた人間だという特権意識を持っていました。

一方、サマリア人のほうは、ユダヤ人からは異邦人と呼ばれ、蔑まれていました。

ところが、良い行いをしたのは、サマリア人のほうで、こちらのほうがイエスの隣人である、というたとえ話です。

このようにイエスは、さまざまなたとえ話を用いて、人々を教え諭しました。その点は、対機説法で、相手の機根に合わせて法を説いた仏陀と同じですね。

このサマリア人のたとえ話は、現代のクリスチャンにこそ、肝に銘じてもらいたい話だと、僕は思っています。

つまり、口先だけのクリスチャンは、イエスに、「あなたのことは知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるでしょうね。

一方、Kさんのように、いつも笑顔で優しく人に接している人は、それだけで徳がありますから、イエスに近いのです。

ヨハネの黙示録などよりも、マタイをはじめとした、共観福音書のほうが、心の糧になる教えが多いことも付け加えました。

ヨハネの黙示録などは、キリスト教初心者が下手に手を出すものではありません。おかしな、オカルトの方向に引き摺られていくのが関の山だからです。そして最も肝心な、イエスの教えのほうはおろそかにされます。

そして最後に、Kさんに、クリスチャンの中には高徳の人もいるから、そのような人と交わって、学んだほうが良い、と言い添えました。

そして、神社には、これまで通り、行っても良い、とも言いました。

たとえば、バイブルバブテストなど、厳格な聖書主義にのっとったプロテスタントでは、神社だけでなくお寺に行くことも良くない、と教えています。

まあ、プロテスタントもいろいろなので、おおらかな教会のほうがいいのでは、とも言いました。


気がつけば、今日は、イースター、つまり、復活祭。

クリスチャンにとっては、とても大切な日です。

僕は、クリスチャンではありませんが、ともに、主イエスの復活を祝いたいと思います。

ちょっとキリスト教の話になってしまいました。

まあ、たまにはいいか。

最低限これだけをおさえておけば、生きるのがかなり楽になります


一昨日、昨日と、スピリチュアルな話をしてきましたが、多くの人が求めているのは、救いだと思います。

ところが、巷にあふれているのは、救いを表看板にした強欲な宗教屋が多い現実があります。彼らは宗教屋であって、宗教家ではありません。

はじめは宗教家であったのかもしれませんが、だんだん自分が偉いと思うようになり、実際に教団内で神様扱いされるうちに、ますます自己洗脳に拍車がかかり、次第に裸の王様のようになっていきます。

自分に対し意見をしてくる者は排除し、場合によっては、悪魔認定して、遠ざけるだけでなく、偏執的なまでに袋叩きにします。歯止めの効かないエゴが暴走を始めても、教祖である彼を、誰も止められません。下手に進言などしたら、今度は自分に矛先が向かってくることがわかるため、次第に、教祖の機嫌をとるようになっていきます。

こうなってくると、ますます教祖の側近にいるのはイエスマンばかりとなり、あるいは、その側近は女性ばかりが増え、本当に信仰心の熱い情熱ある職員は苦しい選択を迫られます。自分を犠牲にして真実を言うか、口を噤んで保身に走るか、です。

もとより、教祖を妄信している能天気な職員には、そのような葛藤は生じません。教祖の言うことがすべて正しいと妄信しているので、葛藤など起こりようがないのです。それはある意味、この上なく楽なのです。

ただ、どのレベルで疑問を覚え、葛藤が始まるかは個人差があるので、何とも言えませんが、さすがに教祖が明らかに反社会的な行動を指示するようになったら、大半の職員はおかしいと思うのではないでしょうか。

しかし、オウム真理教の例もあり、日本のみならず、世界を見渡せば、破壊的カルトというのは、現に存在していますから、妄信者ほど恐ろしいものはありません。しかも、本人は、正しいことをしていると、信じ切っているのですから、もはやつける薬はないというべきでしょう。

