介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

スピリチュアルな話

自分自身の深さを発見した人は、この事実に気づいている


実は、どの宗教団体の教えも、良い教えです。

カルト宗教などでも、教えそのものは、立派だったりします。

そしてどの団体の信者も、もっと良い人間になろうと努力しています。

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その努力は尊いのですが、当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しません。

良い人間になろうとするのも、微妙でわかりにくい形のエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに変わりはないから、です。

実は、カルト教祖そのものが、良い教えを説きながら、彼こそが、自意識や自己イメージの強化に最も邁進している無明の人間なのです。


もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史が、一つの参考になるのではないでしょうか。

共産主義の理想自体はそれなりに素晴らしいものなのですが、その考えに共感した人々が、まず自分の意識状態という内なる現実を変化させようとはせずに、ただ外部的現実を変えようとしたわけですね。

その結果は、惨憺たるものでした。

スターリン統治下のソ連で、階級の敵、裏切り者、として2000万人が殺されました。

こうした事例を挙げていくときりがないので、一例のみにとどめますが、これを、他山の石としてはいけないのです。

オウム真理教が、その独善的な教義により、サリンをまき、罪なき人々を多数殺しました。死は免れたものの、今も、その後遺症に苦しんでいる人もいます。 

イデオロギーもカルト教義も、根っ子は同じです。

思想なり、教義なりで、自己イメージを強化した人たちによって引き起こされた、正義という名のもとの殺戮、残虐行為。

エルカンターレを信じるまで火責め水攻め食料危機だと、勝ち誇ったように息巻く幸福の科学の信者の内面は、実際に手を下さないまでも、意識状態としてはスターリンやポルポト、麻原彰晃と何ら変わりません。

これは、カルト宗教に顕著なことですが、その一見、良い教えが、イデオロギーになり、信者が自分をそれに同一化させ、自我意識を強化する信念体系になり果てています。

信者は、この信念を拠り所として無自覚なまま自分の信仰に酔い、自分が正しくて、相手が間違っていると、断じます。

このような信念は、それがどのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしません。

それどころか、その信念と自分を同一化すればするほど、自分の中のスピリチュアルな面から切り離されていきます。

結論を言うと、自分がスピリチュアルかどうかは、何を信じているかではなく、どんな意識の状態に在るかによって決まる、ということです。

自分自身の深さを発見した人は、この事実に、気づいています。

そしてこの気づき、こそが、あなた自身に変容をもたらし、その変容こそが世の中を変えていくのです。

仏陀釈尊もイエスも、自分を崇拝せよとは言わず、あなたの中にある深さに気づきなさい、と、教え諭したのです。

この調子で話していると長くなるので、この辺にしておきますが、人工的解釈によって歪められたキリスト教が、僕にはとても残念でなりません。


ただでさえ人を見る目のない僕なのだから


アトランティスは、ギリシャの哲学者プラトンが、彼の著作の中で語ったことが始まりです。

で、プラトンというネームバリューと、アトランティスという島に対するロマンから、その後、実に多くの人が、このアトランティス幻想とでも言うべきものに魅せられてきました。

まあ、それ自体は、夢があって楽しいのですが、その幻想に乗っかって、人が、あらぬ方向に誘導されるとしたら、それは、あまりいいことではありません。

僕が、8年ほど前に、幸福の科学を退会した話はすでに何度かしていますが、その退会前には、いくつもの疑問が生じていて、その一つが、まさにアトランティスをはじめとする古代大陸の話。

幸福の科学の総裁である大川隆法氏によれば、アトランティスは、海中に没したとされています。そして、その頃に、アトランティスにいたのが、アガシャーという王で、彼は、イエスキリストの、過去世の一人、とされています。確か、生き埋めにされて殺された、とか、そういう話だったと思います。

で、大川さん自身の過去世も、トスという名の大導師としてアトランティスの最盛期を導いた、とされています。

イエスキリストの過去世のときは失敗が多く、大川さんの過去世のときは毎回繁栄した、とされているのが、面白い点。ムー大陸のときは、ラムーとして、最盛期を導いたとされています。

で、以前の記事でもどこかで書きましたが、今は、海底の様子もかなり明らかになっているので、そうした大陸が沈んだ形跡はどこにもないことが判明しています。

そもそも、ムー大陸という名前自体が、言い出しっぺのチャーチワードの誤読から始まっていて、このチャーチワードも、自分の経歴を偽っている信用のおけない人間ですから、大川さんに限らず、ムー大陸話は、すべて妄想だと判断しても良いと思います。

仏陀釈尊が、最も戒めたのが、妄想の類い。

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寄る辺なき子さんが、最初にコメントしてくれたのが、確か、太陽の法の書き換えで、不信感を持ったというような内容だったと思いますが、その太陽の法の中にも、人類誕生に関する変な記述があったと思います。

九次元パワーの総力を挙げて地上に物質化現象を起こしました。まずは蜃気楼のような透明なゆらめきが地表に現われ、次第に人の影のように見えはじめ、最後には、白く輝くばかりの肉体が出現しました。(中略)初めての人類が、五人、十人、百人、そして五百人と、続々空中より出現した時、彼らを二つの集団に分け、右半分の集団には、金星人の智慧と勇気の光を投げかけ、左半分の集団には、同じく金星人の優美さ、優雅さの性質を帯びた光を投げかけました。こうして人類の男性と女性が分かれました。

つまり、物質化現象を起こして、人類を誕生させた、と。

会員だった頃には、抵抗もなく受け入れていたのですが、素朴な疑問を持って以降の3年間の検証期間中は、こうした記述に対しても、吟味していきました。

当時の僕は、まずは、自分自身への反省から始めました。

自分は思い込みが激しく、熱中しやすい人間である、と。それを、いのしし年で、猪突猛進だからと、それを半分言い訳に、半分そんな自分を美化もしていたのだ、と。

そして、ただでさえ人を見る目のない自分なのだから、もう、可能な限り思い込みは排除していこう、と。

そうは言っても、長年の習い性で、すぐに決めつけたがる自分が首をもたげましたが、その度に、第三者の立場に身を置く努力をしました。

さて、話を先に進めましょう。

よく、幸福の科学では、キリスト教を批判するときに、処女マリアから生まれたとされる部分をそんなことはなく、正常な男女の営みから生まれたのであって、どうしてそこまでして信じさせねばならないのか、みたいな批判を、大川さんが法話の中でしたことがありますが、空中から人類を何百人も出現させるほうが処女降誕以上に無理感がありませんかね。

 シルバーバーチの教えなどでは、

進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、

と述べているように、肉体そのものは、下等なものから進化してきているわけで、いきなり、空中からこの人体が現れたわけではありません。

なぜなら、この3次元には3次元の法則があり、その法則を曲げる必要もないし、その法則の中で人類誕生へと導いてきたと考えるほうが、僕などは納得がいきます。

神は、そうした法則を通して全てのものを統べているのです。


さて、こうしたことを話しているときりがないので、寄る辺なき子さんの質問、どうやって、総裁の、霊言の間違いに気づいていったのか、もう少し具体的に教えてもらえますか、に対する答えとしては、誰の霊言でも構いませんが、ご自分で最も気になる点や、気になる人、のものを深く吟味することをおすすめします。

たとえば、野球が好きでそれなりに詳しい人なら、イチローの守護霊霊言を吟味するのが良いかもしれません。

あの天才とも思える大打者を指導し、見守ってきた守護霊であれば、イチロー自身が、仮にそれを読んだとしたら、まず第一に、彼自身が最も感動し、驚愕するはずです。

なぜなら、守護霊とは、本人以上に本人を知り、導いている存在、ですからね。

今のは一例で、たくさんの霊言本が出されているので、寄る辺なき子さんのご自宅にあるもので、まずは自分が一番気になるものから、妥協することなく、気になる点に赤線を引くなどしておき、あとで徹底的にその部分を調べ上げるのです。

僕の場合ですと、内村鑑三をはじめ、多くの霊言を調べ上げました。そしてその矛盾の多さに、改めて自分でも驚いたし、なぜ自分はこんな大事なところを見落としていたのか、と、自分自身にあきれる始末でした。

いったい自分は、どれほど多くの矛盾を気づかずにスルーしてきたのだろう、と思いました。

純粋な信仰、とか、主と一体となれ、といった言葉に感性を刺激されて、エルカンターレ信仰者としての自分に酔っていたのかもしれません。

酔う、とはつまり、正気を失っているということ、です。

君よ、涙の川を渡れ、などの御法話CDは、それこそ何度も聴いて、涙さえ流し、まだまだ自分の信仰は生ぬるいと自らを戒めて、御本尊の前で正心法語を全編読誦したことも何度もありました。

そして、最後にある、仏説降魔経は、強力ですから、この信仰の命綱だけは離してはいけないと、何度も自分に言い聞かせていました。

なので、熱心な信者さんほど、気づきの機会は失われていきます。

なぜなら、今話したような、自己洗脳のループにからめとられてしまうから、です。

それと、今、改めて思いだしても、大川隆法氏は、説法の天才だと思います。その言葉には力があるし、魂を揺さぶるものがありますからね。

しかし、どれほど感動的な説法をしたとしても、彼は神ではありません。どこまで行っても、人間は人間なのです。そこを、見誤ってはいけません。


それと昨日、用事があって外出した際に、書店に立ち寄り、宗教書のコーナーに行ったら、何冊かの幸福の科学出版の本を見つけました。

もうすでに、8年も前に退会した僕は、今は大川さんの書籍を一冊も、所有していません。

そのため、確認のしようもないのですが、先ほどアップした、人類誕生のくだりの記述は、出典を明らかにしておくと、ゆーぱさんという会員さんのサイト内で探したものです。

で、その書店で見つけた黄金の法で、毛沢東の記述を確認してみました。

僕の記憶では、毛沢東は、わずかに善の部分が多かったために、5次元善人界に帰っているはずだったからです。僕が確認した黄金の法は、4回目の改訂版で、2011年のものでした。

