昨日は、ちょっとした相談があり、親友のAさん宅へ。
還暦を過ぎても、まだ現役社会人のAさんは、やることが多く、
まだ、自分のことだけに集中する環境にはないようでしたが、
新築の2階3部屋は、その用途に合わせて、
だいぶ空間整理が進んでいました。
その話は、またあとでするとして、
そのさらに前日の金曜日、
古代蓮の里に行ってきました。

この時期は駐車場料金が発生することもあって、
僕は、さきたま古墳群の駐車場に車を停めて、

まずは古墳内の道を歩き、
そこを抜けてからは、

およそ2キロほどの道のりを歩きました。
用水路沿いの誰もいない夏の道は、
歩いていて気持ちいいからでもあります。
ウシガエルだと思いますが、鳴き声が聞こえました。
古代蓮の里を散策。

咲いている花びらもあれば、
落ちている花びらもあり、

まるで、人生のよう。
小一時間ほど散策し、また用水路沿いの道を、
さきたま古墳群へと戻って、帰路につきました。
で、先ほどの、話に戻ると、
Aさんの2階の空間は、聖域でした。
一階は、まだ片付けの途中でしたが、
忙しい時間の合間にできる範囲で片付けと整理整頓を、
している様子がわかりました。
仏教では、泥中の蓮のたとえがあります。
蓮は汚れた泥の中で綺麗な花を咲かせます。
「泥中の蓮」の意味は「汚れた環境でも染まらず清く生きること」
僕は、Aさん宅の2階の空間にいるときに、
その泥中の蓮のたとえを、感じたのです。
Aさんの置かれていた環境も、
決して容易いものではなかったはず。
しかしその中で、Aさんは、
見事に蓮の花を咲かせて生きてきました。
それは、見る人が見れば、わかること。
僕も、古代蓮とAさん宅の2階の聖域を見るにつけ、
そのようにありたいものだと、思いました。