介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

60男の内省

人間の持つ根源的な悲しみと苦しみ


吉田修一の小説、悪人、の中で、誰が本当の悪人なのか、を、突きつけられるように、ものごとの本質を見極めようとすると、大変な時間とエネルギーが必要となります。

そして、それだけの労力と犠牲を払っても、必ずしも本質が、見極められるものでもありません。 

それでも一部の人は、真実とは何かを、真摯になって追及するのですね。

大半の人は、日々の雑事に忙殺されて疲労困憊し、真実の追求どころの騒ぎではなく、日々、生き抜くだけで精一杯なのかもしれません。

僕自身が、まさに、そうでした。

生活の糧を得るための仕事をこなすだけで、9割近くの活力を奪われて、わずかな残り火で、内省する日々。

勿論、生活の糧を得るための時間が全部無駄ということではなく、会社内の人間関係を通しての学びや、困難な仕事をやり遂げた後の充実感、など、仕事や仕事環境の中でこそ経験できたことも多々ありました。

ただ、あまりにも、仕事に向けざるを得ない時間とエネルギーが、大きすぎると思うのですよ。

そうなると、生活の質も、価値観も、仕事中心にならざるを得ず、僕には、息苦しかったですね。

さて、今は、完全リタイアなので、内省の時間はたっぷりあります。

極端な言い方をすれば、生活のすべてが内省の時間、かもしれません。

埼玉県南西部にある5つの図書館を自由に行き来して、本やCD、DVDなどを借りまくっていますが、僕の住む町と隣接する3つの市と、2つの町の図書館カードが作れるので、実は、あと一つ作れるのですよ。

そうなると、外付けのハードディスクのように、6つの書庫があることになります

そのため、僕の内省を促すツールにも、事欠きません。

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人間の持つ根源的な悲しみや苦しみにも、正面から向き合うことができます。



忌野清志郎が死んで、何年になるのかなあ。



漠とした不安と焦りと孤独


なぜ、あれほど、不安だったのか。

なぜ、あれほど、焦っていたのか。

そして、なぜ、あれほど孤独だったのか。

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今となっては、おぼろげな記憶、しかありません。

とにかく、彷徨っていました。

彷徨い、さすらっていました。

一つ所に、落ち着いていられなかったのは、どの場所にいても、どこにいても、絶えず、閉塞感を覚えていたからです。

ここは、自分のいる場所じゃない、と。

ここではないどこか、を、いつも、求めていました。

漂泊。

漂泊の詩人、ならば、多少かっこもいいのですが、僕の場合は、漂泊の無職。

だから35の年まで、定職に就けなかったのです。

いやあ、形だけの定職はありましたよ、腰掛け程度の、ね。

でも、心は常に不安でいっぱいでした。


その、漠とした不安の日々。

呼吸困難の日々。

どうしてみんな、平気な顔をして生きていられるのかが、不思議で仕方がありませんでした。

まあ、そんな日々が、今では懐かしくもあり、愛おしくもあります。

孤独だった日々、なぜ、孤独を感じたのか、それを考えるヒントになればと思い、以下の動画を貼り付けてみました。



話をしているのは、かつて罪を犯し、刑務所にも入っていたことのある人ですが、そうしたレッテルで人を判断するのではなく、語られている内容の中から、日々の生活の助けになるものを掬い取っていけばいいのではないでしょうか。


 

部屋で一人で死んでも誰にも気づかれない自由な人生


死を意識することで、生が見えてくる、浮かび上がってくる、ということは、あるでしょうね。

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葉室麟さんの小説、蜩ノ記は読んでいないのですが、映画のほうを先日見たのですよ。

あ、もちろん、図書館で借りてきたやつね。

で、いわれのない罪で汚名を着せられ、だけど藩としての大事な仕事を任せている関係で、10年の時間を与えて、10年後の死を、前提にして日々を生きる、という話なのですが、凛として咲く花の如くの人生を見た思いがしました。

