介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

60男の内省

往復4時間の通勤とW介護



今、人生の内省期に入り、

介護離職する前のことを、

振り返ってみました。


50代後半の当時、

父を在宅で介護し、

母を在宅で介助。


料理や家事は僕がやり、

裁縫だけは、

和裁の経験のある母が担当。


ヘルパーの助けも受け、

ケアマネージャーも良い人で、

介護は何とかなりましたが、

往復4時間の通勤は、

だんだん負担になってはいました。


そしていよいよ、父が要介護5となって、

24時間の介護が必要になってからは、

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仕事との両立は不可能となり、

介護離職。


当時、56歳だった僕。

そして今は、62歳の僕。


今は、父も、母も他界し、

天涯孤独者となった僕。


バリアフリー化のために自宅を建て替えた時に住んだ借家は、

エアコンが古すぎて効きが悪く、

埃ばかり吐き出して、

ちっとも暖かくならず、 

電気代ばかりを食い、

その冬は、

効きのわるいエアコンと高い電気代の思い出。


その冬、

50代で新たな住宅ローンを背負い、

先の憂いよりも今を生きることでいっぱいだった日々。


エアコンの効きが悪くて寒かった部屋ですが、

それ以上に、

人生の寒さを感じていた、

日々でした。




人生の冬枯れに思うこと



冬は、僕の好きな季節。

二十代、スキーバムだった頃、

一冬を、

越後湯沢で過ごし、

雪搔きをしなければ、寮から出られず、

雪国の厳しさを垣間見ましたが、

それとても、

所詮は、

ビジターでの経験。

そこに根を下ろし、

その土地に縛られて動けない人からしたら、

所詮は、

よそ者の戯言。


今、

人生の晩年を生きていて、

思うことは、

人の世のはかなさと、

それゆえの、

味わい深さ。

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人生の、

残り時間を想いながら、

思索する、

日々、



なのです。




 

昨日に続く今日があるだけ



大晦日だとか、元旦だとか言っても、

何も特別なものはありません。 

昨日に続く、

今日

が、

あるだけ。

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昨日も、寒い風が吹く中、

顧客宅の下調べで街歩き。

歩いた後に公園のベンチで休んだ時に、

芝生の上でサッカーを興じる若者たちを見、

すぐに彼らが日本人ではないことに気づき、

おそらく、ベトナム人なのかと思いますが、

日本に来て、年末を過ごしている彼らを見て、

人生いろいろだと、思った次第。


今年も、

淡々と、

生きていく、



所存です。




何か忘れていると思ったら



今年も、あと数日。

何か忘れているような気がしていたのですが、

毎年恒例の県民の日のことを、

アップしていませんでした。

まずは朝霞駅で下車。

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ぶらついたのち、朝霞台へ。

行き先は、お決まりの黒目川沿いへ。

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わが青春の黒目川。

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会社員時代、途中下車して思索を重ねたベンチ。

今回は、実は朝霞駅で下車する前に、柳瀬川に立ち寄っていました。

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話を戻して、みずほ台、上福岡、で下車。

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昼は、株主優待を使って、ステーキ宮で。

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寄居の川原は、キャンプ族でいっぱい。

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うーん、毎年の恒例行事。

県民の日の、東武鉄道乗り倒し。

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本来、11月14日過ぎに書くべきでしたね。


遅くなりましたが、今年の忘れ物、です。




 

意見交換が大切な理由



昨日は、年末恒例の、AさんとIさんと僕、との忘年会。

去年と同じ、坂戸市にある中華レストランで。

去年は、コース料理にしましたが、

今年は、各自が好きなものを頼むことに。


今年は、僕は予定よりも15分早く、

17時45分に到着したのですが、

二人はすでに駐車場におり、

今年も僕が一番最後でした。


で、18時スタートの忘年会が終了したのは、23時過ぎ。

店の人がオーダーストップを告げに来た後も話し続け、

閉店の知らせを受けてから立ち上がりました。

5時間以上が、あっという間に過ぎたことになります。


話の内容も多岐にわたり、

その詳細をここで話すことは不可能ですが、

意見交換することの重要性を、

改めて認識しました。


最後のほうで、

先日、Aさんと行った映画の話になり、

Iさんも、その映画の主役の永野芽郁を高く評価しているとのことで、

ちょうど、Iさんからその日いただいた書籍の栞としても、 

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彼女が映っており、

Aさんなどは、僕を誘って見たのが2回目で、

その後、3回見て、5回も見た映画だそうで、

同じ映画を5回も見るのは、凄いと思い、

まだ、ロングランでやっているので、

是非、Iさんにも見てほしい、とのすすめ。


で、話を戻すと、意見交換の重要性


一人で、自由に思索するのは良いとして、

どうしても、自分色のフィルターが濃くなってしまいます。

だからこそ他者の、

それも、すぐれた他者の見解が必要。

AさんとIさんは、まさにそのような他者の典型例。

だからこそ5時間が一瞬で過ぎ去るほどの、

濃密な語らいができるのだと思います。


ロングランになるのは、相当いい映画なのだと、



思います。




知者は孤独を選ぶ



知者は孤独を選ぶ、と、ショーペンハウアーは、言いました。

孤独の良いところは、実にたくさんあります。

まず、他人からの干渉がない点。

自由に時間を使える点。

まだまだありますが、

ショーペンハウアーは、以下のように言っています。

才知豊かな人は、苦痛や手ひどく扱われることを避け、静寂と閑暇を求める。

そのためしずかでつつましやかな、できるかぎりだれからも邪魔されない生活を求め、したがって、いわゆる世間と多少おつきあいした後、隠棲することを選ぶ。

それどころか偉大なる知者は孤独を選ぶだろう。

というのも、その人自身に常にそなわっているものが多ければ多いほど、外部のものをますます必要としなくなり、他者はますます重きをなさなくなるからである。

それゆえ卓越した精神の持ち主は非社交的になる。

社交の質が社交の量で埋め合わせることができるなら、華やかな社交界で生きていくのも甲斐あることだろうが、残念ながら愚者が百人束になっても、賢人ひとりにおよばない。
「幸福について」より


うーん、 ショーペンハウアーは、かなり誤解されていて、

それは、ニーチェも同様ですが、

一部の人たちからは、見縊られています。

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実は、そういう僕自身が、そうした人たちの一人でした。

ニーチェやショーペンハウアーは、

神を信じていない唯物論者なので、レベルが低い、と。


しかし、それは、全くの誤解でした。

ニーチェが最も尊敬する人物が、仏陀釈尊。

今の僕ならば、その理由もわかりますが、

かつての僕は、そんなこともわからなかった。


いや、わかろうとさえ、しなかった傲慢な人間、でした。


孤独の良さは、

孤独を愛する人でなければ、

わからないのかも、



しれません。




いつでも逃げ帰れる場所があったから



少し前の記事、居場所のない女と男、で書いたように、

人間には、居場所こそが大事。

女三界に家無し、というように、

僕はどうも、

女性のほうが強いように思えてなりません。

男は、弱いですねえ。


僕は、本当に弱っぴいでしたから、

35までは、グズグズの人生。

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実家という、逃げ帰る場所があったから、

生きてこられたわけで、

逃げ帰れる実家のない人から見たら、

まさに、甘ったれの人生そのもの。


いろんなところに移り住み、

放浪を気取っていましたが、

それも、実家という軸があったから。


僕の友人の一人で、

フーテンの寅に批判的なのがいて、

あれは旅ではない、外出だ、と、

言っていました。


なるほど、寅も、

何かというと、おいちゃんおばちゃんのところに戻り、

妹のサクラにまで甘える始末。


35から少しはましになった僕ですが、

その後もあまあまの人生は続き、

50くらいでちょっと転機があり、

53からは親の介護も始まって、

少しはましな人間になれたのかも、



しれません。


 

