信仰、あるいは、信心、というものは、尊いものですが、
同時に、危険な側面もあります。
論語と算盤、で有名な渋沢栄一ですが、
きわめて合理的な思考ができたからこそ、
あれだけの仕事ができたのだと思います。
青天を衝け、の、前回の放送は、
そんな渋沢栄一の論理的思考を垣間見ることができた回でしたね。
第5話「栄一、揺れる」では、栄一の姉・なかの縁談が「相手の家に憑き物(つきもの)がいる」という迷信的な理由で破談。ただの数回会っただけの関係とはいえ、相手に惹かれていたなかは、ショックからふさぎこんでしまう。そんななかを心配した親戚は、気を利かして修験者を呼びお祓いを依頼する。そういった類のものを一切信じていない栄一は必死に抵抗するが、半ば強引に祈祷が開始。栄一は、頬杖をつき退屈そうにやり過ごそうとする。 すると、修験者が「口寄せ」と呼ばれる神を降臨させてお告げを授かる儀式で「この家には、金神(こんじん)と井戸の神がたたっておる」「無縁仏もありて、この家をたたっておるなり」と話すと、親戚たちはどよめきつつもありがたくこのお言葉を受け止めた。しかし、栄一だけは「一つお伺いしたい」と声をあげ、「その無縁仏が出たのは何年前のことでございましょうか」と質問。「およそ60年前のことなり」との答えに、「その頃の年号は?」と問い詰め、答えがチグハグになったところで「俺は人の弱みに付け込む神様なんかこれっぽっちも怖かねぇ」「こんな得体の知れねぇもんで、一家を惑わすのは金輪際御免被る」と強い口調で言い放ち、インチキ修験者たちを追い払うのだった。 栄一の論理的な言動かつ、姉の気持ちに寄り添う優しい人柄が伝わるエピソードは、ドラマ公式ツイッター曰く「史実」であるとのこと。しかも、このとき栄一が15歳だったということも含め、視聴者からは「栄一、エセ修験者を論破! 痛快でございました!」「修験者の腕掴んで啖呵きるとこかっこよかったよ。 スカッと」「今日の修験者追っ払うシーン、『半沢直樹』のテーマが流れてきそうだった」などと続々と反響があがっている。
うーん、太字のところは、僕が強調したい部分。
この21世紀になっても、未だに上記と似たようなことを行う教祖もいて、
義憤に駆られることもあります。
ただ、聖書にも
「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」
とあるように、
また、
「復讐してはいけない、それはあなた方のすることではなく。神が行うことなのであるから。神は必ず、その報いをその悪人にもたらすであろう」
このように表現されている神は、法則として全宇宙を統べる存在で、
法則であるがゆえに、天網恢恢疎にして漏らさずで、
カルト教祖も、その法則の中で報いを受けていきます。
義憤そのものは尊いし、
いざ、自分に振りかかってきた時には、
渋沢栄一のように、論理的思考で打ち砕くにとどめ、
それ以外は、放置しておくのがよろしいかと。
やがては、カルト教祖とその取り巻きも、
時の経過の中で、
反作用という形で学んでいくでしょうからね。
これを見て私は、「神仏を尊び神仏を頼らず」という宮本武蔵の言葉を思い出しました。