介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

スピリチュアルな話

知性の根源は霊界にある

今朝がた、久し振りに霊夢を見て、目が覚めました。


霊夢というのは、通常の夢とは、明らかに違うので、すぐにわかります。

霊夢の場合は、魂が霊界(実在界ともいう)に行き、そちらの世界での体験なので、単なる頭の中の雑念を整理する夢とは違うのですね。


前回、このブログで、霊夢について記したときは、死んだ母が出てきて、かなりストーリー性もあり、飛翔感もあったのですが、今回は、研ぎ澄まされた知性というか、落ち着きがある中にも、深い喜びがある霊界生活の一コマを見てきた感じでした。

僕が、睡眠を重要視する大きな理由の一つが、実はここにあります。

実は、人間というモノは、多次元的存在であり、たかだか100年足らずのこの地上生活とともに消滅してしまうものではありません。

地上での経験は、その多次元的存在の体験の一部として共有されはしますが、まあ、端的に言えば、その程度のものです。

まあ、一瞬の夢、と、言い換えてもいいかもしれません。

つまり、この地上生活そのものが、夢のようなものなのですね。

これを、荘子は、胡蝶の夢、という言い方で、上手く表現しています。

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まあ、それはいいとして、何が言いたいのかと言うと、この地上世界というのは、実にむさくるしく、閉塞感があり、不公平で、息苦しいのですが、この不自由な世界での体験が、実は、のちに、のちにというのは、死んだ後ということですが、大きな意味を持ってきます。

実在界から俯瞰すれば、この訳の分からない地上生活も、それなりの意味があることがわかります。

で、まあ、そういう話を長々とするときりがなくなるのでこの辺にして、今朝がた霊夢を見て改めて実感したのは、知性の根源は霊界にある、という生々しい感覚でした。


地上の知性、地上の科学などは、たかが知れています。

バカにして言っているのではありませんよ。まあ、それは、この地上界そのものが進化の途上にあり、そう言う位置づけにある、というに過ぎませんからね。

インターネットの普及で、だいぶ霊界に近づいている感のある地上界ですが、霊性の進化が進めば、さらに近づいていくことができると思っています。


矛盾した言葉の奥にある真実

齢60を超え、なりたい自分になりつつあるのを、感じています。

これは、聖書的に言うと、求めよさらば与えられん、を、地で行く感じ。

一方、仏教には、求不得苦、という教えがあります。

これは、求めても得られない苦しみ、のこと。

イエスも釈尊も、どちらも覚者ですが、切り口が違うと、一見、矛盾した教えのようにも見えます。

しかし、イエスの教えも釈尊の教えも、どちらも真実。

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さて、僕が、最近とみに感じるのは、今生きているこの人生は、まさに自分の求めているものだ、という実感。

つまりこれは、僕の人生そのものが、僕を導いてきた証しでもあります。

この喜び。

だからこそ僕は、過去にかかわりのあった統一協会も幸福の科学も、その誤りを明確に理路整然とわかりながらも、そこを通るべくして通ったのだという必然性もまた、理解できるのです。

で、僕は、僕の人生を慈しむがゆえに、その通ってきた道をも、慈しみの目で見ることができるのです。

その道を通らなければ、今の僕という存在にまで導かれることはなかったからです。

今の僕という存在が、幸福そのものである理由の一つが、その道、その道程に、あるからなのです。


その道のりがあって初めて、一見矛盾するイエスや釈尊の教えの奥にある真実が見えるのです。


ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ。」



クリスチャンにも仏教徒にも、ムスリムにも、無神論者にも、そのようなラベルに関係なく、平安への道は、今、ここに、開かれています。


母が死んだのは、一年前の今日でした

早いもので、母が他界してから、今日で、ちょうど一年になります。

生きるということは、誰にとっても、それだけで精いっぱいで、瞬く間に時間は過ぎていきます。

一年前の今日の夕方、母は、病院で息を引き取ったのでした。

その経緯については、以下の記事で書き記しています。


母の死と、これからの僕


死は、誰にでも訪れるもので、それを免れられる人はいません。

記憶に新しいところでは、最近相次いで起きた、幼い子供が死んだ交通事故。

まだ幼い我が子を突然奪われた親の悲しみは、僕の想像を超えます。その喪失感はどれほどのものかと想像するだけで、胸が塞がる思いです。

そのように死は、年齢性別収入地位国籍など、一切に関係なく、不意に訪れるものです。

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13~21より


この世で豊かに生きることは素晴らしいことで、それを軽んじてはいけませんが、しかし同時に、それは永遠のものではありません。

人は誰でも、人生のいずれかのときに、世の無常を感じる経験をするのではないでしょうか。

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そして、個人差はあるにせよ、そうしたときとは、霊性に目覚めるチャンスのときであるのかもしれません。