お国のために死んで行った特攻隊も、死を覚悟しての短い人生でした。

死を、美化するつもりはありませんが、死に向かい合うことで、生が見えてくる側面はあると思うのですよ。


僕は、適度な田舎の町の一人暮らしなのですが、やがて年を取り、外に出る機会も少なくなり、部屋で一人で死ぬ、あるいはまた、病院の一室で死ぬ、のかもしれません。

あるいは、それ以外の死かもしれませんが、いずれにせよ、死ぬときは、一人。

生まれてきた時も、一人ですからね。


死に向かい合うことで、人生が見え、自由が見えてきます。

だからこそ、明日ではなく、今日一日が、尊いのです。



どんな風に生きても、やがては忘却の彼方へ、忘却の空へと、消えていきます。

ならば尚のこと、自分を見失うことなく生きていきたいと、思っています。


猫のような用心深さで、老後を乗り切る所存


猫からは、学ぶことが多いですね。

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何よりもあの、用心深さがいい。

それと、徹底的に、マイペースなところ。

何も考えないで、つまり、向こう見ずに行動することが多かった僕にとって、晩年は、まさに、そうした人生を総括する場でもあります。

人間はよくできたものだと思うのですが、晩年になるにつれて、行動力がなくなっていく代わりに、内省力は深まっていきます。

エネルギーに満ち溢れていたら、内省どころの騒ぎではありません。

その横溢するエネルギーを発散し、自己拡大を図る時期が青年期から中年期にかけて。

やがてピークを越え、肉体も、この世的地位や立場といったものも、下降していきます。

ときどき、切れる老人を見かけますが、自分が縮小していくことに耐え切れずに苛立っている人がそうした行動をとるのかもしれません。

あらゆることが、自分の思うようには行かなくなる。

何よりも自分自身の頭、記憶、身体機能が、以前とは違って働きがどんどん鈍くなっていく。

さらに、一定の資産を持った人であれば、その資産を切り崩さなければ生活を維持できなくなることにも、縮小感を覚えるでしょうね。

そうした、自己が縮んでいく感覚に耐えられなくて、切れてみたり、不平不満を言ってみたり、他人に八つ当たりしたり、と、あるいは老いを自覚せずに車のハンドルを握って暴走したり、とか、ね。


僕はと言えば、用心深く、小さく生きて、世の片隅で、静かに息をしていたいのですよ。

いるのかいないのかわからないような存在でいたいのですよ。

で、こうしたブログを綴ることで、自分の意見が多少なりとも表明できれば、それで十分なのです。

しかも、このブログにすら執着はなく、ある日突然、辞めてしまうかもしれません。

今は楽しいから、ほぼ毎日更新していますが、もっと他にやることがあると思えば、ブログは放置してそちらに没頭するでしょうね。

人生の残り時間がわからない以上、これからの僕も、どこに流れていくのかは未知数ですから。



自分の理想像など持たないほうが良い理由


自分はこうあるべきだ、という思いが強い人は、絶えずストレスに晒されています。

なぜなら、実態は、全然自分の理想像とはかけ離れているから。

まあ、勝手に理想像を描き、勝手に苦しんでいるという、自縄自縛の状態。

実は、これ、若い頃の僕の姿、でした。

もう遠い過去のことだから、こんなことが言えるのですが、ね。

で、こういう人は、マイナスの感情を持ちやすいので注意が必要。

理想の自分を描くのは、思考、すなわちエゴのなせる業。

理想の自分という幻想よりも、今ここにある自分の尊さに気づけば、すべては解決します。

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僕たちに必要なのは、思考、ではなく、気づき、なのですよ。

 


まあ、気づきは、あなた(自分)次第だということですね。


いつ死んでもいい覚悟


昨日は雨の中、友人のIさんが東松山市から来てくれて、そのまま僕の町にある湖に行きました。

その湖のほとりの小高い山の中に東屋があって、そこで雨をしのぎながら対話しようと思ったのですが、思いのほか雨が降っていて、東屋へと向かう坂道の階段に沿って水が流れ落ちているので、急遽場所を変更。

湖に来る道の途中にある、総合運動公園へ。

広い敷地の芝生の中にある藤棚へ行ってみたのですが、藤棚というのは日よけにはいいが雨除けには今一つで、ベンチが濡れている状態。

では、体育館の中の椅子へ、と思ったのですが、玄関へと向かう途中、Iさんが、あそこは、と指し示した場所が、ちょうど凹んだ空間。

屋根もあり、空間的な広さもあり、ということで、そこに決定。

Iさんが車に積み込んであるミニ椅子とミニテーブルをそこにセッティングして、対話をしました。

Iさんは、自身がベーシストでもあり、ロックに造詣が深く、音楽の話をしばらくしていたのですが、このまま行くと音楽の話だけで何時間も、というのも、と思い、話題を変更。

