介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

60男の内省

旅せよ乙女、旅行も年を取ってからだとつらくなる



最近は、自分であまり遠出ができないので、

他人様のブログの、旅の様子などを見て、

疑似体験しております。


僕も若い頃は、貧乏旅行をずいぶんしてきましたが、

その楽しかった感覚は、今も色あせぬまま残っています。


昔を懐かしがり過ぎるのも、年を取ってきた証拠。

ただ、改めて思うに、

旅をたくさんして、良かった、と。

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そうした思い出があるとないとでは、

ずいぶん違います。


旅のように動き回るのもよし、

ソロキャンプもよし、

移住もよし。


何でも、

やりたいことはどんどんやっておかないと、

動ける時代などは簡単に過ぎ去ってしまいます。


人間なんて、

いつ死ぬかわかりませんから、

やりたいことは後回しにしないほうがいいよね、



という、話でした。


 

スマホをなくして頭が真っ白に



僕は必ずしも、スマホ依存度は高くありません。

このブログもパソコンで書いていますし、

ネットサーフィンもパソコン。

在宅時間が長いので、パソコンの使用頻度が高く、

スマホはサブ的な使用。

そんな僕でも、

いざスマホがなくなってみると、慌てました。 

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昨日も、一昨日に続き農村公園へ。

ただ、昨日は、Iさんと、待ち合わせ。

木陰を選び、ベンチに座って対話。

時が過ぎ、そこが木陰でなくなると、別のベンチに。

つまり、僕が腰を下ろしたベンチは二カ所。

公園内で歩いた距離も、わずかなもの。


夕方、Iさんと別れ、帰宅した時に、

スマホがないことに気づき、気が動転。

家を出るとき、ボディバッグに財布を入れ、

外側にあるポケットにスマホを入れた記憶があるのに、

肝心のスマホがない。


急いで車に戻り、車内を探すも無し。

ベンチに置きっぱなしにしてきたのか、

それとも、歩いているときに芝生の上に落としたのか、

考えが巡るなか、急いで車を走らせました。

落ち着けと自分に言いつつも、

いつもよりも車を飛ばしている自分がいました。


薄く闇が広がりつつある農村公園に到着。

急ぎ足でベンチへ。

少し前までそこに腰掛けていた二つのベンチの上には、

スマホは見当たらず。

その場所でスマホを見つけた人がいたとしたら、

管理事務所に届けているかも、と思い、

行くも、事務所は閉まっていて誰もおらず。


再びベンチに戻り、ベンチ周りの芝生、

自分が歩いたあたりを探すも、見つからず。

芝生の上に落としたとしたら、音もしないよな、と思い、

なおもしつこく芝生の上を探し回る。

されど、ないものはなし。

諦めて、車に戻りました。


帰るしかない、と思い、

しかしなおも、立ち去りがたく、

隣に停まっていたワゴン車の男性に声をかけました。

スマホをなくしたことを話し、

こういう場合、どうしたらいいんでしょうねえ、と。

するとその年配の男性が車から降りてきて、

一緒に芝生に行って、電話してみましょうか、と。

なるほど、そうすれば着信音がなって、在処がわかるかも、

と思った僕に、一筋の希望。

そして二人して、芝生のほうに歩き始めた時に、

軽トラックがやってきて、ちょうど僕たちの前に停まりました。


結論から言うと、そのときにスマホと再会。

軽トラックを乗っていた人が、ここの管理人で、

今交番に行ったのだが、誰もいなかった、とのこと。

つまり、見つけたスマホを交番に届けに行ったそうなのです。

でも、誰もおらず、家に戻り息子と話し、

もしかしたらスマホを落とした人が探しに来ているかもと思って、

来てみた、とのことでした。


僕は、二人に何度もお礼の言葉を述べて、帰宅。

スマホの取り扱いには注意が必要だと肝に銘じるとともに、

自分の生活を見直す契機ともなりました。



モノを持たない幸福



親の介護も終え、天涯孤独者となった自分は、

更なる内省に入るにつれて、

モノを持たない幸福について考えるようになりました。


必要なものだけがあればいい、と。

モノの中には、情報も、入ります。

