介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

60男の内省

「おひとり様」を楽しめることの自由と豊かさ



世の中には、

孤独を楽しめる人と、

楽しめない人がいます。


孤独を楽しめない人は、

孤独によって得られる自由よりも、

寂しさのほうを、

より感じてしまうからなのかもしれません。 


ただ、

考えてみて欲しいのですが、

どんなに仲の良い夫婦でも、

いずれ、

別れの時が来ます。


おしどり夫婦の相方がいなくなった時、

そのダメージは計り知れません。


愛着が強ければ強いほど、

苦しみや寂しさも、

より強くなるわけですからね。


人間ばかりではありません。

ペットとの別れもそう。


家族の一員であったワンコやニャンコ、

あるいはそれ以外のウサギでもハムスターでも、

カメなどの爬虫類でも、

そこにいた存在がいなくなった時、

その欠落感は、

その対象への愛着、

あるいは、

依存度で変わります。


仏教では、

これを、

愛別離苦

と言います。


世の中には、

親よりも先に、

この世を去る子供もいます。


やっと授かった一人っ子が、

早逝することもあります。


僕の弟も、

生まれてすぐに、

死にました。


母体を助けるために、

予定よりも早く、

帝王切開したからだそうです。


親であれ子であれ、

夫婦であれ兄弟であれ、

他者との別れは必定です。

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つまり、

人は、

究極には一人であり、

咳をしても一人

なのです。


だからその、

一人の状態を、

楽しめるか否かは、

きわめて重要です。


人生の明暗を分けるほどに重要です。


「おひとりさま」を楽しめる人は、

それだけで、

とても自由で、

豊かなのだと、

思っています。




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家康と司馬懿の共通点は時を待つ力



「どうする家康」も、

いよいよ佳境を迎えていますね。

好きな武将は?