その後、実に様々な話をしたのですが、僕は、改めて、今の自由な時間を生きている暮らしが正解だなあと思うと同時に、いつ死んでもいい覚悟を持っていたほうがいいという気持ちを、さらに強くしました。

今、61歳で、もう、シニアと呼んでも良い年齢ですし、先のことはわかりません。

なので、今だけを見つめていようと、思った次第。

Iさんのほうは、僕より10歳若い51歳で、まだ現役のビジネスマンでもあるので、まずは仕事に集中し、お互い、マネーリテラシーの話や、共に抱えている住宅ローンの話、そして、共に信じる対象は違えど、お互いの宗教観なども、話し合いました。

ときどき、前を若者のグループや家族連れが歩く中、対話は流れるに任せて、ときどき、雨にけぶる風景などにも目をやったりしていました。

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14時ごろに始めた対話も、気がつくと18時になっていて、腰を上げた次第。

空は、ずっと曇っていて、雨も降ったりやんだりでしたが、実りのある4時間でした。

 帰りは、Iさんがピンク・フロイドのファーストアルバム、夜明けの口笛吹き、をかけながら、この時には、ギルモアは、いなかったんですよね、などと発言。

ピンク・フロイドのファーストアルバムを聴いたのは、僕はこの時が初めてでした。


悲惨なのは時間もお金もない人たち


今日はこれから図書館に行き、予約していたひろゆきの本を借りてくる予定です。
 
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ひろゆきの考え方には共感するところが多いので、親和性を感じているのですよ。

