介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

おひとり様のひとりごと

格差の底辺で、地面にはいつくばって暮らしている


恋愛、結婚、出産をあきらめる、三放世代、それに加えて、就職やマイホームをあきらめる五放世代、さらに、人間関係や夢までもあきらめる七放世代、を通り超えて、今は、すべてをあきらめて生きるN放世代、が、韓国の若者を象徴している言葉だ、そうです。

日本の若者以上に厳しい韓国の状況を知るようになったのは、僕がビジネスホテルで働いていたころ。

二人の、韓国人の若者が、フロントスタッフとして働いていた時期がありますが、二人とも、優秀でした。しかし、自国の韓国では就職がままならず、新宿で働いていたわけです。

僕がもっとショックを受けたのは、まだ、母が生きていたころに、旅行で行った長野県の上山田温泉。

旅行日和の過去記事を辿れば、その記事もあるかと思いますが、 夜、温泉街を散歩していたら、まだ若い女性に声をかけられ、まあ、表向きはスナックの、裏では売春までやっているような店で、なんでこんな田舎の温泉街に韓国人がいるのだろうと思ったのですが、あとでネットで調べたら、そういう場所のようでした。

今回、パラサイト半地下の家族、というのが、話題なようで、韓国の大学で働く日本人の記事を読んだのですが、その内容は以下の通り。


 韓国で家を借りるには、巨額の頭金が必要だ。私が今住んでいる家でも、毎月支払う家賃とは別に、500万円ほどの頭金を預けている。それは家を引き払うときに戻ってくるから差し引きゼロなのだが、入居時にかき集めるのは大変だ。

 韓国人はその頭金を準備するのに、たいていの場合は夫婦で銀行から借りる。だが、私のような外国人は、つい数年前まではそれができなかった。

 お金を工面できなければ、頭金や家賃が飛び切り安い半地下生活が待っている。

 あるとき、転居先を探そうと不動産屋を周っていたとき、「お得な物件があります」というので、下見に行ったことがある。歩いて向かっている途中、家内が「たぶん、半地下よ」と言っていたのだが、ずばり当たっていた。韓国人にはそれとわかるものだったらしい(家内は韓国人である)。部屋に入ってみると、映画に出てくるように、歩いている人の足が窓から丸見えだった。

 その半地下の家に私の家族が住むことはなかった。結局、私の家族は何年も、一人暮らし向けのような狭い家に暮らすことになった。

 というのは、私には半地下の生活を受け入れがたいつらい記憶があったからだ。それは、映画でも描かれる大雨である。それが、この映画を見ていられない3番目の理由である。

 恐らく10年ほど前だろうか、私は半地下の部屋がある集合住宅の3階に住んでいた。半地下には高齢の女性が1人で住んでいた。ある夏の日、ソウルを大雨が襲った。すると、長時間にわたる集中豪雨で下水道が逆流したのだ。半地下のその女性の部屋にあっという間に浸水し、私は部屋から水をかき出したり、ポンプで排水できるようになってから家具を外に出してあげたりした。

 映画でも下水道が逆流する様子が描かれている。トイレから黒い液体がシュッと吹き出るのを、便器の蓋を占めてその上に乗って抑えるという場面だ。でも、実際はそんなお上品ではない。きっと排泄物も混ざっているに違いない茶色の液体が、化粧室からダムの放水のように流れ出るのだ。私はトイレのドアを閉めて、流れ込んでこようとする汚水を堰止めた。私はサンダルを履いて家具を運んでいたのだが、漏電防止のためブレーカーを落として電気を消しているのと、汚水に被われているために、床など見えるはずはない。家具を持ち上げて踏ん張ったとき、ガリッと足で何かを踏みつけた。その感触からしてグラスか何かのガラス製品だろう。一歩間違えば、大けがだった。

『パラサイト』という映画は、そういった場面を、ずいぶん見やすく描いていると思った。その一方で、半地下生活の映像を見ながら、私が見聞きしている実際の半地下生活の姿が脳裏でフラッシュバックされ続けていたのだ。私は映画を見ている間、何度か思わず目をつぶってしまった。