さて、こうした話をしているときりがないので、結論を言うと、いかなる宗教組織にも、本当の意味であなたを救済する力はない、というのが、僕の意見です。

あなたを救済するのは、宗教組織ではありません。

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。

もともと仏陀とは、目覚めた人、という意味ですからね。

仏陀になる、と思う必要はありません。

少しだけ目が開けばいい、のですから。

それだけで、かなり、楽になります。

お布施も献金も要りません。

お布施や献金の向かう先はどこですか。

あなたの所属する宗教組織です。

その宗教組織は、清らかですか。穢れてはいませんか。詭弁を弄して、あの手この手であなたからお金を取ろうとしていませんか。

仏教には、三輪清浄という教えがあります。

これは、「布施というのは、施者・受者・施物の三輪(さんりん)が清浄(しょうじょう)であり、空寂となっていなければならない」

ということです。

つまり、受者、この場合は教祖、あるいは、その宗教団体、になりますが、これが穢れた存在であってはいけないのです。

そもそも、お布施で生活する人には、一般の人以上に、倫理観を求められるのは当然でしょう。その受者が、言動をころころ変えたり、すべてを人のせいにして独善的な立場に固執するとしたら、清浄どころの話ではありません。普通の人、凡人以下です。

僕が知る限り、あらゆるカルト宗教の教祖は頭がいいです。無駄に頭がいい、と言っておきましょう。

しかし、本当の意味での知恵はありません。なぜなら、因果の理法はくらませないからです。因果の理法、わかりやすく言えば、原因と結果の法則、です。

たかだか数十年のこの世の偽りの栄光のために、最も大切なものを失うからです。イエスも、「全世界をもうけても、あなた自身を失うとしたら、何の益があろう」と言っているように、カルト教祖の来世は、憐れなものにならざるを得ません。

しかし、ひとたび教祖という特権的な立場を手に入れてしまうと、その神の座は手放しがたいのでしょう。

ただ、これだけは言っておきます。

あなたを神とあがめているのは、一部の取り巻きとその信者だけですよ、と。その狭い世界で猿山の猿になっているだけですよ、と。

世間を舐めてはいけません。

この世間の中にこそ、実は知恵ある者、質実に生きながら真面目に暮らしている多くの善男善女がいるのです。教祖であるあなたは、彼らを救済すべき憐れなる者と見下しているかもしれません。

しかしあなたが本当に悟っているならば、人を見下すことは絶対にありません。なぜなら、すべての人に仏性が宿っていることがわかるからです。

相手の仏性が見える人間は、相手を尊重するようになります。決して、見下すような態度にはなりません。

宗教的指導者の役割は、相手がその仏性に気づくように手伝うことだけです。それ以外にやるべきことはありません。

まかり間違っても、自分を拝ませたり、自分の像を作って、それを売りつけることではありません。また、信者同士の自己顕示欲を刺激して、お布施や献金の額を競わせることでもありません。

あなたが真に神であるならば、存在するだけで感化力があるはずです。

あなたの周りに立ち現れる現象は、決して魔が競い立っているのではなく、あなたの言動が招いた因果応報の結果です。

少し、教祖に対する問いかけから離れましょう。

どのカルト宗教の教祖も、もはや救いようのないほどエゴ性が強いので(だからこそ教祖になれたのかもしれませんが)、彼らには、いかなる問いかけも徒労に終わるのですが、今日はあえて、試みてみました。

さて、我のかたまりの、エゴの権化たる教祖は放っておいて、大切なことは、苦しんでいる人が楽になる方法です。

それは、真実の霊的知識を得ること、です。

たとえば、シルバーバーチの霊訓などは、僕が最も信頼を寄せているものです。他には、アラン・カルデックやモーゼスなどがいますが、そうした外部チェックが厳しい中を潜り抜けてきた霊訓には、共通した真実性があります。