令和初日の墓参り、令和は霊和に通じる

令和初日は、晴れていた午前中に、墓参りを済ませました。

まずは、墓石の周りの草を抜き、墓石周りを濡らしたタオルで清掃。

その後、線香をあげて、4人の家族のことを想いました。

その墓には、生まれてすぐになくなった僕の弟、僕が16歳のときに他界した僕の実母、そして、3年前に他界した父、去年亡くなった母、が眠っています。

まあ、眠っていると言っても、すでにその霊は、霊界に行っていて、そこには遺骨しかありませんが。

今、改めて思うに、僕は今、60歳。平均年齢まで生きるとしても、あと20年ほど。父と同じくらいまで生きるとしても、30年ほど。

いずれにせよ、そう長い時間が残されているわけではありません。

そう思うと、この世の憂いはほどほどにして、実在界、あるいは霊界の、視点に立って、改めて自分の人生の今後を見定めるべきであるとの思いを強くしています。

そこで昨日は、もう何年も前に読んだ本、オーエンの「ベールの彼方の生活」、を取り出して、再読を始めました。全4巻からなるこの本は、コナン・ドイルも激賞する霊界本です。


また、このブログでのコメントを通じ、スマイルサンさんから教えていただいたダスカロスの本、2冊も、4月末に入手し、読み始めています。


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ダスカロスはその生き様からして本物の覚者であり、まさに、組織宗教を打ち砕く先駆けとなった先覚者だと思います。

シルバーバーチも、繰り返し、組織宗教はすべてダメであると明言し、その理由も明確に示しているように、今後、いかなる組織宗教も、衰退の一途を辿っていくことでしょう。

この流れは、もはや止められないし、止める必要もありません。

まさに令和は、霊性の時代の幕開けです。

その意味で、令和は霊和でもあろうと、思います。

この地上から、宗教組織が無くなることが、天の願いです。

それは、公明正大な実在の世界である霊界が、宇宙法則でもある唯一の神を中心とした秩序が行き渡っている世界だからです。

その秩序を、この地上世界にも、もたらすことが、天の意志です。これは神の経綸でもあり、摂理でもあります。

宇宙法則により統治する神は、旧約聖書で描かれるような独善的偏執的な神ではありません。男でも女でもなく、宇宙意識とでも呼べるような存在です。

それは、シルバーバーチが、大霊と呼ぶ、えこひいきのない存在です。法則による支配なので、えこひいきが発生する余地はありません。

自分が蒔いた種は、自分が刈り取るのです。

誰かが十字架にかかって、その血のゆえに罪が許されることはありません。また、カルト教祖も、宇宙法則を免れることはできません。

公明正大な法則が、この全霊界、全宇宙に、張り巡らされています。

まさに、老子のいうところの、天網恢恢疎にして漏らさず、です。

だからこそ僕たちは、この宇宙法則に信頼を寄せることができるのです。

カルト教祖のエゴに苦しめられてきた僕だからこそ、シルバーバーチの説く大霊、法則を通してこの全霊界、全宇宙を支配する真実の神に出会ったときの喜びは、筆舌に尽くしがたいものがありました。