うーん、日本の、万引き家族を、思いだしました。

お金があってパートナーがいたら、チャータークルーズがいいよね


昨日は、ちょっと暗い記事を書いたので、今日は夢のある話を。

まあ、今月は、午後勤務なので、余裕ぶっこいてますよ。

昨日は、JRAで、すごい馬券が出たようです。

当たった人は、100円の馬券が、4億3390万円になったとか。

その日一日で、人生が、変わりましたねえ、おめでとうございます。

うーん、最近の僕は、現実主義者で、あまり妄想とかしないのですが、もし僕にそれだけのお金があり、なおかつ、伴侶と言うべきパートナーがいたら、チャータークルーズの旅に行くでしょうねえ。

あれは、一人では、参加しにくいですからねえ。

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船上のジャグジーバスで、あるいは海に面した部屋や、デッキの上で、優雅に過ごし、世界中のごちそうに舌包みを打つと、いう感じでしょうか。


まあ、数時間後には、時給のアルバイトに行かねばならぬ身。

妄想は、今だけに、とどめておきましょう。


さて、まだ、先月の外食記録をしていなかったので、まとめると、5日が餃子の満州でモヤシソバ、6日が福よしでタンメンと餃子、8日がレストラン天狗で日替わりランチ、9日が串カツ田中、12日がジョイフルで和定食、17日が活鮮で寿司ランチ、18日が神楽坂さくらでロースかつとカキフライ定食、同じく18日が日高屋で中華そば大盛り、19日が個人経営の中華料理屋で青椒肉絲定食、21日がレストラン天狗で日替わりランチ、30日がブロンコビリーのランチ、31日がステーキ宮のランチ、でした。

外食は、計12回で、珍しくマックには一度も行かなかったようですね。


数か月前から、月が変わるたびに、前の月の外食を記録しているのですが、多少の漏れがあるかもしれません。

外食も楽しみつつ、基本は自炊のローコスト生活は、まだまだ続きます。

弱くなっていく親と弱くなっていく自分


もうすでに、親の介護を終えている僕ですが、介護している最中は、日々、弱くなっていく親を見ていました。

人間は、生まれた以上、死ぬのは定め。

いつ死ぬかは人それぞれで、寿命でしょうが、僕の弟は生まれてすぐに死に、僕の実母は、僕が16の時、51歳で死にました。

弟の場合は、赤ん坊ですから無念、の思いはなかったかもしれません。

しかし、実母の場合は、51歳という若さと、まだ大人になる前の一人息子を残しての死ですから、さぞや無念なことだったろうと思います。

父を、在宅介護で見送って、今年で早いもので4年になります。

そして、その2年後の、同じ5月に、母も末期がんが発症して病院でなくなりました。

父の場合は、数年の介護生活の後だったので、覚悟の上での老衰でしたが、母の場合は、あまりにも急な死でした。

ただ、父と母の死を通して、僕も、死と向かい合う機会を持てたことは良かったと思っています。

弱くなっていく親を見るのはつらかったのですが、同様に、僕自身も、いろいろなところが弱くなっていくのを感じています。

どのみちこれからは、衰退の人生。

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静かに、幕が下りていく人生。

坂道を下りていく人生。

で、僕は、弱くなっていくことが、嫌いではありません。

むしろ、好き、かもしれません。

柔弱謙下。

そこに、近づいていきたいと、思っています。

三峯神社に行くことになりました


まだ少し先の話ではありますが、三峯神社に行くことになりました。

幸福の科学退会以後も、年に一度ほどの頻度で会っていたIさんと、最近連絡が取れ、Iさんの提案で、三峯神社に行くことになったのです。

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さて、紛らわしいのですが、このIさんは、年末にしゃぶしゃぶ食べ放題の忘年会をしたほうのIさんとは、別のIさん。