ひろゆきはホリエモンとも仲が良いようですが、考え方はかなり違います。

僕は、ホリエモンの考え方も理解はできますが、自分は同じようにはできないので、距離がある感じですね。

同様に、秒速で稼ぐ与沢翼の考え方も理解はできますが、自分は同じようにはできないので、これまた遠い存在ですね。

ただ、今後の日本そのものの立ち位置を考えると、僕は、外国に拠点を置いているひろゆきや与沢翼の在り方は、正解だと思っています。

日本でしか根を張れない人間は、今後苦しくなっていくことが予想されるからです。

ジム・ロジャーズでしたか、日本についてかなり悲観的な予測をしていますが、概ね僕も、同じ様に考えている部分はあります。

僕が若者だったら、やはり、日本に居続けることには、暗い未来を感じるでしょうからね。

グローバル化の流れは止められない以上、日本にしがみつくことはリスクでしかありません。

なので、ひろゆきや与沢翼の海外を拠点にして生きるという考え方は、先を読んでいる人間の在り方だと、思っています。

日本が、緩やかに貧困化していく流れが予見される中で、大切なことは、まあ、大切なことというのは、いつでも同じなのですが、今をどう生きるか、ということ。

で、これは、その人の立ち位置によって、選択は大きく変わってきます。

僕のような、61歳の壮年というか、初老の男の一人暮らしであれば、このまま日本にいて、ささやかな幸せを慈しんで生きるのがベストだと、思っています。

もし、僕が20代だったらと考えると、まったく違う生き方になりますね。

生き残るために資産構築をし、資産は分散します。

分散と言っても、円だけに頼った分散は危ないので、ドルをはじめとした他国の通貨での資産を複数持つようにすると思います。

つまり、日本での軸足を少しずつ緩めていく、感じです。

ひろゆきがフランスを住処に選んだのも、彼なりの理由があってのことでしょう。

与沢翼は、シンガポールとかドバイ、でしょうか、今はどこにいるのか詳しくは知りません。

つまり、ひろゆきにしろ、与沢翼にしろ、富裕層は、住むところを選べるというアドバンテージがあります。

これは、今後日本が斜陽化していく中で、生き残ることを考えた場合、きわめて大きな強みです。 

この二人は、お金があるだけでなく賢いから問題はないのですが、金があるだけのバカは一番危ないですね。

狙われますからね。

ターゲットにされる危険性が大きくなり、金のない奴のほうが狙われないだけ、安全です。

さて、一番いいのは、金も時間もあり、さらに賢い、というもの。

で、金も時間もないのが、これがつらいのですよ。

多くの売れている芸能人みたいに、金はあるけど時間がない、というのも、僕はあまりうらやましくは感じません。

それよりも、金はないけど時間はある、という、小屋暮らしの若者のほうが、僕から見ると幸福度は高いように思います。

で、一番悲惨なのは、ブラック企業などで働く、金もないし時間もない人たち。

これでは、今という時間も疲弊しているし、将来への備えも、出来ません。

幸福の順番を上から言うと、

金も時間もある人たち。

金はないが時間がある人たち。

時間はないが金のある人たち。

金も時間もない人たち。

少々乱暴な区分けですが、こんな感じです。

人によっては、2番目と3番目の順位が変わる考えの人もいるでしょうね。

ただ、これは、その人の内面には踏み込んでいないので、平面的、一面的な、区分けにすぎません。

昨日の記事で言及した、西行、鴨長明、良寛、などは、2番目のグループ、ということになります。

僕も、2番目のグループ。

ひろゆきなどは、1番目のグループになるわけで、金もあって時間もあって、毎日好きなように暮らし、行きたい時に行きたい場所に行ける、ノマド的生活ですね。

まだまだ言いたいことはあるのですが、長くなったので、今日はここまで。


ある種の優越感ほど始末に悪いものはない


僕が中学生の頃、北辰テストというのがあり、その点数が廊下に貼り出されたりしました。

誰でも通る廊下に貼り出されると、クラスの人間だけでなく、違う学年やクラスの人にも、自分の学力の順位が、晒されることになります。

向上心のある子どもであれば、それをモチベーションにして勉学に力を入れるでしょうし、劣等感を感じやすい子どもであれば、さらに落ち込む材料にもなるでしょう。

また、恋愛などにも目覚める年ごろなので、好きな異性の順位と自分のそれを比較して、つり合いが取れているだろうか、などと、余計なことも考えるかもしれません。

まあ、そうしたテストは、進学校を決める際の指針でもあったのでしょう。

そしてその進学先の高校も、偏差値なるものでランク分けされていたわけです。

つまり僕たちは、子供のころから、学業だけでなく、運動能力、見た目、家が裕福か否か、など、で、優越感を感じたり、劣等感を感じたりしやすい環境で、育ってくるわけです。

この、自他の比較、というのはあまりにも身近にあるので、よほど意識しないと、自動運転のように働きます。 

一流大学という言葉もあるし、Fランク大学、という言葉もあるようです。

僕などは、大学にさえ行っていないので、最初、ネットで、Fランという言葉を見た時に、何を言っているのか理解できませんでした。

さて、事程左様に、比較の中で生きている僕たちですが、いちばん始末に悪い優越感が、宗教的エゴによる優越感、です。

これは、歴史を見ればわかりますし、今この時代でも、周囲を見渡せば、わかることです。

宗教的エゴが引き起こした悲惨な出来事は、書きだすと膨大な量になるので、具体例を一つだけ示すとすると、ローマカトリック教会の異端審問によって、300年間に400万人前後の女性が拷問され殺害されました。

彼女たちは、ただ動物をかわいがったり薬草を集めたりしただけで魔女の烙印を押され、拷問にかけられ火あぶりにされました。

彼女たちを魔女だと決めつけた宗教的支配者のエゴによって殺されたのです。

では、そのエゴなるものは、どういうときに最も強化されるのか?

それは、自分の正しさに執着するとき、です。

自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはありません。

エゴは、自分が正しいと思いこむためには、好んで誰かが間違っていると決めつけたがります。

つまり、自分という存在を強化するためには、誰かが間違っていなければならないのです。

カルト宗教のすべてが、この罠に落ち込んでいます。

それ故に、独善的にならざるを得ません。

カルト宗教が独善的になるのは、必然なのです。

少し前の記事に対する幸福の科学の休眠会員、寄る辺なき子さんのコメントで記された彼女の法友の言葉、

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会員の呆れた言葉、エルカンターレを信じるまで火攻め水攻め食料危機も迫って来ると息巻いている姿に、ぞっとしました」も、スピリチュアルエゴの典型的な心理状態です。