そしてやはり、僕の記憶通り、毛沢東は、5次元に帰っている、という記述になっていました。

なぜ僕が、それを確認したのかというと、去年発刊された毛沢東の霊言では、地球最大級の悪魔、と書いてあるからです。

この霊言を僕は読んでいませんが、幸福の科学出版の公式サイトのコラムにそう書いてあるので、今はそういう設定なのでしょう。

あるいはその霊言の中で、5次元に帰ったがその後地獄に行った、ということになっているのかどうかまではわかりませんが、それもまた、おかしな話です。

スピリチュアリズムを学べばわかることですが、明るい霊界に行った霊はそれなりの覚醒を得ているはずだから、です。

地上界での一時的な覚醒であれば、また、その後の心境の変化で波動を下げることもあり得るかもしれませんが、明るいほうの霊界の住人が、その後堕落して地獄に落ちることは、あり得ません。

この、毛沢東の例などは氷山の一角で、当初信長や秀吉の生まれ変わりとされていた政治家もいましたが、その後、実は別の人だったとか、そうした設定の変更が多すぎます。

僕などは、大川さんを主宰先生と呼んでいたころからの信者だったので、再誕の仏陀であり、それどころかイエスが父と仰いだ存在であり、本佛であると思うからこそ、彼の書籍を読むときは正座をし、合掌してから読んでいたものです。

本佛の教えを、一字一句、見落とすことなく、学び尽くそうと思うからこその、弟子の態度でした。

それゆえ、退会して8年が過ぎた今も、まだかなりの記憶が頭の中に残っています。

そのようにして吸収した教えが、ころころと変えられたのでは、これは本当にたまったものではありません。






退職日に想う十年一昔と今の僕


2年前の5月に母が亡くなり、その後、49日法要を終えてから、7月にアルバイトを始めて2年弱。

そして、今日が、アルバイト最後の日で、自己都合退職なのに、お花までいただきました。嬉しいよお。
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実は、今日は、実母の誕生日でもあります。大正13年の生まれですから、生きていたら90代も半ばくらいになるのでしょうか。

まあ、僕が16歳のときに亡くなっているので、もう、霊界に行ってから、かなりの年数になります。母は、バリバリの唯物論の人でしたが、正直者でユーモアのある人でした。

十年一昔、という言葉がありますが、まあこれは、世の中は移り変わりが激しく、10年も経てば、もう昔のことになってしまう、といった意味だとは思います。

で、僕が、幸福の科学を退会したのが2012年の3月。

つまり、8年と2か月前。

まあ、十年一昔と言ってもいいくらい、前のことになります。

時代のスピード感、を、加味すれば、今は、もう、5年も経てば、一昔前、といった感じなのかもしれません。

で、このところ、幸福の科学関係の話が続いていますが、もう、僕の中では、過去の宗教体験となっていて、多少、距離感がある感じなのですね。

ただ、いただいたコメントなどから、僕も当時のことを思い出し、また、僕自身、今は、強い内省への思いが今年の初めごろから生じていて、 何やら、こうした宗教体験の振り返りも、意味のあることではないのか、と、思い始めています。

で、寄る辺なき子さんのコメントに対する流れで、僕が、悶々と苦しみながらも、真実を見極めようと格闘した日々の中でやったことは、大川隆法という人の、初期のころからの発言そのものを、時系列とともに並べる、という作業だったことは、前記事で述べたとおりです。

霊言、などの矛盾は、霊の意見、という言い訳ができますが、教祖自らの意見、であれば、そうした逃げ道はなくなりますからね。

大半の活動会員は、目の前の活動を消化するのに忙しく、そのような、俯瞰的視点に立つ機会すらないのが実情でしょう。そして、活動していれば、それなりの充実感もあるので、疑問に目を向けることもしなくて済みます。

僕にとって益があったのは、その3年間の検証作業を通じて、ものごとをありのままに見ることの大切さに気づいたこと、です。

この3年間がなければ、おそらく僕は、不都合な真実は見て見ないふりをし、自分の見たい現実だけを搔き集めて見るような、バイアスのかかった人間のままだったでしょう。そのほうが楽だし、これまでの自分を否定しなくていいので。

しかし人は、どうにも逃げられない状況になれば、たとえ不本意でも、取り組まざるを得なくなります。

まさに、それこそが、自らの運命が自らを導く、ということなのかもしれません。


さて、ここからが、どうにも説明の難しい領域に足を踏み入れねばならないのですが、何とか可能な限り、言い表してみます。

僕が、幼少のころから、入信していた世界救世教では、お光、というペンダントを、首からぶら下げていました。小学校の頃、体育の授業で逆上がりなどをすると、そのお光が、引力で下にさがり、クラスメイト達の注目を浴びました。

それが、恥ずかしくもあり、誇らしくもあったのですが、そのお光に対して、ときどきですが、ひどく冷めた視点を持つもう一人の自分、がいるのを、感じることがありました。

そのもう一人の自分は、大切なものはすでに備わっているはずだ、という思いを、持っていました。

お光は、常に丁重に扱わねばならず、お風呂に入るとき以外は、絶えず身に着けていました。小学生のころ、何かの拍子にお光をつけるのを忘れたときなどは、一気にテンションが下がり、不安な気持ちを覚えたものです。

ただ、子供ながらに、お光に対する一種の違和感は覚えていて、当時は、それを言語的に解釈できる語彙力もないので、ありがたいけど同時に不自由なもの、くらいに思っていました。

話は変わって統一教会に専従として、身を捧げていた時代のころ。

毎週日曜日は、朝5時に起きて、文鮮明夫妻の写真に向かって土下座をする参拝敬礼式という儀式がありました。

それは最も神聖な儀式とされ、もちろん当時の僕はバリバリの統一教会員でしたから、真剣に取り組んでいたのですが、ときどきですが、もう一人の自分が冷静な視線で、その参拝敬礼式の渦中にいる自分を見ているのを感じることがありました。

この感覚を、言葉にするのはとても難しいのですが、違和感、としか、とりあえずは言いようがありません。それは違う、と、もう一人の意識としての自分が感じているのです。

そして、幸福の科学時代。

何度も行った、宇都宮の正心館ですが、外階段を上がって館内に入ったところに、まずは、小さなエルカンターレ像があるのですが、その像に手を合わせたときに、違和感がありました。偶像崇拝への違和感、ですね。

エルカンターレ像はどの精舎にもあり、また、支部にもあるのですが、普段は、それに手を合わせることは慣れっこになっており、違和感はないのですが、ときおり感じる違和感は、もう一人の意識としての自分が、感じているものだということが、あとになって、わかりました。

世界救世教のときも、統一教会のときも、そして幸福の科学のときも、ときどき、そうした、もう一人の意識としての自分が、顔を出したのです。

この、もう一人の意識としての自分、こそが、真実在、あるいは、ハイヤーセルフ、と僕が今現在では認識している意識です。

まあ、この呼び名は、何でも良いのですが、自分が一番ピンとくる名称で、僕は、そう呼んでいます。

で、この真実在こそが、全体意識としての神、とつながっていて、安らぎの源泉、でもあるのです。

実は、僕が、今現在、アイデンティティの基盤を置いているのが、この真実在であり、さらに言えば、その真実在とつながり重なり合っている全体意識としての神、なのです。

この、真我、であるところの、真実在を実感し、その気づきを得てからは、自分が、とても広くて明るくて自由な世界に生きていることがリアルにわかるようになりました。

そして、個人として傷つくことが、格段に少なくなりました。

勿論、生身の人間として生きている以上、様々な苦しみがあることは事実ですが、すべては一過性のものであり、真実在としての自分は、まったく傷ついてもいないし、何一つ損なわれていないことが、ありありとわかるようになったのです。

そのため、ほとんどすべてのことを、肯定的にとらえられるようになっています。

で、僕の話はこのくらいにして、何を言いたいのかと言うと、神とは遍満する意識のことであり、宇宙全体であり、有りて在るものであり、始めもなく終わりもないものであり、理屈をはるかに超えた実感的実在、なのですね。

で、イエス・キリストが凄いと思うところは、その全体としての神を結実させた生き方をしたところ、です。

イエスについては、ここで語ることは控えますが、あらゆる点で、手本となる人格であることだけは、言っておきたいと思います。

話を戻すと、自分の中の違和感と向き合い、真実と向き合う誠実さをもって、大川隆法という人の発言を並べ、同時に、霊言等の矛盾点も検証していく中で、呪縛から解放されていきました。

言葉を変えて言えば、個人崇拝を強いる支配からの卒業、でもありました。



 この支配からの、卒業

 俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか
 これからは何が俺を縛り付けるのだろう
 あと何度自分自身卒業すれば
 本当の自分にたどり着けるだろう