節約だけして終わる人生はつまらない



買いたいものがある、とか、

子供の学費が必要、とか、

そうした目標があって、

節約にいそしむのは良いのですが、 

節約のための節約、になってしまう人が、

ときどき、います。


あと、節約が習い性になってしまって、

お金を使うことに、罪悪感を覚える人がいます。


あるいはまた、十分な資産がありながら、

貯金が減ることを怖れるあまり、

消費を楽しめない人もいます。


はっきり言って、その背後にあるのは、恐怖感。

欠乏することへの恐怖です。

あるいは、エゴが縮小することへの恐怖。


お金に自己を同一化していると、

お金が減ることは、自己が喪失していくこと、なので、

恐怖を、覚えるのです。


つまり、上記のような人は皆、

自分が見えていない、のですね。

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一番肝心な自分が見えずして、

お金だけ貯めても、

自由には、なりません。

むしろその、貯めたお金に縛られて、

不自由になる、と。


なので、内省の時間を、

日々の暮らしの中でしっかりと確保して、

自分とは何か、

何をしたいのか、

どこに行こうとしているのか、を、

時折でも、見つめ直すことが、

大切だと、思っています。




今日は、実母の命日



11月17日は、僕の実母の命日で、

母は、51歳で、なくなりました。


当時、僕は16歳。

東北地方に修学旅行に行って帰ってきた後、

母は病院で、なくなりました。

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あれから、46年。


その間に、父は再婚し、

その父も、5年半前に、

そして義母も、3年半前に、

他界し、

僕は、

今は、

一人。

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咳をしても、一人。

ため息をしても、一人。


今日は、

晴れの予報でしたが、

曇天。

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内省には、

打ってつけの日です。



 

自分に正直に生きたほうが死ぬときに後悔がない



ぶっちゃけ、自分が一番大事です。

いちばん関心があるのは、自分の人生です。


はっきり言って自分が一番大事、と言う人しか、

僕は信用しません。


綺麗ごとを言う人に、

騙され続けた人生でしたからね。


で、50歳あたりで、ちょっと待てよ、と。

そこで猛烈に内省して、

いろいろなことに気づいたわけです。


僕は、本音でものをいう人間、

たとえば、矢沢永吉とかが好きな理由は、

誰だって自分が一番かわいいに決まってんじゃん、ということ。

で、そのうえで、余裕ができたら他人のことにも関心を持とうよ、と。


オリンピックで、選手は頑張っていましたけど、

あれだって、自分のため。

でも、その、自分のために頑張っている姿に、

感動できるんですよ。

ここが、大事なんです。


誰だって、自分がかわいい、

自分が幸せになりたい。

それ、至極当然です。

神様は、そのために、

人間に、欲、というものをつけてくれたんですから。

欲があるのは当たり前。

悟ったふりをする必要はないんです。

欲しいものには、一直線に向かう。

それで、いいんです。


ただ、その過程で、葛藤が生まれる、と。

自分の欲の追求と、他者との関係、ね。

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まあ、この話をすると長くなるのでこの辺にしておきますが、

命短し恋せよ乙女だし、

金欲しいーって、メチャクチャ欲を出して、

与沢翼張りに金稼いでも、全然オッケー。


与沢も、矢沢も、正直に生きていますよ。

僕は、正直に生きている人間しか信用しないので、

僕も、なるべく正直に生きています。

たまには、嘘をつくかもしれませんが。





僕が、真っ正直な人間、

直球の人間が好きなのは、

複雑なのが苦手だからなのかもしれません。


シンプルイズベスト。


恋愛も、

駆け引きとやらが、

苦手でした。

何それ、っていう感じ。


ただ、これだけは言えます。

自分に正直に生きたほうが、

死ぬときに後悔がない
、と。



 

転職が多かった理由は閉塞感



閉塞感というと、風通しのわるい環境が思い浮かびませんか。

僕は、転職が多かったのですが、その理由は、閉塞感。

一つのところで働きだすと、

そこの人間関係や仕事内容に、息苦しさを感じるのが常でした。

たとえば、ずっとこの上司の下にいるのか、

と思っただけで息が詰まったし、

ずっとこの仕事をやり続けるのかと、

思っただけでめまいがしました。

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幸い、時代が良かったのか、辞めてもすぐに転職できました。

転職以外では、カルト教団での集団生活。

2年ほど、統一教会で集団生活をしましたが、

やはりここでも、次第に閉塞感を感じるように。

ただ、教義の縛りがあったので、逃げ出すときは大変でした。


事程左様に、行き詰ると逃げ、

息苦しくなると逃げ、

閉塞感を感じると逃げ、

しながら年だけを重ね、

33歳のときに、自分探しのためにイギリスへ。

海外でしばらく暮らせば変われるかも、とも思ったのですが、

むしろ不安は、つのるばかり。

だって、先が見えなかったんですから。


友人たちは大半が結婚し、家庭も仕事も順調。

自分だけは、先が見えず、息苦しい、と。

まあ、この辺りのことは、

自己紹介カテゴリーで述べているので、

繰り返しませんが、

つまり、閉塞感、こそが、

どうも自分を行動へと駆り立てていた要因に思えるのですね。


結婚しなくて良かったと思えるのは、

おそらくこんな僕であれば、

伴侶との暮らしにも閉塞感を覚えただろうから。

相手がいると、自分だけの問題では済まなくなるし、

ましてや子供でも出来たら、なおのこと、逃げられません。

だから、一人で良かったと、冷静に思えます。




閉塞感を感じながらも、

逃げることができずに働いている人って、

どのくらいいるのでしょうねえ。



 

旅せよ乙女、旅行も年を取ってからだとつらくなる



最近は、自分であまり遠出ができないので、

他人様のブログの、旅の様子などを見て、

疑似体験しております。


僕も若い頃は、貧乏旅行をずいぶんしてきましたが、

その楽しかった感覚は、今も色あせぬまま残っています。


昔を懐かしがり過ぎるのも、年を取ってきた証拠。

ただ、改めて思うに、

旅をたくさんして、良かった、と。

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そうした思い出があるとないとでは、

ずいぶん違います。


旅のように動き回るのもよし、

ソロキャンプもよし、

移住もよし。


何でも、

やりたいことはどんどんやっておかないと、

動ける時代などは簡単に過ぎ去ってしまいます。


人間なんて、

いつ死ぬかわかりませんから、

やりたいことは後回しにしないほうがいいよね、



という、話でした。


 