ビデオデッキの中には、撮り貯めてある番組が数多くありますが、

これ、全部見なきゃなんないのか、と思っただけで疲れます。

映画やドラマでさえ、消去の対象。

話題作、ということで撮りはしたものの、放置状態。

長らく放置してあるものは、今後も見ないのだから消去。

そして、もう、心が動かないものは撮らないこと。


で、家具なども相当処分し、

さらには今後のことを考えて、軽量化を図ったり、

自分なりに、住みやすくしてきました。


今後、よほどのことがない限り家具を買うことはないでしょうが、

家具を見るのは好きで、数日前も大川家具へ。

素敵な家具を見ると、ワクワクするのですよ。


今後、家具を買うとしたら、入れ替えですね。

つまり、買い増すのではなくて、入れ替え。

たとえば、ソファを入れ替える、とか。

家具は、良いものを、長く使いたいのです。

ただ、今使っている家具は、必ずしも良いものばかりではないので、

いずれ、今より余裕ができたら、

そうした家具を、より良いものに買い替えたい気持ちはあります。

でも、買い増して、空間が狭くなるのは嫌なのです。


情報も、ろくでもない情報なら知らないほうがいい。

自分の頭に、ガラクタを詰め込みたくはない。

つまらない情報に触れるくらいならば、

野山を歩いているほうが良い。


人間が生きるのに、そんなに難しい情報は要らなくね、と。

情報もモノだと考えれば、雑多な情報はゴミ屋敷と一緒。


モノを持たない幸福は、スッキリとした暮らし。

良いものと、良い情報と、良い人間関係に、囲まれた生活。

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モノを持たない幸福は、

言い換えれば、

良いもの、良い情報、良い人間関係の生活。 

そして、そうしたものは、少ないのが常。


少なくていいのです。

少なくて十分なのです。




優しさが不幸を呼び込むこともある



一般的に、優しいことは良いことだと、されています。

あと、弱者への共感力も、人格者に共通する資質でしょう。


ただ、僕は、思うのですよ。

それは、同時に、不幸を呼び込む危険性もあるよ、と。

弱者に同情的な人が陥りがちなのは、

自分も一緒になって悲しみ、

不幸感覚を強めてしまうこと。 


一方、自分の人生を存分に生きている人に共通するのは、

自分と合わない人をミュートできる能力。

実は、こんなことを書いている僕自身が、

なかなかそれができずに、

ずるずると引っ張られて、相手を優先し、

いい人になっていたということがあります。

昨年は、それに気づいてから大いに反省し、

思い通りに人生を生きている人の生き方を参考にして、

ノイズキャンセリング能力を高めることを意識し、実践しました。

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何度か言っていますが、

一昨年と昨年は、エゴの研究がテーマでした。

今年のテーマは、波動、もしくは、波長の研究。


自分の波動を高めれば高めるだけ、

運勢は良くなっていきますからね。

そのために、きわめて有効なのが、

ノイズキャンセリング能力。


僕は、自分自身が、

他人にも、自分にも、甘い人間だったので、

なかなかこれができずにいたのですが、

去年あたりから、

その能力を高めるように努めています。





3日連続で、キャメルをアップしてみました。

日本では、ピンク・フロイドやイエスに比べて、

いまいち人気がありませんが、

なかなかのバンドだと思っています。




「自分の偏見」にどこまで自覚的になれるか



昨日の記事に対する、きなこさんのコメントを読んで、

考えさせられたことがあります。

それは、認知バイアス、あるいは、確証バイアス、について。

僕は仕事も出来ず、転職も多く、

やっとこさこの砂漠のような世の中を、

這う這うの体で何とか生き延びてきた人間なので、

仕事ができない人間、息苦しさを感じている人間、

に親近感を持ってしまいます。

その結果として、どうしても、

そういう人たちのブログを読むことが多くなり、

そういう人たちの情報で、自分の頭の中が占められていきます。

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節約ブログやセミリタイアブログなどもよく読んでいますが、