と訊かれて、

信長や秀吉を挙げる人は多いのですが、

僕は、

二十代の頃から家康びいき。


司馬懿が好きになったのは、

ずっと後ですが、

家康と似ているなあ、

と思っています。


どちらも、

次の時代の礎を築いた人。

そしてどちらも、

耐え忍びの人。

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結果だけを見ると、

安易な思考をする人は、

二人とも、

ただの簒奪者に見えるでしょうね。


家康は豊臣政権を簒奪し、

司馬懿は魏王朝を簒奪した、と。


まあ、微妙な違いとしては、

家康は自身が目の黒いうちに後世に道筋を付けましたが、

司馬懿の場合はそこまでには至らず。


僕が注目するのは両者の最晩年。


「どうする家康」では、

まさにこれからがその最晩年。

今日の放送から最終回までが、

まさにそれにあたります。


家康も司馬懿も、

慎重の上にも慎重を期す用心深い性格。


僕は自分自身が50歳になるまで、

軽佻浮薄な人間だっただけに、

この二人の生き方に惹かれるのでしょうね。


二人の共通点は、

忍耐強さの他に、

時を待つ力があるということ。


多くの才ある者が、

時を待てずに自滅していく中、

この二人には、

時流を読み切る力がありました。


これは、

少才には及ばぬことで、

この点においては、

信長も秀吉も、

小物のそしりは免れますまい。


そしてまた、

二人に共通するのは、

機を見るに敏、であること。


司馬懿は、

動かないときは岩のように動かず、

ここぞというときは電光石火で事を成しました。


とりわけ最晩年の、

ボケ老人を装って相手を欺き、

曹爽一派の一瞬のスキを突いて都を制圧した時は、

まさに鬼神の働き。


徳川家康と司馬懿。


二人から学ぶことは、

今まさに晩年を生きる僕にとっても、

計り知れません。



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力とエネルギーを自分に取り戻せれば



僕の知る限り、

実に多くの人が、

自分自身を過小評価しています。


それは多分に、

日本の教育制度の弊害でもあるのですが、

大量の労働者を世に送り出すための枠にはめ込むやり方、

これが制度疲労を起こしているわけで。


一方、

その枠からはみ出して生きてきた少数の人間のほうが、

今の時代ははるかに生きやすく、

また、良い暮らしをしています。


僕が残念に思うのは、

会社でも官庁でも宝塚でも、

その組織に投げ込まれると、

どんな優秀な人間でも、

だんだん身動きが取れなくなることです。


手足をもぎ取られた状態、

と言いましょうか、

自分の体であって自分でない、みたいな。


他者、

多くの場合それは自分より立場の上のものが多いのですが、

その他者の影響下で呻吟することになります。


その結果、

他者の顔色をうかがいながら、

ビクビク生きるようになります。


これでは、

自分の人生であって、

自分の人生ではない、と。


組織に隷属しているうちは難しいのですが、

可能であればその組織内にいながらでも、

力とエネルギーを少しでも自分に取り戻せれば、

生きることはだいぶ楽になります。


僕が介護離職するまで働いていた会社でも、

実はそのようにして、

少しずつですが、

力を自分自身に取り戻していきました。


そうはいっても会社組織である以上、

意に沿わぬことにも従わざるを得ませんでしたが、

自分に力を取り戻すことを意識できただけでも、

良かったと思っています。


そして今は、リタイア生活。

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自分のボスは自分です。

力とエネルギーは、

自分の中にあります。


自分次第で人生を生きられる喜びを、

味わい尽くしている日々でもあります。



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叔父の死と人生の終末期について



昨日、叔父の納棺がありました。

この叔父は、

死んだ父の兄弟で最後に残っていた、

一番下の弟になります。


今は、

火葬場が大変混んでいるということで、

通夜と告別式は来週になるとのこと。


一昨日は飯能市で、

高校時代の二人の友人と会い、

居酒屋の個室で談笑。


一人は、

これまでに3度も手術を経験し、

もう一人も、

一度経験済み、とか。


僕も、

昨年スナックで倒れて救急搬送された話をしたのですが、

深夜の救急搬送と老いの自覚


どうしても話題は、

健康問題が多くなります。


不定期更新にしているので、

備忘録も兼ねて、遡ると、

6日は、年末調整を出すように言われ、

検針日でもないのに営業所へ。


5日は、エンドオブライフケアの公開講座に参加。

僕の家の近くには大学が三つあり、

そのうちの一つ、

日本医療科学大学で、

人生の終末期についての講義を受けたのですが、

これもまた、

考えさせられる内容でした。


2日には、

車のオイル交換をしたついでに、

タイヤの空気圧を見てもらったり。

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日々はあわただしく過ぎていきますが、