スマホをなくして頭が真っ白に



僕は必ずしも、スマホ依存度は高くありません。

このブログもパソコンで書いていますし、

ネットサーフィンもパソコン。

在宅時間が長いので、パソコンの使用頻度が高く、

スマホはサブ的な使用。

そんな僕でも、

いざスマホがなくなってみると、慌てました。 

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昨日も、一昨日に続き農村公園へ。

ただ、昨日は、Iさんと、待ち合わせ。

木陰を選び、ベンチに座って対話。

時が過ぎ、そこが木陰でなくなると、別のベンチに。

つまり、僕が腰を下ろしたベンチは二カ所。

公園内で歩いた距離も、わずかなもの。


夕方、Iさんと別れ、帰宅した時に、

スマホがないことに気づき、気が動転。

家を出るとき、ボディバッグに財布を入れ、

外側にあるポケットにスマホを入れた記憶があるのに、

肝心のスマホがない。


急いで車に戻り、車内を探すも無し。

ベンチに置きっぱなしにしてきたのか、

それとも、歩いているときに芝生の上に落としたのか、

考えが巡るなか、急いで車を走らせました。

落ち着けと自分に言いつつも、

いつもよりも車を飛ばしている自分がいました。


薄く闇が広がりつつある農村公園に到着。

急ぎ足でベンチへ。

少し前までそこに腰掛けていた二つのベンチの上には、

スマホは見当たらず。

その場所でスマホを見つけた人がいたとしたら、

管理事務所に届けているかも、と思い、

行くも、事務所は閉まっていて誰もおらず。


再びベンチに戻り、ベンチ周りの芝生、

自分が歩いたあたりを探すも、見つからず。

芝生の上に落としたとしたら、音もしないよな、と思い、

なおもしつこく芝生の上を探し回る。

されど、ないものはなし。

諦めて、車に戻りました。


帰るしかない、と思い、

しかしなおも、立ち去りがたく、

隣に停まっていたワゴン車の男性に声をかけました。

スマホをなくしたことを話し、

こういう場合、どうしたらいいんでしょうねえ、と。

するとその年配の男性が車から降りてきて、

一緒に芝生に行って、電話してみましょうか、と。

なるほど、そうすれば着信音がなって、在処がわかるかも、

と思った僕に、一筋の希望。

そして二人して、芝生のほうに歩き始めた時に、

軽トラックがやってきて、ちょうど僕たちの前に停まりました。


結論から言うと、そのときにスマホと再会。

軽トラックを乗っていた人が、ここの管理人で、

今交番に行ったのだが、誰もいなかった、とのこと。

つまり、見つけたスマホを交番に届けに行ったそうなのです。

でも、誰もおらず、家に戻り息子と話し、

もしかしたらスマホを落とした人が探しに来ているかもと思って、

来てみた、とのことでした。


僕は、二人に何度もお礼の言葉を述べて、帰宅。

スマホの取り扱いには注意が必要だと肝に銘じるとともに、

自分の生活を見直す契機ともなりました。



モノを持たない幸福



親の介護も終え、天涯孤独者となった自分は、

更なる内省に入るにつれて、

モノを持たない幸福について考えるようになりました。


必要なものだけがあればいい、と。

モノの中には、情報も、入ります。

ビデオデッキの中には、撮り貯めてある番組が数多くありますが、

これ、全部見なきゃなんないのか、と思っただけで疲れます。

映画やドラマでさえ、消去の対象。

話題作、ということで撮りはしたものの、放置状態。

長らく放置してあるものは、今後も見ないのだから消去。

そして、もう、心が動かないものは撮らないこと。


で、家具なども相当処分し、

さらには今後のことを考えて、軽量化を図ったり、

自分なりに、住みやすくしてきました。


今後、よほどのことがない限り家具を買うことはないでしょうが、

家具を見るのは好きで、数日前も大川家具へ。

素敵な家具を見ると、ワクワクするのですよ。


今後、家具を買うとしたら、入れ替えですね。

つまり、買い増すのではなくて、入れ替え。

たとえば、ソファを入れ替える、とか。

家具は、良いものを、長く使いたいのです。

ただ、今使っている家具は、必ずしも良いものばかりではないので、

いずれ、今より余裕ができたら、

そうした家具を、より良いものに買い替えたい気持ちはあります。

でも、買い増して、空間が狭くなるのは嫌なのです。


情報も、ろくでもない情報なら知らないほうがいい。

自分の頭に、ガラクタを詰め込みたくはない。

つまらない情報に触れるくらいならば、

野山を歩いているほうが良い。


人間が生きるのに、そんなに難しい情報は要らなくね、と。

情報もモノだと考えれば、雑多な情報はゴミ屋敷と一緒。


モノを持たない幸福は、スッキリとした暮らし。

良いものと、良い情報と、良い人間関係に、囲まれた生活。

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モノを持たない幸福は、

言い換えれば、

良いもの、良い情報、良い人間関係の生活。 

そして、そうしたものは、少ないのが常。


少なくていいのです。

少なくて十分なのです。




優しさが不幸を呼び込むこともある



一般的に、優しいことは良いことだと、されています。

あと、弱者への共感力も、人格者に共通する資質でしょう。


ただ、僕は、思うのですよ。

それは、同時に、不幸を呼び込む危険性もあるよ、と。

弱者に同情的な人が陥りがちなのは、

自分も一緒になって悲しみ、

不幸感覚を強めてしまうこと。 


一方、自分の人生を存分に生きている人に共通するのは、

自分と合わない人をミュートできる能力。

実は、こんなことを書いている僕自身が、

なかなかそれができずに、

ずるずると引っ張られて、相手を優先し、

いい人になっていたということがあります。

昨年は、それに気づいてから大いに反省し、

思い通りに人生を生きている人の生き方を参考にして、

ノイズキャンセリング能力を高めることを意識し、実践しました。

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何度か言っていますが、

一昨年と昨年は、エゴの研究がテーマでした。

今年のテーマは、波動、もしくは、波長の研究。


自分の波動を高めれば高めるだけ、

運勢は良くなっていきますからね。

そのために、きわめて有効なのが、

ノイズキャンセリング能力。


僕は、自分自身が、

他人にも、自分にも、甘い人間だったので、

なかなかこれができずにいたのですが、

去年あたりから、

その能力を高めるように努めています。





3日連続で、キャメルをアップしてみました。

日本では、ピンク・フロイドやイエスに比べて、

いまいち人気がありませんが、

なかなかのバンドだと思っています。




「自分の偏見」にどこまで自覚的になれるか



昨日の記事に対する、きなこさんのコメントを読んで、

考えさせられたことがあります。

それは、認知バイアス、あるいは、確証バイアス、について。

僕は仕事も出来ず、転職も多く、

やっとこさこの砂漠のような世の中を、

這う這うの体で何とか生き延びてきた人間なので、

仕事ができない人間、息苦しさを感じている人間、

に親近感を持ってしまいます。

その結果として、どうしても、

そういう人たちのブログを読むことが多くなり、

そういう人たちの情報で、自分の頭の中が占められていきます。

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節約ブログやセミリタイアブログなどもよく読んでいますが、

彼らは総じて、やりくりが上手で、無駄遣いをしません。

で、そうしたブログばかりを読んでいると、

僕の中ではそれが常識となり、そこに、

認知バイアス、確証バイアスが生じます。

以下は、きゃりねこニュースからの抜粋。



人が何かを認知する際、その捉え方を歪めてしまう現象を「心理的バイアス」といいます。

例えば「確証バイアス」は、一度抱いた仮説や信念を検証する際に、それを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことを言います。古くはローマ帝国のシーザーからいろいろな人が言っていますが、要は「人は見たいものしか見ない」ということです。

自分と似たタイプの人を好む「類似性効果」もあります。いろいろな会社の人事考課を調べてみると、上司と同じタイプの部下は評価が高く、異なるタイプの部下の評価は低くなりがちです。組織の創造力を高めるために多様性の高い組織にしたいと努力している経営者や人事責任者からすれば、「似たような人ばかり評価する」ことはマイナスでしょう。