で、忘年会をしたほうのIさんは、まだ、幸福の科学の会員さんで、こちらのIさんを、これからは、ITさんと呼ぶことにします。

で、今度一緒に三峯神社に行くことになったIさんのほうは、僕とほぼ同じ時期に幸福の科学を退会しており、IKさんと、呼ぶことにします。

どちらも、名字だけだと同じになってしまうので、区別するために、名前の頭文字を付け加えました。

この二人は、名字が同じだけでなく、年齢も、確か同じはず。さらに言えば、どちらも、優秀な好青年です。

で、このブログを書いているときに、ちょうどそのIKさんからラインが。

まあ、ラインというのは便利ですねえ。メールもできるし、無料通話もできる。しかも、無料。

さて、三峯神社ですが、前回行ったのは、いつだろうと記憶を手繰ってみたのですが、思い出せないくらい前、になります。

確か、まだ両親が生きていたころ、行った記憶があります。

山梨方面に行くときには、圏央道と中央高速で行くことが多かったのですが、時々、秩父を通って雁坂トンネルを通り抜けるコースで行くこともありました。

そんな時でも、三峯神社に寄ることはなかったのですよ。

両親を連れて行くときは、温泉がメインでしたからね。

あとは、高校時代、仲間と雲取山に登ったときに、三峯神社に寄ったように思います。

いずれにせよ、三峯神社には、数えるほどしか行っていません。

でも、何やら、霊験あらたかな神社のようで、今から、楽しみではあります。

静かな暮らしが大好き


まったくもって、静かな暮らしが大好きな自分がいる。

何もない空間に、一人いる自分。

自分が、自分こそが、宇宙だと感じる瞬間。

満たされていて、必要なものは、何もない。

今はアルバイト暮らしなので、アルバイト先では、多少、騒々しいこともあるが、家に帰れば、一人の時間。

何をするのも自由。

何を思うのも自由。

この解放感。

まったく、このような境地に導かれるとは、思ってもいなかった。

我が人生には、感謝しかない。

我が人生への感謝。

我が人生が、僕を、ここまで導いてくれた。

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これからも、僕は、僕自身とともにいる。

ボケの兆候とブログの効用


最近、直近の記憶が曖昧であることが多く、戸惑っています。

ここ数日のことなのに、思い出せない、ということが、ままあります。

先日などは、ライフに行ったときに、立ち止まってしまいました。自分が、何を買いに来たのかが、一瞬、思い出せなかったのです。

これはやばい、と、思いましたね。

何しろ、天涯孤独のおひとりさまですから、ボケたら終わり、だと、自戒しています。

その点、こうしてブログを書くことで、言いたいことを言って発散すると同時に、行動を記録することで、思いだしやすくなる利点があります。

今日は、ジョイフルで、Aさんと、Mさんと、3人で、質素な新年会をしました。昨年、12月28日にも、同じメンバーで同じ場所で、忘年会をやったのですが、あれはいつだったですかねと、Aさんに訊かれたとき、即座に、12月28日です、と、答えられたのも、ブログを書いているおかげ。
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ブログは、ボケ防止というか、記憶の定着に役立つを事を、改めて、再認識した次第。

なのでこれからは、自戒の意味も込めて、一週間の行動も記しておきたいと、思いました。

振り返ると、6日の月曜日は、アルバイトの後、ビバホームに行き、フードコートで、ラーメンと餃子の、昼。これは、モテコのサービス券を有効活用したかったため。つまり、餃子無料券を使うために行ったのですよ。

その後、飯能の行きつけの床屋で散髪。

7日は、アルバイトの後、日高図書館に行き、返却と貸し出し。その後、ライフで、水をゲット。

8日は、アルバイトの後、カインズホームで子犬と子猫を見て、レストラン天狗で株主優待で昼食後、坂戸図書館に行き、返却と貸し出し。その後、ふるさとの湯で温泉につかり、帰りに、コモディイイダで水をゲット。

9日は、ブログにも書きましたが、アルバイトの後、いったん帰宅して、川越に行き、お笑いライブを見てきました。

10日は、アルバイトの後、ベイシア日高モールで買い物をし、帰宅。

昨日、11日は、日高アリーナに行き、トレーニングセンターの使用について、訊いてきました。今、ちょっと、トレーニングセンターに通うかどうかを思案中。コナミスポーツの専属スタッフが常駐しているようで、健康管理には有益かな、と。