来週は通夜と告別式があるため、

予定していたアルバイトの検針日をずらす必要があり、

20日までは予定がぎっしり。 


慌ただしさの中にも、

自分を見つめる時間だけは、

しっかり確保していきたいと、

思っています。





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寧静でなければ、遠くへ至らず



李克強が死にましたが、

その死は、

胡耀邦が死去したときを、

彷彿とさせます。


今後の中国から、

ますます目が離せないと思うのは、

僕だけではないでしょう。

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今日のタイトルは、諸葛亮の言葉。


諸葛亮は司馬懿との戦いの最中に、五丈原で病没。 


稀代の軍師も、

病と老いには勝てず。


それはまた、

司馬懿にとっても同じことで、

諸葛亮に勝った後も、

憂いは消えず、

むしろ増すばかり。


力を持てば持つほど、

その上の人間から疎ましく思われるのは、

今も昔も同じかもしれません。


司馬懿の本当の敵は、

むしろ魏の中にこそいた、と。


魑魅魍魎の巣喰う宮廷よりも、

戦場にいた時のほうが、

安らげたのかもしれません。


歴史に記されている通り、

諸葛亮の奮闘も空しく、

蜀は滅亡。


いかなる天才をもってしても、

時の趨勢には、

抗えません。


日本で言えば、

卑弥呼の時代にあたる古の戦いが、

今も語り継がれるように、

いかなる王国も帝国も、

滅亡していきますが、

精神性は語り継がれていきます。


孔子、老子、孟子、荘子、墨子、韓非子、

などの思想家のみならず、

諸葛孔明の言葉もまた、

噛み締める価値があります。


寧静致遠、「心安らかであれば遠くに至る」


蜀滅亡後、

呉も、

内紛から弱体化し、

あえなく滅亡。


諸葛孔明と戦った司馬仲達の孫、

司馬炎によって、

三国時代は終わり、

晋となりますが、

その晋の世も、

長くは続かず。


今も、ロシアとウクライナ、

そしてまた、

イスラエルとパレスチナで。


人類の歴史を俯瞰すると、

平和な時代のほうが短く、

争いに次ぐ争い。


世の無常を、感じるばかりです。



15で従軍し、戦に明け暮れて80歳で帰郷しても、知る人はなく、我が家は雑穀がはびこり、汁をつくって煮ても、食べてくれる人もなし」













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素直で疑うことを知らない人だった



安倍総理の死から、

風向きが変わった統一教会への対応。


僕自身、

20代の頃、

2年ほどその教団と関わった人間として、

昨年以降内省を深める日々。


僕が伝道したK君は、

岡山県の出身。


上京し、

専門学校に通い始めた頃に、

僕が池袋で声をかけ、伝道。


その後、

彼は素直に学びを続け、

いつしか専従職員となりました。


僕は、

退会しましたが、

彼は今も教会内にいて、

祝福結婚もし、

子供も3人います。


良かれと思って、

僕がした伝道で、

彼の人生は変わりました。


退会後、

何度か彼に会いましたが、

今でも、

信仰を貫き、

人生に悔いなしというか、

この信仰に出合えてよかったと、

本気で思っているようです。


それどころか、

できれば僕にも戻ってきてほしい、

という気持ちがあるようなのです。


以下は、今朝読んだ毎日新聞のネット記事からの一部抜粋。

 東北地方に住む元信者の50代男性は、かつて自分が勧誘して信者になった1人の女性を今も案じている。男性が入信したのは1986年。専門学校への進学を機に上京し、1人暮らしをしていた18歳の時だった。その後、教団主催の「合同結婚式」で女性信者と結婚し、教団関連会社で10年近く働いた。自身は98年に脱会したが、信仰があつい妻子とは離別した。今は連絡も取れない。やましい活動にも身を投じてきたという。87年、教団の仲間と住宅街を回って「ベトナム難民の支援のため」と偽り、1口1000円のカンパを募った。自分だけでも1週間で6万円ほど集めた。「全て教団の活動資金に使っていた。詐欺だった」勧誘にも熱心に取り組んだ。ある日、自分が声を掛けられた時と同じように、アンケートと称して一軒一軒訪ね歩く中で、教団に誘い入れた女性がいた。昔の自分と重なる、上京したての19歳。1人暮らしで、まだ友人もいなかった。「素直で疑うことを知らない人だった」教団名を出さずに教団施設に誘い、「考える時間を与えないため」に、すぐに3泊4日の合宿「修練会」へ送り出した。教団名が伝えられたのは、その最終日だった。「完全に正体隠しだった」と明かす。合宿から帰ってきた女性とは、自分が携わったような「詐欺募金」活動も、ともにした。女性は入信や活動を受け入れているように見えたが、深いやり取りはしていない。かつて身も心もささげた教団は、国から解散命令を請求される事態になった。自分は脱会した。でも、正体を明かさないまま自分が教団に引き入れた女性のその後を想像すると、今も心が痛む。女性は入信後、韓国人男性と結婚して渡韓した。「しばらくはやり取りもあったけど、今はどうしているか……。私が誘いさえしなければ、彼女の人生も違ったものになっていた。一生を狂わせてしまったかもしれない」