「ハロー(後光)効果」も人を見る目の精度を下げるバイアスです。ある対象を評価する際に、顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象のことです。抜群に優秀な側面を持っている人は、他の側面の評価も高まります。

うーん、 僕なども大いに当てはまるところがあります。

卑近な例で言うと、2つ前のアルバイトの職場で、

同僚に自分の考えを話したところ、ドン引きされました。

月6万円で暮らせる、と言っただけなのですが。

他の4人の同僚は、いずれも60代で僕より年上で、

皆月20万円ほどの年金をもらっていました。

皆、高級車に乗り、それなりの生活レベルだったのでしょう。

ゴルフの話なども良くしていましたからね。

僕は、彼等よりも数段生活レベルが低く、

ゴルフなどもしたことがありません。

つまり僕としては、常識だったことが、

彼等には非常識だったわけで。

なので、僕は、このブログで書いているようなことは、

人を見て話すようにしています。


で、何が言いたいのかというと、

僕もそのような認知バイアス、

確証バイアスを持っていることを自覚して、

おかねばならない、と、思った次第。

人は自分の見たいものしか見ない、という傾向は、

ネット社会になって、



さらに加速されているのかもしれません。



ネガティブな感情は、身を守る生存機能



単純なポジティブ思考は危ない、と、

僕は、思っています。

本屋に行くと、

安易な本がいっぱい並んでいますよね。

もう、それはいっぱい。

で、こうすれば、上手く行くよ、とか、

こういう考え方をすれば、成功するよ、とか、

どの本も、それなりにいいことを言っているのですが、

これだけ、そうした類いの本が売れ続けているというのは、

つまりそれだけ、自分の人生はだめだ、とか、

何とかしなくちゃ、と、思っている人が多いのでしょう。

なんか、ダイエット関係の本も一緒。

手を変え品を変え、いろんなダイエット法が出てきますが、

それだけ、ニーズがあるのでしょうね。


あと、占いなんかも、そう。

ベースにあるのは古来からの占いでも、

そこにオリジナリティを加味して、

たとえば、○○術占い、などと、もっともらしい名前を付け、

これまた、何々タイプ、などと、タイプ分けをしたり、

そのネーミングも、それなりにもっともらしかったりして、

ちょっと古い話だと、このやり方で成功したのが、細木数子。

で、このパターンは、今もそれなりに使われているようです。

何日か前、芸能人を占っている人を、偶然テレビで見て、

ああ、またやってるなあ、と、思った次第。


あ、スイマセン、このまま占いの話になってしまうと、

どんどん違うほうに行ってしまうので、戻します。 

で、なんでしたっけ、あ、そうそう、

単純なポジティブ思考は危ないよね、という話でした。


何が言いたいのかというと、

人生は、白黒で判断できるほど単純ではない、ということ。

怒りや不安、嫉妬などの感情は、社会的感情とも呼ばれますが、

こうしたものがなければ、人生は味気ないですよ。

ただ、こうした感情に溺れる、というか、

鷲掴みされたままだと、それもまた苦しくなるばかり。


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木のベンチの間に挟まっていた、蝉の抜け殻。

蝉は、短い人生なので、諸行無常そのもの。


人間と同じ哺乳類でも、

犬や猫は、今、の感情に忠実で、

過去を悔いたり、未来を憂いたりはしません。

この辺りは、心の動きを分析した、仏陀釈尊が、

2500年前に説いた教えがありますから、

それなどは、参考になるかと、思います。

ただし、仏教も、初期仏教でないと、

お釈迦様の教えではありませんから、注意が必要。

たとえば、法華経などは、好きな人も多いので、

あまり批判はしたくないのですが、

仏陀釈尊の教えとは何の関係もない、SFのような話。

まあ、でも、それで、救われる人もいるのでしょうから、

それはそれで、一定の市民権を得ているのかもしれません。


話が長くなったので、今日はここまでとします。



平和資料館と原爆と黙想



昨日、8月9日は、長崎に原爆が投下された日。

そしてその3日前の、8月6日は、広島でも。


 内省的な気持ちに導かれて、昨日、9日、

平和資料館に行ってきました。

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長崎の爆心地。

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広島の爆心地。

常設展示を見た後は、展望塔に登り、遠くを見ました。

その後、周辺を散策。


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展望塔を背面から見上げる。


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ベンチのある木陰で、平和について黙想。


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松の木と展望塔のてっぺんも見える物見山で、遠くを見、黙想。

台風の影響か、時折強い風も。

コロナもあれば災害もあり、戦争もあるこの世。

黙想は、尽きることがありません。





咳をしても一人、死ぬときも一人



ムラサキさんとのコメントのやり取りを契機に、改めて孤独について考えてみました。

実は僕は、ときどき、息苦しいような孤独と虚無を感じることがあります。

そんな時は、人間存在、というものと向き合うとき。

死というゴールをもって無に帰す命ならば、 何をしても空しい、と。


これは、若い頃からある感覚で、だからこそ、仏教などにも興味を持ったのだと思います。

仏教の基本は諸行無常であり、常なるものはない、ものごとは絶えず変化する、というもの。

それは、虚無を感じる教えであると同時に、執着から離れることもできる教えでもあります。


浅く考えると、どうせ死というゴールがあるのだから、欲望のままに生きて、せめて生きているうちは快楽を貪ったほうが良いのではないか、ととらえる人もいますが、苦楽は表裏一体というのも、また仏教の教え。

まあ、仏教の話で終わってしまってはつまらないので、孤独について話を戻すと、孤独は克服するものではなく、上手く付き合うものではないか、と思うのです。

どう転んでも、人は孤独です。

ならばむしろその孤独を避けるのではなく、向き合ったほうが良い、と。

自分も孤独だけど、本当はすべての人が孤独である、と。

ただ、同時に、その孤独と向き合うことの先に、人類共通の意識、なるものがあるように思っています。

その意識を探求するのが、哲学であり、宗教なのかもしれません。


僕は、天涯孤独者として生きていて、深夜に寝床で咳をした時など、孤独の咳の音を聴きます。

そして思うのです。

俺は、あと何年生きるのだろう、と。

それは、数年かもしれず、10年かもしれず、30年かもしれませんが、

確かなことは、死に向かって日々生きているということ。

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僕は、程よい田舎町に住んでいるので、他人様の家が目に映りますが、ポツンと一軒家、などで見るような、山の中で年寄りが一人で住んでいる姿などを見るにつけ、自分にはああいう生活は無理だなあ、と思います。