尾崎豊が叫んでいるように、本当の自分にたどり着きましょう。

そしてその卒業の際、大きな救いとなったのが、シルバーバーチをはじめとする本物の霊訓であり、真実の霊界知識、でした。







たとえ今日は果てしもなく冷たい雨が降っていても


4年前の今日、父が亡くなったので、今日は父の命日になります。

そしてその2年後の、5月11日に母が亡くなりました。

僕の実母は僕が10代の時に亡くなっていますが、2年前に亡くなった母のほうは、父の再婚相手です。

ありがたいことに相性が良く、共に温泉と旅行と食べることが好きだったので、仲良く暮らすことができました。

さて、2012年3月に、僕は幸福の科学を退会したので、今から8年と2か月も前のことになりますね。 

僕は、けじめをつけたい性格なので、きっちりとした退会届を出して退会したのですが、両親の場合は、そうしたものは出しませんでした。この辺のいきさつは割愛しますが、当時の支部長から、両親の会員としての登録だけは残しておいてくれ、と、懇願されたことも、その理由の一つです。


当時、理事長に、まだ二十代の大門未来という人が就任していたように記憶していますが、教祖の大川隆法氏から、凄い過去世を与えられていました。曹操、大久保利通、などの偉人にとどまらず、どこの星かよくわかりませんが、蟹座のミスターXとかいう、とにかく偉いらしい宇宙人の過去世まで与えられていました。

当時、僕は退会する前後だったので、3年間の検証を終えており、まだ若い女性を理事長にすることは年配の男性幹部職員からの反発も強いだろうから、大川氏は、そうした男共が怯むような過去世を与えたのかな、と、この点はむしろ好意的に見ていました。

まあ、組織運営上の方便と言いますか、大門未来さんが理事長として仕事がしやすいようにとの配慮なのではないか、と、思ったのですね。

そういう風に推測できたことは、すでに僕の洗脳はほぼ解けていたことを意味します。霊言や、主の発言を真に受けている信者であれば、そのようなことは思いません。

僕は、3年間の検証で、多少なりとも、大川隆法という人の傾向性はわかっていました。

つまり、こういうときにはこういう反応をする、というある種のパターンがあることも、見えていました。まあ、この話をしだすと長くなるので割愛しますが、僕が3年の検証期間にしたことの一つが、大川隆法という人の初期からの発言を、時系列に並べて眺める、ということでした。

これを詳しく話すと、膨大な量になるのでごく一部にとどめますが、たとえば、初期のころの書籍や講演会での発言では、自分を九次元霊の一人として位置づけ、その上に、聖アントニウスなる存在がいることを、真説八正道、という書籍の中で、述べています。

さらに言うと、当初は、高橋信次さんを高く評価していました。陸上のリレーにたとえて、天上界は、二人のアンカーを立て続けに地上に送ってきた、みたいなことを言っていました。

高橋信次(エルランティー)と、大川隆法(エルカンターレ)という二人のアンカーを立て続けに地上に送るという必勝態勢なので、今回の天上界の計画は失敗しようがないのだ、とも、力説していました。

つまり、当初は、高橋信次さんをリレーのアンカーにたとえるほど、高く評価していたのです。

やがてその評価は、方便の時代は終わった、と評して、変貌していきますが、その頃に、僕は入会したのだと、記憶しています。

僕は、そうか、今までは方便だったのか、確かに草創期にはそうしたこともあり得るし、それもまた致し方ないことだと、すんなりと納得していました。

なので、初版本の太陽の法の書き換えにも、当時は全く抵抗がありませんでした。方便の時代は終わった、のだから、今こそ、遠慮なく真実を書くべきだ、と、思っていたのです。

そして、その新たに書き改められた太陽の法で、妻のきょう子さんが、実は文殊菩薩で、当時から主を支えていたことが、明らかになりました。

一般的に、文殊菩薩は男性だと思われていますが、男装した女性だったのだ、ということも明らかにされ、事実、映画太陽の法、の中でもそのように描かれていました。霊鷲山で、その文殊が立ち上がり、語るシーンは、今思い出しても感動的です。

さて、この調子で書いていると膨大な長さになってしまうので、結論に行きます。

そのようにして、大川隆法という人の書籍だけでなく映画やテープ、CD、DVDなどを、3年間にわたって検証し、彼の直説金口に焦点を当てただけでも、数えきれないほどの矛盾があることがわかりました。

さらに、その霊言に至っては、矛盾のオンパレード状態。

ちょうど、全国各地に支部精舎が建立されていたころ、改めて書き替えられた霊言全集を、高級仕様にして、一冊5000円か、10000円か、どちらかの金額だったように思いますが、それの購入を支部で強く推進していた時期がありました。

当初の霊言においては、各霊人に好きなように語らせていたが、改めて主の観点から、それらを正すために刊行された、というような説明を支部長から受けたように思います。

当時は、それで納得していたのですが、そうした霊言全集は、改めて検証してみると、都合の悪い部分は削除され、整合性が取れるように書き直したものであることもわかりました。

そうした霊言も、霊言の時代は終わったとされて、されなくなっていたのですが、幸福実現党を立党した後あたりからか、また、頻繁に、霊言が出されるようになりましたね。

これは、一つには、レムリアルネッサンスという、幸福の科学の分派が、アマーリア、とかいう人だったでしょうか、霊言を始めて、それに対抗する意味も、あったのかもしれません。

そしてその後は、芸能人や各界の有名人の霊言まで出され、しかも、まだ生きている人の守護霊霊言も頻繁に出されるようになりましたね。

そして特筆すべきは、守護霊霊言を取られた人で、誰一人として、感動して会員になったという人がいない点です。

それどころか、手塚治虫さんの娘さんは憤慨しているし、池上彰さんなどの知識層も、冷笑している状況。

そして、月刊「WiLL」の花田紀凱編集長からは、やめなさい、と、戒められる始末。




花田さんなどは、まだ、好意的に見ていてくれる部分もあるのが、救いです。

ただ、僕は、こうした事例をここで取り上げること自体に、かなりの抵抗感があります。

それと言うのも、寄る辺なき子さんの長い信仰生活を想うと、こうした例を出されること自体に、あなたが嫌悪感を感じたり、傷ついたりする恐れがあるからです。

あるいは、侮辱を受けているように、感じる可能性もあるから、です。

なぜなら、つい最近まで信仰していた主を軽々しく扱っているように感じるかもしれないから、です。

まだ、完全には退会していないわけですから、揺れ戻しもあるでしょうし、デリケートに扱わねばならない問題だと、思うからです。

僕は、必ずしも、寄る辺なき子さんの退会を促しているわけではなくて、今、理性が苦しんでいるその状態から、目を背けずに、ありのままの大川隆法という人を、見て、そして感じて、自分で方向性を決めてほしいと、思っています。

なので、いたずらに摩擦を起こすのではなく、休眠会員という立場をとるのが、得策ではないでしょうか。


そして、親しい法友がいれば、その人には、主を批判するのではなく、自分の理性が苦しんでいることを正直に話すのも、一つの方法かもしれません。

僕には幸い、Aさんという、人格的にも優れた法友がいたのが、救いでしたが、おそらく、信仰歴の長い寄る辺なき子さんであれば、そうした法友もおられるかと、推測します。

まずは距離を置き、ゆっくりすることが、肝要かと、思います。

音楽も慰めになるかもしれないと思い、中島みゆきの、時代、を、アップしてみました。




苦しい時に、僕のブログに声を発してくれただけでも、凄いことだと、思います。

たとえ今日は果てしもなく冷たい雨が降っていても、という歌詞のような、心境かもしれませんが、止まない雨はありません。

必ず、やがては薄日が差し、より良き方向へと、導かれていきます。

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僕も、寄る辺なき子さんのおかげで、思いがけず、8年前の退会時のことを振り返ることができました。

もうずいぶん前のことのように思っていましたが、こうして思い返してみると、昨日のことのようにも感じます。









広くて明るい自由な世界には、その人はいない


戦争が終わり、日本は焼け野原から立ち上がり、復興しました。天皇が人間宣言をして、国民の価値観も総入れ替え。そんなことが、国家規模で起こったわけです。

僕は、1959年生まれなので、もちろん、戦争経験はなく、その後の全共闘などの学生運動の盛り上がりの時期はまだ小学校低学年で、何を騒いでいるのだろうと、子供ながらに思った程度。

子供ながらにして、弟と実母を亡くすという経験はしているものの、幸せな家庭で育ったと、思っています。

そんな僕でしたが、20代の頃にこの世の仕事を投げ捨てて入った統一教会で、やや比ゆ的な表現ではありますが、徴兵に行ったような体験をしました。睡眠時間は4時間未満で、休みなく、およそ2年間、専従生活を送りましたからね。

若かったので、ブレーキをかけることを知らず、自分がぶち壊れるまで頑張ってしまい、ついには、精神崩壊。

使い物にならず、解放されましたが、生きながら死んだ状態が、何年も続きました。

60キロほどだった体重も、2年間の無理な生活で47キロほどにまで落ち、実家に戻ってからは、体重はすぐに回復したものの、傷ついた心が癒えるには足掛け8年ほどかかりました。

ただ、結果論ですが、その、苦しみの8年間が、のちに役立つこととなりました。

その後、幸福の科学に入り、統一教会の呪縛を完全に打ち砕きました。

幸福の科学には、正心法語という経文があり、その中の、光のみ実在、愛のみ実在、という、この、生長の家にも似た、光明思想と言いますか、光の実在を強く押し出す言霊の力が、統一教会の暗黒思想を打ち砕くのに、大変役に立ちました。