そのときから、カルト教祖のいかなる言動も、僕にとっては無力となりました。

組織宗教の寿命は、そう長くはありません。おそらく、数百年ののちには、この地上から、組織宗教はなくなっているでしょう。

組織宗教はなく、素朴な霊界知識が当たり前のように公認されている世の中に、なっているでしょう。







人類の歴史はまだ日が浅く、未熟者の集まりではありますが、少しずつ、世界はよくなっています。

3歩進んで、2歩下がっても、1歩は、前に進んでいるから。

そんなことを繰り返しながら、少しずつでもましになっていく人類。

そう、思います。


人に恐怖を植え付けるのは愛じゃない

その人は、片づけで有名になったこんまりさんにちょっと似ている女性でした。こんまりさんを、もう少し弱弱しくしたような人。

見るからに、日本神道系と言うか、巫女さんが似合いそうな人。

とてもやさしい人だったので、僕も好意的に見ていました。

ところがその彼女、だんだん顔つきが暗くなっていくのがわかりました。

そこで僕は、彼女が好きな神社に誘ってみたのです。いくつかの神社はパワースポットで有名です。

ところが、神社には行かないほうがいいと言われている、と彼女が言いだし、そこから話はおかしなほうに。


かいつまんで話すと、最近興味を持ち、勉強を始めたキリスト教の教会で出会った年上の女性に、神社に行くのはよくないと言われたとのこと。

彼女が口にしたその教会は、プロテスタント系で、そこの牧師とも僕は話をしたことがあり、礼拝にも参加したことがありました。

彼女に神社に行くな、と言った女性の名前を訊いたところ、案の定Rさんの名前が。

このRさん、いつも不満そうな顔をして、ヨハネの黙示録ばかりを強調している人だったのです。

どんな人でも、その人特有の雰囲気というモノがあります。もう少し精密に言うと、周波数、とか、波長、のようなもの。

で、そのRさん、周波数がとても雑なのです。刺々しいオーラを発散していて、上から目線。不幸な出来事にはすぐに反応するのに、他人の幸せは喜べないタイプ。

まさに、イエスの教えと真逆の人生を歩んでいるような人なのに、自分はクリスチャンだから最後の審判では救われる、と思い込んでいる人。

このRさん、家族仲も悪く、友達も少なく、経済的に豊かではなく、リアルな生活では少しも幸せではないために、ヨハネの黙示録の終末論にしがみつき、主イエスを信じれば救われるという安易なキリスト信仰に胡坐をかいて、他者を見下すという、ごく一部の 偏執的なクリスチャンに見られる性向をすべて持ち合わせていました。


このRさん、に比べて、こんまりさんに似た僕の知人女性は、いつも優しい柔らかい波動を出していて、たいがいの人に好かれる性格でした。

そうした知人女性に対する嫉妬、も、このRさんの中にはあったのだと思います。そして、自分の吐き出す言葉でうろたえるKさん(こんまりさんに似ている僕の知人女性)を見て、喜んでいるRさんの顔が容易に想像できた僕は、Kさんに次のような話をしました。


僕が見るところ、Rさんは、イエスの心の教えには興味がなく、ひたすら、ヨハネの黙示録をはじめとした、恐怖の予言のほうにしがみつき、そこに、自分の存在意義を見出しているように思える。

また、Rさんの心の中には、たえず不平不満が渦巻いており、その毒を吐き出す相手を絶えず探している。多くの仲間からは相手にされておらず、ちょうど聖書を学び始めたばかりのKさんは、彼女の格好の餌食にされた。

今Kさんにとって大切なことは、ハッキリと拒絶の姿勢を取ること。Rさんがいろいろなことを言ってきても、耳を貸さないこと。

クリスチャンの先輩は、Rさんだけではない。いや、僕が見るに、Rさんは、そもそもクリスチャンではなく、不幸の予言者、不幸の信奉者である。彼女は不幸が大好きなのだから(事実、そのような波長を出している)、好きにさせておけばよい。

だけど、Kさんが、そのRさんの波長に合わせて、不幸に落ちる必要はない。そんなことは、主イエスも、望んではいないはずだ。

そもそも、人に対し、恐怖を植え付けるのは愛じゃない。どんな聖書の理屈をこねくり回してきても、そんな言葉よりも、その人が普段、どんな態度で生きているかだ。

そこで僕は、ルカによる福音書の中の、良きサマリア人のたとえ、の話をしました。

<10:25>するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

<10:26>彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

<10:27>彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

<10:28>彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

<10:29>すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

<10:30>イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

<10:31>するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

<10:32>同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

<10:33>ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

<10:34>近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

<10:35>翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

<10:36>この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

<10:37>彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。



僕が言いたかったのは、クリスチャンであるとか、仏教徒であるとか、そんなレッテルはどうでもよい。良い波動を出し、親切な行いをするものが、イエスの隣人である、ということです。

少し説明をすると、祭司というのは、職業的宗教者なので、その必然として、自分は神の側にいると思っている人です。レビ人というのも、イスラエル十二部族の一つで、自分たちは選ばれた人間だという特権意識を持っていました。

一方、サマリア人のほうは、ユダヤ人からは異邦人と呼ばれ、蔑まれていました。

ところが、良い行いをしたのは、サマリア人のほうで、こちらのほうがイエスの隣人である、というたとえ話です。

このようにイエスは、さまざまなたとえ話を用いて、人々を教え諭しました。その点は、対機説法で、相手の機根に合わせて法を説いた仏陀と同じですね。

このサマリア人のたとえ話は、現代のクリスチャンにこそ、肝に銘じてもらいたい話だと、僕は思っています。

つまり、口先だけのクリスチャンは、イエスに、「あなたのことは知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるでしょうね。