あんまり過去記事をさかのぼるのも難しいのですが、今年になってから孤独について書いたものはあっただろうかと思い、探してみました。


僕が寂しさを感じた時のこと






上記の記事などは、孤独を書いたものかもしれません。

事程左様に、僕も、孤独です。

そして多分、これを読んでいる人も孤独なのかもしれません。

たぶん人類全員が孤独であり、

同時に何かでつながっている、

という感じでしょうか。

孤独だからこそ、小さな自分を何かに仮託して、

一体感を求めているのかもしれません。

今、オリンピックをやっていますが、日本が勝つと嬉しいことの一つは、

やはり自分のアイデンティティの一部分を、日本に仮託しているからでしょう。

戦争中の、靖国で会おう、という言葉も、この命は国のために捧げるが、

より大きなもののために散る命、だと思って死んで行ったのかもしれません。

僕は、3つの宗教団体を経験していますが、程度の違いこそあれ、

やはりその団体の教え、さらに言えばその教祖に、より上位の仮託先を見出し、

それを、信仰という言葉で糊塗して、安心していたのだと思います。

確かにそれは、一時的な安心を得られはしますが、

様々な矛盾や自家撞着には蓋をしたままの状態で、

真の安心立命ではありませんでした。


今は、特定の団体に属すとかいうことはなく、

宇宙意識とでも言うほかはない、法則によって統べる神、

まあ、それを神と呼べばの話ですが、

そのような存在としての神への信仰はあります。

シルバーバーチは、大霊と呼んでいますが、

法則としてこの全宇宙を統べる存在に言及しています。

シルババーチについては、スピリチュアルな話カテゴリーの中で、

かなり書き込んでありますので、参考にしてもらえれば幸いです。


おそらく僕が、何とか孤独と付き合っていけるのは、

今、親から貰った名前で生きているこの自分以上の、

より本質的な自分、自己は、この肉体の死後も不滅であり、

本来的な意味では死ぬことのない存在であることを、

信じている、

あるいは、

信じようとしているから、

なのかもしれません。


その必然として、この世は旅の途中であり、

主イエスの言葉、

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」が、

腑に落ちるのです。




長くなったので、今日はここまでとします。





モノを買ってもすぐに幻滅する理由



マルチ・リンガルの知識人、ジグムント・バウマンによれば、 

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消費者の消費能力を増大させるためには、

彼らに休息を与えてはならない


消費者を、
常に騒然としていて、

刺激が枯れない状態
と、

疑念と欲求不満の状態にとどめておくために、

絶えず新たな誘惑にさらす必要がある、

と、言います。


もう、すでに他界しているバウマンですが、

その著作物が示すものは、概ね的を射ています。


テレビを見ても、

ネットを見ても、

刺激だらけ。

刺激、刺激、刺激。

そして、常に、

他人との比較に晒されています。

比較、比較、比較。


そして、あの、「普通」という、

わけのわからない単語。

普通、という言葉で他者を操り、

自分も不自由になっていく。


そしてみんな、

普通になろうとして、

不幸になっていくというジレンマ。


静かに暮らしていれば、




消費から遠ざかることができるんですけど、ね。




炎天下に交通誘導している高齢者



僕のブログをときどきでも読んでくれている人なら、

既にご存知だと思いますが、

僕は、3月末まで、アルバイトをしていました。

とある施設の警備員をしていたのですが、

その現場を他社に奪われて失業。


辞めざるを得なかった経緯は、

過去記事で詳しく書いているので繰り返しませんが、

同じ警備員でも、

炎天下に交通誘導している高齢者

は、つらいよね、という話。 


もうその人は死んでしまいましたが、

70を過ぎて、交通誘導のアルバイトを、

している知人がいました。

その人は、僕がかつて信仰していた宗教団体の人。

本人は、それが生きがいだったのだと思いますが、

とてもお金のかかる宗教団体だったので、

生活はガタガタ。

借金もしていたようです。

で、70過ぎても、アルバイトをやめられなかった、と。


高齢者のアルバイトって、限られますから、ね。

清掃とか警備とか、介護とか、あとは、

昔取った杵柄で働くしかない、と。

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今僕が、とりあえずでも生活していられるのは、

圧倒的に親のおかげだと思っています。

僕が仕事もせずにふらふらしていた時代、

あるいはまた、転職を繰り返していた時代、

あるいはまた、統一教会から逃げ出して、

ボロボロの状態で家に帰ってきた時、

黙って受け入れてくれた親がいたからこそ、

今につながる僕が、います。

もし僕が、そのような親に恵まれていなかったならば、

人生を建て直すこともできず、

もしかしたら今も、

フルタイムで働かざるを得なかったかもしれません。

もうすでに他界した両親ですが、

感謝の思いは、尽きることがありません。


今日も、暑くなるようです。

今日は、墓参りに行こうと思っています。

僕が今幸せなのは、いろいろな点で恵まれていたから。

決して自分の実力ではありません。

僕自身は、凄い弱っちい男ですからね。


先日、炎天下の道路で、

旗を振っている高齢者を見て、

とても切なくなった、僕なのでした。



内省は、とても大切です。




発作的な寂寥と恐怖とに身震いして



自分が齢62歳になって、ふと、

加藤和彦が自殺したのがその年だと、

思いました。


ネットで検索してみて、

以下のような文字を見つけました。


「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていたという。


なるほど、と、簡単にはうなずけません。

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倉田百三は、哲学者の西田幾多郎への手紙の中で、

以下のように吐露しています。

「今日も私は宅の裏座敷で発作的な寂寥と恐怖とに身震いして青ざめていく魂の姿をまざまざと見過ごすほかはありませんでした」

西田の著作には感銘を覚えたものの、

その後実際に会ってみて失望した倉田の、

苦しみは続いたようです。

空虚さ、に対峙していた倉田は、

哲学者に救いを、あるいは、

慰めを求めたのかもしれませんが、

それは、ならなかったようです。

そうした空虚さ、を、

もしかしたら加藤和彦も感じていたのではないか、

とも、思えるのです。


僕も、空虚さは、感じることがあり、

このことはまた、

書いてみたいと、思います。




「お父さんがいなくなったらどうするんや」



8050問題が取りざたされて久しいのですが、

今は、9060問題、

あるいは、7040問題もあるとか。

さすがに、10070問題は、まだ聞きませんが。

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今回、身につまされる話を見たので、紹介します。




うーん、 実は僕も若い頃、仕事をしたりしなかったりで、

半分引きこもりのような状態になったこともあり、

俺の将来はどうなるのだろうと、

昼間から布団をかぶっていたことがあります。

この女性の素晴らしいところは、

この状況で、清掃ボランティアを始めたこと。

どんなことでも、まずは小さな一歩から始まります。

会社のような利潤追求の現場では押し潰される人でも、

小さな自分の世界の中では幸せに生きられる人は多いです。

この女性は、この小さな一歩から、癒しが始まるはずです。


僕の場合は、この女性ほど繊細でもなく、

何とか職業世界に戻っていきましたが、

ときどき、今とは違う人生、というものを、

考えることがあります。

 

