介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

スピリチュアルな話

明日のことは明日自身が思い煩う


今日のタイトルは、イエスの言葉です。

「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」

この、さっぱりとした心、今日だけに、さらに言えば、今、この時だけに、焦点を当てた生き方、を、イエスは説きました。

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大乗仏教で最も人気のある観音菩薩は、観音菩薩になる前の生涯で、親と生き別れ、人さらいに騙され、陸の離れ小島に送られて一生苦役を課された人生でした。

彼は、苦しみ抜いた人生の終わりに、飢えや渇きの苦しみに加えて、人に騙される悲しみを味わったからこそ、この苦しみを縁として、同じような苦しみに嘆く人たちを、来世救っていくことにしよう、と、決意しました。

苦しみの連続の生涯を逆に活用して、同じ様な苦しみを持つ人たちを救う財産に変えようと発願しました。

この逆転の発想が、観音菩薩の慈悲の源でした。

愛されなかった苦しみを、他を愛するために使う、という最も尊い慈悲の心が、喜びからではなく苦しみから生まれた、という例ですね。

仏教を表す蓮の花は、美しい場所に咲くのではなく、泥水の濃いところほど大きな花を咲かせます。

僕は、観音菩薩のことを想うたびに、蓮の花が脳裏に浮かびます。

前回の記事で、河野義行さんのことを少し書きましたが、彼が当然受け取るべき賠償金も受け取らず、仏陀釈尊の慈悲の生き方を実践しているという事実を、僕に教えてくれたのが、かつて、ああ言えば上祐とまで揶揄された上祐史浩氏でした。

実は僕は、今年1月に、上祐氏に会い、いろいろと話を聞いてきたのですね。

どうしても、僕が上祐氏に会いたかった理由は、僕自身、二つのカルト宗教を経験し、激しい煩悶の末に克服できたとは言え、その生木を裂かれるような体験は、筆舌に尽くし難いものであり、おそらく上祐氏も、同じ様な体験をしているはずだ、と思ったからです。

さらに言えば、僕は無名の凡夫ですが、彼の場合は、一時期とは言え、テレビに出続け、顔も知られ、さらには、サリン事件の被害者への賠償責任もあるという、大変な重荷を背負っています。

つまり、内面の葛藤の克服だけでは済まない立場です。

僕とは比較にならない重い十字架を背負った彼の今の本心と、その波動、を、知りたかったのです。

まあ、面談時間そのものは、そう長い時間ではなかったのですが、得るものは大きかったと思っています。

彼はかつて、麻原彰晃をグルと慕い、父親のように思っていたそうです。今の彼は、すでに偽物のカルト教祖の呪縛を超克し、仏教的な平安を得ているようでした。

僕が思うに、彼にとっての幸福は、偽物のグルと決別し、河野義行さんのような、本物の人格者と出会えたことだと思います。

河野義行さんは、上祐氏の主催する団体の外部監査人となっています。

つまり、彼は偽物のグルの後に本物の一市井の人と、出会ったわけですね。

本物は、偉ぶることなく、高ぶることなく、人を非難することなく、穏やかで平静な心を維持しています。あるいは、維持しようと心がけています。

そして、上祐氏が、あることで、河野義行さんに質問したことがあったそうです。

その時の河野さんの答えが、「これまでも何とかなってきた。だからこれからも、何とかなると思う」だったそうです。

それを聞いたときに、僕は、冒頭のイエスの言葉を思い浮かべました。

明日のことは明日自身が思い煩うであろう、一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

だから今日も、僕は、さっぱりした気持ちで生きようと、思っています。

柔弱不争で静かに死んでいきたいのです


喧嘩っ早かった自分が、ほとんど怒らなくなり、軽挙妄動する自分が、多少は穏やかに物事を見つめられるようになり、近視眼的だった自分が、少しは遠くを見られるようになったのは、運命そのものに、導かれてきたから、としか、言いようがありません。

というのも、いかに自分が愚かで、頭が悪かったかは、このブログでも多少は披露していますが、かなり桁外れの馬鹿者であったことは、事実で、10代20代30代40代と、それぞれ、質の違う愚かさと、共通する愚かさを持っており、50代で、いくらか、人並みの理性を持つに至ったように、思います。 

転職も多かったのですが、それ以上に、精神の旅は、思いだすだに、興味は、尽きません。

自分の人生が、なぜ、そんなに、面白く思えるのか、不思議ではありますが、ここを見つめ直すことが、今の僕の、最大の関心事、なのですよ。

どんだけ自分が好きで、自分中心のナルシストなんや、との批評も、意には介しません。

僕が知りたいのは、僕の人生が、どのようにして僕を導いてきたかの再確認を通して、生まれてくる前の僕自身の人生計画の全容に迫りたい、のです。

で、ここでいう僕自身とは、今、こうしてブログを書いている僕よりも、もっと純度の高い僕、のことです。

その僕、仮に、真我とでも呼んでおきましょう、その真我の視点に立って、今の僕を見たら、より、自分の立ち位置が明確になると、思うのですよ。

そして、自分の立ち位置が明確になれば、今後進むべき道筋も、より明確になるのではないか、と、思うのですね。

まあ、大袈裟な言い方をすると、人生の定期点検、みたいな、モノでしょうか。

で、そうした内省的な気持ちと同時に、今、僕が、深めたいと思っているものが柔弱不争。

老子の言葉で、柔弱謙下、とか、柔弱不争、は、瞑想に入りやすいキーワードのようなもの。

老子、自体が知恵の宝庫ですが、老子以外にも、向き合いたいものがいくつかあり、やはり、アルバイトなど、している場合ではない、と、感じます。

労働も尊いが、もう初老の僕には、残り時間を視野に入れながら、時間を、より価値のあるものに傾斜配分していく必要があるのです。

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死ぬときに無一文でも、心が充実し、悔いがなく、こんな素晴らしい境地にまで、よくぞ導かれたものだ、という実感の中で、静かに、死んでいきたいのです。