一方、Kさんのように、いつも笑顔で優しく人に接している人は、それだけで徳がありますから、イエスに近いのです。

ヨハネの黙示録などよりも、マタイをはじめとした、共観福音書のほうが、心の糧になる教えが多いことも付け加えました。

ヨハネの黙示録などは、キリスト教初心者が下手に手を出すものではありません。おかしな、オカルトの方向に引き摺られていくのが関の山だからです。そして最も肝心な、イエスの教えのほうはおろそかにされます。

そして最後に、Kさんに、クリスチャンの中には高徳の人もいるから、そのような人と交わって、学んだほうが良い、と言い添えました。

そして、神社には、これまで通り、行っても良い、とも言いました。

たとえば、バイブルバブテストなど、厳格な聖書主義にのっとったプロテスタントでは、神社だけでなくお寺に行くことも良くない、と教えています。

まあ、プロテスタントもいろいろなので、おおらかな教会のほうがいいのでは、とも言いました。


気がつけば、今日は、イースター、つまり、復活祭。

クリスチャンにとっては、とても大切な日です。

僕は、クリスチャンではありませんが、ともに、主イエスの復活を祝いたいと思います。

ちょっとキリスト教の話になってしまいました。

まあ、たまにはいいか。

最低限これだけをおさえておけば、生きるのがかなり楽になります

一昨日、昨日と、スピリチュアルな話をしてきましたが、多くの人が求めているのは、救いだと思います。

ところが、巷にあふれているのは、救いを表看板にした強欲な宗教屋が多い現実があります。彼らは宗教屋であって、宗教家ではありません。

はじめは宗教家であったのかもしれませんが、だんだん自分が偉いと思うようになり、実際に教団内で神様扱いされるうちに、ますます自己洗脳に拍車がかかり、次第に裸の王様のようになっていきます。

自分に対し意見をしてくる者は排除し、場合によっては、悪魔認定して、遠ざけるだけでなく、偏執的なまでに袋叩きにします。歯止めの効かないエゴが暴走を始めても、教祖である彼を、誰も止められません。下手に進言などしたら、今度は自分に矛先が向かってくることがわかるため、次第に、教祖の機嫌をとるようになっていきます。

こうなってくると、ますます教祖の側近にいるのはイエスマンばかりとなり、あるいは、その側近は女性ばかりが増え、本当に信仰心の熱い情熱ある職員は苦しい選択を迫られます。自分を犠牲にして真実を言うか、口を噤んで保身に走るか、です。

もとより、教祖を妄信している能天気な職員には、そのような葛藤は生じません。教祖の言うことがすべて正しいと妄信しているので、葛藤など起こりようがないのです。それはある意味、この上なく楽なのです。

ただ、どのレベルで疑問を覚え、葛藤が始まるかは個人差があるので、何とも言えませんが、さすがに教祖が明らかに反社会的な行動を指示するようになったら、大半の職員はおかしいと思うのではないでしょうか。

しかし、オウム真理教の例もあり、日本のみならず、世界を見渡せば、破壊的カルトというのは、現に存在していますから、妄信者ほど恐ろしいものはありません。しかも、本人は、正しいことをしていると、信じ切っているのですから、もはやつける薬はないというべきでしょう。

さて、こうした話をしているときりがないので、結論を言うと、いかなる宗教組織にも、本当の意味であなたを救済する力はない、というのが、僕の意見です。

あなたを救済するのは、宗教組織ではありません。

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。

もともと仏陀とは、目覚めた人、という意味ですからね。

仏陀になる、と思う必要はありません。

少しだけ目が開けばいい、のですから。

それだけで、かなり、楽になります。

お布施も献金も要りません。

お布施や献金の向かう先はどこですか。

あなたの所属する宗教組織です。

その宗教組織は、清らかですか。穢れてはいませんか。詭弁を弄して、あの手この手であなたからお金を取ろうとしていませんか。

仏教には、三輪清浄という教えがあります。

これは、「布施というのは、施者・受者・施物の三輪(さんりん)が清浄(しょうじょう)であり、空寂となっていなければならない」

ということです。

つまり、受者、この場合は教祖、あるいは、その宗教団体、になりますが、これが穢れた存在であってはいけないのです。

そもそも、お布施で生活する人には、一般の人以上に、倫理観を求められるのは当然でしょう。その受者が、言動をころころ変えたり、すべてを人のせいにして独善的な立場に固執するとしたら、清浄どころの話ではありません。普通の人、凡人以下です。