内省で見えてきた悲惨な人生


もう一人の僕が、

今とは別の人生を生きている可能性については、



今後も、僕の探究課題です。







「死にたい」と軽々しく口にする人への違和感



死にたい、という言葉も、状況によって意味合いは変わってきますよね。

エネルギッシュに生きている人が、忙し過ぎる日常の中で、死にてーよ、と言うのならば、

まあそれは、流れゆく言葉の中で消えていくもの。


そうではなくて、深刻な顔をして、やたらと、死を口にする人への違和感。

勿論、重篤な病や、経済的に追い詰められた状況で、

呻くように、死にたい、と言うのならばわかります。

そういう場合は、こちらも、真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。

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そうではなくて、ここで言う違和感とは、

具体例を挙げると、

先日テレビをつけていたら、教育テレビだったでしょうか、

中川翔子という人が出ていて、死にたい気持ちについて、語っていたのです。

彼女がいくつかは知りませんが、過去にも死にたいと思い、自殺しかけたことがあるのだとか。

で、違和感、というのは、彼女は無自覚なのでしょうが、

自分の役割演技に酔っているように、僕には見えました。

つまり、そういう、死にたいキャラを求められていて、

その求めに応じて演じている、みたいな。

いや、彼女は無自覚かもしれませんよ。

でも、それで、タレントとしての需要が発生し、

NHKからギャラも入るわけですよ。

おそらく彼女は、そんな計算はしていないとは思いますが、

「死にたい自分」、が、注目され、

そうした拗れキャラの、タレントとしての需要がある、

ということを、無意識の計算というか、

していると、僕は感じるのです。


「この無意識の計算」は、ときどき他者の中に感じるし、

そこから振り返って、自分の中にもないだろうかと、

内省することがあります。



今日は、変な話になってしまって、スイマセンでした。





自分軸の幸福を考え抜く



シンプルな生き方ほど、強いものはありません。

理由は、シンプルだから。

禅問答みたいですが、たとえば、ラマナ・マハルシ。

徹底的に、自分と向き合うシンプルな生活。


そのようにして、自己と向き合う生活は、

いたってシンプルで、ストレスがない。 


僕も、60年も自分と付き合っていますから、

いい加減自分がどんな奴かくらいはわかる。

僕が幸福だと思うときは、

寝たい時に寝られること。

空腹になるまで食べずにいて、腹減ったーというときに、

そのとき、一番欲するものを食べること。

うんめー、と、まるで、ビールにありついた時のカイジの叫び。

自転車に乗って、風を感じているとき。

近場の山歩きで、森林浴しているとき。

湖や川のそばを歩いて空を見ているとき。

図書館で本を探しているとき。

行きたい街(近場が多い)を、歩いているとき。

人間を観察しているとき。

お気に入りのブログを読んでいるとき。

まだまだ限りなくあるのですが、

どれも、お金がかからないものばかり。


で、僕が、絶対に譲れないのは、自由。

だから、束縛を、最も嫌います。

今、僕が付き合っている友人たちも、

皆、自立していて、お互いの自由を認めている人ばかり。

僕は、ベタベタした人間関係が苦手なので、

政治だとか、しがらみが発生する世界とは無縁で、

本当に良かったと思っています。


で、何が言いたいのかというと、

自分軸の幸福さえわかれば、あとは簡単だよ、ということ。

人生とは、本来シンプルなもの。

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で、今日の動画は、コロナウィルスについての、

最低限押さえておくべき情報について。

まあ、難しい本を読まなくても、



簡潔にまとめてくれる人がいるので助かります。




人生を楽に生きるための練習



昨年5月まで働いていたアルバイト先では、老害先輩社員に何度も怒鳴られましたが、ちょうどそのときの僕のテーマが、エゴの研究、でした。

2年弱在籍していたそのアルバイト先で、格好の研究材料として存在していたのが、その老害先輩社員。

理不尽なことで怒鳴られると、通常は、反発心を持ちます。

怒りの気持ちも、湧いてくるでしょう。

そこまでは、普通の反応です。

僕も普通の人間ですから、同じ様に反応します。

ただ、その頃僕は、すでに、気づき、を得ていましたから、感情だけで自分がいっぱいになることはありませんでした。

犯罪者の多くが、感情に振り回されて罪を犯します。

なので、これから僕がお話しする、ちょっとした技術を知っているだけで、かなり、危険を避けることができるようになります。


その、老害先輩社員に理不尽に怒鳴り飛ばされたときを例に話をします。

怒鳴られる理由のない僕は、まずは、怒りよりも驚きがありました。

その後、さらに怒り続ける彼に対し、僕の中にも怒りの感情が芽生えました。

その感情に任せて怒鳴り返す、こともできたし、そのままでいることもできます。

若い頃の僕であれば、倍返しで怒鳴り返して、喧嘩になるところですが、ちょうどエゴの研究をしていた僕は、その状況を客観視したのです。

つまり、あ、怒りを感じている自分がいるな、と、俯瞰して眺める意識に自分の視点を置きました。

すると、怒りの感情との間に、距離ができます。

これを僕は、スペースと呼んでいますが、このスペースがあると、感情に振り回されることのない客観的視点を持つ位置にとどまることができます

そしてさらに、「その客観的視点を持つ位置にいる自分を認識する意識、がある」ことに気づきます。

その広がりのある、静かな意識になると、自他の区別のない客観性のある広大な世界、僕はそれを宇宙と呼んでいますが、宇宙の位置に自分の存在を置くことができます。

言い換えれば、宇宙的視点と一体化した自分、なので、そもそも、自分、という意識すら希薄なのですが。

で、僕は、その静かな位置で、感情からは距離を置いた眼差しでその老害先輩社員の前に立っている自分を、見ています。

そのような状態を維持していると、次第にその先輩社員も、正気を取り戻していきます。

そのうちに、彼は、つまらない理由で怒った自分に恥ずかしさを覚えたのか、気まずそうな顔で立ち去っていきました。

こうした、すぐに怒る傾向のある人は、そう簡単に治るものでもなく、また怒りだす場面に、その後も何度も出合いましたが、だんだん、僕に対しては、怒る度合いも、回数も、少なくなっていきました。


こうしたことも、体験を重ねるごとに、抵抗なく、楽にできるようになります。 

何事も、練習ですからね。

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以下の動画も、参考になるかもしれないので、貼り付けておきます。