自分を見つめること以上に大切なことなど、あるのだろうか


長らく、グル(宗教的指導者)を求めて、彷徨ってきた人生でしたが、これは、ある種の救世主待望症候群、なのかもしれません。 

こうした傾向のある人は、その相関関係にあるメサイアコンプレックスを持つ教祖と、出会いやすくなります。

メサイアコンプレックスで有名なのは、人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズや、ブランチ・ダビディアンのデビッド・コレシュ。日本でいえば、オウム真理教の麻原彰晃。

この辺りは、実際に事件も起こしているし、わかりやすいのですよ。

問題は、事件にこそならず、表面化していないものの、カルト教祖の言動に振り回されて、自分の人生を翻弄される人が後を絶たない現実。

日本の宗教人口は、確か、日本の人口の2倍くらいだったと思います。

それだけ、日本では多くの人が宗教とかかわっていて、また、政治にも絡みますから、義理で信者になっている人や、商売上の付き合いから信者になっている人まで含めると、2億人くらいはいるのかもしれません。

で、そのような、百花繚乱と言うよりは、魑魅魍魎の世界に、心の安らぎはありません。


では、安らぎは、どこにあるか。

それは、自分の中にあります。

いや、自分の中にしか、本当の安らぎはありません。

つまり、グルであろうと、救世主であろうと、他者に、依存していては、真の安らぎなど訪れないのです。

で、仮に、素晴らしいグルがいたら、その人は、自分を崇めなさい、とは、決して言いません。

そうではなく、あなた自身の中にある真我、あるいはハイヤーセルフ、あるいは真実在、あるいは仏性、まあ、呼び方はどうでもいいのですが、それに、気づかせるようにするでしょうね。

それこそが、グルの役目ですからね。

ところが、偽物は、自分を崇拝させようとします。

自分に依存させ、自分に服従させ、魂の自由を奪い、束縛します。

そして、そうした信仰こそが尊いのだと、信者を洗脳します。

洗脳された信者は、無批判になります。

信者のほうでも、純粋なる信仰は美しいという自己陶酔に浸れます。

まあ、ある意味、winwinの関係でもあるわけです。

僕は、これを、相互依存、と呼んでいます。

さらに信者には、選ばれたる人間、であることの無意識の優越感が付きまといます。

教祖の高邁な理想や教えを理解できる自分は悟りが高い、との、自己陶酔の優越感、ですね。

お金がなかろうが、世間から相手にされなかろうが、この優越感や選民感覚があるうちは、信者は幸福と言えば幸福なのです。まあ、偽りの、誤魔化しの幸福なのですが。

しかし、僕に言わせれば、真実に向き合わない限り、真の平安は、ありません。

勇気をもって真実に向き合うことのできる人にだけ、その先にある真の平安への道が開けていきます。

まずは、不都合な真実と向き合うこと、そこを避けていては、いつまでも、その先にある、自分自身を見つめる段階には、行き得ません。

いったい、この世界に、自分自身を見つめること以上に大切なことなどあるのでしょうか。


肝心かなめの自分自身を見つめることをおろそかにして、いったいどんな救世活動ができると言えるのでしょうか。

これは、自分自身を見つめようとはせず、走り回っている、あるいは、走りまわされている、偽りの優越感や選民感覚を持っている信者が、灯りのない状態で闇雲に動いているに等しいのです。

「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。

イエスは、宗教団体を作ろうとはしていないし、ひたすら、宇宙法則、について、述べています。

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法則を指し示すことが、指導者の役割であり、無私にしてその役割に徹した人は、イエス以外にも、何人かいます。

そうした話をしだすと長くなるので、やめますが、そのイエスも、後世の人たちに、都合よく利用され、再臨のイエスを語る偽メシアも、後を絶ちません。

偽メシアの特徴は、自分を崇拝させること。

ここは、国を問わず、時代を問わず、共通しています。

一方、本物の指導者の特徴は、無私であり、他からの称賛など微塵も求めず、ただ、まだ気づきを得ていない人たちを宇宙法則である神にいざなう役割に徹している、ことです。彼ら、本物は、すでに十分満たされているので、他からの崇拝や承認は必要としていないのです。

長くなったので、今日はここまでとします。

苦しい時は逃げていいし、逃げなきゃダメなこともある


逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ、と、かつてノストラダムスは言った。

僕は言う。

逃げよ逃げよ、すべてのブラック企業から逃げ出せ、と。

今朝、テレビをつけたら、電通で過労自殺した高橋まつりさんのお母さんが出ていた。まだ、50代で僕より若い。

それなのに、最愛の娘をなくし、今もその悲しみを抱えたまま生き、活動している。


彼女は、過労死がなくなるような活動をしていて、その彼女のもとには、企業で働く若者から便りが寄せられているようだ。

母子家庭なのに、母が苦労して大学まで出してくれた、だから苦しくても会社を辞められない、でも、苦しい、そんな手紙が寄せれれているようだ。

親思いのいい子ほど、親の苦労を考えたりして、ブラックな会社でも頑張ってしまう。

置かれた場所で咲きなさい、などという言葉を、狡猾に利用されることもある。

置かれた場所で咲きなさい、を書いたシスターも、理不尽な環境で耐え抜け、などという意味で書いたわけではない。

親鸞の悪人正機説にしろ、悪い奴が狡猾に利用すれば、善人は騙される。


主イエスの言葉も同じだ。

都合の良いところだけ抜き取られ、カルト教祖に利用される。


孔子の言葉なども、権力者にいいように使いまわされている。


その点、老子の言葉は、悪用されることは、ない。

タオは、道であり、無用の用を説き、付け入る隙がない。


真理とは、常に単純素朴であり、誰にでも理解できるものだ。


主イエスの教えも老子の教えも、シンプル極まりない。
そして、シルバーバーチの伝える真理もまさに同じだ。

宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。


祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。

問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです
そうでないと神の公正が根本から崩れます

うーん、僕も、いくつかの宗教団体の中で、自分たちこそ真理を知っている選ばれた人間だと思い込み、スピリチュアルエゴに陥りながらそうと気づいていない人間を、いやというほど見てきました。