僕が知る限り、あらゆるカルト宗教の教祖は頭がいいです。無駄に頭がいい、と言っておきましょう。

しかし、本当の意味での知恵はありません。なぜなら、因果の理法はくらませないからです。因果の理法、わかりやすく言えば、原因と結果の法則、です。

たかだか数十年のこの世の偽りの栄光のために、最も大切なものを失うからです。イエスも、「全世界をもうけても、あなた自身を失うとしたら、何の益があろう」と言っているように、カルト教祖の来世は、憐れなものにならざるを得ません。

しかし、ひとたび教祖という特権的な立場を手に入れてしまうと、その神の座は手放しがたいのでしょう。

ただ、これだけは言っておきます。

あなたを神とあがめているのは、一部の取り巻きとその信者だけですよ、と。その狭い世界で猿山の猿になっているだけですよ、と。

世間を舐めてはいけません。

この世間の中にこそ、実は知恵ある者、質実に生きながら真面目に暮らしている多くの善男善女がいるのです。教祖であるあなたは、彼らを救済すべき憐れなる者と見下しているかもしれません。

しかしあなたが本当に悟っているならば、人を見下すことは絶対にありません。なぜなら、すべての人に仏性が宿っていることがわかるからです。

相手の仏性が見える人間は、相手を尊重するようになります。決して、見下すような態度にはなりません。

宗教的指導者の役割は、相手がその仏性に気づくように手伝うことだけです。それ以外にやるべきことはありません。

まかり間違っても、自分を拝ませたり、自分の像を作って、それを売りつけることではありません。また、信者同士の自己顕示欲を刺激して、お布施や献金の額を競わせることでもありません。

あなたが真に神であるならば、存在するだけで感化力があるはずです。

あなたの周りに立ち現れる現象は、決して魔が競い立っているのではなく、あなたの言動が招いた因果応報の結果です。

少し、教祖に対する問いかけから離れましょう。

どのカルト宗教の教祖も、もはや救いようのないほどエゴ性が強いので(だからこそ教祖になれたのかもしれませんが)、彼らには、いかなる問いかけも徒労に終わるのですが、今日はあえて、試みてみました。

さて、我のかたまりの、エゴの権化たる教祖は放っておいて、大切なことは、苦しんでいる人が楽になる方法です。

それは、真実の霊的知識を得ること、です。

たとえば、シルバーバーチの霊訓などは、僕が最も信頼を寄せているものです。他には、アラン・カルデックやモーゼスなどがいますが、そうした外部チェックが厳しい中を潜り抜けてきた霊訓には、共通した真実性があります。

ここで言う外部チェックとは、その霊の発言の正邪を判断する審神者のようなものです。

シルバーバーチの霊訓などは、毒舌と率直で辛辣な批評家であり、当時もっとも懐疑的だったジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが、これでもかと吟味した後に本物であるとして自らホームサークルを主宰して自宅で降霊会を開き、その人脈を生かして、各界の著名人を招待したほどです。

そして招待された人たちは、最初は懐疑的だった人も、シルバーバーチの説く霊的真理の一貫性や、その誠実さ、謙虚さに感化を受け、死後の生活に確信を持つに至りました。

ただ、漠然と神を信じるよりも、真実の霊的知識に基づいた実感を伴った信仰のほうが盤石であることは言うまでもありません。

このことは、イエスも、

「『そこで,わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆,岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲っても,倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆,砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家に襲いかかると,倒れて,その倒れ方がひどかった。』
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると,群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく,権威ある者としてお教えになったからである。」

と、マタイによる福音書の中で、述べています。

確かに宗教組織も、悟りに至る一つの段階として機能する場合もあり得ます。ですから、もしあなたが、どこかの団体に所属していて、その信仰で満足しているのならば、その信仰を続けるのも良いでしょう。

ただ、いずれ、その団体に嫌気がさしたり、活動がきついと思ったり、矛盾を感じたりして、その組織を離れようとしたときに、その組織はあなたを、離れたらサタンの側につくことになるとか言って、いろいろな形で暗に離れないように仕向けるかもしれません。

事実、サタンという名前ほど、さまざまな宗教組織の支配者にとって、便利な言葉はありません。

しかし、シルバーバーチの霊訓をはじめとした真実の霊的知識を得ることで、彼らの脅しは、何の効力もなくなる、のです。

さて、先ほど僕は、

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。」

と言いました。

スピリチュアリズム普及会、というのがあり、これは宗教団体でもなく、自発的なサークルだと思いますが(僕自身も、このグループの誰とも面識はありません)、まったくの善意で(これこそがシルバーバーチの教えにかなうことだからでしょうが)、押さえるべき基本的な霊的知識のすべてを無料公開しています。