ここで言う外部チェックとは、その霊の発言の正邪を判断する審神者のようなものです。

シルバーバーチの霊訓などは、毒舌と率直で辛辣な批評家であり、当時もっとも懐疑的だったジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが、これでもかと吟味した後に本物であるとして自らホームサークルを主宰して自宅で降霊会を開き、その人脈を生かして、各界の著名人を招待したほどです。

そして招待された人たちは、最初は懐疑的だった人も、シルバーバーチの説く霊的真理の一貫性や、その誠実さ、謙虚さに感化を受け、死後の生活に確信を持つに至りました。

ただ、漠然と神を信じるよりも、真実の霊的知識に基づいた実感を伴った信仰のほうが盤石であることは言うまでもありません。

このことは、主イエスも、

「『そこで,わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆,岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲っても,倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆,砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家に襲いかかると,倒れて,その倒れ方がひどかった。』
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると,群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく,権威ある者としてお教えになったからである。」

と、マタイによる福音書の中で、述べています。

確かに宗教組織も、悟りに至る一つの段階として機能する場合もあり得ます。ですから、もしあなたが、どこかの団体に所属していて、その信仰で満足しているのならば、その信仰を続けるのも良いでしょう。

ただ、いずれ、その団体に嫌気がさしたり、活動がきついと思ったり、矛盾を感じたりして、その組織を離れようとしたときに、その組織はあなたを、離れたらサタンの側につくことになるとか言って、いろいろな形で暗に離れないように仕向けるかもしれません。

事実、サタンという名前ほど、さまざまな宗教組織の支配者にとって、便利な言葉はありません。

しかし、シルバーバーチの霊訓をはじめとした真実の霊的知識を得ることで、彼らの脅しは、何の効力もなくなる、のです。

さて、先ほど僕は、

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。」

と言いました。

スピリチュアリズム普及会、というのがあり、これは宗教団体でもなく、自発的なサークルだと思いますが(僕自身も、このグループの誰とも面識はありません)、まったくの善意で(これこそがシルバーバーチの教えにかなうことだからでしょうが)、押さえるべき基本的な霊的知識のすべてを無料公開しています。

紙の媒体、すなわち本が欲しければ買うこともできますし、訳の分からないものにお金を使いたくないと思えば、無料で、そのサイトで公開されている霊的知識を自分のペースで学んでいけば良いのではないかと思います。

特に初心者におすすめなのは、500に及ぶあの世からの現地報告、ではないかと思います。

僕も去年、母を亡くしましたが、身内の方を失った方や、死んだ後の生活がリアルな形で知りたい人には、うってつけの本ではないか、と思います。

死は永遠の別れではない、とわかれば、とても気持ちが楽になりますからね。

勿論、巷の既成宗教やカルト宗教でも、死後の世界を教えていますが、でたらめなものが多かったり、教祖の独善的な解釈であったりします。さらに、その教えの対価としてお金を要求してきます。

特にカルト宗教は、美辞麗句で飾りながら、その本質はどこまで行っても金・金・金、なのです。

一方、宗教組織ではないサークルは、自発的に行っているもので、営利団体ではありません。

聖書にも、『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』(マタイ10:8)とあるように、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバーチが、幾多の困難を乗り越えて、無償で届けた宝物です。

ですから、この種のサークルは、非営利団体であるべきなのです。

彼らは、神の道具としての役割に霊的な喜びを感じて行っているだけで、見返りなどは求めません。あなたが気づき、幸せになってくれれば、それで良しとしています。

しかも直接にはかかわらないので、あなたが喜ぶ姿すら知りません。まあ、存在の愛、に近いかもしれません。

では、そのスピリチュアリズム普及会のURLを貼り付けておきます。

www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

勿論、スピリチュアリズム普及会、で、検索しても上位表示されるので、そこから覗いてみても良いでしょう。

気が向いたときに学び、日々の生活の糧にしていただければ、と思います。


僕がこれまで、あえてスピリチュアルな話をしてこなかった理由


スピリチュアルな話というのは、いくらでもネタがあるし、それこそ、自分のライフワークでもありましたから、話すことは山ほどあります。

しかし、そうした専門サイトでも立ち上げるならば、それも良いのかもしれませんが、親の介護をきっかけとして始めたこのブログで、話すべきでもないだろう、というのが一つの理由。