因果の理法、などに代表される宇宙法則は、どこかの団体の独占物ではありません。

しかしカルト宗教は、自分たちこそが真理の団体であり、信仰心がある、と思っています。

まさにその思いこそが彼らのエゴを強固なものにしているのですが、何よりも教祖自身が自分を客観視できない状態の裸の王様なので、むしろ狡猾な取り巻き(教祖を信じているふりをして利益だけを抜き取ることに徹する輩)に利用される哀れなピエロに成り下がっていたりします。

まあ、この辺りの事情は、カルト教団によってそれぞれですが、共通しているのは、自分たちこそが正しい、という思い込み。

そしてその思い込みの背後にあるのは肥大化された優越感と強固なエゴ。

お金持ちが貧乏な人を見て感じる優越感などは、宗教的エゴによる優越感に比べれば、かわいいものかもしれません。


自分は特別だと思いたい人間の集まり


昨日の記事に対するコメントを読んだときに、それはまた、僕自身が、過去の自分を反省する契機ともなりました。

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僕は、過去記事でも何度か言及しているように、統一協会と幸福の科学という、二つのカルト宗教を、経験しています。

そして、どちらの団体の信者であったときも、自分は特別だ、という、思いがありました。

これは、個人差はありますが、信者であれば多かれ少なかれ、持っている感情です。 

なぜ、そのような、自分は特別だ、という感情になれるかというと、その団体の教祖こそが、特別な存在、だから、です。

いや、もっと別の視点に立てば、その団体を主導するその教祖こそが、誰よりも自分のことを特別な存在だと思いたい人間、なのです。

誰よりも自分のことを特別な存在だと思いたい人間であるその教祖を取り巻く信者もまた、多かれ少なかれ、自分のことを特別な存在だと思いたい人間なのですね。

つまり、まあ、類は友を呼ぶ、というやつです。

で、この、自分は特別だと思いたい人間の集まり、は、カルト宗教にこそ顕著に現れます。

オウム真理教、統一教会、幸福の科学、まあ、他にもいくつか名前を上げたい団体はありますが、いずれの信者も、自分は特別だと思う根拠を、本人が自覚するしないにかかわらず共通認識のように持っており、この点が、なかなかその団体をやめられない潜在的な理由にもなっています。

潜在的な理由、と、今僕が言ったのは、当の信者その人が、自分を客観視できない人が大半なので、自分がその特別感に酔っていることに気づいていないし、教祖の持つ万能感、を、あたかも自分も共有しているような陶酔感のようなものを感じ、それにある種の快感を覚えているわけですね。

死刑が執行された後も、未だに麻原彰晃をグルと仰ぐ一定数の人間がいることからも、この陶酔感の麻薬的快感の強さを想像できるのではないでしょうか。

多くの仲間がグルへの帰依を放棄した中で、自分こそはまだそれを持ち続けている、という陶酔感に酔う中で、彼ら彼女らは、自分こそは、あるいは、自分たちこそは特別だ、との快感を強化しているのです。

わかりにくいですか?

思春期の頃の恋愛でも、これに似た経験をする人もいます。

彼、もしくは彼女、は、自分にとっては特別な存在であり、またそう思う自分も、彼もしくは彼女にとっては、特別な存在である、という特別感。

人間は、あなたは特別、という感覚に、弱いのですよ。

僕は、1000円の腕時計を左手首に巻いていますが、僕の友人の一人で、ロレックスのサブマリーナを巻いている奴がいます。一昨年前の同窓会で、見たのですがね。

時を刻むという機能は同じですが、1000円の時計のおよそ1000倍の値段のするロレックスをつける快感もまた、その時計をしていると自分の価値も上がるかのような感覚が持てるからでしょう。

ちなみに、神々の主を自称し、この宇宙の根本仏であるとも宣言している地球神、大川隆法さんは、ロレックスも持っているでしょうが、それよりも高い時計を数多く所有しています。

まあ、車にステイタスを感じる人もいるし、その辺の価値の配分は人の個性が現れるところ。

で、そうした、自己重要感といいますか、自己特別感のところを、商売をする側からすれば、ターゲットにするわけですね。

そこを巧くくすぐれば、高い商品でも買ってもらえるから、です。

彼らがお金を出すのは、商品の機能としての価値にではなく、ブランド価値、という付加価値、に対してなわけですね。

カルト宗教の場合も、信者が教団の提供する御本尊や法具などのグッズや研修や祈願などのソフトを、特別なものだと思ってもらえれば、たとえば、原価2万円の像も、300万円で売れる、わけです。