彼らは総じて、やりくりが上手で、無駄遣いをしません。

で、そうしたブログばかりを読んでいると、

僕の中ではそれが常識となり、そこに、

認知バイアス、確証バイアスが生じます。

以下は、きゃりねこニュースからの抜粋。



人が何かを認知する際、その捉え方を歪めてしまう現象を「心理的バイアス」といいます。

例えば「確証バイアス」は、一度抱いた仮説や信念を検証する際に、それを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことを言います。古くはローマ帝国のシーザーからいろいろな人が言っていますが、要は「人は見たいものしか見ない」ということです。

自分と似たタイプの人を好む「類似性効果」もあります。いろいろな会社の人事考課を調べてみると、上司と同じタイプの部下は評価が高く、異なるタイプの部下の評価は低くなりがちです。組織の創造力を高めるために多様性の高い組織にしたいと努力している経営者や人事責任者からすれば、「似たような人ばかり評価する」ことはマイナスでしょう。

「ハロー(後光)効果」も人を見る目の精度を下げるバイアスです。ある対象を評価する際に、顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象のことです。抜群に優秀な側面を持っている人は、他の側面の評価も高まります。

うーん、 僕なども大いに当てはまるところがあります。

卑近な例で言うと、2つ前のアルバイトの職場で、

同僚に自分の考えを話したところ、ドン引きされました。

月6万円で暮らせる、と言っただけなのですが。

他の4人の同僚は、いずれも60代で僕より年上で、

皆月20万円ほどの年金をもらっていました。

皆、高級車に乗り、それなりの生活レベルだったのでしょう。

ゴルフの話なども良くしていましたからね。

僕は、彼等よりも数段生活レベルが低く、

ゴルフなどもしたことがありません。

つまり僕としては、常識だったことが、

彼等には非常識だったわけで。

なので、僕は、このブログで書いているようなことは、

人を見て話すようにしています。


で、何が言いたいのかというと、

僕もそのような認知バイアス、

確証バイアスを持っていることを自覚して、

おかねばならない、と、思った次第。

人は自分の見たいものしか見ない、という傾向は、

ネット社会になって、



さらに加速されているのかもしれません。



ネガティブな感情は、身を守る生存機能



単純なポジティブ思考は危ない、と、

僕は、思っています。

本屋に行くと、

安易な本がいっぱい並んでいますよね。

もう、それはいっぱい。

で、こうすれば、上手く行くよ、とか、

こういう考え方をすれば、成功するよ、とか、

どの本も、それなりにいいことを言っているのですが、

これだけ、そうした類いの本が売れ続けているというのは、

つまりそれだけ、自分の人生はだめだ、とか、

何とかしなくちゃ、と、思っている人が多いのでしょう。

なんか、ダイエット関係の本も一緒。

手を変え品を変え、いろんなダイエット法が出てきますが、

それだけ、ニーズがあるのでしょうね。


あと、占いなんかも、そう。

ベースにあるのは古来からの占いでも、

そこにオリジナリティを加味して、

たとえば、○○術占い、などと、もっともらしい名前を付け、

これまた、何々タイプ、などと、タイプ分けをしたり、

そのネーミングも、それなりにもっともらしかったりして、

ちょっと古い話だと、このやり方で成功したのが、細木数子。

で、このパターンは、今もそれなりに使われているようです。

何日か前、芸能人を占っている人を、偶然テレビで見て、

ああ、またやってるなあ、と、思った次第。


あ、スイマセン、このまま占いの話になってしまうと、

どんどん違うほうに行ってしまうので、戻します。 

で、なんでしたっけ、あ、そうそう、

単純なポジティブ思考は危ないよね、という話でした。


何が言いたいのかというと、

人生は、白黒で判断できるほど単純ではない、ということ。

怒りや不安、嫉妬などの感情は、社会的感情とも呼ばれますが、

こうしたものがなければ、人生は味気ないですよ。

ただ、こうした感情に溺れる、というか、

鷲掴みされたままだと、それもまた苦しくなるばかり。