もう一つは、そうした話をすると、自分が悟った人間だと錯覚してしまうのです。

僕は、ただの凡夫であり、凡人であり、だからこそ、日々、微々たる歩みを進めているわけです。

そのような平凡極まりない人間が、下手にスピリチュアルな話をすると、どんなに戒めていても、次第に慢心してくるのですよ。

こんないい話ができる俺はなかなかのものではないか、とか、悟りをひらいているのではないか、とか。

これは、仏教が教える六大煩悩、貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の一つ、慢に落ち入ることになります。

多くの宗教家が、当初は純粋で、求道心に溢れていても、次第に慢心してくる姿を、たくさん見てきているので、六大煩悩の中でも、この慢、すなわち、慢心ですね、これは、常に注意していないといけません。

ましてや僕のような未熟な人間は、偉そうなことは言ってはいけないのです。

仮に、言わざるを得ずに言うにしても、余程慎重に、発言しなければいけないと思っています。これが、第二の理由。

そしてもう一つは、スピリチュアルな話が好きな人の中には、議論好きな人がいて、自分のことは棚に上げて上から目線で論戦をしたがる人が、引き寄せられるてくる可能性があるからです。

このようなタイプの人は、不幸感覚が強く、実生活では相手にされていないことが多いのが特徴です。自分が不幸であることのルサンチマンを晴らすために、スピリチュアルな世界にのめり込んでいる人です。

このようなタイプは、仏教系にもキリスト教系にもいます。とにかく、自分の信じる教えにのみ執着し、その基盤の上でしか物事を考えられないのです。

たとえば、聖書を絶対視し、その聖書に書かれていることを根拠に持論を展開します。その自分の見解への執着は甚だしいもので、その見解で他人を裁きます。主イエスは「人を裁くな」と教えているのですが。

自分の見解への執着が如何に恐ろしいかをあらわすいい例として、こんな話があります。

キリストの再臨についての話で、キリストが再臨する時期には、キリスト教内でも複数の考え方があり、その時期をめぐって論争した牧師同士が殺し合いになったという事件がアメリカでありました。

キリスト教を信じていないものから見れば、バカらしいくらい、どうでもいいことです。

でも、当人同士は大まじめで論争していたと言います。

お金への執着、物質への執着、というのは、わかりやすいのですが、この、自分の見解への執着、というのは、ある意味、物欲以上に根が深いと言えます。

もうずいぶんの昔になりますが、連合赤軍によるリンチ殺人事件というのがありましたが、互いに相手をブルジョア的であると、非難して殺し合いました。

ことほど左様に、宗教や思想というモノが絡むと、普段はおとなしい人でも、人が変わったようになる場合があります。

この、自分の見解への執着は、僕も含めて誰にでも起こり得るので、ああ今、自分はこの考えにこだわっているな、と思ったら、一呼吸おいて、距離を取って観察する必要があります。

そのような観察者になると、心に平安が訪れます。

誰に訊く必要もありません。自分の心が平安を感じるものが、より神に近い、神という言葉に抵抗があれば、本質に近いのだと思います。

これまで言及してきたように、宗教的信条という自分の見解に執着した場合、傍から見たら馬鹿らしいとしか思えない、事件が起こったりします。

仏教系でも、たとえば、日蓮系では、どっちの本尊が正当だとか、論争していますが、部外者から見たら、どうでもいい話ですね。

キリスト教系然り、仏教系然り、イスラム教系然り、で、これにカルト宗教なども絡んできたら、百花繚乱ならぬ、魑魅魍魎の世界が展開します。

ということで、僕がこれまでスピリチュアルな話をしてこなかったのは、以上3つの理由からですが、これからは、ときどき、自分がいい気にならないように注意しながら、スピリチュアルな話も、たまにはしていくかもしれませんが、そうした話が嫌いな人は、無視していただければと思います。