感情に巻き込まれないための方法が、わかりやすく解説されていると思います。

上祐氏も、カルト教団での体験を通過して、自分本来の歩むべき道を歩き始めているようです。




人の心配をするほど自分は偉いのか



ちょっと今日は懺悔というか、

自分の傲慢さを反省しようと、これを書いています。

日曜日に、Aさんと映画を見に行った後の夕食のとき、

会話をしたのですが、その中で、Fさん家族の話題が出ました。

このFさんのことは、

ゴールデンウイークにIさんが我が家に来た時も話題に。

実は、このFさん夫婦の長男が、

大学の認可をされていないHSUというところを卒業後、

幸福の科学の職員になったことを、僕は危惧していたのです。

社会経験を積まないまま、宗教団体の職員になるのは、

本人のキャリア上、良くないのではないか、と。

まあ、本当に、Fさん家族からすれば、大きなお世話の話ですが。

でも、Iさんが我が家に来た時に聞いた話では、

Fさんはビジネスで成功しており、

将来息子さんが、還俗しても、大丈夫であることを知り、

経済的には、問題ないことがわかり、

僕のお節介な心配も、杞憂であったことがわかりました。

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そしてさらに、日曜日の夜の、Aさんとの会話で、

子供たちが、3人とも父親が大好きであることも知りました。

子供3人のうち、すでに二人は成人しており、

長男は宗教団体の職員、長女は女優で、

その大人になった二人を含む3人の子供が、

お父さんが大好きで尊敬しているという話を聞き、

僕は、余計な心配をしたことがわかっただけでなく、

自分が恥ずかしくなりました。

僕は、と言えば、職を転々とし、

結婚も、子育てもせず、

ただ、流れるままに生きていたわけで、

そんな立場で、よその家族のことを心配するなど、

傲慢にもほどがあると、痛感しました。

自分はどこかで、悟ったような気になって、他人を、

批判的に見ていたのだなあ、と、反省。


まさに、Fさん家族は、家庭ユートピアを実践しており、

心配するどころか、見習わねばならない存在。

まったく自分は、どこまで慢心していたのかと、

Iさんと、Aさんから、 また、気づかされました。

だからこそ、法友というのは、尊いのですね。

まあ、僕はすでに、退会した身ではありますが、

そうしたラベルに関係なく、

求道心のある友人たちとの語らいの中で、

気づかされることは多いと、思っています。



命日



5月は、父と義母、そして弟の命日があります。

弟は生まれてすぐに死んだのですが、義母は3年前の、

そして、父は、5年前の5月に亡くなりました。 

3人の命日が5月であるため、

5月は、お墓に行く回数が多くなります。

 
さて、そんなお墓参りの帰りに、

危うく交通事故を起こしそうになりました。 

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バイパス道に合流するときに、

結果的に僕が無理な割り込みをしてしまい、

急ブレーキをかけたワゴン車が狂ったようにクラクションを鳴らし、

危うく事故になるところでした。

雨が降っていたとはいえ、もう少し車間距離を考慮すべきでした。

お墓参りの帰りに事故をしたのでは、

今はなき家族にも申し訳ないだけでなく、

相手の車にも迷惑をかけ、

自分もケガをしたら大変なことになります。


運転のときには、注意の上にも注意をして、

防衛運転を肝に銘じます。

天涯孤独者は、緊張感を持って行動しないとね。




名声があった人ほど終わった人になる確率が高い



多くの人は、社会の常識なるものに、飼いならされています。

もっときつい言葉を使えば、洗脳されている、とも言えます。

マイルドに言えば、思い込まされている、と。


幼い頃の保護者は、親で、

学生時代には教師がいて、

社畜時代には上司がいた、と。 


これに、マスコミなどの情報を毎日のように浴びせられて、

僕たちの常識なるものが、形作られていきます。


で、これは、日本人に顕著ですが、

みんなと同じがいい、と思っている人が多い。

逆に言うと、みんなと違うと不安、なのです。


でも、そういうマインドで生きていると、

操られやすい人間の出来上がり。


確かに、高度経済成長期には都合が良かったこの仕組み。

でも、今は、それが限界にきているわけで。

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老後も、意外にこの世的に名声があった人ほど、

終わった人になる確率が高いのは、

自分を見つめたことがないから、です。


社会的に成功したりすると、勘違いが生まれます。

俺はすごい、とね。

でも、肩書や地位、あるいはお金に守られた凄さなんて、

たかが知れています。


なので、そうした幻に幻惑されていると、勘違いもするし、

老後になってからの落ち込みも激しい、と。


自分で自分を管理できなくなる、

切れる老人や迷惑な老人の中に、

意外に、現役時代は、

管理職や経営者だった人がいたりして、

いったい何を管理していたんだよ、という話でした。





人生には、約束なしのお別れがある、ということ。

さよならの向こう側も見ておかないと、ね。





「生き地獄」に陥る危険性は誰にでもある



直近の芥川賞受賞作、「推し、燃ゆ」を読んでいるときに、図書館からリクエスト本が入りましたとの連絡を受け、直行。

そして、借りてきたのが、以下の本。

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 いくつか前の記事で、洗脳の怖さを久しぶりに垣間見た話を書きましたが、それ以降、僕の内省も進み、20代の頃、統一教会から逃げ出してきたころの自分を思い出すとともに、シンクロニシティが働いて、たまたま本屋で気になる本を見つけて、リクエストした次第。

精神が崩壊し、分裂していくところは、僕も二十代後半に体験していることなので、他人ごととは思えませんでした。

ただ、僕は、そのときで良かったと改めて思いました。

この本の著者は、1958年生まれで、僕が59年生まれですから、ほぼ同世代。

で、そのような年で、宗教的煩悶からの精神分裂は、きついと言えばきつい。

自費出版本にしては、アマゾンのレビューも、熱のこもったものが多く、その一部を紹介します。

複数の視点を通すことで、多面的に理解できるかと、思います。


Aさん 
何とも壮絶な本を読んだものだ。本書は「信仰という陥穽に陥り、文字通り『生き地獄』を見てしまった人の手記」といってよいだろう。著者は元キリスト教徒とのことだが、いかなる宗教においても、「生き地獄」をみる危険性を孕んでいると断言してよいだろう。

 「鰯の頭も信心から」という諺があるが、対象が何であれ、「信じることで救われる」ならば、それはそれでよいことだ。しかし決して忘れてはいけないことは、「信仰とは、あくまでも『鰯の頭を信心することでしかない』ということ」だ。つまり「救われること」とは、その人の「心理現象」であり「物理現象」ではないのだ。
 私はある機会に「神」や「霊」の存在といったものを全く信じない「無神論者」(無信心者)となったが、そのことによって、心の開放を得ることができた。つまり「神や霊、あの世の存在という呪縛」から解き放たれることで、人生を大いに楽しむことができるようになったのである。まさにこの本の帯に書かれているとおり、「人間を幸せにできるものは、人間」なのである。その現実に不惑を遥かに超えた頃、ようやく気付いた。情けないことだが、それゆえ、一層著者である野原氏の気持ちはよく理解できる。
 私は、ミッション系の大学で学んだこともあり、キリスト教についての講義も4年ほど受けた。しかしその中でかなりの違和感、換言すれば、「神の行いにおける大いなる矛盾」を感じたのは、「アブラハムの試練」においてだ。神はアブラハムの信仰心を試すため、息子であるイサクを生贄にするよう命ずる。最終的には文字通り「機械仕掛けの神」の如く下される神の奇跡により、最悪のことは回避される。しかし「なぜ全知全能であるはずの神が、アブラハムの信仰心を試すために、そのような試練を必要としたのか」。全く理解に苦しむ。
 もっとも、この逸話からは、キリスト教が「契約に基づく宗教である」ということはよく理解できる。つまり「人間としての幸福とは、神との契約のなかで初めて与えられるものである」とキリスト教は説くのだ。その考えは、砂漠地帯という厳しい自然環境に生きていく中で培われたものだろう。しかし(時にはとんでもない禍をもたらすとはいえ)豊かな恵みを与えてくれる自然のなかで育まれた日本文化には、やはり異質な考えだ。そんな日本の文化とはかけ離れた文化の中で生まれ、しかも数千年も前に起こったとされる事象が「すべて真実」として信じられる宗教を日常生活の基盤とし、しかも何の不審も感じないことに、私は強い違和感を覚える。
 「信仰とはアヘンである」とはよく言われることである。私は、そこまでは思わないが「アルコール」だとは思う。適度に嗜むにはよいのだが、度が過ぎると陥穽にはまり、生き地獄を見る。要は「宗教とは鰯の頭に過ぎない」という実態をわきまえ、うまく付き合うことが大切なのだ。
 そういった現実を示してくれる、良書である。

Bさん 
明治以降日本ではキリスト教が広まったが、全体としては他の宗教より尊重され恵まれていたと思う。 なぜなら、日本人でキリスト教を奉じたのは、知識人や貿易商など、外国文化になじみやすい裕福な層が多かったからである。矢内原忠雄・有島武郎・新渡戸稲造・内村鑑三・賀川豊彦・遠藤周作・三浦綾子・曽野綾子・佐藤優など、キリスト教信仰を「売り」にする有識者というジャンルさえあって、一定の需要があることからもわかる。さらに日本にはミッション系の大学が数多くあるが、多くは仏教系大学や神道系大学より偏差値が高く評判が良い。これらの背景には、日本人の西洋文化に対する劣等感と憧れがあったことは否めない。もちろんこれら有名人が奉ずるキリスト教は通常、良識ある人が眉を顰めるような「狂信的」なものではなかったことも理由の一つではある。ほぼ同じだけ信者がいると思われる創価学会において、創価を売りにする知識人などいないどころか、ネット上では今もなお蛇蝎のごとく嫌われているのにくらべれば、日本におけるキリスト教にたいする批判や攻撃は、非常に少ないとみるべきである。