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木のベンチの間に挟まっていた、蝉の抜け殻。

蝉は、短い人生なので、諸行無常そのもの。


人間と同じ哺乳類でも、

犬や猫は、今、の感情に忠実で、

過去を悔いたり、未来を憂いたりはしません。

この辺りは、心の動きを分析した、仏陀釈尊が、

2500年前に説いた教えがありますから、

それなどは、参考になるかと、思います。

ただし、仏教も、初期仏教でないと、

お釈迦様の教えではありませんから、注意が必要。

たとえば、法華経などは、好きな人も多いので、

あまり批判はしたくないのですが、

仏陀釈尊の教えとは何の関係もない、SFのような話。

まあ、でも、それで、救われる人もいるのでしょうから、

それはそれで、一定の市民権を得ているのかもしれません。


話が長くなったので、今日はここまでとします。



平和資料館と原爆と黙想



昨日、8月9日は、長崎に原爆が投下された日。

そしてその3日前の、8月6日は、広島でも。


 内省的な気持ちに導かれて、昨日、9日、

平和資料館に行ってきました。

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長崎の爆心地。

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広島の爆心地。

常設展示を見た後は、展望塔に登り、遠くを見ました。

その後、周辺を散策。


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展望塔を背面から見上げる。


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ベンチのある木陰で、平和について黙想。


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松の木と展望塔のてっぺんも見える物見山で、遠くを見、黙想。

台風の影響か、時折強い風も。

コロナもあれば災害もあり、戦争もあるこの世。

黙想は、尽きることがありません。





咳をしても一人、死ぬときも一人



ムラサキさんとのコメントのやり取りを契機に、改めて孤独について考えてみました。

実は僕は、ときどき、息苦しいような孤独と虚無を感じることがあります。

そんな時は、人間存在、というものと向き合うとき。

死というゴールをもって無に帰す命ならば、 何をしても空しい、と。


これは、若い頃からある感覚で、だからこそ、仏教などにも興味を持ったのだと思います。

仏教の基本は諸行無常であり、常なるものはない、ものごとは絶えず変化する、というもの。

それは、虚無を感じる教えであると同時に、執着から離れることもできる教えでもあります。


浅く考えると、どうせ死というゴールがあるのだから、欲望のままに生きて、せめて生きているうちは快楽を貪ったほうが良いのではないか、ととらえる人もいますが、苦楽は表裏一体というのも、また仏教の教え。

まあ、仏教の話で終わってしまってはつまらないので、孤独について話を戻すと、孤独は克服するものではなく、上手く付き合うものではないか、と思うのです。

どう転んでも、人は孤独です。

ならばむしろその孤独を避けるのではなく、向き合ったほうが良い、と。

自分も孤独だけど、本当はすべての人が孤独である、と。

ただ、同時に、その孤独と向き合うことの先に、人類共通の意識、なるものがあるように思っています。

その意識を探求するのが、哲学であり、宗教なのかもしれません。


僕は、天涯孤独者として生きていて、深夜に寝床で咳をした時など、孤独の咳の音を聴きます。

そして思うのです。

俺は、あと何年生きるのだろう、と。

それは、数年かもしれず、10年かもしれず、30年かもしれませんが、

確かなことは、死に向かって日々生きているということ。

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僕は、程よい田舎町に住んでいるので、他人様の家が目に映りますが、ポツンと一軒家、などで見るような、山の中で年寄りが一人で住んでいる姿などを見るにつけ、自分にはああいう生活は無理だなあ、と思います。