でも、あんまりスピリチュアルな話ばかりしていたら、チコちゃんに、叱られるかもしれませんね。

「いい気になってんじゃねーよ」とね。


閲覧注意、ちょっとスピリチュアルな話なので(しかも話が長いので)


僕のブログは、当初は介護生活を中心にその記録を残そうと始めたものです。

その後、在宅介護していた父が老衰でなくなり、さらに去年母もなくなったことで、今は介護はしておらず、そのため、介護ブログではなくなっています。

今は、介護離職後のローコスト生活について、主に書いていますが、ときどき、スピリチュアルなことも話します。

それは僕が、そちら系の探求を長年続けてきたためで、どうしても多少は、そうした話もしてしまいます。

で、今日は、ちょっと少し掘り下げて話しますので、こういう種類の話が好きではない人は、このあたりで読むのをやめておいたほうがいいかもしれません。

では、本題に入ります。

僕は、これまで何度も話しているように、少ない預貯金、と、少々の株、がありますが、その総計を足しても、わずかな資産です。

で、今は、アルバイトをしています。

一般的に言って、経済的には豊かではありません。住宅ローンも抱えています。

しかし、別に、困ってもいないし、実は、幸せです。

前記事で、少しアイデンティティの話をしましたが、僕は、この地上世界に、アイデンティティを置いていません。

だから、楽なのです。

言ってしまえば、それだけのことです。

大半の人は、財産、家や土地、車、宝石、あるいは、容姿、地位、などに、アイデンティティを置いています。

たとえば、容姿。

僕は、頭が禿げかかっています。僕が容姿にアイデンティティを置いていたら、禿げることは苦しみです。僕は、そういうところにアイデンティティを置いていないので、そういうことは苦しみにはなりません。

しかし、先日のように、腰が痛いとか、実際に体の痛みが発生すれば、当然それに対しては、苦しみを感じます。

そういう苦しみは感じますが、そうした身体的な病とか怪我による傷とか、あるいはお金がなくて支払いに困るとか、そうした際には苦しみは感じますが、自分にできる対応をして、あとは天に任せます。

天のところを、神、と変えても良いです。

ただ、神、という言葉は、あまりにも誤解を受け、人によって、これほど違うとられ方をする言葉も珍しいほどなので、滅多には使いません。

仏陀は、諸行無常を説きました。

すなわち、常なるものはない、一切は変化する、と。

また、諸法無我を説きました。

あらゆる事物には実体がない、と。

で、この諸行無常と諸法無我を悟ることにより、涅槃寂静の境地に至る、というのが、本来の仏教です。

この、涅槃寂静の境地に、かなり近いところにいると思えるのが、白隠禅師です。

少し長くなりますが、白隠禅師の話に入ります。

日本のある町に白隠という禅の老師が住んでいた。彼は人々の尊敬を集めており、大勢の人が彼の教えを聞きに集まってきていた。
あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠した。怒り狂った両親に、子どもの父親は誰だと問い詰められた娘は、とうとう白隠禅師だと答えた。 両親は激怒して白隠のもとに怒鳴り込み、
「娘は白状したぞ、お前が父親だそうだな」、となじった。
白隠は、「ほう、そうか?」と答えただけだった。

噂は町中どころか近隣の地域にまで広がった。
禅師の評判は地に落ちた。だが禅師は意に介さなかった。
誰も説法を聞きに来なくなった。だが禅師は落ち着き払っていた。

赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとへ連れてきた。
「お前が父親なんだから、お前が面倒を見るがいい」。
禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をした。