その後、シェルイージーペイで給油し、自分の町の図書館に、行きましたよ。その後、ライフで買い物と無料の水ゲット。

スーパーマーケットで、無料で、良い水をゲットできるのは、良いですね。

ということで、ボケ防止を兼ねて、日々の行動を記録しておくことで、記憶の定着を図ろうと、考えています。

カルロス・ゴーンの目は、魔女に似てなくね


以前から思っていたのですが、上手いことトンズラこいたカルロス・ゴーンですが、あの目、男のくせに、なんか、魔女っぽいのですよ。
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で、なんか胡散臭かったのですよ。

だって、目は、口ほどに、モノをいう、って言うでしょ。


同じカルロスでも、トシキのほうが、マシですよ。



うーん、懐かしい。

この曲も、カラオケに行くと必ず歌います。


初老男たちの集いは、今後何年続けられるのだろう


昨日は、ほぼ、恒例化しつつある、年初の集いが、我が家でありました。

今回は、鬱状態が回復できないでいる、OY氏は欠席し、昨年は用事で来ることのできなかったMK氏(皆野町)が、参加してくれました。

実は、MK氏(藤沢市)は、もう一人いて、こちらは去年も参加したほうのMK氏。

そして、いつも僕を歴史研究会に連れて行ってくれるKM氏は、川越から電車を乗り継いでの来場。

で、計4人での懇親会に。


この、恒例化しつつある年初の集いも、各メンバーの高齢化も進み、いつまでできるかはわかりませんが、そもそもこのメンバーのサークル母体は、高校時代からのものであり、しかも、クラスも、学年もバラバラで、あえて言えば、文芸部、もしくは、生徒会、が、その触媒とも考えられますが、それ以外のつながりもあり、わけがわかりません。

まあ、縁、なのでしょうねえ。


ということで、昨日の10時前後にゆるゆるとはじまった懇親会。

まったりと、寿司などをつまみながら、車で来た人はソフトドリンクを、電車で来た人と家主である僕は、ビールなどを飲みながら、ゆるゆると話しましたよ。

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まあ、話をしだすと、長いのでねえ。

寿司がだいぶなくなったころに、メインをピザに変えて、


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ビールがなくなったら、ソフトドリンクに変えて、ゆるゆると飲み、ゆるゆると話す。

話すは、放す、にも通じで、解放、にもなりますね。

だからみんな、話したがるのでしょうねえ。

そんな、ゆるゆる懇親会は、夕方まで続き、日が暮れるころに散会となりました。

その後は、僕も、まったりして何もする気が起こらず、まったくの、ぐうたらな一日でした。

まあ、今日は、少し、気持ちを引き締めないと、明日から、仕事ですからねえ。



もう、人間サンドバッグになるのはやめることにした


まあ、今では悩むことはほとんどないのですが、ときどき、課題、にぶつかるときがあります。

そんな時、僕が頼りにするのは、親友のAさん。

先日も、あることで、Aさんに、相談しました。

あることというのは、僕が二十代の頃、統一協会時代に、出会った、山形県出身のS君のこと。


S君は、今は鶴岡市になった、温海町出身で、彼の実家に遊びに行ったときは、3日くらい泊めてもらい、一緒に羽黒山に登ったりしました。

そのS君ですが、働き者なのは良いとしても、同僚との諍いが絶えません。これは、もう30年来の、彼のカルマのようなもの。

仕事にはきわめて真面目に取り組み、それゆえに、動きの遅い同僚が許せなくなり、裁いてしまうのですね。どこに転職しても、同僚とのトラブルばかり。

で、ストレスをため込んで酒を煽り、そんな風だから、友人もどんどん去っていき、今、話ができるのは、おそらくだいぶ年上である僕くらい。


S君は、僕より、6つほど年下ですが、統一協会時代から、なぜか僕を慕ってくれていて、僕も、彼の一本気で純粋な気質に好感を持っていたのですが、ともに、時期は違うものの、統一協会を離れ、それぞれ社会の荒波にもまれる中、彼の生活は、荒んでいきました。