あんまり過去記事をさかのぼるのも難しいのですが、今年になってから孤独について書いたものはあっただろうかと思い、探してみました。


僕が寂しさを感じた時のこと






上記の記事などは、孤独を書いたものかもしれません。

事程左様に、僕も、孤独です。

そして多分、これを読んでいる人も孤独なのかもしれません。

たぶん人類全員が孤独であり、

同時に何かでつながっている、

という感じでしょうか。

孤独だからこそ、小さな自分を何かに仮託して、

一体感を求めているのかもしれません。

今、オリンピックをやっていますが、日本が勝つと嬉しいことの一つは、

やはり自分のアイデンティティの一部分を、日本に仮託しているからでしょう。

戦争中の、靖国で会おう、という言葉も、この命は国のために捧げるが、

より大きなもののために散る命、だと思って死んで行ったのかもしれません。

僕は、3つの宗教団体を経験していますが、程度の違いこそあれ、

やはりその団体の教え、さらに言えばその教祖に、より上位の仮託先を見出し、

それを、信仰という言葉で糊塗して、安心していたのだと思います。

確かにそれは、一時的な安心を得られはしますが、

様々な矛盾や自家撞着には蓋をしたままの状態で、

真の安心立命ではありませんでした。


今は、特定の団体に属すとかいうことはなく、

宇宙意識とでも言うほかはない、法則によって統べる神、

まあ、それを神と呼べばの話ですが、

そのような存在としての神への信仰はあります。

シルバーバーチは、大霊と呼んでいますが、

法則としてこの全宇宙を統べる存在に言及しています。

シルババーチについては、スピリチュアルな話カテゴリーの中で、

かなり書き込んでありますので、参考にしてもらえれば幸いです。


おそらく僕が、何とか孤独と付き合っていけるのは、

今、親から貰った名前で生きているこの自分以上の、

より本質的な自分、自己は、この肉体の死後も不滅であり、

本来的な意味では死ぬことのない存在であることを、

信じている、

あるいは、

信じようとしているから、

なのかもしれません。


その必然として、この世は旅の途中であり、

主イエスの言葉、

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」が、

腑に落ちるのです。




長くなったので、今日はここまでとします。





モノを買ってもすぐに幻滅する理由



マルチ・リンガルの知識人、ジグムント・バウマンによれば、 

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消費者の消費能力を増大させるためには、

彼らに休息を与えてはならない


消費者を、
常に騒然としていて、

刺激が枯れない状態
と、

疑念と欲求不満の状態にとどめておくために、

絶えず新たな誘惑にさらす必要がある、

と、言います。


もう、すでに他界しているバウマンですが、

その著作物が示すものは、概ね的を射ています。


テレビを見ても、

ネットを見ても、

刺激だらけ。

刺激、刺激、刺激。

そして、常に、

他人との比較に晒されています。

比較、比較、比較。


そして、あの、「普通」という、

わけのわからない単語。

普通、という言葉で他者を操り、

自分も不自由になっていく。


そしてみんな、

普通になろうとして、

不幸になっていくというジレンマ。


静かに暮らしていれば、




消費から遠ざかることができるんですけど、ね。




炎天下に交通誘導している高齢者



僕のブログをときどきでも読んでくれている人なら、

既にご存知だと思いますが、

僕は、3月末まで、アルバイトをしていました。

とある施設の警備員をしていたのですが、

その現場を他社に奪われて失業。


辞めざるを得なかった経緯は、

過去記事で詳しく書いているので繰り返しませんが、

同じ警備員でも、

炎天下に交通誘導している高齢者

は、つらいよね、という話。 


もうその人は死んでしまいましたが、