 しかし冷静に考えれば、これはかなり不思議なことである。創価学会や日蓮宗系が日本人に嫌われるのは、日蓮宗を受け入れない者は行いがどんなに善良であれ地獄に落ちると叫ぶからである。だがこの点ではキリスト教も全く同じなのだ。もちろん最近のカトリックやリベラルなプロテスタントの上層部はやや方向性を改めており、またさきの「有名人」なども大体はその範疇に入る人が多いので表面化しないが、一般的なキリスト教信者、とくにかなり多数を占める福音派=「聖書信仰」派の人はそうではない。聖書信仰派の主張は「聖書は一語一句が誤りのない神の言葉であり、人間はその命令にひたすら服従するのが務めであり、それ以外は滅びの道しかなく、聖書の神を受け入れない人のヒューマニズムや、一般的な善行は、神の前には無価値である」ということである。相当狂信的な学会員ですらなかなか言いそうにないことが、キリスト教徒の中では「あたりまえ」なのである。
 著者もまたプロテスタントの信者であり、人生の究極の知恵や規範をすべて聖書に求める聖書信仰者である。著者の母は、もうすぐキリストが再臨し、自分たちが携挙されることを夢みるほどの人である。しかしある時著者は精神疾患にかかり、家庭が崩壊し、すべてを失う。子どものころからキリスト教を信じ、高校生の時に洗礼を受け、10分の1献金をするのはもちろん教会のあらゆる仕事に全力をもって尽くした自分と自分の家族が、いったいなぜこんな目に合うのか。つまり「神はいない」ということではないか。そう気づいたとき、社会に対する見方の一切が変わり、いままで非キリスト教的として相手にしなかった人間観が自然なものに思える一方、聖書が何の保証もなしに人間を一方的に縛り付けるものでしかないと気づくのである。
 かつてダーウィンは一人娘を失った時、神はいないと確信した。キリスト教の神は全知全能である。悪魔は神の承認のもとに活動している。この世に理不尽や不幸があるなら、それは神が望んでいることと解釈するのが自然である。つまり神は人間を救わないのである。あるいは神など最初から存在しないということになる。これは屁理屈でも何でもなく、実際本書帯に書いてる通り「人間を救うのは人間だけ」なのである。
 ここで注意すべきは、著者は決して「エホバの証人」や「統一教会」などといった評判の悪いカルトの信者ではないという点である。にもかかわらず、キリスト教に入信していたころの彼女の発想は、エホバなどを盲信している人のそれとなんと似ていることか。聖書など特定の経典や教祖の一言一句を誤りなき言葉として狂信し、世間の良識も科学的真実もそのフィルターでしか見ないという点では瓜二つである。日本では創価に比べ、キリスト教が非難されることは少ないけれど、教えの排他性・異常性というのは福音派を中心にかなり強度のものと気づかされる。あえて邪教というなら、邪教はエホバ・統一教会・創価・幸福の科学だけではなく、「良識あるキリスト教徒」も実は心理レベルではたいして変わりないのである。

Cさん
元、敬虔なクリスチャンが自身の体験をもとに、キリスト教の負の側面について言及しています。

自身の体験の他、キリスト教の歴史についても著者が調べた内容が分かりやすく説明されていて、あらためて宗教の危うさや人間の愚かさを認識させられます。
現代の人はイスラム過激派の事件をテレビで見て暗い気持ちになりますが、キリスト教の過去の歴史はもっとずっと怖ろしいと感じました。
ただ、著者が精神の健康を損なって信仰を捨てるに至った経緯が本書の後ろのほうにまとめられていますが、このあたりは、正直あまり共感することができませんでした。
まず、著者はずっと信仰生活を送ってきたのに神の導きもなく体調を崩し、家族もバラバラになってしまったと言ってますが、この程度のことを不幸と言って嘆くかな?と思ってしまいます。
現に夫も子供も孫もいて、特に敵対しているというわけでもないのに・・。
世の多くの孤独や不条理を知らなさすぎるのではないでしょうか?
この程度のことで神がいるとかいないとか判断しようというのが、人間の未熟さ愚かさを露呈しているように思えてなりません。
ただ、やはり教理や教会システムに問題が多いということは十分納得できました。

Ⅾさん  
著者は、「いったい正しいキリスト教信仰とは何なのでしょう」と問います(139頁)。

お答えします。正しいキリスト教信仰とは、正しいキリスト教を信じることです。

いろんな人がいろんなことを言いますが、何が「正しいキリスト教」なのか、答えは出ています。

「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。

これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言い、自分たちが容認できないくらい見解が違う場合には「異端派」と言います。逆から見たら逆に見えるだけです。ですから、世には無数の「正しいキリスト教」があります。

「正しい聖書解釈」も同じことです。いろんな人がいろんなことを言いますが、これも答えは出ています。

「自分が属する教派の解釈、および、それを受け入れた自分の見解」これを正しい聖書解釈と言います。

これに反する主張を「間違った聖書解釈」と言い、自分たちが容認できないくらい見解が違う場合には「異端派の解釈」と言います。逆から見たら逆に見えるだけです。ですから、世には無数の「正しい聖書解釈」があります。

キリスト教は科学の理論ではありませんから、その主張に科学的な証明が求められるわけではありませんが、少なくとも、理屈の通った主張をする必要はあるでしょう。クリスチャンと称する人の中にはまるで理屈の通らないことを言う人もいますが、それでは迷信や狂信と変わりません。
また、人は、自分が知らないものを信じることは出来ません。神様を信じると言うなら、神様を知っていることが前提になります。でも人は、見たこともない神様を、どこまで「知る」ことができるのでしょう。
クリスチャンと称する人の中に、聖書の言葉を適当につないで、想像も混ぜて作りだした「神様」を信じているのではないかと思える人たちもいます。それは人間が作った「神様」です。つまり偶像です。自分たちが偶像を作り、それを維持しているのです。二重基準です。

世には無数の「正しいキリスト教」がありますが、他宗教や他教派などの異なる立場を断罪することで自分たちを正当化する「正しいキリスト教」には警戒したほうがいいでしょう。

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。その「教会」が一体どんな実を結んでいるのか、よく見て木を選ぶ必要があるでしょう。信者二世、三世であれば、親から受け継いだ信仰が、外から見たらどう見えるのか、今日の科学や人権意識に照らしてどうなのか、よくよく考える必要があるでしょう。

この本をお読みになったクリスチャンの方々のご意見を伺いたいと思います。型通りの護教論や模範解答ではなくて、ご自身のお考えを、ぜひお聞きしたいと思います。


うーん、通常はあまり顧みられることもない、自費出版本に、これだけの熱のこもったレビューが書かれること自体、宗教というものに一家言ある人が多いのかもしれません。

宗教は、生き方の問題でもありますから、それだけ、真剣になる人もいるのだと思います。

僕自身の考え方は、スピリチュアルな話カテゴリーの中で表明しているので、ここで繰り返すことはしませんが、明日も、この続きの話になりますので、こういう話に興味のない人はスルーしてください。




所有することで、その所有物に支配される



人生が拡大する時期においては、

所有を求めて悪戦苦闘するのが世の常。 

少しでも多く、

もっと上に、

より高く、

を求めて、

あがき続けます。

勿論それが、

一概に悪いことだとは言えません。


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ただ、人生は、つかの間の夢。


 


それだけは、心のどこかにでも、

とどめておいたほうが良いのかもしれません。








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