何より僕自身が、その、スピリチュアルエゴの塊のような人間でした。

スピリチュアルエゴの思考の枠の中にいたら、そこから抜け出すのは、容易ではありません。

それは、僕自身の体験からも、よくわかります。

思考ではなく、気づき、が、覚醒をもたらします。

そしてその気づきは、単純素朴なものです。

なんだ、そういうことか、と、幼子のような気持でわかる、感じです。

宇宙の理法、真理というものは、一つの団体が独占できるものではありません。

それは、公正にして無私であり、法則として働くからです。

だからこそ、スピリチュアルエゴに毒された神を信じると称する信者よりも、往々にして、彼らが蔑む唯物論者や無神論者のほうが、はるかに霊格が高かったりするのです。

ブラック企業にしろ、宗教団体にしろ、苦しいと感じたり、疑問を感じたら、このあり方でいいのかと、一度距離をとる。

そして、逃げたほうがいいと判断したら、
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躊躇なく、全力で、逃げる

それが、大切だと、思います。

愛された犬や猫の死後の様子はどうなっているのか


ワンコやニャンコと暮らす人が増えていて、そうした日常を綴るブログも、多数、読むことのできる今は、僕のように、ペットを持たない人でも、それを読んで癒される、ということがあります。

また、僕の友人でも、ワンコやニャンコを飼っている人もいるし、先日、池袋で、K原君の、快気祝いをしたときも、そのK原君も猫を3匹飼っていて、写真を見せてもらいました。

また、快気祝いを企画したK内君も、やはり猫を複数飼っていると言っていました。

実は明日、友人でもあり先輩でもある、タクシードライバーのMさんのところに、最近家族になったという、ボストンテリアを見に行くのを、今から楽しみにしています。

さて、動物たちは、死後、どんな暮らしをしているのか、これは、ペットを飼っていない人でも、気になるところではないでしょうか。
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シルバーバーチが、このことについても言及しているので、少し見てみましょう。


問 「動物は死後もずっと飼い主と一緒に暮らすのでしょうか。それともいずれは動物だけの界へ行くのでしょうか」

 「どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛が関っているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼い主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼い主───この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。

他の生命を我がものとして所有する(own)などということは許されないのですから───その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼い主のところで暮らします。愛のある場所が住拠となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。

 動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物に限られます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ〝不滅性〟の要素を吹き込んでくれた〝愛〟から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。

地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで、動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです」

問 「人間との接触によって動物はどんなものを摂取するのでしょうか」

 「長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身に付けたわけです。

すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。

 さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなた方人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。

つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。

愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物───犬、猫、その他のペット類───へ向けられる愛は死と共に終わるのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです」

問 「霊界で動物と再会したとして、その一緒の生活はいつまで続くのでしょうか。いつまでも人間と一緒ですか」

 「いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるか分かりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペースについて行けなくなる時が来ます。

人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。

そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。



うーん、動物の霊界での様子の話は、この後も、問いかけと答え、という交霊会でのいつものやり取りという形で続くのですが、長くなるので引用はここまでとします。

まさにパウロが聖書の中で、そして何より、主イエスが語っていたように、愛こそが宇宙最大の力、のようです。

まあ、この、愛という言葉も、神という言葉と同様に、手垢にまみれ、誤解され、貶められてはいますが、それぞれの理解の及ぶ範囲で、愛、というものを考えてみるのもいいかもしれません。

縮小期に入った自分に、何がどのくらい必要なのか


人生には、拡大していく時期と、その後、縮小していく時期があると、思っています。

今年還暦を迎え、年が明けて来年3月には、61になる自分。

人生の残り時間を考えると、このままで良かろうはずはない、と思える今日この頃。

実は、アルコールが、また一段と、弱くなりました。

もともと、酒には弱いほうで、父親などは、一滴も飲みませんでした。

僕は、社会の荒波にもまれるうち、酒の味も覚えましたが、それでも、強いほうではありません。まあ、付き合い程度に飲む程度。

ただ、今度の土曜日、先日も言いましたが、K原君の、快気祝いが池袋であり、飲み放題だそうですが、僕は、乾杯ビールだけにとどめて、あとはソフトドリンクにしようと思っています。まあ、集まるのは昼間だし、それが良いかな、と。

で、何が言いたいかと言うと、今、自分は、人生の縮小期に入っており、先日話した古代インド的な考えにも通じますが、林住期、ですね、まあ、内省し、おのれを見つめる時期なのかな、と。


そしていずれは、林住期ならず、ご臨終と相成るわけで、そのときに、少しでも後悔というものを少なくしておきたい、と、思っています。


どのように生きたとしても、十分ということはないのでしょうが、まあ、70点くらいは、自分に与えてあげたい、と、思っています。

僕は、自分の人生には満足しているし、後悔はないのですが、さらに、厳しく、自己採点すると、導かれてきた道筋には満足しているということであって、自助努力と言いますか、自分の日々のあり方については、大いに改善すべきとの思いがあります。

なので、今の自分は、甘く採点して65点。

まずは、平均して、70点くらいは自己採点できる日々にしたいと、思うようになりました。

そのためには、酒など、飲んでいる場合ではない、と。

まあ、気分転換で、たまに飲むのは良いし、他者との交流にもなる飲み会も、たまにはいいとは思うのですが、日々の暮らしの中からは、なるべく、アルコールは、遠ざけたほうがいいように思い始めています。

