多くの修行者が、

迷い込んでいる森があります。

それが、

向上しようと努力する在り方。


これは、

最近まで、

僕も気づかなかったことですが、

一般的に言って、

向上心を持つことは良いことと、

されています。


しかし、

向上しようと努力を積み重ねる行為は、

土の時代、あるいは、地の時代には、

通用したのですが、

風の時代にはそぐわないのです。


理由を、言いましょう。


向上心を発露するベースとなる意識は、

「足りないという思い」です。

あるいは、欠けている、

という意識、です。


つまり、「ない、という意識」が、ベースにあり、

その欠乏感を埋めるために何かをする、

あるいは、

その欠乏感から出発した修行なわけです。


その意識の上に、

努力を積み重ねるのは、

永遠に終わらない迷いの森の中を歩くようなもの。

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まだ足りない、

まだ自分は至らない、

まだ修行が足りない、

足りない、足りないと、

焦り、

呻吟し、

さらに精進に邁進する、と。


修行し、

向上し、

成長したあかつきに覚醒に至ると、

思い込みたがるのが、

エゴの罠。


では、

真の覚醒とは何か。


それは、自分の完全性を思い出すこと。

完全な意識だった自分を思い出すこと。

それこそが、覚醒です。


だから、

努力を積み上げる修行では、

ベクトルが違うのです。


エゴは向上を焦り、

成長しようとする、

まだ足りない、

もっと成長しなきゃ、となり、

それが際限もなく続きます。


そして、

そうしたエゴが目指すのは、

人格者であり、

聖人君子のような人だったりします。


その目指すべき聖人君子と自分とを比べて、

落胆し、

自分はまだまだだ、となる。


ここに、深い罠があります。


覚醒とは、

もともと完全な意識だった自分の本質を思い出すことであり、

向上したり成長したりして辿り着くものではないんです。


そして覚醒への道は、

自分という存在のすべてを、

丸ごと肯定するところから始まります。


肯定から始まるのが覚醒への道で、

「ない」という意識をベースにして、

その欠落感を持ちながら向上しよう、

成長しようと悟りへの道を歩むのが、

エゴが好きなやり方です。


今の状況に不満があるから、

向上しようと思うわけで、

出発点が、

不満足感、

不足感なんですね。


一方、今の状況を丸ごと受け入れていたら、

向上しようなどとは思いません。


そして、風の時代の本当の修行、

まあ、修行という言葉自体が堅苦しいので、

ワークとでも言い換えましょう、

有効なワークは、

今この時のあり方を、

これはこれでオッケーだよね、と、

受け入れるところから始まります。


つまり、肯定が、ベースにあり、

そこから始まるのが、

自分の本質につながる道
なのです。


それが、

エゴを手放すことにもなり、

より高次の自分であるハイヤーセルフ、

あるいは、

心の奥深くに在る、真実在、につながり、

さらには、

それと、

一体化する道なのです。


真実在が現れるということは、

自分の中の完全性が現れるということです。


そこには、

焦りとは無縁の静かな境地があります。

魂の本質の静かなる喜びがあります。


どの瞬間も肯定し、

今にフォーカスして、

ニュートラルな意識であり続ければ、

自らのうちにある完全性が、

自動的に、

顕現してきます。


なぜなら、

それこそが、

最も自然な在り方だから、

です。


このことを、

老子は、

無為自然という言葉で、

表現しました。


その瞬間その瞬間を、

丸ごと受け入れて、

自らを慈しんでいると、

真実在の完全性が現れて、

より完全な状態が見えてくるようになります。


そしてその完全性の奥には、

さらなる完全性があるという、

奥深い道でもあります。


老子は、学を断てば憂いなし、と、言いました。

頭で考える修行では、

波動は重くなるばかり
です。


永遠に終わらない迷いの森から抜け出て、

軽やかな風の時代の生き方に、

ギアをアップして
いきましょう。



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