紙の媒体、すなわち本が欲しければ買うこともできますし、訳の分からないものにお金を使いたくないと思えば、無料で、そのサイトで公開されている霊的知識を自分のペースで学んでいけば良いのではないかと思います。

特に初心者におすすめなのは、500に及ぶあの世からの現地報告、ではないかと思います。

僕も去年、母を亡くしましたが、身内の方を失った方や、死んだ後の生活がリアルな形で知りたい人には、うってつけの本ではないか、と思います。

死は永遠の別れではない、とわかれば、とても気持ちが楽になりますからね。

勿論、巷の既成宗教やカルト宗教でも、死後の世界を教えていますが、でたらめなものが多かったり、教祖の独善的な解釈であったりします。さらに、その教えの対価としてお金を要求してきます。

特にカルト宗教は、美辞麗句で飾りながら、その本質はどこまで行っても金・金・金、なのです。

一方、宗教組織ではないサークルは、自発的に行っているもので、営利団体ではありません。

聖書にも、『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』(マタイ10:8)とあるように、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバーチが、幾多の困難を乗り越えて、無償で届けた宝物です。

ですから、この種のサークルは、非営利団体であるべきなのです。

彼らは、神の道具としての役割に霊的な喜びを感じて行っているだけで、見返りなどは求めません。あなたが気づき、幸せになってくれれば、それで良しとしています。

しかも直接にはかかわらないので、あなたが喜ぶ姿すら知りません。まあ、存在の愛、に近いかもしれません。

では、そのスピリチュアリズム普及会のURLを貼り付けておきます。

www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

勿論、スピリチュアリズム普及会、で、検索しても上位表示されるので、そこから覗いてみても良いでしょう。

気が向いたときに学び、日々の生活の糧にしていただければ、と思います。


僕がこれまで、あえてスピリチュアルな話をしてこなかった理由

スピリチュアルな話というのは、いくらでもネタがあるし、それこそ、自分のライフワークでもありましたから、話すことは山ほどあります。

しかし、そうした専門サイトでも立ち上げるならば、それも良いのかもしれませんが、親の介護をきっかけとして始めたこのブログで、話すべきでもないだろう、というのが一つの理由。

もう一つは、そうした話をすると、自分が悟った人間だと錯覚してしまうのです。

僕は、ただの凡夫であり、凡人であり、だからこそ、日々、微々たる歩みを進めているわけです。

そのような平凡極まりない人間が、下手にスピリチュアルな話をすると、どんなに戒めていても、次第に慢心してくるのですよ。

こんないい話ができる俺はなかなかのものではないか、とか、悟りをひらいているのではないか、とか。

これは、仏教が教える六大煩悩、貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の一つ、慢に落ち入ることになります。

多くの宗教家が、当初は純粋で、求道心に溢れていても、次第に慢心してくる姿を、たくさん見てきているので、六大煩悩の中でも、この慢、すなわち、慢心ですね、これは、常に注意していないといけません。

ましてや僕のような未熟な人間は、偉そうなことは言ってはいけないのです。

仮に、言わざるを得ずに言うにしても、余程慎重に、発言しなければいけないと思っています。これが、第二の理由。

そしてもう一つは、スピリチュアルな話が好きな人の中には、議論好きな人がいて、自分のことは棚に上げて上から目線で論戦をしたがる人が、引き寄せられるてくる可能性があるからです。

このようなタイプの人は、不幸感覚が強く、実生活では相手にされていないことが多いのが特徴です。自分が不幸であることのルサンチマンを晴らすために、スピリチュアルな世界にのめり込んでいる人です。

このようなタイプは、仏教系にもキリスト教系にもいます。とにかく、自分の信じる教えにのみ執着し、その基盤の上でしか物事を考えられないのです。

たとえば、聖書を絶対視し、その聖書に書かれていることを根拠に持論を展開します。その自分の見解への執着は甚だしいもので、その見解で他人を裁きます。イエスは「人を裁くな」と教えているのですが。

自分の見解への執着が如何に恐ろしいかをあらわすいい例として、こんな話があります。

キリストの再臨についての話で、キリストが再臨する時期には、キリスト教内でも複数の考え方があり、その時期をめぐって論争した牧師同士が殺し合いになったという事件がアメリカでありました。