これにより、今後は、ますます、出費が減ることが予想されます。

まあ、これまでも、家飲みが基本ですから、月にしても、2000円以下だったと思いますが、今後は、これが、限りなくゼロに近くなるかもしれません。

今日も少しだけ、シルバーバーチの言葉を引用します。


 ある日の交霊会に米国人ジャーナリストが招かれた。そして最初に出した質問が「霊界というところはどんなところでしょうか」という、きわめて基本的な質問だった。その時レギラーメンバーの一人が「この方は心霊研究家とお呼びしてもよいほどの方ですよ」と言ったことが、次のようなユーモラスな答えを誘い出すことになった。

(訳者注────ここでは心霊学に詳しい方という程度の意味で言ったのであるが、その心霊学が〝心霊現象の科学的研究〟を目的としているだけで、霊魂の存在も幾つかの学説の中の一つとして扱われているだけである。その点を念頭に置いてシルバーバーチがその〝学説〟を並べ立てて皮肉っぽく答えているところがユーモラスである)

 「私は地上の人たちから〝死んだ〟と思われている者の一人です。存在しないことになっているのです。私は本日ここにお集まりの方々による集団的幻影に過ぎません。

私は霊媒の潜在意識の産物です。私は霊媒の第二人格であり、二重人格であり、多重人格であり、分離人格です。これらの心霊用語のどれをお使いになっても結構ですが、私もあなたと同じ一個の人間です。ただ私は今あなたが使っておられる肉体をずいぶん前に棄ててしまいました。
 
あなたと私の根本的な違いはそれだけです。あなたは物的身体を通して自分を表現しているスピリットであり、私は霊的身体を通して表現しているスピリットであるということです。         

 私はほぼ三千年前に霊の世界へ来ました。つまり三千年前に〝死んだ〟のです。三千年というとあなたには大変な年数のように思われるかも知れませんが、永遠の時の流れを考えると僅かなものです。その間に私も少しばかり勉強しました。

霊の世界へ来て神からの授かりものである資質を発揮していくと、地上と同じ進化の法則に従って進歩していきます。つまり霊的な界層を一段また一段と向上していきます。界層という言い方をしましたが、一つ一つが仕切られているわけではありません。

霊的な程度の差があり、それぞれの段階にはその環境条件にふさわしい者が存在するということです。霊的に向上進化すると、それまでの界層を後にして次の一段と高い界層へ融け込んでいきます。それは階段が限りなく続く長い長い一本の梯子のようなものです。

 そう考えていけば、何百年、あるいは何千年か後には物質界から遠く離れていき、二度と接触する気持ちが起きなくなる段階に至ることは、あなたにも理解出来るでしょう。所詮、地上というところはたいして魅力ある世界ではないのです。

地上の住民から発せられる思念が充満している大気にはおよそ崇高なものは見られません。腐敗と堕落の雰囲気が大半を占めております。人間生活全体を暗い影がおおい、霊の光が届くのはほんの少数の人に限られております。

一度あなたも私と同じように、経済問題の生じない世界、お金が何の価値も無い世界、物的財産が何の役にも立たない世界、各自が有るがままの姿をさらされる世界、唯一の富が霊的な豊かさである世界、唯一の所有物が個性の強さである世界、生存競争も略奪も既得権力も無く、弱者が窮地に追いやられることもなく、

内在する霊的能力がそれまでいかに居眠りをしていても存分に発揮されるようになる世界に一度住まわれたら、地上という世界がいかにむさ苦しく、いかに魅力に乏しい世界であるかがお判りになると思います。


その地上世界を何とかしなければならない───私のようにまだ地上圏へ戻ることのできる程度のスピリットが援助し、これまで身に付けた霊的法則についての知識を幾らかでも教えてあげる必要があることを、私は他の幾人かの仲間とともに聞かされたのです。

人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞し、悪戦苦闘している難問への解決策を見出させるにはそれしかないということを聞かされたのです。

 同時に私たちは、そのために必要とする力、人間の魂を鼓舞するための霊力を授けてくださることも聞かされました。しかし又、それが大変な難事業であること、この仕事を快く思わぬ連中、それも宗教的組織の、そのまた高い地位にある者による反抗に遭遇するであろうことも言い聞かされました。

悪魔の密使とみなされ、人類を邪悪の道へ誘い、迷い込ませんとする悪霊であると決めつけられるであろうとの警告も受けました。要するに私たちの仕事は容易ならざる大事業であること、そして(ついでに付け加えさせていただけば)その成就のためには、それまでの永い年月の中で体験してきた霊界生活での喜びも美しさも、すべてお預けにされることになるということでした。

しかし、そう言い聞かされた私たちのうちの誰一人としてそれを断わった者はいませんでした。かくして私は他の仲間と共に地上へ戻ってまいりました。地上へ再生するのではありません。地上世界の圏内で仕事をするためです。

 地上圏へ来てまず第一にやらねばならなかったのは霊媒を探すことでした。これはどの霊団にとっても一ばん骨の折れる仕事です。次に、あなた方の言語(英語)を勉強し、生活習慣も知らねばなりませんでした。あなた方の文明も理解する必要がありました。

 次の段階ではこの霊媒の使用法を練習しなければなりませんでした。この霊媒の口を借りて幾つかの訓え───誰にでも分る簡単なもので、従ってみんなが理解してくれれば地上が一変するはずの真理を説くためです。


同時に私は、そうやって地上圏で働きながらも常に私を派遣した高級霊たちとの連絡を保ち、より立派な叡智、より立派な知識、より立派な情報を私が代弁してあげなければなりませんでした。初めのころは大いに苦労しました。今でも決してラクではありませんが・・・。

そのうち私の働きかけに同調してくれる者が次第に増えてまいりました。すべての人が同調してくれたわけではありません。居眠りしたままの方を好む者も大勢いました。自分で築いた小さな牢獄にいる方を好む者もいました。