さて、そのようにして幸福の科学に入り、18年弱の活動ののち、退会したわけですが、寄る辺なき子さんのコメントの返信を書いてから、また、改めて、僕が退会した8年前のことを思い返すと同時に、自らの人生を振り返り、それを通して、今、喪失感に苦しんでいるであろうところの寄る辺なき子さんのお役に立てないかと、考えた次第です。


退会したときの心境は、「不都合な真実に向かい合う勇気を」と「感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安」で詳しく書いているので、重複は避け、今日は別の視点から、記してみたいと思います。


相模原の障害者施設で起こった殺傷事件は、まだ記憶に新しいところですが、事件を起こした男は、障害者に対して生きる価値がないと自分勝手に判断し、殺人事件を起こした後も、悪びれる様子もなく、死をも厭わぬ態度ですが、あの独善性と変わらぬものを、僕は、カルト教祖の中に、見ます。

カルト教祖自身が、誰よりも確信をもって、自分自身を妄信しています。

そして、そういう人の周りに信者が集まれば、彼は教祖となり、一つの団体が形成されていきます。それが、宗教法人格を取れば、宗教団体となります。

カルト教祖は、自己を絶対視するがゆえに、自分を否定する対象を、悪魔、と、見る傾向があります。

日本のみならず、世界には、実に様々なカルト教団が存在しますが、この点は、共通しています。

神である自分を受け入れない社会のほうがおかしいということになり、彼自身の中に、誇大妄想、被害妄想の心理状態が展開していきます。

自分を受け入れない社会に対する不満はくすぶり続け、満たされない自尊心(カルト教祖の場合はこの自尊心が特に顕著)を補強するために、本当の自分はこんなに偉いのだ、ということを、様々な手段を使って訴えます。

それを真に受けるのは信者さんだけで、一般の人は、そもそも関心を持っていないか、何らかのきっかけで目を向けたとしても、その子供じみた精神構造を見抜いて、あきれるか冷笑するぐらいが関の山。

よく、世間が誤解するのは、カルト教祖を詐欺師のように思っている傾向があるのですが、詐欺師というのは自分が相手を騙している自覚があるので、それほどの情熱も、パワーも、ありません。

よく、金儲け主義とも誤解されますが、お金は二次的なもので、詐欺師などと同じレベルの話ではありません。

何よりも、カルト教祖自身が、自分が神であるとの確信を持っている点が、大きな違いです。

その確信がなければ、活動など継続できるものではないし、人もついていきません。

カルト教祖の感化力には、常人の想像も及ばないものがあり、そのいい例が、麻原の死後も存続しているアレフ、などです。今もなお、崇拝の対象を欲するアレフは、麻原の長男を教祖として祭り上げていますが、当の長男はいい迷惑だとして、訴訟を起こしています。

何が言いたいのかと言うと、アレフに見られるように、崇拝の対象を人に求める信者がいる限り、カルト教祖は、なくならない、ということです。

つまり、両者は、相互依存、の関係にあるわけです。

寄る辺なき子さんは勇気をもって不都合な真実を見つめ、今まさに、人間信仰からの脱却を図ろうとしているとき、です。

人間を神と仰いでいる限り、心に真の平安は、ありません。

なぜなら、どれほど、その教祖なる存在が、自らの無謬性を主張しても、そこには必ず矛盾が生じ、信者の側はその矛盾を糊塗し、合理化するための暗黙の努力を余儀なくされるから、です。

その不自然さは、精神の中に何とも言えぬ違和感を生じさせ、本人も、釈然としないが一応は信じている、という状態が長く続きます。

勿論、教祖と同レベルか、それに近いところまで妄信している信者さんは、そうした矛盾さえ感じることは、ありませんが。

しかし大半の、理性が働いている信者さんは、少なからぬ矛盾を、何とか自分の中で無意識のうちに合理化してやり過ごすようになります。

神から与えられた理性が、真に嫌気がさすまでは、そうした足踏み状態は続き、時間だけが過ぎていきますし、この世的に言えば、年だけは取っていきます。

寄る辺なき子さんは、そうした足踏み状態からの脱却の時が来ているわけで、謂わば、脱皮の時期なのです。脱皮には、それなりの負荷がかかるものです。

しかし、そこを通過しなければ、広くて明るい自由な世界には行けません。

広くて明るい自由な世界には、その人、カルト教祖は、いません。

そしてその世界から、カルト教祖を見ると、憎しみよりもかわいそうな気持が生じてくるようになります。

今は憎しみのほうが大きいかもしれませんが、やがては、そうした広くて明るい自由な世界の中で、過去の自分を俯瞰できる視点を持つようになると思います。

そうした広い世界が待っているということを、寄る辺なき子さんに、もっとうまく伝えられたら、と、思うのですが。

それともう一点、良いことをお伝えせねばなりません。

それは、カルト教祖の独善的世界から離れれば離れるほど、むしろ周りにいる人、一人一人の中にある仏性が、より、鮮明に見えてくるようになることです。

それまで、悪魔、に見えていた人が、まだ至らぬにせよ紛れもない神の子である、ということが、わかっていきます。

寄る辺なき子さんは、コメントの中で、「最大の心残りは、夫に対する申し訳なさ、です。主の教えを理解できないバカ夫と思っていましたが、バカなのは私でした。息子にも、申し訳ないですと、おっしゃっていましたね。

かつては、旦那さんを見下し、時には、悪魔のようにも、見えたかもしれません。でも、今は、自分の愚かさに気づいたのですね。

愚かさに気づいた人は、もう愚かではありません。もうそれ以上、自分を責める必要はありません。

もう、今の寄る辺なき子さんであれば、旦那さんや息子さんを悪魔のようには思わないはずですからね。

まだ十分に、自分を客体化するところまではいかないでしょうが、やがては、時の経過とともに、落ち着いて自分自身を眺められる時が来ると思います。

その経過は、人それぞれだとは思いますが、カルト教団から離れるにつれ、むしろ、この世界を、ありのままに見ることができるようになっていきます。

なぜなら、そうした教団で与えらえる情報には偏りがあり、その偏った情報だけを過飽和入力されている状態では、到底ありのままに見ることなど、不可能だからです。

たとえて言えば、毒の入った材料だけで作る饅頭は、毒饅頭にならざるを得ないのと、同じことです。

事程左様に、情報というものは、食べ物と一緒で、よく吟味しなければいけません。

僕は、三帰請願した後、先輩のある信者さんから、素直さが大事だと、繰り返し言われました。

その人が言うには、本佛が御降臨されている奇跡の時代なのだから、自分の小さな頭で判断せず、ただひたすらに主を信じ、ついていくことが大切なのだと教えられ、その通りだと感動して、そのように努めました。

我を信じ、集い来よ、と、主は、言われましたから、ね。

まさに今回、寄る辺なき子さんが言及された、太陽の法のまえがきにも、あなたの常識を入れ替えてほしい、というようなことが書かれていたように思います。

ただ、このまえがきは、初版本のものではなく、方便の時代は終わった、と言われていたころのものかもしれません。僕が、三帰請願したのは、1994年だったと思うので、当時の、すでに、書き換えられていた太陽の法、かもしれません。

その太陽の法も、その後、何度か、書き換えられた、ということなのでしょうが、今回の書き換えが、正確には何度目になるのか、すでに8年前に退会している僕には、よくわかりません。

で、話を戻すと、そのように、とにかく素直さが大事だと思い、歩んでいたわけですが、理性が疲弊していった経緯はすでに過去記事で記したとおりです。

教団から距離を置き、落ち着いた心で世の中を眺められるようになれば、やがては、悪魔に囲まれていると思っていた世界から、未熟ながらも仏性ある人たちのいる世界に生きている自分に、気づくようになります。

それまでには、多少の時間はかかるでしょうが、大切なのは、理性が矛盾を感じるところの疑問に、誠実に向き合うことだと、思います。

僕の場合で言いますと、カルト教祖やカルト教団の矛盾と正面から向かい合って、納得するまであきらめない、粘り強い姿勢で取り組みました。

具体的には、教団の裁判を傍聴するために東京地裁にも足を運びましたし、大川きょう子さんにも、二度、じかに会って話を聞いています。

さらには、元職員の人にも会い、ここではとても話せない内容の教団の実態も、知ることとなりました。

ただ、元職員の人の話であっても、それをまるごと受け入れるのではなく、まず、その人の表情や波動を見極める必要があります。なぜなら、その元職員の中に恨み心があれば、その情報にも、多分に私憤が入り込んで、歪曲してしまうから、です。

いずれにせよ、労を惜しんでいては、価値あるものを手に入れることはできません。

ここで言う価値あるもの、とは、カルト教祖とカルト教団を客体化して観ることのできる認識力であり、その結果得ることのできる、理性が息苦しさを感じることのない自由な世界、です。

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そして、その自由な世界にこそ、本物の信仰がある、のです。

寄る辺なき子さんの未来には、そのような明るくて、公明正大な世界が、待っています。

寄る辺なき子さんの、幸福の科学での長い信仰生活も、決して無駄ではないことを示唆する、シルバーバーチの言葉を紹介します。


「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。


シルバーバーチは、メソジスト派の牧師に対して、上記のように語りました。

少し説明を加えると、その牧師は牧師なりの善意と使命感から、伝道などの宗教活動をしていたのですが、その後、真実に目覚め、自分の長きに渡る牧師生活を悔やんだことに対する、シルバーバーチの答え、なのですね。