それでも、付き合いが続いていたのは、お互いに、認め合っていたからだと、思います。

しかしもう、彼も、54歳。


僕が、54歳のときは、親の介護のために実家を建て替えたとき。


それを想ったときに、もう、そろそろサンドバッグという役割は終えよう、と、思ったのです。

どういうことかと言うと、ちょうどラグビーワールドカップで、日本がスコットランドに勝った夜のことでした。


夜の10時半ごろだったか、S君から、電話がかかってきて、すぐに、酒を飲んでいるのがわかりました。そして、例によって、激しい口調で、職場の愚痴を吐き出し始めたのです。

通常であれば、僕も、ひとしきり彼の言うことを聞きながら慰めるのですが、翌朝のアルバイトのことを考えると、あまり遅い時間まで起きていたくはないし、ふと、彼の年齢を想ったとき、僕は、いつまで彼は、同じ場所(精神的にという意味で)にとどまっているのだろうと思い、少し話をさえぎってアドバイスをしたのです。

しかし彼は、うっぷんを晴らしきれない段階での、アドバイスには聞く耳を持たず、逆に、僕に向かって声を荒げ始めたので、僕は沈黙し、そののち、もう好きなようにすればいいのではないか、と、言いました。

S君は、いつもとは違う僕の対応に戸惑ったのか、憤懣やるかたない感じで、電話を切りました。

彼は、僕を信頼してくれていて、それゆえに、僕が、幸福の科学に伝道したときも、素直に、話を聞いてくれ、今も、会員でい続けています。

僕自身は、すでに幸福の科学を退会していますが、彼の信仰については、僕がどうこう言うこともありません。

ただ、でき得るならば、幸福の科学の職員の方に、もっと、抜苦与楽、の、思いを持ってもらいたいとは、思っています。

職員は、上から与えられたノルマの達成の邁進に忙しく、一信者の悩みを聞く時間も心の余裕もないのでしょうが、数字を追いかけるよりも大切なことが、本来はあるはずなのですね。

でも、そうしたことが、置き去りにされているように、思います。

その点、Aさんなどは、辛抱強く、僕の言うことに耳を傾けてくれ、僕も、S君のことを、Aさんに、相談して、気が楽になりました。

で、これは、S君のことは僕がどうこうできる話ではなく、S君の人生そのものが、S君を導くだろう、という見解を持つに至りました。

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S君に限らず、それぞれの人の人生が、それぞれの人を導くのです。

今は、そうとしか、言うことができません。

だから、人は皆、修行の途上であり、尊いのですね。

引きこもりたい思いが強くなっている


寒さのせいもあるのかもしれませんが、このところ、引きこもりたい思いが強くなっています。
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引きこもって、過去を回想したり、人生について考えたり、とにかく、思索がしたい。

多少良さげに言うと、内省的な生活に入りたい、と。

あるいは、修道院的黙想生活、みたいな。

質素な食事をし、内省し、ときどき、散歩をする。

散歩をしながら黙想することを、仏教的には、経行(きんひん)と言います。

とにかく、内面の自分と対話したい、のです。


これはおそらく、今、自分が、林住期にある、からなのだと、思います。

なので、このブログでも何度も登場していますが、鴨長明などの世捨て人に、あこがれるのですよ。

で、以下は、古代インドの人生論、より、抜粋。

古代インドでは人生の過ごし方のれっきとした法則があった。人の一生を4つの大きな括りに分けたのである。そしてその時期その時期の生き方の判例を示し、どこかの国のおばかさんのような一生働くだけの人生などという愚を避けるように、あなたは今、人生のこの時期だからこう生きなさいよと知恵を示したのである。古代インド人は偉かったのだ。


学生期がくしょうき

0歳~25歳 誕生して人間としての生きる知恵をつけるための学びの時期


家住期かじゅうき

25歳~50歳 社会人として伴侶を得て家庭を作り、仕事に励む時期


林住期  (りんじゅうき)

50歳~75歳 仕事や家庭から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期


遊行期   (ゆぎょうき)