しかも宗教法人格を取得していれば、その利益には税金もかかりません。

売る、というとえげつないので、拝受、とか、言っていますけど、ね。

で、僕が何を言いたいのかというと、自分は特別だと思っているうちは、悟りの入り口にも立っていない、と、いうこと。

自分は平凡な人間の一人だとわかって初めて、真の平安への道が始まるのだということが、中二病をこじらせているカルト信者にはなかなかわからないところでもあったりします。


一度も働いたことない40〜50代大卒娘の憂鬱


世の中には、大学まで出ながら、一度も働いたことのない女性が結構いるそうです。
 
ニートと言うと、男のイメージが強いですが、女性のニートも、それなりにいるようです。

以下は、かつて、横浜市役所で働いていた人の記事からの引用です。

横浜市役所では、2000年代当初から、話題になりだしていたことがある。

それは、「この子は一度も働いたことがないのですが、親が亡くなった後、どうすればいいですか」と、40〜50代の娘を連れて、高齢の親が区役所の窓口にくるというのだ。

彼女たちが学校を卒業したころは、就職せず、花嫁修業と称して、家でお稽古などをして過ごし、それなりの時期が来たら結婚することは珍しいことではなかったのだろう。だが、たまたま縁なく結婚せず、就業経験もないまま40〜50代になった女性たちは、もはや外に出て働く、他人と交わるということも難しそうな状況だったという。

当時は若者への就労支援が始まりだしたころであったが、無業のまま40代になった女性には支援の仕組みもなかった(いまでもほとんどない。多くの就労支援は30代までである)。

この女性たちが次に公的サービスにつながるときは、親が要介護状態になるときか、親が亡くなって年金収入も絶え、生活に行きづまって生活保護の窓口にくるときだ、という危機感を生活保護課では持っていた。

10年か20年後には、50〜60代の就業経験のない未婚女性の生活保護受給者が増えるのは避けられないだろう、とも予測していた。


うーん、今も増え続けている生活保護ですが、今後もその増加が予想されていて、社会保障費の更なる支出が増えるのでしょうかねえ。

これでは、まじめに働いている給与所得者が、浮かばれませんねえ。

少ない給料でやりくりしながら、節制に節制を重ね、老後は、少ない年金で生きるわけですからねえ。
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そして、ある日、生活保護受給者のほうがいい暮らしをしていることに気づく、と。

生活保護受給者も、一度味をしめてしまうと、もうその既得権益は離さないでしょうし、ましてや高齢であれば、なおさらのこと。

しかして、まじめに働いてきた多くの給与所得者は、現役時代も質素に暮らしながら、老後はさらなる節約生活で、医療費も節約。

一方、生活保護受給者は医療費をはじめとした多くのものが無料ですから、非正規などでまじめに働いてきた人たちよりも総合的な可処分所得は上になったりします。

まあ、これは、制度自体の問題であり、見直すべき多くの課題が残っていると思います。

今日話題にした、一度も働かないまま生活保護に移行していく人のほうが、長年非正規で働いてきた人よりも、老後、いい暮らしをするようでは、労働者はつらいばかりです。


70歳まで働く人の自由時間


少し前の、ガイアの夜明けで、タクシードライバーの解雇の話を見たのですが、70過ぎたドライバーが社長に文句を言っていました。

うーん、人の事情はそれぞれなので、何とも言えませんが、そんな高齢になってまで働く人の自由時間て、どれだけあるんだろうと、考えてしまいました。

この文句を言っていた人も、70を過ぎてもハンドルを握らざるを得ないから、握っているわけで、出来れば、仕事を辞めたいと思っているのかもしれません、からね。

先日も、クローズアップ現代で、シニアの労災が深刻だ、みたいなのをやっていましたね。

ちょうど、ハケンの品格と被ってしまって、どっちをダビングしようかと思い、篠原涼子のほうにしたのですが、そのため、リアルタイムで見ることに。

なので、その記憶をたどって書いてみると、年金12万円の女性が犬をなでながら何か話していましたが、それだけもらっていたら、無理して働く必要なくね、と、思ったのは僕だけでしょうか。