その方が安全だったわけです。自由に解放されたあとのことを恐れたのです、が、そうした中にも、そこここで分かってくれる人も見出しました。私からの御利益は何もありません

ただ真理と理性と常識と素朴さ、それに、近づいてくれる人のためをのみ考える、かなり年季の入った先輩霊としての真心をお持ちしただけです。

 それ以来私たちの仕事は順調に運び、多くの人々の魂に感動を与えてまいりました。無知の暗闇から抜け出た人が大勢います。迷信の霧の中からみずからの力で這い出た人が大勢います。自由の旗印のもとに喜んで馳せ参じた人が大勢います。死の目的と生の意味を理解することによって二度と涙を流さなくなった人が大勢います。」

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長くなるので、引用はこのあたりでやめますが、縮小期に入った自分には、そう多くのものは要りません。

いやむしろ、必要なものを見極め、純度の濃い時間を生きなければもったいない、との結論に至りました。

お金を始めとした物質的なもの一切は、この地上を去るときに置いていかねばなりません。

仏陀釈尊の筏の例えの、筏のようなものです。

筏は、川を渡るときには必要ですが、渡り終えたらそれを捨ておいて、また歩き続けます。

魂は永遠であり、肉体はこの世を浮き渡っていく船のようなもの、ですからね。


皆さんはこれまでの人生に最善を尽くしたと思われますか


今、COP25が、スペインのマドリードで、開催されていますが、日本は、不名誉な化石賞を、受賞したようですね。

さて、地球温暖化対策を求めて、一人で座り込みの抗議を始めたグレタさん。

やむにやまれぬ思いに突き動かされて始めた行動ですが、この汚濁にまみれた3次元世界で、何かを成そうとすると、さまざまな困難に見舞われます。

また、彼女の思いは純粋だとしても、その彼女を利用して自団体の主張に結びつけようとするものが現れたり、彼女の行動そのものを邪推する者もあらわれます。

信念を持って、事を行い、貫く者は、他人からの批判や誤解は怖れませんが、彼女が影響力を持てば持つほど、さまざまな団体や個人までもが、その影響力に群がろうとします。

こうしたことは、あらゆる場所で起こっており、ダライ・ラマと一緒に写った写真を、自分の本の中表紙に差し込んで権威付けを行った麻原などは、そのいい例。

桜を見る会も、ジャパンライフという悪徳会社が、信用度を増すために、利用したように、悪いことを考えている人間は、どんな権威や影響力も、自分の利益のために利用しようとします。


グレタさんのことや、その周囲に群がる人たちのことも、僕は深く知る立場にはありませんが、彼女の発心、は、純粋なものであり、やむにやまれぬ、切実なものであったであろうことは推測できます。

そのような発心、情熱が、世の中を変えてきた歴史があります。


さて、今日は、少し、スピリチュアルな話になりますが、いつもは、交霊会で、質問されてそれに答える立場のシルバーバーチのほうから、参加者に質問する、ということがありました。以下が、その内容。


ある日の交霊会でシルバーバーチの方から一連の質問をしたことがある。

 最初の質問は 「皆さんはこれまでの人生に最善を尽くしたと思われますか」 というものだった。

 これに対してメンバーの一人が 「誰ひとりそう断言できる者はいないと思います」 と答えると、シルバーバーチは別のメンバーに対して 「あなたはどういう点がいけなかったとお考えですか」 と聞いた。

すると 「毎日、毎時間、数えきれないほどです。こうするのが自分の責務だと思っていながら全力を投じていないからです。これが正直な答えです。私にとっての〝赦し難き罪〟です」 と答えた。

もう一人のメンバーも 「かくあるべきということに四六時中最善を尽くしている者はいないというのが正直なところだと思います」 と言い、さらにもう一人も 「もしそれが出来たらわれわれは恐るべき人間ですよ」 と答えた。

 シルバーバーチの次の質問は 「今お持ちの知識を携えてもう一度人生を初めからやり直すことができたら、もっと立派なことができたはずだと思われますか」 というものだった。

 これに対して一人は 「ええ、むろんです」 と答え、もう一人は 「私はそうは思いません。早くからこうしたことを知っておりましたから、それは私にとって言い訳にはなりません」 と答えた。すると最初に答えたメンバーがその人に 「少なくとも人生を歩む上での方向感覚を与えることにはなっていたでしょう」 と述べた。

 一方、かつてメソジスト派の牧師だったメンバーは「私の場合は、もし早くから知っていたらメソジスト派への改宗を説くことだけはしなかったろうと思われます」 と答えた。
 
 別のメンバーは「とにかく私は怠慢でした」とだけ答え、もう一人は「私は知らずにいたことを永い間悔やんでおります。早くから知っていたら大変な違いが生じていたはずだと思うからです」と答えた。そして最後の答えは「多くの好機を無駄にしてきました」というものだった。


 こうした答えを聞いてシルバーバーチは次のように語った。

 「私は皆さんのお答えのいずれにも賛成しかねます。霊的な視点で見ておられないからです。一人の方はもし早くから知っていたらメソジスト派の教えを説いて永い年月をムダにすることは無かったとおっしゃいましたが、私に言わせれば、むしろ荒野に叫んだ時期が無かったら、その方の存在は今ほど大きくなかったろうと思われます。

真理探求に没頭した年月───追求してはつまづき、倒れては起き上がり、間違いを犯しながら遂にそれまでの信仰が真実とは似て非なるものであることを思い知らされることになった───そうした体験がその人の魂の発達の掛けがえのない要素となっているのです。

行く手に転がる石ころを一つ一つ取り除いてもらい、困難は生じる前に簡単に片づけられ、いかなる障害が地平線に浮かんでも、まるで魔法のように消されてしまうような人生を送っていては、未発達で、何の試練も体験しない、幼稚な霊をこしらえることにしかなりません」