そしてシルバーバーチは、真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのですと、助言しています。


寄る辺なき子さんは、今まさに、それまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになったわけです。

なので、ここが、正念場、です。

まずは、心身を休めること、だと、思います。

色心不二という教えはご存知かと思いますが、体と心は互いに影響を及ぼし合っていますからね。

まずはゆっくり休んでください。

そして、自分の運命を、信じてください。

長くなったので、今日はここまでとしますが、この世は、霊界という永遠の世界に行く前の試練の場であり、魂の足腰を強くする場であるとの認識をもって、落ち着いて生きられることを、祈っています。






感性と理性とのせめぎあいの果てに導かれた平安


霊的な光の感覚が、その頃の僕の、最後の拠り所でした。

この拠り所とは、幸福の科学で言うところの、信仰の命綱、でもありました。

精舎で感じる光、あるいは、東京ドームの講演会での光体験、これらが、実に強力な動機となって、僕の幸福の科学での信仰を支えていました。

それは、僕にとっての、エルカンターレ信仰の根拠でもあり、原動力でもありました。

しかし、その一方で、僕の理性が、度重なる矛盾の数々を、どうしても受け入れられずにいたのです。

よっぽど、矛盾になど気づかずに、無邪気に、信じ切っていた頃のほうが幸せだったとも思いましたが、いや違う、という自分がいて、苦しくても、不都合な真実と向き合う今の自分のほうが尊い、という思いもありました。

この、ぎりぎりのところの攻防は、到底短い文章で語ることはできません。

感情が揺れ動き、自分を制御することが難しいときも、ありました。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性との、戦いでもありました。

この苦しみは、他人に話しても到底理解される類いのものではないことを、僕自身、わかっていました。

わかってくれる人がいるとしたら、同じ様な体験を通過した人だけだろうと思いましたが、そのような人は周りにはいませんでした。

そのように悶え苦しんだ日々ではありましたが、退会すると決めた頃だったでしょうか、僕の親友でもあり、法友でもあり、年下ではありますが、何かと頼りにしていたAさんに、苦しい心情を打ち明けた記憶があります。

Aさんは、自分の仕事が忙しいにもかかわらず、辛抱強く、僕の話を聞いてくれました。

当時、僕は、マンションで独り暮らしをしており、Aさんの住居も、僕のところから歩いてすぐのところにありました。

Aさんは、僕の気持ちを尊重してくれ、それで僕が本当に幸せになるのであれば退会するのは構わない、という趣旨のことを言ってくれました。

また、Aさん以外にも、僕よりもだいぶ年上の会員のSさんも、僕のマンションを訪ねてきて、話を聞いてくれました。まあ、このSさんには、僕の気持ちや考えは全く理解はしてもらえませんでしたが。それでも、わざわざ訪ねてきてくれたことは、ありがたく思いました。

それ以外には、当時の支部長とも話しましたが、こちらは短い時間でした。僕の、退会の決意が固いことを知るとあきらめたようでしたが、別れ際に、せめて6月まで保留しないか、と言われました。その間に、富士山の大爆発が起こるから、と、言っていました。

僕は、富士山も活火山だから、いずれ、そういうこともあるでしょうが、6月までに噴火するということはないと思います、と、答えたのを覚えています。

僕自身、当時、そうした、教団の天変地異の予言に、本当に嫌気がさしていたので、それは、即座に答えました。

寄る辺なき子さんは、おそらく、僕より信仰歴が長いと思われるので、法友を失う苦しみ、自分が根拠として立っていた足下の大地が消えていく苦しみを、体験されたことでしょう。

そしてその苦しみは、今も継続中かもしれませんが、その葛藤があってこそ、真実を見つけることが可能となるのだと、思います。

話を、元に戻しましょう。

光体験を重視する感性と、矛盾に承服できない理性、とのせめぎ合いに、どのように決着をつけたのか、あるいは、どのように、運命が僕を導いたのか、の続きです。

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結論から言うと、僕の、過去の宗教体験が、役に立ちました。

僕は、父が世界救世教の信者であったために、自然に父と同じ信仰を持つようになりました。学生部、青年部と、順調に、信仰生活を続けていたのですが、善悪の問題で悩み、教団職員に相談しても、そこでは答えが得られないことを知り、やがて、真理を求めて、さすらうようになります。

その後、統一教会の堕落論を知ることとなり、長年心を去らなかった善悪の起源の問題が解決しました。そして、統一教会に入信し、全財産を献金し、専従生活に入りました。

で、実は、世界救世教時代にも、統一教会時代にも、僕は、タイプの違う、神体験、をしていたことを、思いだしたのです。

世界救世教のときは、熱海にある救世会館という、建物内で、突然、霊感に打たれて号泣したことがありました。一緒にいた人が、びっくりした顔で、僕を見たことを、今でも、覚えています。当時は、十代で未成年でもあり、多感でもありましたが、霊体質でもあったのだと思います。

統一教会では、ツーデイという合宿で、神が現れて、長い間探し求めていた我が子よ、と言って、僕を泣きながら後ろから抱きしめる、という体験をしました。ああ、これが、生きた神なのか、と、思いました。それだけではなく、専従生活で、日々、伝道に明け暮れている中で、奇跡とも思える体験を、いくつかしています。

そうした、過去の宗教団体における神体験、光体験を思いだすに及び、この、幸福の科学での光体験も、それに類するものではないのか、と、冷静に分析できるようになりました。

少し余談になりますが、今年1月に、上祐史浩氏に会いに行った話は以前しましたが、彼の友人で、広瀬という人だったと思いますが、やはりオウム信者で、大変な秀才だったそうですが、その人も、最後は理屈ではなく、神秘体験によって、麻原に心酔し、サリン事件を起こしたとのことでした。

つまり、結論を言うと、個人の神秘体験や個人の霊的能力には、普遍性はない、と、いうことなのです。

ただし、普遍性はないが、その人にとっては、強力な体験であり、信仰を継続する上での大きな動機付けになる、ということ。

ここが、神秘体験や霊的能力の、功罪相半ばするところではないか、と、思います。

そして、そのことに気づいた僕は、さらなる検証と内省の日々を重ねていきました。


僕が今でも、貴重な体験だったと思う研修を、一つ紹介します。

それは、日光精舎での、八正道研修でした。

礼拝堂のピンと張りつめた空気の中、出された公案に対して思慧していく、というものでした。

このとき、僕の守護霊がすぐ背後に立ち、この機会を逃すまじ、という強い気迫で、僕にメッセージを送ってきたのです。僕は、自動書記のような感じで、送られてくる言葉をノートに殴り書きしていきました。

そして、その公案が終わったときには、その与えられた言葉の数々に、自分でもびっくりしたのを覚えています。そこには、自分でもうすうす気づいていた自分の欠点や課題、これからの方向性などが、書かれていたのです。

こうした体験から、僕は、精舎での研修などにも、かなりのめり込んでいきました。

こうした体験を積み重ねていくと、信仰の確信が深まるばかりで、その結果として、活動にも、熱心になっていきます。

その後、幸福の科学を退会した僕ですが、たとえば、今例に挙げた日光精舎での研修における体験は、今でも、守護霊からのメッセージであったと、思っています。

事実、その研修の後、僕は、そのメッセージを、日々の生活の中に生かすようにしましたからね。

シルバーバーチが説くように、守護霊なり、指導霊なり、導きの霊存在は、ラベルを選びません。

つまり、その機会、そのときで言えば、日光精舎での八正道研修が、メッセージを伝えるのに最適の機会であれば、それを活用するのですね。

たとえそのことによって、僕がさらにその信仰にのめり込むことになったとしても、それ以上に、その時僕に必要なメッセージを伝えることのほうが有益であれば、そうするわけです。

事実僕は、その後、そのメッセージを日々の生活の中に生かし、日常生活を改善していきました。

だから、僕にとって、幸福の科学での日々は、決して無益なものではありませんでした。

今でも付き合いのある、Aさんや、Iさんなど、有徳の人との出会いも、ありましたからね。

さて、僕の、こうした体験が、どれほど、寄る辺なき子さんのお役に立てるかわかりませんが、僕が退会するときのこと、そしてその退会は、決して安易な気持ちからのものではなかったことをお伝えできれば、多少なりとも参考になるのではないかと思い、記してみました。

もし、また、何か、書き込みたいことや、あるいは、僕の記述が飛んだ見当違いであれば、そうした指摘でもかまいませんので、コメントしていただければ、と、思います。

長い信仰から離れるときの不安は、それまで立っていた大地が失われるに等しいと、思います。

しかし、真実に向き合う勇気は、その不安に比例して、あるいは、その不安以上に、尊いものです。

それはまさに、真摯に人生を生きていることの証、でもあるからです。

そして、そうした、真実に向き合う勇気は、誰もが持てるものではありません。

大半の人は、それまでの自分の信念、あり方、費やしてきた時間や金銭や心情、その他もろもろの自我に付随する総体を捨てきれず、自覚するとしないにかかわらずそこに縋り付き、自己を客観視することなく正当化し、臭いモノには蓋をして見ないようにし、自分の見たいものだけを見て、自分の在り方を合理化するからです。