70を過ぎて、交通誘導のアルバイトを、

している知人がいました。

その人は、僕がかつて信仰していた宗教団体の人。

本人は、それが生きがいだったのだと思いますが、

とてもお金のかかる宗教団体だったので、

生活はガタガタ。

借金もしていたようです。

で、70過ぎても、アルバイトをやめられなかった、と。


高齢者のアルバイトって、限られますから、ね。

清掃とか警備とか、介護とか、あとは、

昔取った杵柄で働くしかない、と。

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今僕が、とりあえずでも生活していられるのは、

圧倒的に親のおかげだと思っています。

僕が仕事もせずにふらふらしていた時代、

あるいはまた、転職を繰り返していた時代、

あるいはまた、統一教会から逃げ出して、

ボロボロの状態で家に帰ってきた時、

黙って受け入れてくれた親がいたからこそ、

今につながる僕が、います。

もし僕が、そのような親に恵まれていなかったならば、

人生を建て直すこともできず、

もしかしたら今も、

フルタイムで働かざるを得なかったかもしれません。

もうすでに他界した両親ですが、

感謝の思いは、尽きることがありません。


今日も、暑くなるようです。

今日は、墓参りに行こうと思っています。

僕が今幸せなのは、いろいろな点で恵まれていたから。

決して自分の実力ではありません。

僕自身は、凄い弱っちい男ですからね。


先日、炎天下の道路で、

旗を振っている高齢者を見て、

とても切なくなった、僕なのでした。



内省は、とても大切です。




発作的な寂寥と恐怖とに身震いして



自分が齢62歳になって、ふと、

加藤和彦が自殺したのがその年だと、

思いました。


ネットで検索してみて、

以下のような文字を見つけました。


「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていたという。


なるほど、と、簡単にはうなずけません。

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倉田百三は、哲学者の西田幾多郎への手紙の中で、

以下のように吐露しています。

「今日も私は宅の裏座敷で発作的な寂寥と恐怖とに身震いして青ざめていく魂の姿をまざまざと見過ごすほかはありませんでした」

西田の著作には感銘を覚えたものの、

その後実際に会ってみて失望した倉田の、

苦しみは続いたようです。

空虚さ、に対峙していた倉田は、

哲学者に救いを、あるいは、

慰めを求めたのかもしれませんが、

それは、ならなかったようです。

そうした空虚さ、を、

もしかしたら加藤和彦も感じていたのではないか、

とも、思えるのです。


僕も、空虚さは、感じることがあり、

このことはまた、

書いてみたいと、思います。




「お父さんがいなくなったらどうするんや」



8050問題が取りざたされて久しいのですが、

今は、9060問題、

あるいは、7040問題もあるとか。

さすがに、10070問題は、まだ聞きませんが。

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今回、身につまされる話を見たので、紹介します。




うーん、 実は僕も若い頃、仕事をしたりしなかったりで、

半分引きこもりのような状態になったこともあり、

俺の将来はどうなるのだろうと、

昼間から布団をかぶっていたことがあります。

この女性の素晴らしいところは、

この状況で、清掃ボランティアを始めたこと。

どんなことでも、まずは小さな一歩から始まります。

会社のような利潤追求の現場では押し潰される人でも、

小さな自分の世界の中では幸せに生きられる人は多いです。

この女性は、この小さな一歩から、癒しが始まるはずです。


僕の場合は、この女性ほど繊細でもなく、

何とか職業世界に戻っていきましたが、

ときどき、今とは違う人生、というものを、

考えることがあります。

 