キリスト教を信じていないものから見れば、バカらしいくらい、どうでもいいことです。

でも、当人同士は大まじめで論争していたと言います。

お金への執着、物質への執着、というのは、わかりやすいのですが、この、自分の見解への執着、というのは、ある意味、物欲以上に根が深いと言えます。

もうずいぶんの昔になりますが、連合赤軍によるリンチ殺人事件というのがありましたが、互いに相手をブルジョア的であると、非難して殺し合いました。

ことほど左様に、宗教や思想というモノが絡むと、普段はおとなしい人でも、人が変わったようになる場合があります。

この、自分の見解への執着は、僕も含めて誰にでも起こり得るので、ああ今、自分はこの考えにこだわっているな、と思ったら、一呼吸おいて、距離を取って観察する必要があります。

そのような観察者になると、心に平安が訪れます。

誰に訊く必要もありません。自分の心が平安を感じるものが、より神に近い、神という言葉に抵抗があれば、本質に近いのだと思います。

これまで言及してきたように、宗教的信条という自分の見解に執着した場合、傍から見たら馬鹿らしいとしか思えない、事件が起こったりします。

仏教系でも、たとえば、日蓮系では、どっちの本尊が正当だとか、論争していますが、部外者から見たら、どうでもいい話ですね。

キリスト教系然り、仏教系然り、イスラム教系然り、で、これにカルト宗教なども絡んできたら、百花繚乱ならぬ、魑魅魍魎の世界が展開します。

ということで、僕がこれまでスピリチュアルな話をしてこなかったのは、以上3つの理由からですが、これからは、ときどき、自分がいい気にならないように注意しながら、スピリチュアルな話も、たまにはしていくかもしれませんが、そうした話が嫌いな人は、無視していただければと思います。

でも、あんまりスピリチュアルな話ばかりしていたら、チコちゃんに、叱られるかもしれませんね。

「いい気になってんじゃねーよ」とね。


閲覧注意、ちょっとスピリチュアルな話なので(しかも話が長いので)

僕のブログは、当初は介護生活を中心にその記録を残そうと始めたものです。

その後、在宅介護していた父が老衰でなくなり、さらに去年母もなくなったことで、今は介護はしておらず、そのため、介護ブログではなくなっています。

今は、介護離職後のローコスト生活について、主に書いていますが、ときどき、スピリチュアルなことも話します。

それは僕が、そちら系の探求を長年続けてきたためで、どうしても多少は、そうした話もしてしまいます。

で、今日は、ちょっと少し掘り下げて話しますので、こういう種類の話が好きではない人は、このあたりで読むのをやめておいたほうがいいかもしれません。

では、本題に入ります。

僕は、これまで何度も話しているように、少ない預貯金、と、少々の株、がありますが、その総計を足しても、わずかな資産です。

で、今は、アルバイトをしています。

一般的に言って、経済的には豊かではありません。住宅ローンも抱えています。

しかし、別に、困ってもいないし、実は、幸せです。

前記事で、少しアイデンティティの話をしましたが、僕は、この地上世界に、アイデンティティを置いていません。

だから、楽なのです。

言ってしまえば、それだけのことです。

大半の人は、財産、家や土地、車、宝石、あるいは、容姿、地位、などに、アイデンティティを置いています。

たとえば、容姿。

僕は、頭が禿げかかっています。僕が容姿にアイデンティティを置いていたら、禿げることは苦しみです。僕は、そういうところにアイデンティティを置いていないので、そういうことは苦しみにはなりません。

しかし、先日のように、腰が痛いとか、実際に体の痛みが発生すれば、当然それに対しては、苦しみを感じます。

そういう苦しみは感じますが、そうした身体的な病とか怪我による傷とか、あるいはお金がなくて支払いに困るとか、そうした際には苦しみは感じますが、自分にできる対応をして、あとは天に任せます。

天のところを、神、と変えても良いです。

ただ、神、という言葉は、あまりにも誤解を受け、人によって、これほど違うとられ方をする言葉も珍しいほどなので、滅多には使いません。

仏陀は、諸行無常を説きました。

すなわち、常なるものはない、一切は変化する、と。

また、諸法無我を説きました。

あらゆる事物には実体がない、と。

で、この諸行無常と諸法無我を悟ることにより、涅槃寂静の境地に至る、というのが、本来の仏教です。

この、涅槃寂静の境地に、かなり近いところにいると思えるのが、白隠禅師です。

少し長くなりますが、白隠禅師の話に入ります。

日本のある町に白隠という禅の老師が住んでいた。彼は人々の尊敬を集めており、大勢の人が彼の教えを聞きに集まってきていた。
あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠した。怒り狂った両親に、子どもの父親は誰だと問い詰められた娘は、とうとう白隠禅師だと答えた。 両親は激怒して白隠のもとに怒鳴り込み、
「娘は白状したぞ、お前が父親だそうだな」、となじった。
白隠は、「ほう、そうか?」と答えただけだった。

