死にたい、という言葉も、状況によって意味合いは変わってきますよね。
エネルギッシュに生きている人が、忙し過ぎる日常の中で、死にてーよ、と言うのならば、
まあそれは、流れゆく言葉の中で消えていくもの。
そうではなくて、深刻な顔をして、やたらと、死を口にする人への違和感。
勿論、重篤な病や、経済的に追い詰められた状況で、
呻くように、死にたい、と言うのならばわかります。
そういう場合は、こちらも、真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。
そうではなくて、ここで言う違和感とは、
具体例を挙げると、
先日テレビをつけていたら、教育テレビだったでしょうか、
中川翔子という人が出ていて、死にたい気持ちについて、語っていたのです。
彼女がいくつかは知りませんが、過去にも死にたいと思い、自殺しかけたことがあるのだとか。
で、違和感、というのは、彼女は無自覚なのでしょうが、
自分の役割演技に酔っているように、僕には見えました。
つまり、そういう、死にたいキャラを求められていて、
その求めに応じて演じている、みたいな。
いや、彼女は無自覚かもしれませんよ。
でも、それで、タレントとしての需要が発生し、
NHKからギャラも入るわけですよ。
おそらく彼女は、そんな計算はしていないとは思いますが、
「死にたい自分」、が、注目され、
そうした拗れキャラの、タレントとしての需要がある、
ということを、無意識の計算というか、
していると、僕は感じるのです。
「この無意識の計算」は、ときどき他者の中に感じるし、
そこから振り返って、自分の中にもないだろうかと、
内省することがあります。
今日は、変な話になってしまって、スイマセンでした。