一年経ち、慙愧に耐えられなくなった娘が両親に、実は赤ん坊の父親は近所で働く若者だと白状した。両親はあわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申し訳なかったと詫びた。
「ほんとうにすまないことをしました。赤ん坊を引き取らせてもらいます。娘が、父親はあなたではないと白状しましたんで」。
「ほう、そうか?」。
禅師はそう言って、赤ん坊を返した。

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。彼は、良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉えない。 
彼は誰の被害者でもない。

彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするから、その出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。

赤ん坊は慈しまれ、世話をされた。
抵抗しないという力のおかげで、悪い出来事が良い結果になった。
つねにいまという瞬間に求められたことをする禅師は、時が来たら赤ん坊を手放したのだ。


上記の、白隠禅師の逸話は、エックハルト・トールの「ニューアース」からの引用です。

果たして今現在生きている宗教家で、白隠禅師のような対応ができる人はいるでしょうか。

世界には、仏陀の生まれ変わりを自称する者がかなりいるそうです。キリストの生まれ変わりを自称する者は、数がさらに多いそうです。

あるいは、また、そこまでの自惚れはないにせよ、教団を持ち指導している宗教者も世間には数多くいます。

しかし、彼らを見ると、その多くが、執着のかたまりです。むしろ、世間一般の凡夫よりも欲が深く、業が深いように、僕の目には見えます。

シルバーバーチの霊訓に、以下のような記述があります。

その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

シルバーバーチのことを知らない人も多いと思いますが、3000年ほど前に地上に生きていたことは述べていますが、誰に訊かれても、最後まで、その名を明かしませんでした。現在は非常に高い霊界にいるため、霊界側に一人霊媒(この霊媒がレッドインディアンだった)を立て、さらに地上の霊媒、バーバネルの口を通して語るというツイン霊媒で、メッセージを送る方法をとらざるを得ませんでした。

トマス福音書には、イエスの言葉として、「通り過ぎるものでありなさい」という言葉が残っています。

で、話を整理すると、仏陀の説く、諸行無常、諸法無我も、主イエスの説く、「通り過ぎるものでありなさい」も、ともに、この地上にアイデンティティを置いていないのです。

僕たちの本籍は、プラトンがイデアと呼んだ、実在の世界、にあります。

簡単に言うと、僕たちは、実在の世界(霊界と呼んでも良い)から、この地上に出てきて、経験を積んでいるというか、まあ、旅をしているようなものなのですね。

だから僕たちは、一人の例外もなく、すべてが旅人です。

どこに行かなくても、
家に引きこもっていても、実は、旅人なのです。

とまあ、かなり長くなったので、今日はここまで。


赤毛とソバカスにまた行きたい(もうないけど)

高校時代のときどき行っていたロック喫茶、赤毛とソバカス。

1384960985


吉祥寺にあったのですが、高校3年ともなれば、車の免許を持っている友達もいて、そいつらの車で吉祥寺に。


赤毛とソバカスは、ジャズ喫茶もあったのですが、当時は僕も仲間もだれ一人、ジャズを聴く者はおらず、当然ロック小僧で、ツェッペリンとか。


まあ、僕は、イエスとか、クリムゾンなんかをリクエストしていたのですが。あとは、ピンク・フロイドね。プログレが多かったですね。






ただ、当時一番耳にしたのが、ジェフ・ベックだったと思います。

ファンが多かったんでしょうね、その必然として、リクエストも多かったのだと思います。

確かに、ジェフ・ベックのギターはすげえとは思います。僕も、今でもたまに聴いています。


で、それはさておき、やっぱ、クリムゾンをリクエスト。






イエス、キング・クリムゾンときたら、ピンク・フロイドをリクエストしないわけには行きませんね。

と言うことで、




当時の、プログレ御三家と言うか、何と言うか。

思春期にいい音楽をたくさん聴いていたおかげで、老後も、これらの曲を聴くたびに、当時の楽しかった日々がよみがえります。

今でも年に三日くらいは、ひとりプログレ祭りで、プログレを聴きまくることもあります。


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