 すると当の本人が「でも、私が説いた(誤った)教えを聞いた人たちはどうなるのでしょうか」と聞いた。
 「あなたがその人たちに及ぼした(悪い)影響を必要以上に誇張してお考えになってはいけません。その人たちはその人たちなりに、そうした誤りを通して学んでいかねばならないのです。葛藤と困難、苦悩と障害は霊性の開発にとって必須の要素なのです。

たとえあなたが霊的知識(スピリチュアリズム)を早くから知っていたとしても、相変わらず葛藤は葛藤として続いていたことでしょう。ただ、私がもっと早く、困難への対処の仕方を教えてあげておれば良かったということは言えましょう」

 次に“私は怠慢でした”、と答えた人にシルバーバーチはこう述べた。

 「あなたはご自分が怠慢だったと考えておられる。それはあながち間違っているとは言えませんが、あなたはもう大いにその埋め合わせをしておられます。ご自分では気づいていなくても、立派な貢献をしておられます。ご自分では小さく見くびっておられますが、その判断は公平を欠いております」

 “知らずにいたことを悔やんでいる”と答えた人に対しては「償いをすることによって却ってその有難さを知ることになることもあるものです」と答え、“早くから知っていたので今さら言い訳はしない”と答えた人に対しては 「あなたはずっと正しい指導を受けてこられました。

ほぼ物心がついた頃から今日までずっと霊的な糸で結ばれております。(全員に向かって)人生は釣合い、照合、再照合、そして埋め合わせといったことの繰り返しであることを認識して下さい。

皆さんはそれぞれの生活にとっぷりと浸っておられるために、これまでご自分がどれほど立派な貢献をしてきたか、そして今どんな貢献をしているかがお判りになりません。視野がぼやけております。天秤を水平に持つことができないのです。

しかし大切なことは、知識がすべてに優先するということです。ですから、霊的知識の普及にできるかぎりの努力をしなければなりません。私がこの仕事を依頼されて地上をいかなる世界にすべきかという未来像を画いた時に、何よりも優先させねばならないと考えたのもそのことでした」



こののち、シルバーバーチは、また違う質問をすることになるが、長くなるので、引用はここまでにします。

葛藤と困難、苦悩と障害は霊性の開発にとって必須の要素であると、シルバーバーチは言います。

今、苦難の中にある人も、その苦難困難は、無駄ではないはず。

人は人生の途上で、さまざまな紆余曲折や回り道も歩きますが、そのすべてが、無駄ではなく、それがあってこその、今、であると。


最近、引きこもって内省したい思いが強くなっている僕自身も、また新たな人生の転換点に、立っているのかもしれません。

知性の根源は霊界にある

今朝がた、久し振りに霊夢を見て、目が覚めました。


霊夢というのは、通常の夢とは、明らかに違うので、すぐにわかります。

霊夢の場合は、魂が霊界(実在界ともいう)に行き、そちらの世界での体験なので、単なる頭の中の雑念を整理する夢とは違うのですね。


前回、このブログで、霊夢について記したときは、死んだ母が出てきて、かなりストーリー性もあり、飛翔感もあったのですが、今回は、研ぎ澄まされた知性というか、落ち着きがある中にも、深い喜びがある霊界生活の一コマを見てきた感じでした。

僕が、睡眠を重要視する大きな理由の一つが、実はここにあります。

実は、人間というモノは、多次元的存在であり、たかだか100年足らずのこの地上生活とともに消滅してしまうものではありません。

地上での経験は、その多次元的存在の体験の一部として共有されはしますが、まあ、端的に言えば、その程度のものです。

まあ、一瞬の夢、と、言い換えてもいいかもしれません。

つまり、この地上生活そのものが、夢のようなものなのですね。

これを、荘子は、胡蝶の夢、という言い方で、上手く表現しています。

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まあ、それはいいとして、何が言いたいのかと言うと、この地上世界というのは、実にむさくるしく、閉塞感があり、不公平で、息苦しいのですが、この不自由な世界での体験が、実は、のちに、のちにというのは、死んだ後ということですが、大きな意味を持ってきます。

実在界から俯瞰すれば、この訳の分からない地上生活も、それなりの意味があることがわかります。

で、まあ、そういう話を長々とするときりがなくなるのでこの辺にして、今朝がた霊夢を見て改めて実感したのは、知性の根源は霊界にある、という生々しい感覚でした。


地上の知性、地上の科学などは、たかが知れています。

バカにして言っているのではありませんよ。まあ、それは、この地上界そのものが進化の途上にあり、そう言う位置づけにある、というに過ぎませんからね。

インターネットの普及で、だいぶ霊界に近づいている感のある地上界ですが、霊性の進化が進めば、さらに近づいていくことができると思っています。


矛盾した言葉の奥にある真実

齢60を超え、なりたい自分になりつつあるのを、感じています。

これは、聖書的に言うと、求めよさらば与えられん、を、地で行く感じ。

一方、仏教には、求不得苦、という教えがあります。

これは、求めても得られない苦しみ、のこと。

イエスも釈尊も、どちらも覚者ですが、切り口が違うと、一見、矛盾した教えのようにも見えます。

しかし、イエスの教えも釈尊の教えも、どちらも真実。

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さて、僕が、最近とみに感じるのは、今生きているこの人生は、まさに自分の求めているものだ、という実感。

つまりこれは、僕の人生そのものが、僕を導いてきた証しでもあります。

この喜び。

だからこそ僕は、過去にかかわりのあった統一協会も幸福の科学も、その誤りを明確に理路整然とわかりながらも、そこを通るべくして通ったのだという必然性もまた、理解できるのです。