75歳~100歳 林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期


まさに、林住期とは、仕事や家庭を卒業し、瞑想する日々のこと。

まあ、僕には、もともと自分で作った家庭はありませんから、あとは、仕事、今の僕で言えば、アルバイトをやめて、瞑想三昧、あるいは、引きこもり、をしたい、と、こうなっております。

そのために必要なのは、生きるための食糧くらい。

無駄をそぎ落としていけば、食べ物代くらいしか、お金はかかりません。

まあ、いくら林住期と言っても、林の中に住むわけにもいかず、ガスでんき水道等のインフラ費はかかります。

僕の場合、質素倹約の最低減の暮らしで4万円、普通に暮らして6万円、ちょっと余裕のある生活で8万円、ほどが、生活費。

今は、住宅ローンがあるので、4万円から6万円の間で暮らしています。

低支出であれば、今のアルバイトの契約が打ち切られても、生きていけるかもしれません。

そうなったら、喜んで、自分流の林住期に入るつもりです。

加齢と共に故郷への思いが強くなるのか

先日久し振りに見た、家ついていっていいですか、で、60代男性が、北海道の故郷への思いを語っていました。

都内のアパートで一人暮らし。奥さんとは離婚。

で、アルバイトをしながらの年金生活。

受け取る年金は僕よりも少し多いようでしたが、そこから、家賃を支払っての生活。

東京砂漠で、故郷を想う生活。
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で、番組初かもしれませんが、後日、この男性の故郷にスタッフが同行して行ったのですよ。

ところが、50年ぶりに帰る故郷は、男性が思い描いていたものとは違っていて、すっかり寂れ果てていた、という展開。

加齢とともに故郷への思いが強くなるのは、この男性に限ったことではなく、僕も、同じ。

ただ僕の場合、故郷は、すぐそばの市なので、墓参りにもすぐに行けるし、その気になれば毎日でも行けます。

最近は、さながら、近場をうろうろするだけで、すっかり満足できるコンパクト男になっております。

都内に行くことすら、億劫と言えば、億劫。

次に都内に繰り出す予定は、14日の土曜日で、この日は、いつも、クラス会の幹事で頑張ってくれているK原君の、快気祝い。

で、これを企画したのが、K内君で、

過去へと続く道

上の記事で登場したKのこと。

二人とも名字がKで始まるので、下の文字をつけ足さないと、混同しますからね。

まあ、僕は、池袋を通過して新宿まで、通勤していたわけですが、その通過駅の池袋でさえ、今の僕には、かなり遠く感じます。

そのくらい、なんか、出不精というか、遠くには行きたくなくなっています。

でも、生まれ故郷は、ぶらぶら歩きまわりたい、という、帰巣本能みたいなものでしょうかねえ。

今日は曇天で、今月から午後勤務。

もう少し、この曇天を眺めていられそうです。

横須賀のボトムライン、今はもうない

高校時代、友達と、ときどき行っていた、吉祥寺の赤毛とソバカスの話は、過去記事で、何度も話しましたね。

で、僕が、逗子に住んでいたときに、よく行っていたのが、横須賀のどぶ板通りにあったボトムライン。

この間、ネットで調べたけど、情報はなし。

いやあ、ボトムラインで、ウィスキーを飲みながら、ジャズを聴いていたのは、今は昔の僕が、21歳のとき。

当時、愛甲率いる横浜高校が、夏の甲子園で優勝したときね。

昔の話をしたがるのは、年寄りの証拠。
 
で、その後、何度か、横須賀には行っているのですが、ボトムラインは、もうないようで。


まあ、ジャズ喫茶、だったと記憶しているのですが、なんせ、昔の話で。



昔の話をしたがるのは、年を取った証拠だといいますが、したいのだからいいんじゃね、ということで。


逗子とか、葉山とか、横須賀とかは、思い出がいっぱい。

だから、今でも、ときどき、行くのですよ


ウィンドサーフィンも、年に一度はやりに行きますし、まあ、横須賀ではなく、逗子ですが。

うーん、誰か、横須賀のボトムラインの思い出のある人はいませんか。


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