噂は町中どころか近隣の地域にまで広がった。
禅師の評判は地に落ちた。だが禅師は意に介さなかった。
誰も説法を聞きに来なくなった。だが禅師は落ち着き払っていた。

赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとへ連れてきた。
「お前が父親なんだから、お前が面倒を見るがいい」。
禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をした。

一年経ち、慙愧に耐えられなくなった娘が両親に、実は赤ん坊の父親は近所で働く若者だと白状した。両親はあわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申し訳なかったと詫びた。
「ほんとうにすまないことをしました。赤ん坊を引き取らせてもらいます。娘が、父親はあなたではないと白状しましたんで」。
「ほう、そうか?」。
禅師はそう言って、赤ん坊を返した。

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。彼は、良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉えない。 
彼は誰の被害者でもない。

彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするから、その出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。

赤ん坊は慈しまれ、世話をされた。
抵抗しないという力のおかげで、悪い出来事が良い結果になった。
つねにいまという瞬間に求められたことをする禅師は、時が来たら赤ん坊を手放したのだ。


上記の、白隠禅師の逸話は、エックハルト・トールの「ニューアース」からの引用です。

果たして今現在生きている宗教家で、白隠禅師のような対応ができる人はいるでしょうか。

世界には、仏陀の生まれ変わりを自称する者がかなりいるそうです。キリストの生まれ変わりを自称する者は、数がさらに多いそうです。

あるいは、また、そこまでの自惚れはないにせよ、教団を持ち指導している宗教者も世間には数多くいます。

しかし、彼らを見ると、その多くが、執着のかたまりです。むしろ、世間一般の凡夫よりも欲が深く、業が深いように、僕の目には見えます。

シルバーバーチの霊訓に、以下のような記述があります。

その昔イエスは「地上を旅する者であれ。地上の住民となる勿れ」と言いました。が、地上人類はその意味が理解できないために、言い変えれば、死後の存続に磐石の信念が持てないために、摂理が成就されないのです。例えば金持ちをうらやみ、彼らには悩みがないかに思いがちです。悩みというものが相対的なものであることに気がつかないのです。大霊の摂理は金銭でごまかすことはできません。

あなた方は個性の強化のために地上界へ来ているのです。その強化は日々の難問にどう対処するかによって決まります。その時に忘れてならないのは地上界で生じる難問には人間の魂に内在する霊力で克服できないものはないということです。いかなる難題も所詮は地上界での出来事であり、物的波動のレベルです。それに引き換えてあなた方は神の一部であり、神性を宿しているからです。

安らぎはただ一つ、大霊と一体になった者に訪れる安らぎです。大霊のリズムで鼓動し、大霊の意志のままに行動し、魂と精神が大霊と一つになっている者にのみ訪れます。そういう時は大霊の摂理と調和しているのです。それ以外に安らぎは得られません。

この私にできることは、その摂理がどうなっているかをお教えすることだけです。イエスは二千年も前に天国は自分の中にあると言いました。外部のどこかにあるのではないのです。ましてや混とんとした物質界には存在しません。魂の内部に見出されるのです。

シルバーバーチのことを知らない人も多いと思いますが、3000年ほど前に地上に生きていたことは述べていますが、誰に訊かれても、最後まで、その名を明かしませんでした。現在は非常に高い霊界にいるため、霊界側に一人霊媒(この霊媒がレッドインディアンだった)を立て、さらに地上の霊媒、バーバネルの口を通して語るというツイン霊媒で、メッセージを送る方法をとらざるを得ませんでした。

トマス福音書には、イエスの言葉として、「通り過ぎるものでありなさい」という言葉が残っています。

で、話を整理すると、仏陀の説く、諸行無常、諸法無我も、イエスの説く、「通り過ぎるものでありなさい」も、ともに、この地上にアイデンティティを置いていないのです。

僕たちの本籍は、プラトンがイデアと呼んだ、実在の世界、にあります。

簡単に言うと、僕たちは、実在の世界(霊界と呼んでも良い)から、この地上に出てきて、経験を積んでいるというか、まあ、旅をしているようなものなのですね。

だから僕たちは、一人の例外もなく、すべてが旅人です。

どこに行かなくても、
家に引きこもっていても、実は、旅人なのです。

とまあ、かなり長くなったので、今日はここまで。


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