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うーん、 素直で疑うことを知らない人は、

良い方向に進めば、

素晴らしく伸びますが、

悪い方向へ行ってしまうと、

とてつもなく危険です。


これは、

カルト宗教だけに限った話では、

ありません。


僕も人生の晩年になり、

ますます、

我が人生を振り返ることが多くなりました。

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大切なのは自分軸



9日にIさんが我が家に来て、

12時間ほど対話した話は前記事でしましたが、

その中に、

自分軸の話題もありました。


自分軸の大切さは、

どれほど語っても、

これで十分ということはありません。


ましてや風の時代の今は、

他人、あるいは、他者に、

振り回されていると、

幸せは遠ざかるばかり。


以下は、ヤフーニュースからの一部抜粋。

うーん、 本来は資産家であり、何不自由なく暮らせるのに、質素以下の暮らし。

これは、統一教会に限らず、

過度な献金、

お布施のし過ぎで、

日々の暮らしに余裕がなくなることはあります。


それはまさに、

Iさんと僕の共通の知人であるTという人が、

多額なお布施をしているが故に余裕がなく、

身なりも不潔感が漂うなどの生活ぶり。

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Iさんとも話したのですが、

つくづく実感するのは、

自分軸の大切さ。

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想定通りにいかないのは夫婦生活も同じ



おひとり様にとっては、

無縁な話ではありますが、

夫婦仲良く暮らしていても、

いつかは、

別れの時が来ます。


死は、

誰にとっても、

必ず訪れる行事。


以下は、幻冬舎オンラインからの一部抜粋。

いつかは分かりませんが、夫婦であれば必ずパートナーとの別れは訪れます。平均寿命から考えたら、夫が先に亡くなることをまずは想定するでしょうが、そうとも限りません。厚生労働省の『令和2年人口動態』によると、配偶者を亡くしている人(=死別)は男性で156万8,614人、女性で747万1,826人。女性のほうが圧倒的に多くなっていますが、「妻に先立たれること」は決して珍しいことではありません。一方、死亡数を配偶関係別にみたとき、「死別」の死亡者は男性で13万7,610人、女性で42万3,304人。死亡率でみていくと、「死別・男性」は「死別・女性」の1.5倍強にもなります。また米国・ロチェスター工科大学では、2012年「妻を亡くした男性は、平均よりも早死にする可能性が30%高い」という研究結果を発表しています。「有配偶者・男性」と「死別・男性」の死亡原因についてみていくと、死別・男性に多いのが、「高血圧性疾患」や「心疾患」、「脳血管疾患」、「肺炎」など。また「不慮の事故」が多いのも特徴です。妻を亡くした夫は元気をなくし、夫を亡くした妻は生き生きするとはよくいったもの。パートナーとの死をきっかけに、生活が乱れ、社会とのかかわりも激減、死期を早める……そんなパターンが想像されます。