また、いかに優れた人であっても、その時期が来なければ、向き合う気にもなれないでしょう。

ただ、すべての人に言えることかと思いますが、それぞれの人のその人生こそが、その人の導き手なのだと思います。

そういう意味では、すべての人が、尊い修行者であり、永遠の旅人なのだと、思っています。




不都合な真実に向かい合う勇気を


圧倒的な神の公平さ、という記事に対していただいた、寄る辺なき子さんからのコメントを読み、8年前の自分、というものを考え直してみました。

まず、はじめに断っておきますが、その記事は、特定の宗教団体の信者に対して呼びかけたのではなく、所謂新興宗教、おもに、戦後、勃興してきたものですが、新興宗教一般の信者の方を念頭において、呼びかけたものです。

実は、既成のキリスト教会などにこそ、僕は言いたいことが多くあるのですが、それは横に置き、問題のある新興宗教、あるいは、さらに悪質なカルト宗教といったものも、僕は数多く知っており、数か月前も、飯能の駅前で、日蓮系のカルト教団の信者さんからチラシのようなものをもらいました。

そのご婦人は、血走った眼で、日本の危機を訴えていましたが、その攻撃的なまでの熱心さに、かつての自分を見るようでもありました。

さて、コメントから読み取るに、寄る辺なき子さんは、かなり信仰歴の長い女性会員ではないかと、思いました。最初の太陽の法、をきっかけとして入信された、とのことですからね。

僕が、幸福の科学の会員であった年数は18年弱。そのうち、熱心な活動会員だった時期は、その半分ほどの年数かと、思います。 


今でも、思いだすのは、幸福実現党を結党し、最初は、饗庭さんという人が党首でしたが、すぐに、大川氏の夫人、大川きょう子さんが党首となり、そのポスターを貼って回ったことです。

僕の親友のAさんと一緒に、Aさんの車で、いろいろな家や店を個別伺いし、ポスターを貼らせてもらう許可を得て、貼ったのを覚えています。

当時、大川きょう子さんは、僕たち信者にとっては雲の上の人で、過去世は、ナイチンゲール、文殊菩薩、アフロディーテと、されていました。

僕は、そのような偉大な過去世を持つ総裁補佐(きょう子さんのことをそう呼んでいました)が党首であれば、当選は間違いないだろう、とは思いつつも、選挙はまた、そう簡単ではないかもしれない、と、不安も入り混じった心持でした。

僕は、どちらかと言うと、思い込みが激しいほうで、それに対し、Aさんの優れたところは、冷静に状況分析ができるところでした。感情に流されて突っ走るタイプの僕と、沈着冷静なAさんは、良いコンビだったと思います。

このまま書いていると、選挙のことだけで長くなりそうで、キリがないですね。

少し、先を急ぎましょう。

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鳴り物入りで党首になった大川きょう子さんでしたが、その後、また党首が変わるなどして二転三転。

で、いろいろあり、きょう子さんは、その後、教団を追放され、過去世も変更されたのは、寄る辺なき子さんも、ご存知の通りです。

太陽の法の書き換えのことを言っておられましたが、また、最近、新装版になったということでしょうか。

僕の記憶にある太陽の法ですと、文殊よ文殊、と言って、過去世も妻であった、きょう子さんに呼び掛けていた場面があったように思います。

また、古い会員さんであれば知っているかと思いますが、大川さんが、妻のきょう子さんと、古代インド語で、語り合うテープも聞いたことがあります。

映画に目を転じれば、太陽黄金永遠の法、いずれの映画でも、きょう子さんは救世主を支える女神的存在であり、まさに、神の如き霊格を備えた方、と、教えられておりましたね。

それが、離婚と同時に、それらの過去世は間違いであり、裏切りのユダとしての、過去世に変更されると同時に、連日、元妻への悪口雑言の法話を聴かされる日々。

村田堅信さんという幹部職員が支部にまで来て、きょう子さんの日頃の悪行ぶりを暴露していました。そうした幹部の方々は、その少し前までは、きょう子さんを褒めたたえていた人たちです。

その離婚騒動のあたりから、僕の理性は次第に耐えられなくなり、主の深いお考え、という印籠だけでは、自分を納得させられなくなり、生木を裂かれる思いで、大川隆法という人の発言と行い、そして彼の、これまでの書籍だけでなく、テープやDVDなどを、丁寧に、検証していきました。

たとえば、ムーやアトランティス、レムリアなどに代表される古代大陸について、検証するうちに、膨大な物証と科学的見地により、そうしたものは存在する余地がまったくないことがわかりました。

たとえば、映画、太陽の法でムー大陸があったと描かれていたあたりの海底だけでなく、太平洋そのものが、深海堆積物に覆われており、一度たりとも陸化した形跡がないことが、現在では明らかになっています。

検証をさらに進めていくと、大川さんの説くそうした荒唐無稽の話には、そのほとんどに、ベースとなる元ネタがあることも、次第に見えてきました。

当時、まだ、できれば会員でありたかった僕にとって、次々と明らかになる内容は、目をそむけたくなるようなものばかりでした。

しかし、そうした事実とは裏腹に、僕には、まだ、幸福の科学の正当性に縋り付く根拠がありました。

それは、幸福の科学の精舎などで体験する霊的な感覚、や、神秘体験、です。光の感覚、というものですね。

それらの霊的な光を感じる感覚があること、それこそが、僕にとっては、幸福の科学の正当性を示唆するもの、だったのです。

目の前に並べられた数々の矛盾も、自分がじかに体験した神秘体験、光の感覚の前では、太陽に溶かされる氷のように消えていき、やはり主の教え、古代大陸や家族の不和などの矛盾はあるにせよ、心の教えは正しいし、何よりも、自分が体験した光の感覚は、紛れもなく、これが本物だと伝えている、との結論に至り、また、安心感が回復して会員を続ける、などの揺れ戻しを何度か体験しながら、の、3年間でした。

そして、その3年間は、そうした、自分のレゾンデートル喪失の恐れと闘いながらの検証時間であり、勇気をもって、不都合な真実と向き合った時間でした。

すいません、とても、一回の記事で書き切れるものではないようです。

今回は、長くなってしまったので、次回、続きを書きますが、寄る辺なき子さんに言いたいことは、おそらく退会後もしばらくは心が安定しない日々が続くと思いますが、僕自身、自分の理性を押し殺していた日々に比べれば、その100倍も、今のほうが心に安らぎがあります


今回だけで書き切れず、収拾がつかなくなりましたが、まだまだ寄る辺なき子さんに伝えておきたいことがありますので、もうしばらく、お待ちいただければ、と、思っています。





圧倒的な神の公平さ


神という存在が、もし、自分の信者だけをえこひいきするような偏狭な存在であるならば、僕たちに平安はありません。

しかし、聖書に描かれている神は、喜怒哀楽が激しく、人間的で、依怙贔屓をしまくる神です。

そのような神の概念を植え付けられてしまうと、それが、生涯にわたって暗い影を落とすことになります。

その神の概念を覆したのはイエスで、イエスの説く父なる神は、愛の神、です。

イエスは、宗教団体を作ろうとしたのでもなく、三位一体などと言って、神の座に祭り上げられることを望んだのでもありません。

ただ、素朴に、人々に、神の愛と宇宙法則を説いただけです。 

神の愛の公平さは、聖書の中にも見出すことができます。

それは、善きサマリア人のたとえ、の部分でも、知ることができますし、他にも、ありますが、今日は、話を先に進めます。

たとえば、どんな宗教団体でも構いませんが、あなたの信じる教団の教祖が、唯物論者はみな地獄行きだと、言ったとします。

その発言だけで、彼は霊界のことを何も知らないか、あるいは、その発言によって信者を自分の操りたい方向へと誘導しているか、のどちらかであることが推測できます。

唯物論者でも、心根が良かったり、この世界に大きな貢献をした人は数多くいます。

一方、何らかの教団の信者であって、自分は真理を知っていて、教祖の教えを理解できるそれなりの人間だとの自負がありながら、聖書の善きサマリア人のたとえに出てくる祭司やレビ人のような振る舞いをする人も多いでしょう。

何が言いたいのかと言うと、ラベル(何々の信者である、とか、唯物論者、などの分類上の決めつけ)は、一切関係がなく、その人の全人格がありのままに判定される、あるいは、評価される、のが、霊界という世界だ、ということです。


─── 生前スピリチュアリズムを否定し、生涯を合理主義者で通したH・G・ウェルズ(※)のような人はそちらでどんな気持ちを抱いたのでしょうか(※世界的に知られた英国の文明評論家で、主著に「世界文化史体系」「生命の科学」等がある)との質問に対し、シルバーバーチは、以下のように答えています。

 「ウェルズは不幸にして強烈な知性がかえって禍した偉大な魂です。もしこうした偉大な知性が童子のような無邪気さと一体となれば大変な人種が地上に誕生するのですが・・・

 こうした人は生涯かけて築いてきた人生哲学をそっくり捨て去らないといけないのですが、それが彼らにはどうしても得心がいかないのです。彼らにしてみれば、あれだけ論理的に且つ科学的に論証したのだから、その思想と合致しない宇宙の方がどうかしているに相違ないとまで考えるのです。そんな次第ですから、色々と修正していかねばならないことがあり、長い長い議論が続きます」

 その議論の相手となって説得に当たったのがチャールズ・ブラッドローとトーマス・ペインだったという。(二人とも地上時代は自由思想家として人権擁護の為に貢献した人物である)

 それを聞いてスワッハーが「ペインは偉大な人物でした」と言うと、すかさずシルバーバーチが「でした、ではありません。今でも偉大な人物です」と訂正してこう述べた。

 「彼は地上での評価よりはるかに偉大な人物です。時代を抜きんでた巨人です。霊的な巨人です。先見の明によって次々と問題を解決していった生まれながらの霊格者でした。人類は本来自由であるべきで、決して束縛されてはならないとの認識をもった偉大な宗教的人物でした。真の意味で〝宗教的〟な人物でした」


神の裁きは、公平にして見落としがありません。

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シルバーバーチは、長い霊界生活で、神の本質をよく知り抜いています。


 あなたが神と仰ぐ教祖は、人間を安易にラベル分けしていませんか?