内省で見えてきた悲惨な人生


もう一人の僕が、

今とは別の人生を生きている可能性については、



今後も、僕の探究課題です。







「死にたい」と軽々しく口にする人への違和感



死にたい、という言葉も、状況によって意味合いは変わってきますよね。

エネルギッシュに生きている人が、忙し過ぎる日常の中で、死にてーよ、と言うのならば、

まあそれは、流れゆく言葉の中で消えていくもの。


そうではなくて、深刻な顔をして、やたらと、死を口にする人への違和感。

勿論、重篤な病や、経済的に追い詰められた状況で、

呻くように、死にたい、と言うのならばわかります。

そういう場合は、こちらも、真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。

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そうではなくて、ここで言う違和感とは、

具体例を挙げると、

先日テレビをつけていたら、教育テレビだったでしょうか、

中川翔子という人が出ていて、死にたい気持ちについて、語っていたのです。

彼女がいくつかは知りませんが、過去にも死にたいと思い、自殺しかけたことがあるのだとか。

で、違和感、というのは、彼女は無自覚なのでしょうが、

自分の役割演技に酔っているように、僕には見えました。

つまり、そういう、死にたいキャラを求められていて、

その求めに応じて演じている、みたいな。

いや、彼女は無自覚かもしれませんよ。

でも、それで、タレントとしての需要が発生し、

NHKからギャラも入るわけですよ。

おそらく彼女は、そんな計算はしていないとは思いますが、

「死にたい自分」、が、注目され、

そうした拗れキャラの、タレントとしての需要がある、

ということを、無意識の計算というか、

していると、僕は感じるのです。


「この無意識の計算」は、ときどき他者の中に感じるし、

そこから振り返って、自分の中にもないだろうかと、

内省することがあります。



今日は、変な話になってしまって、スイマセンでした。





自分軸の幸福を考え抜く



シンプルな生き方ほど、強いものはありません。

理由は、シンプルだから。

禅問答みたいですが、たとえば、ラマナ・マハルシ。

徹底的に、自分と向き合うシンプルな生活。


そのようにして、自己と向き合う生活は、

いたってシンプルで、ストレスがない。 


僕も、60年も自分と付き合っていますから、

いい加減自分がどんな奴かくらいはわかる。

僕が幸福だと思うときは、

寝たい時に寝られること。

空腹になるまで食べずにいて、腹減ったーというときに、

そのとき、一番欲するものを食べること。

うんめー、と、まるで、ビールにありついた時のカイジの叫び。

自転車に乗って、風を感じているとき。

近場の山歩きで、森林浴しているとき。

湖や川のそばを歩いて空を見ているとき。

図書館で本を探しているとき。

行きたい街(近場が多い)を、歩いているとき。

人間を観察しているとき。

お気に入りのブログを読んでいるとき。

まだまだ限りなくあるのですが、

どれも、お金がかからないものばかり。


で、僕が、絶対に譲れないのは、自由。

だから、束縛を、最も嫌います。

今、僕が付き合っている友人たちも、

皆、自立していて、お互いの自由を認めている人ばかり。

僕は、ベタベタした人間関係が苦手なので、

政治だとか、しがらみが発生する世界とは無縁で、

本当に良かったと思っています。


で、何が言いたいのかというと、

自分軸の幸福さえわかれば、あとは簡単だよ、ということ。

人生とは、本来シンプルなもの。

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で、今日の動画は、コロナウィルスについての、

最低限押さえておくべき情報について。

まあ、難しい本を読まなくても、



簡潔にまとめてくれる人がいるので助かります。




人生を楽に生きるための練習



昨年5月まで働いていたアルバイト先では、老害先輩社員に何度も怒鳴られましたが、ちょうどそのときの僕のテーマが、エゴの研究、でした。

2年弱在籍していたそのアルバイト先で、格好の研究材料として存在していたのが、その老害先輩社員。

理不尽なことで怒鳴られると、通常は、反発心を持ちます。

怒りの気持ちも、湧いてくるでしょう。

そこまでは、普通の反応です。

僕も普通の人間ですから、同じ様に反応します。

ただ、その頃僕は、すでに、気づき、を得ていましたから、感情だけで自分がいっぱいになることはありませんでした。

犯罪者の多くが、感情に振り回されて罪を犯します。

なので、これから僕がお話しする、ちょっとした技術を知っているだけで、かなり、危険を避けることができるようになります。