で、僕は、僕の人生を慈しむがゆえに、その通ってきた道をも、慈しみの目で見ることができるのです。

その道を通らなければ、今の僕という存在にまで導かれることはなかったからです。

今の僕という存在が、幸福そのものである理由の一つが、その道、その道程に、あるからなのです。


その道のりがあって初めて、一見矛盾するイエスや釈尊の教えの奥にある真実が見えるのです。


ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ。」



クリスチャンにも仏教徒にも、ムスリムにも、無神論者にも、そのようなラベルに関係なく、平安への道は、今、ここに、開かれています。


母が死んだのは、一年前の今日でした

早いもので、母が他界してから、今日で、ちょうど一年になります。

生きるということは、誰にとっても、それだけで精いっぱいで、瞬く間に時間は過ぎていきます。

一年前の今日の夕方、母は、病院で息を引き取ったのでした。

その経緯については、以下の記事で書き記しています。


母の死と、これからの僕


死は、誰にでも訪れるもので、それを免れられる人はいません。

記憶に新しいところでは、最近相次いで起きた、幼い子供が死んだ交通事故。

まだ幼い我が子を突然奪われた親の悲しみは、僕の想像を超えます。その喪失感はどれほどのものかと想像するだけで、胸が塞がる思いです。

そのように死は、年齢性別収入地位国籍など、一切に関係なく、不意に訪れるものです。

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13~21より


この世で豊かに生きることは素晴らしいことで、それを軽んじてはいけませんが、しかし同時に、それは永遠のものではありません。

人は誰でも、人生のいずれかのときに、世の無常を感じる経験をするのではないでしょうか。

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そして、個人差はあるにせよ、そうしたときとは、霊性に目覚めるチャンスのときであるのかもしれません。

令和初日の墓参り、令和は霊和に通じる

令和初日は、晴れていた午前中に、墓参りを済ませました。

まずは、墓石の周りの草を抜き、墓石周りを濡らしたタオルで清掃。

その後、線香をあげて、4人の家族のことを想いました。

その墓には、生まれてすぐになくなった僕の弟、僕が16歳のときに他界した僕の実母、そして、3年前に他界した父、去年亡くなった母、が眠っています。

まあ、眠っていると言っても、すでにその霊は、霊界に行っていて、そこには遺骨しかありませんが。

今、改めて思うに、僕は今、60歳。平均年齢まで生きるとしても、あと20年ほど。父と同じくらいまで生きるとしても、30年ほど。

いずれにせよ、そう長い時間が残されているわけではありません。

そう思うと、この世の憂いはほどほどにして、実在界、あるいは霊界の、視点に立って、改めて自分の人生の今後を見定めるべきであるとの思いを強くしています。

そこで昨日は、もう何年も前に読んだ本、オーエンの「ベールの彼方の生活」、を取り出して、再読を始めました。全4巻からなるこの本は、コナン・ドイルも激賞する霊界本です。


また、このブログでのコメントを通じ、スマイルサンさんから教えていただいたダスカロスの本、2冊も、4月末に入手し、読み始めています。


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ダスカロスはその生き様からして本物の覚者であり、まさに、組織宗教を打ち砕く先駆けとなった先覚者だと思います。

シルバーバーチも、繰り返し、組織宗教はすべてダメであると明言し、その理由も明確に示しているように、今後、いかなる組織宗教も、衰退の一途を辿っていくことでしょう。

この流れは、もはや止められないし、止める必要もありません。

まさに令和は、霊性の時代の幕開けです。

その意味で、令和は霊和でもあろうと、思います。

この地上から、宗教組織が無くなることが、天の願いです。

それは、公明正大な実在の世界である霊界が、宇宙法則でもある唯一の神を中心とした秩序が行き渡っている世界だからです。

その秩序を、この地上世界にも、もたらすことが、天の意志です。これは神の経綸でもあり、摂理でもあります。

宇宙法則により統治する神は、旧約聖書で描かれるような独善的偏執的な神ではありません。男でも女でもなく、宇宙意識とでも呼べるような存在です。

それは、シルバーバーチが、大霊と呼ぶ、えこひいきのない存在です。法則による支配なので、えこひいきが発生する余地はありません。

自分が蒔いた種は、自分が刈り取るのです。

誰かが十字架にかかって、その血のゆえに罪が許されることはありません。また、カルト教祖も、宇宙法則を免れることはできません。

公明正大な法則が、この全霊界、全宇宙に、張り巡らされています。

まさに、老子のいうところの、天網恢恢疎にして漏らさず、です。

だからこそ僕たちは、この宇宙法則に信頼を寄せることができるのです。

カルト教祖のエゴに苦しめられてきた僕だからこそ、シルバーバーチの説く大霊、法則を通してこの全霊界、全宇宙を支配する真実の神に出会ったときの喜びは、筆舌に尽くしがたいものがありました。