 あなたの理性は、教祖のすべての言動に得心が行きますか?


僕が、ありとあらゆる新興宗教の信者に対して問いかけたい質問は上の2点です。


日本は、世界でもまれにみるほど、新興宗教の多い国です。

戦後、仏教系、キリスト教系、あるいは神道系、さらには、それらをごちゃまぜにしたものや、神智学をベースにしたものなど、百花繚乱ならぬ、魑魅魍魎の世界が展開しています。


新興宗教の信者だけでなく、キリスト教の信徒や仏教徒にも、問いかけたい質問はありますが、今日は、ここまでと、します。




人はパンのみにて生きるにあらずだが、パンがなければ生きられない


人はパンのみにて生きるにあらず、とは、イエスの言葉ですが、パンよりも大切なことがあることを伝えたものだと思います。

ただ、イエスは、もちろん、パンを否定しているわけではありません。

また、俺はパン食ではなく、ご飯派だから関係ない、ということではなく、このパンは、広く、経済、と考えることもできます。あるいは、お金、でもいい。

今、日本経済がほぼ止まっている状態で、これは、人間の体で言えば、血液が流れていない状態。

血液のこない細胞は、やがて壊死してしまうように、お金の流れが止まってしまうと、その影響は深刻なものになっていきます。

コロナ騒動が収束し、そして本当の意味での終息に向かうことを祈るばかりです。


さて、今は、多くの教会が、礼拝も自粛しているようですが、シルバーバーチが教会のあるべき姿についても語っているので、紹介します。

例によって、こういうたぐいの話が嫌いな人はスルーしてください。

 「まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぶために存在するものであること説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。しばしのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。

私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。

教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有難がってはいけません。

 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では〝永遠なるもの〟は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。

いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。

あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぶところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。

 内部に宿された神性を発揮しさえすれば───高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。

自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇いた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。

そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません」


教会のあるべき姿、というよりも、宗教のあるべき姿、そのものについて、語っている感じですね。

僕自身、プロテスタント、カトリック、あるいは異端とされているモルモン教の礼拝にも参加したことがありますが、シルバーバーチが示す基準を満たしているモノは、一つもありませんでした。

そもそも、牧師なり、神父なりが、霊界についての知識が皆無なので、せいぜいのところが道徳的な説教に終始するか、カビの生えた人工的なキリスト教神学を、自分なりに解釈し直して話すのが関の山だからです。

これは、バカにして言っているのではなく、人間的にはそれなりに立派ではあっても、圧倒的な認識不足は否めませんでした。

ただ、人工的なキリスト教神学であっても、その中には、微かながらも主イエスの語った命の言葉の残り香くらいはあり、その愛の霊流を、感じることもありました。

既成の教会での礼拝に、生きる拠り所を置いている人もいるわけですから、それは尊重しなければいけないと、思っています。

ただ、シルバーバーチをはじめとした霊界からの霊知識としての光がおろされているのですから、そちらに目を向けないのはあまりにももったいない、と、思っています。

そして、それこそが、主イエスの復活、そのものなのですから、ね。

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コロナウィルス対策には、換気が大切ですが、宗教界にも、真実の霊知識を取り入れる換気が必要だと、僕は、強く思っています。




61歳になっても、僕には知らないことが多い


先日、テレビをつけたら、鎌田實さんという人が出ていて、その人の話にすぐに引き込まれました。

どこかで見たことのある人だな、とは思ったのですが、僕は、この人をほとんど知らなかったのです。 

医師で、作家でもあるようで、その生い立ちが、養父母に育てられたとかで、特に、義父とのことを、話していました。

貧乏人は勉強などしなくていい、働け、と、義父に言われても、医者になりたい鎌田さんの意志は固く、苦学してアルバイトを掛け持ちしながら、医者になったこと、その後、つぶれかけた病院を再建したり、難民支援に奔走したりの人生。

恥ずかしながら、僕は、61歳になるこの年まで、鎌田實さんという人が、こんなすごい人だとは、知りませんでした。

鎌田さんを見ていて、シルバーバーチの言葉を思い出しました。

少し引用が長くなるので、読むのがだるい人は読まなくていいですよ。


 〝もしスピリチュアリズムについてテレビで講演することになったらどういうことを話されますか〟───ある日の交霊会でこんな質問が出された。シルバーバーチはすかさず次のように答えた。

「私はまず私が地上の人たちから〝死者〟と呼ばれている者の一人であることを述べてから、しかし地上の数々の信仰がことごとく誤りの上に築かれていることを説明致します。生命に死はなく、永遠なる生命力の一部であるが故に不滅であることを説きます。

私は視聴者に、これまで受け継いできた偏見に基づく概念のすべてをひとまず脇へ置いて、死後存続の問題と虚心坦懐に取り組んで真実のみを求める態度を要請致します。寛容的精神と厚意をもって臨み、一方、他人(ヒト)がどう述べているからということで迷わされることなく、自分みずからの判断で真理を求めるよう訴えます。

そして世界中の識者の中から、いわゆる死者と話を交わした実際の体験によって死後の生命を信じるに至った人の名前を幾つか紹介します。

そして私自身に関しては、私もかつて遠い昔に地上生活の寿命を割り当てられ、それを完うして、一たんベールの彼方へ去ったのち、この暗い地上へ一条の光をもたらし久しく埋もれたままの霊的真理を説くために、再び地上に戻る決心をしたことを述べます。

私はその霊的真理を平易な言葉で概説し、視聴者に対して果たして私の述べたことが理性を反撥させ、あるいは知性を侮辱するものであるか否かを聞いてみます。

私には何一つ既得の権利を持ち合わせないことを表明します。こんなことを説いてお金をいただかねばならないわけでもなく、仕事を確保しなければならないわけでもありません。私には何一つ得るものはありません。霊界での永い永い生活を体験した末に私が知り得たことを教えに来ているだけです。聞くも聞かぬもあなた方の自由です。

人間は不滅なのです。死は無いのです。あなた方が涙を流して嘆き悲しんでいる時、その人はあなた方のすぐ側に黙って立っている───黙って、というのは、あなた方が聞く耳をもたないために聞こえないことを言っているまでです。

本当は自分の存在を知らせようとして何度も何度も叫び続けているのです。あなた方こそ死者です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で立派な死者です。神の宇宙の美が見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。

愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡知を役立てたいと望んでいるのです。

見えないままでいたければ目を閉じ続けられるがよろしい。聞こえないままでいたければ耳を塞ぎ続けられるがよろしい。が、賢明なる人間は魂の窓を開き、人生を生甲斐あるものにするために勇気づけ指導してくれる莫大な霊の力を認識することになります。あなた方は神の子なのです。

その愛と叡知をもって全宇宙を創造した大霊の子供なのです。その大霊との繋がりを強化するのは、あなた方の理解力一つです。もし教会がその邪魔になるのであれば、教会をお棄てになることです。もし邪魔する人間がいれば、その人間と縁を切ることです。もし聖典が障害となっていると気がつかれれば、その聖典を棄て去ることです。


そうしてあなた一人の魂の静寂の中に引きこもることです。一切の世間的喧騒を忘れ去ることです。そして身のまわりに澎湃(ホウハイ)として存在する霊的生命の幽(カス)かな、そして霊妙なバイブレーションを感得なさることです。

そうすれば人間が物的身体を超越できることを悟られるでしょう。知識に目覚めることです。理解力を開くことです。いつまでも囚人であってはなりません。無知の牢獄から脱け出て、霊的自由の光の中で生きることです。 以上の如く私は述べるつもりです」

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モーリス・バーバネルという霊媒を通じて、3000年前に地上生活を卒業して今は高い霊界にいるシルバーバーチが、1920年から約60年にわたって、膨大な量の霊界通信を送ってきましたが、その内容は、一貫しており、この世とあの世を貫く宇宙法則としての神の摂理を説いたものです。

また、シルバーバーチは、名称にもこだわりを見せません。

以下もまた、霊訓からの引用です。


───スピリチュアリズムが世界的宗教となる日が来るのでしょうか。

「あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部───その作用、その意義に対してつけられた名称に過ぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。

人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解力が世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡知が花開くことです。 

ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代わってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。

皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で〝宗教〟という用語もその本来の意義を失ってしまいました。

今では宗教といえば〝神聖〟のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼等のことを連想します。しかし教会や礼拝堂が普通の建物に較べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。普通の家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。

神を崇拝する場として作られた建物は確かに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。

宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人───本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。

教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも〝宗教的〟であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。

内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ───どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病の人を癒し、真理と叡知を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。

人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。

私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持ちでそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の魂に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません」