その、老害先輩社員に理不尽に怒鳴り飛ばされたときを例に話をします。

怒鳴られる理由のない僕は、まずは、怒りよりも驚きがありました。

その後、さらに怒り続ける彼に対し、僕の中にも怒りの感情が芽生えました。

その感情に任せて怒鳴り返す、こともできたし、そのままでいることもできます。

若い頃の僕であれば、倍返しで怒鳴り返して、喧嘩になるところですが、ちょうどエゴの研究をしていた僕は、その状況を客観視したのです。

つまり、あ、怒りを感じている自分がいるな、と、俯瞰して眺める意識に自分の視点を置きました。

すると、怒りの感情との間に、距離ができます。

これを僕は、スペースと呼んでいますが、このスペースがあると、感情に振り回されることのない客観的視点を持つ位置にとどまることができます

そしてさらに、「その客観的視点を持つ位置にいる自分を認識する意識、がある」ことに気づきます。

その広がりのある、静かな意識になると、自他の区別のない客観性のある広大な世界、僕はそれを宇宙と呼んでいますが、宇宙の位置に自分の存在を置くことができます。

言い換えれば、宇宙的視点と一体化した自分、なので、そもそも、自分、という意識すら希薄なのですが。

で、僕は、その静かな位置で、感情からは距離を置いた眼差しでその老害先輩社員の前に立っている自分を、見ています。

そのような状態を維持していると、次第にその先輩社員も、正気を取り戻していきます。

そのうちに、彼は、つまらない理由で怒った自分に恥ずかしさを覚えたのか、気まずそうな顔で立ち去っていきました。

こうした、すぐに怒る傾向のある人は、そう簡単に治るものでもなく、また怒りだす場面に、その後も何度も出合いましたが、だんだん、僕に対しては、怒る度合いも、回数も、少なくなっていきました。


こうしたことも、体験を重ねるごとに、抵抗なく、楽にできるようになります。 

何事も、練習ですからね。

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以下の動画も、参考になるかもしれないので、貼り付けておきます。





感情に巻き込まれないための方法が、わかりやすく解説されていると思います。

上祐氏も、カルト教団での体験を通過して、自分本来の歩むべき道を歩き始めているようです。




人の心配をするほど自分は偉いのか



ちょっと今日は懺悔というか、

自分の傲慢さを反省しようと、これを書いています。

日曜日に、Aさんと映画を見に行った後の夕食のとき、

会話をしたのですが、その中で、Fさん家族の話題が出ました。

このFさんのことは、

ゴールデンウイークにIさんが我が家に来た時も話題に。

実は、このFさん夫婦の長男が、

大学の認可をされていないHSUというところを卒業後、

幸福の科学の職員になったことを、僕は危惧していたのです。

社会経験を積まないまま、宗教団体の職員になるのは、

本人のキャリア上、良くないのではないか、と。

まあ、本当に、Fさん家族からすれば、大きなお世話の話ですが。

でも、Iさんが我が家に来た時に聞いた話では、

Fさんはビジネスで成功しており、

将来息子さんが、還俗しても、大丈夫であることを知り、

経済的には、問題ないことがわかり、

僕のお節介な心配も、杞憂であったことがわかりました。

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そしてさらに、日曜日の夜の、Aさんとの会話で、

子供たちが、3人とも父親が大好きであることも知りました。

子供3人のうち、すでに二人は成人しており、

長男は宗教団体の職員、長女は女優で、

その大人になった二人を含む3人の子供が、

お父さんが大好きで尊敬しているという話を聞き、

僕は、余計な心配をしたことがわかっただけでなく、

自分が恥ずかしくなりました。

僕は、と言えば、職を転々とし、

結婚も、子育てもせず、

ただ、流れるままに生きていたわけで、

そんな立場で、よその家族のことを心配するなど、

傲慢にもほどがあると、痛感しました。

自分はどこかで、悟ったような気になって、他人を、

批判的に見ていたのだなあ、と、反省。


まさに、Fさん家族は、家庭ユートピアを実践しており、

心配するどころか、見習わねばならない存在。

まったく自分は、どこまで慢心していたのかと、

Iさんと、Aさんから、 また、気づかされました。

だからこそ、法友というのは、尊いのですね。

まあ、僕はすでに、退会した身ではありますが、

そうしたラベルに関係なく、

求道心のある友人たちとの語らいの中で、

気づかされることは多いと、思っています。



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