そのときから、カルト教祖のいかなる言動も、僕にとっては無力となりました。

組織宗教の寿命は、そう長くはありません。おそらく、数百年ののちには、この地上から、組織宗教はなくなっているでしょう。

組織宗教はなく、素朴な霊界知識が当たり前のように公認されている世の中に、なっているでしょう。







人類の歴史はまだ日が浅く、未熟者の集まりではありますが、少しずつ、世界はよくなっています。

3歩進んで、2歩下がっても、1歩は、前に進んでいるから。

そんなことを繰り返しながら、少しずつでもましになっていく人類。

そう、思います。


人に恐怖を植え付けるのは愛じゃない

その人は、片づけで有名になったこんまりさんにちょっと似ている女性でした。こんまりさんを、もう少し弱弱しくしたような人。

見るからに、日本神道系と言うか、巫女さんが似合いそうな人。

とてもやさしい人だったので、僕も好意的に見ていました。

ところがその彼女、だんだん顔つきが暗くなっていくのがわかりました。

そこで僕は、彼女が好きな神社に誘ってみたのです。いくつかの神社はパワースポットで有名です。

ところが、神社には行かないほうがいいと言われている、と彼女が言いだし、そこから話はおかしなほうに。


かいつまんで話すと、最近興味を持ち、勉強を始めたキリスト教の教会で出会った年上の女性に、神社に行くのはよくないと言われたとのこと。

彼女が口にしたその教会は、プロテスタント系で、そこの牧師とも僕は話をしたことがあり、礼拝にも参加したことがありました。

彼女に神社に行くな、と言った女性の名前を訊いたところ、案の定Rさんの名前が。

このRさん、いつも不満そうな顔をして、ヨハネの黙示録ばかりを強調している人だったのです。

どんな人でも、その人特有の雰囲気というモノがあります。もう少し精密に言うと、周波数、とか、波長、のようなもの。

で、そのRさん、周波数がとても雑なのです。刺々しいオーラを発散していて、上から目線。不幸な出来事にはすぐに反応するのに、他人の幸せは喜べないタイプ。

まさに、イエスの教えと真逆の人生を歩んでいるような人なのに、自分はクリスチャンだから最後の審判では救われる、と思い込んでいる人。

このRさん、家族仲も悪く、友達も少なく、経済的に豊かではなく、リアルな生活では少しも幸せではないために、ヨハネの黙示録の終末論にしがみつき、主イエスを信じれば救われるという安易なキリスト信仰に胡坐をかいて、他者を見下すという、ごく一部の 偏執的なクリスチャンに見られる性向をすべて持ち合わせていました。


このRさん、に比べて、こんまりさんに似た僕の知人女性は、いつも優しい柔らかい波動を出していて、たいがいの人に好かれる性格でした。

そうした知人女性に対する嫉妬、も、このRさんの中にはあったのだと思います。そして、自分の吐き出す言葉でうろたえるKさん(こんまりさんに似ている僕の知人女性)を見て、喜んでいるRさんの顔が容易に想像できた僕は、Kさんに次のような話をしました。


僕が見るところ、Rさんは、イエスの心の教えには興味がなく、ひたすら、ヨハネの黙示録をはじめとした、恐怖の予言のほうにしがみつき、そこに、自分の存在意義を見出しているように思える。

また、Rさんの心の中には、たえず不平不満が渦巻いており、その毒を吐き出す相手を絶えず探している。多くの仲間からは相手にされておらず、ちょうど聖書を学び始めたばかりのKさんは、彼女の格好の餌食にされた。

今Kさんにとって大切なことは、ハッキリと拒絶の姿勢を取ること。Rさんがいろいろなことを言ってきても、耳を貸さないこと。

クリスチャンの先輩は、Rさんだけではない。いや、僕が見るに、Rさんは、そもそもクリスチャンではなく、不幸の予言者、不幸の信奉者である。彼女は不幸が大好きなのだから(事実、そのような波長を出している)、好きにさせておけばよい。

だけど、Kさんが、そのRさんの波長に合わせて、不幸に落ちる必要はない。そんなことは、主イエスも、望んではいないはずだ。

そもそも、人に対し、恐怖を植え付けるのは愛じゃない。どんな聖書の理屈をこねくり回してきても、そんな言葉よりも、その人が普段、どんな態度で生きているかだ。

そこで僕は、ルカによる福音書の中の、良きサマリア人のたとえ、の話をしました。

<10:25>するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

<10:26>彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

<10:27>彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

<10:28>彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

<10:29>すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

<10:30>イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

<10:31>するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

<10:32>同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

<10:33>ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

<10:34>近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

<10:35>翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

<10:36>この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

<10:37>彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。



僕が言いたかったのは、クリスチャンであるとか、仏教徒であるとか、そんなレッテルはどうでもよい。良い波動を出し、親切な行いをするものが、イエスの隣人である、ということです。

少し説明をすると、祭司というのは、職業的宗教者なので、その必然として、自分は神の側にいると思っている人です。レビ人というのも、イスラエル十二部族の一つで、自分たちは選ばれた人間だという特権意識を持っていました。

一方、サマリア人のほうは、ユダヤ人からは異邦人と呼ばれ、蔑まれていました。

ところが、良い行いをしたのは、サマリア人のほうで、こちらのほうがイエスの隣人である、というたとえ話です。

このようにイエスは、さまざまなたとえ話を用いて、人々を教え諭しました。その点は、対機説法で、相手の機根に合わせて法を説いた仏陀と同じですね。

このサマリア人のたとえ話は、現代のクリスチャンにこそ、肝に銘じてもらいたい話だと、僕は思っています。

つまり、口先だけのクリスチャンは、イエスに、「あなたのことは知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるでしょうね。

一方、Kさんのように、いつも笑顔で優しく人に接している人は、それだけで徳がありますから、イエスに近いのです。

ヨハネの黙示録などよりも、マタイをはじめとした、共観福音書のほうが、心の糧になる教えが多いことも付け加えました。

ヨハネの黙示録などは、キリスト教初心者が下手に手を出すものではありません。おかしな、オカルトの方向に引き摺られていくのが関の山だからです。そして最も肝心な、イエスの教えのほうはおろそかにされます。

そして最後に、Kさんに、クリスチャンの中には高徳の人もいるから、そのような人と交わって、学んだほうが良い、と言い添えました。

そして、神社には、これまで通り、行っても良い、とも言いました。

たとえば、バイブルバブテストなど、厳格な聖書主義にのっとったプロテスタントでは、神社だけでなくお寺に行くことも良くない、と教えています。

まあ、プロテスタントもいろいろなので、おおらかな教会のほうがいいのでは、とも言いました。


気がつけば、今日は、イースター、つまり、復活祭。

クリスチャンにとっては、とても大切な日です。

僕は、クリスチャンではありませんが、ともに、主イエスの復活を祝いたいと思います。

ちょっとキリスト教の話になってしまいました。

まあ、たまにはいいか。

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