うーん、 自治会役員も、今年で2年目の僕。

来年春には、

そのお役目から解放されますが、

役員などをやっていると、

いろいろなうわさを聞くようにもなります。


記事にもあるように、

確かに、

夫に死なれた女性は割と元気ですが、

妻に死なれた男性は、

生きる気力がなくなるのか、

無気力になる人がいるようです。

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これは、

少し違うのかもしれませんが、

僕も、

5年前に、

義母を亡くした時、

ああ、これで、

本当に天涯孤独になったなあ、

と思ったときは、

気が抜けたというか、

これからどうやって生きていくか、

などとも、

考えました。


義母は旅行好きでしたから、

いろいろなところに連れて行きましたが、

その喜ぶ姿を見て、

僕も、

今度はどこに行こうなどと、

プランを考えるのが張り合いになっていました。


それが、

一人になってみると、

旅先で、

一人で食べる食事の味気なさ。


この辺りのことは、

以下の記事で、

少しだけ書いていますが、


僕が寂しさを感じた時のこと



何にせよ、

天涯孤独生活に慣れるのに、

少し時間がかかりました。


義母の死の直後、

葬式だけは何とか済ませたものの、

どうにも空虚で、

沖縄に行って、

気分転換を試みたりもしました。


青空と痛み



その後、

いつまでも悲しんでばかりもいられないし、

何よりも、

働かねば生活に窮したので、

すぐにアルバイトを見つけ、

ローコスト生活を徹底し、

節約と自制で、

乗り切った日々。


やがて、

年金受給に辿り着き、

アルバイトの負荷を減らし、

今日に至っています。


妻のいない僕でさえ、

義母の死でダメージはあったので、

深いつながりのある夫婦であれば、

いかほどのショックだろうと、

想像してみたのですね。


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人は死の間際になって初めて



「楽しみに金のかからない人が最も裕福である」、

「That man is richest whose pleasures are cheapest.」-Henry David Thoreau

と、ソローは言いました。


そして彼は、

こうも言いました。

人は死の間際になって初めて、

本気で生きてこなかったことに気づく
」、と。 


ソローの著書、「森の生活」は、

断捨離でブックオフに売却してしまいましたが、

彼の生き方は、

今も僕の生き方にも影響を与えています。


今の僕は、

手元に置いておく本は、

きわめて数が少ない。


それは、

以前の僕と比べての話ですが、

いちばん本を所有していたころの、

おそらく15分の1くらいの量です。


それは、

図書館をフル活用しているせいもあるのですが、

繰り返し読みたくなるような、

滋養に富む本は、

そう多くは、

ありませんからね。


で、今日は、死の話。


皆さんは死んだらすべてが無に帰すと、

思っているのでしょうか。

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まあ、死生観は、

人それぞれなので、

僕がとやかく言うことではないのですが、

あの世があるにせよ無いにせよ、

大切なのは、

今、この時


未来でも,

過去でもなく、







です。




人の数だけ真実がある



昨日は、中神に行った話をしましたが、

会ってきたその人たちは、クリスチャン。


かつて、

キリスト教には批判的だった僕ですが、

今では、

まったく考えが変わりました。


その人が、

キリスト教で救われていると感じるならば全然オッケー、

という感覚になったのです。


あ、このキリスト教のところを、

創価学会や天理教や幸福の科学など、

その他あらゆる団体を当てはめても、

いいですよ。


仏教に、「6人の盲人が象を触るたとえ」があります。

それぞれの盲人は、

触っている場所が違うので、

まちまちなことを言います。

象の長い鼻を触っている人は、

そのことを伝えます。


ここで大事なことは、

それぞれの人は皆、嘘は言っていない

ということ。

ただ、

全体を把握する能力がないので、

部分的な真実にとどまっています。


僕が、

人の数だけ真実がある、

と思うようになったもう一つの視点は、

フィルターの存在。


僕は昨日の記事で、

かつては、

生きることの虚しさと漠とした不安を感じていたことを、

書きました。


それは、当時の僕にとっての真実、です。


では、今の僕と、何が違うのか。

それは、フィルターです。

色眼鏡、あるいは、偏見、と言ってもいい。

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20代の頃の僕は、

濃淡の違いこそあれ、

灰色の悲しみの伴ったフィルターで、

世の中を見ていたということ。


だから、

どんな風景を見ても、

そこには虚しさや悲しみがありました。

ここのところを、

もう少し掘り下げて語ると長くなるので、

平面的な説明にならざるを得ませんが、

端的に言うと、

人は自分のフィルターを通して世界を見ている、と。 


仏教の群盲象のたとえ、

そして、

誰しもがそれぞれのフィルターを通してしか世界を見ることができないという限界値、

ゆえに、

人の数だけ真実があるのだ、と、

思えるようになったのです。


だから、

かつてはどうしても批判的になっていたクリスチャンに対しても、

ああ、それも有りだよね、と、

思えるようになったのですね。


そして、

そう思えるようになって、

誰よりも楽になったのが、

自分自身であることも、

付け加えておきたいと思います。





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