上記のように、宗教の本来あるべき姿が、述べられています。

まあ、日曜日に教会に行くことが悪いわけではありませんが、それ以上に大切なことは、日々の暮らしの中でどのように生きているか、です。

シルバーバーチの語る言葉はシンプルで、誠実そのものです。

僕は、テレビで鎌田實さんを見ていて、シルバーバーチが説いているような生き方をしている人だなあ、と思いました。

僕たちの周りにも、鎌田實さんほどではないにしろ、小さな善意を向けている人は無数にいると思います。

たとえば、飢えている野良猫に食べ物を与える、とか、道に迷っている人に声をかけ、探している場所を教える、とか。

そうしたことも、シルバーバーチの言う宗教的な行為です。

一昨日、僕は飯能に行き、郵便局のATMで、お金をおろそうと思ったのですが、入り口に人が並んでいました。

ああ、みんなATMに並んでいるのだな、と思った僕は、通帳を取り出して立っていたのです。

そんな僕を見た、若い女性が僕に声をかけ、ATMだったら、空いていますよ、と、教えてくれたのです。

そのアドバイスのおかげで、僕は、すぐにお金を下すことができました。

その女性の小さな思いやりの声掛けも、シルバーバーチの言う宗教的な行為です。

つまり、簡単に言えば、人や動物、その他、あらゆるものに、親切にする行為すべてが宗教的な行為です。

だから、難しく考える必要はありません。

この世界には、そうした善意の個人が無数にいます。

あなたもきっと、その一人です。


やっと買えたマスクと困難な時における人としての生き方


深夜だったでしょうか、寝ているときに、かなり大きな揺れがありました。すぐに地震だということはわかったのですが、少し前の記事でも書いたように、このような時に、たとえば、首都直下型地震などがあったら、大変なことになるな、と、思った次第。

手持ちのマスクは数枚しかなく、それらを洗いながら繰り返し使っていましたが、今朝、買い物に行ったライフで、やっとマスクを買うことができました。


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サージカルマスク5枚入りが税込みで437円のところ、シールだけ貼ってもらって持ち帰ったので、エコ還元2円引きで、435円でした。

さて、昨日、9000万年前の南極大陸のことを書いたのですが、当時、まだ、人類は誕生していませんでした。食物連鎖の頂点には恐竜が君臨し、まあ、その恐竜も一様ではないのですが、人類はおらず、その肉体祖先にあたる哺乳類はいましたが、まだ、知能もさしてない状態。


では、人間のいない世界で、霊なる存在はどうしていたのか。

これを話すと、また長くなるので、ここで語ることは控えますが、以下の、シルバーバーチの言葉が参考になるかもしれません。


大霊はあなた方すべての内部にあるのです。進化の跡をたどれば確かに人間もあらゆる生命体から進化してきており、遺伝的には動物時代の痕跡も留めておりますが、それを遥かに凌ぐ資質として、大霊から授かった神性を宿しており、それを機能させれば地上にあっても神の如き生き方が可能なのです。


実はこのシルバーバーチ、高い霊界から膨大な量の通信を送ってきています。 

僕たちの肉体先祖は、あるいはネズミのような形をした哺乳類かもしれませんが、変化する地球環境の中で、そうした肉体を進化させながら、やがては類人猿、人間へと、進化させていき、人としての霊が宿るにふさわしい時に、大霊の息吹としての、霊が宿ったのではないでしょうか。

そういう意味では、聖書の記述も、比喩的ではありますが、真実を、突いているように思えます。


大霊としての神性を宿した人間が神のごとく生きることの可能性に言及しているシルバーバーチですが、たとえば、今のこの時期であれば、寝食を忘れて、コロナウィルス感染者のために働いている医療従事者の多くが、その、人の命を救うという使命感のみで生きるとき、それは神のごとき生き方、であろうと、思います。


あなた方が自分のことを忘れて人のために精を出す時、あなた方を通して大霊が働くのです。

上記のシルバーバーチの言葉にもあるように、大霊は宇宙法則としてこの世界を統治しているので、その働きは、人間を通して行います。

誰でも、一度や二度は、自分のことなど忘れて、誰かのために、夢中で働いたり、奉仕したりした経験はあるのではないでしょうか。そうした時には、まるで、自分が真空地帯にいるように感じたりしますが、もう、働き、そのものになっていて、そうした時には、確かに、神のエネルギーというか、大霊が働いているのを感じます。

この時期は、ほとんどの宗教団体が、宗派の違いを乗り越えて、礼拝の自粛などで、足並みをそろえています。

そして、実に多くの宗教団体で、自発的に、それぞれの仕方で、コロナ過の終息を願う祈りがささげられています。

先日見た番組では、仁和寺の僧侶がコロナウィルスの終息を願う祈願をしている様子を見ましたが、仏教、キリスト教、イスラム教の枠を超えて、それぞれの仕方で、そうした祈りをすることは、良いことだと、思います。

また、仁和寺では、僧侶の手作りのマスクも、無料配布していました。

僕は、今は、いかなる団体にも所属していませんが、宗教団体においても、それぞれの仕方で、人類の危機に立ち向かっていることは、良いことだと思いました。

落ち着いた大きな心への道


落ち着いた大きな心、平安に至る道は、いくつかありますが、その一つが、仏教思想の中にあると、僕は思っています。

今日は、その仏教思想の中核をなす四無量心を、取り上げてみたいと思います。

ちなみに、無量とは、量ることができない、ということ、あるいは、量ることができないほど多い、という意味ですね。

で、その四無量心とは、慈悲喜捨のこと。

慈、とは、足ることを知って貪らず、他者の幸福を望むこと、です。

悲、とは、 他者への同情心、とでも言えばいいでしょうか。

喜、とは、妬みを超えて、他者の幸福を喜ぶこと、です。

捨、とは、差別をしない平静な心を維持すること、です。これは、他人が自分に向ける悪意に対しても、無頓着であること、も意味します。

あっさりとした説明なので、なんか、慈と喜は同じじゃね、と、思えるかもしれません。

そこで、別の側面から見てみると、

慈、は、貪りの克服、であり、

悲、は、冷淡さの克服、であり、

喜、は、妬み心の克服、であり、

捨、は、怒り心の克服、でもあるでしょう。

この、四無量心を培うことにより、落ち着いた大きな心に至る、ということですね。

慈悲喜捨のうちの、慈悲、は、他に喜びを与え、苦を取り除く、という意味で、抜苦与楽、とも言えます。

健やかに生きるためには、必要以上のものを求めない、という生き方そのものが、すでに、四無量心の第一、慈、なる生き方の始まりになります。

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このような仏教的な幸福感の対極にあるのが、一般的な幸福感です。

その理由は、自分が今よりも多く、そして、他者よりも多く、を得ることが、一般的には幸福なことだと、思われているからです。

ただ、この他人よりも多くを得たいという欲望に導かれて、首尾よく多くを得る喜びを得たとしても、その裏側には、得たものを失う苦しみがあります。

また、そもそも、得たいと思っても得られない、という苦しみもありますね。これは、四苦八苦のうちの、求不得苦とも言われる苦しみのことです。

一般的な幸福とされる、今よりももっと、そして、他者よりももっと多くを得ることは、その瞬間の喜びはあるものの、同時に、失うことを怖れる苦しみ、そもそも得ることさえできない苦しみ、そして、他者と奪い合う苦しみ、をはらんでおり、これを、仏教では、苦の裏には楽があり、楽の裏には苦がある、と言います。

つまり、苦楽は表裏一体である、ということですね。

このように、楽の裏には苦があるという生き方は、どうしても、不安定にならざるを得ません。

そして、常に自他の対立があるので、心の広がりも妨げる結果になります。

つまり、不安定で広がりのない心に、束縛された日々を送ることになります。

しかし、学校教育で教えていることは、他者との競争であり、優劣を競うことです。

そして、その中で劣等感や優越感、卑屈な心や他を見下す心が、雑草のように蔓延っていきます。

求めても求めても、得ても得ても、満足できない心、それこそが、貪りの心、です。

しかしこの心が向かう先は、他者との諍いであり、どんなに能力のある人でも、勝ち続けることはできません。

そして、どんなに多くを得たとしても、老いと、病と、死が、その先には待ち受けています。

つまり、一般的な幸福とされているところの、今より多くを求め、他者より多くを求めるという生き方は、得たとしても失う、そもそも得られない、他者と奪い合う、という、非常に不安定な生き方である、ということ。

そして、そのような生き方は、人生の後半になるほど、不利になり、苦しみが増すことになります。

その点、四無量心を土台にした生き方であれば、足ることを知って生きるので、その心は安定しており、年を取るほど、その安定感と平安は不動のものになっていきます。



僕自身、貪りの心や怒りの心に、ずいぶん苛まれてきました。今でも、そうした心がまったくないとは思っていません。

ただ、感情や揺れ動く心が自分だと思っていたころは、その主観から離れられず、苦しみが尽きることはないのですが、感情や心、思考といったものは移ろいゆくもので本来の自分ではないと気づいたときから、心に安らぎが生じるようになりました。

主観べったりの自分、と、それを客観視する自分の間に、心地良い空間、スペースが生まれ、それ以降、聖書の中のイエスの言葉や、仏陀釈尊の言おうとしていた四法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦)などが、無味乾燥なものではなく、生きた言葉として感じられるようになりました。


今日は、四無量心を土台とした落ち着いた大きな心の幸福と、今より多く他者より多くを求める一般的な幸福を、初歩的なレベルで比較してみました。

簡略な考察ではありますが、生きる上でのヒントになれば、嬉しい限りです。


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