シニアの労災は、多いそうで、考えてみれば、僕が、今年5月にアルバイトを辞めたのも、夏に熱中症で倒れるのを恐れたことも、理由の一つ。

自分の身は自分で守るのが基本、ですからね。

以下は、ネット記事からの引用。

「実際には、すでに4割近くの人が70歳になっても働いている」と指摘するのは、ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎主席研究員です。18年の70歳の就業率は36%。平均退職年齢もここ数年上がり続け、18年には69.9歳になりました。「健康寿命が延び、まだ上昇の余地がある」と話します。

どんなふうに働いているのでしょう。一橋大学の小塩隆士教授に聞くと「アベノミクスで増えたのは非正規雇用のシニアです」との答えでした。12~18年の間に増えた非正規労働者は304万人、うち60歳以上が190万人と半数以上を占めました。特に60代後半の人が増えているそうです。

景気回復や人手不足などにより仕事が増えたことが背景にあります。こうした中、思わぬ事態も起きています。仕事中、けがをする高齢者が増えているのです。

厚生労働省の統計によると、労働災害による死傷者のうち、60歳以上は18年に約3万3千人になりました。すべての年齢のうち26%を占めます。10年前に比べ、約1万人増えました。「働く高齢者が増えて事故も増えている」(厚生労働省)そうです。

特に最近増えているのが「転倒」です。18年の死傷災害の4分の1を転倒が占めました。関東地方の労働基準監督署に聞いてみると「昔は機械に挟まれるといった事故が多かったが、今はちょっとした転倒で、労災につながるようなけがをしてしまう」ということでした。

うーん、まあ、働く働かないは、各人の事情もあり、自由なのですが、70歳まで、あるいはそれ以上の年齢まで働く人の、正味の自由時間て、どのくらいあるんでしょうか。
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それと、人間には、健康寿命があるのですよ。

ただ、心臓が動いていればいい、という話ではなくて、行きたい場所に行くとか、やりたいことができるとか、は、健康でなければできないわけで、そういう意味でも、シニアの時間は、まさに貴重だと思うのですが。

それを、労働で塗りつぶすのは、どうなのでしょうかねえ。



ここではないどこか、という病


 自分探し、という言葉がありますが、若い頃は、僕もその言葉にまどわされて、本当の自分、なるものを探そうと、していた時期があります。

自分探しという思考、あるいは感情の、背後にあるものは、自分の本来いるべき場所はここではないのではないか、という思い。

つまり、ここではないどこか、に行きたくて、そして、今の自分ではない本当の自分、に出会いたい、なりたい、ということなのではないでしょうか。

ここではないどこか、を、求めたくなる気持ちの根底にあるのは、疎外感、かもしれません。

この疎外感こそが人間存在の普遍的なジレンマであるとして小説を書いたのが、フランツ・カフカやジェームズ・ジョイス、アルベール・カミュ、などの作家ですね。

しかし、ここではないどこかを求め、今の自分ではない本当の自分なるものを探せば探すほど、本質からは遠ざかっていきます。


昨日は、僕の故郷でもある入間市を少し歩いてきました。

入間川の川原に車を止めて、街のほうへと歩いたのですが、今までは、いなげやの駐車場に車を止めていたのですよ。

でも、それだと、返報性の原理で、何かを買っていたりしたのですが、川原に車を止めるという方法があることに、昨日、気づいたわけです。

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入間市駅への緩く登っていく道を歩きながら、坂のある街はいいなあ、と、改めて思いました。

街歩きと言えば、多摩モノレールの一日乗車券を買って、沿線の街歩きをする際に、狭山市中央図書館に車を止めて、いく、という方法があるのですが、これだと、図書館の開館時間に行動を左右されるわけですよ。

でも、川原に止めれば、時間制限はなくなるわけで、狭山市から行こうが入間市から行こうが、玉川上水駅までの電車賃もたぶん同じくらいだと思うのですよ。

僕の家から、電車オンリーで、川越周りで行くと、電車賃がかさむし、やっぱ西武線の沿線まで車で行ったほうが、効率がいいわけです。

福生や八王子の街歩きをするときは、日高図書館に車を止めるとか、だいたいパターン化しているのですが、川原という手があることに気づいたのは、僥倖でした。

まあ、僥倖というのは少し大げさ過ぎるので、ラッキーと言い直しましょう。


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