昨日は、コロナ禍での、3人での忘年会に触れたのですが、その中で、3人の奇妙なシンクロニシティについても書きました。
シンクロニシティとは、共時性とか、同時性、ということ。
で、僕も、Aさんも、Iさんも、多少の時期こそ違え、同時発生的に、体験したことが、得も言われぬ幸福感と、人を許すということ。
得も言われぬ幸福感のほうは説明が難しく、これに言及すると、相当スピリチュアルな領域に踏み込むことになるので、今日は割愛します。

で、今日、触れるのは、人を許す、ということについて。
これについては、AさんとIさんの話してくれた体験から、僕も深い気づきを与えられました。
人間は不完全であり、その未熟な人がこの世を生きるとき、どうしても、行き違いや葛藤、誤解、いわれのない非難、などが生じます。
そうした、理不尽とも言える現象に対する姿勢、についての話、でした。
その話を、AさんとIさんの実体験を踏まえた見解を聴くことができ、僕も、大いに気持ちが楽になりました。
誰しもが、裁き心、というものを持ってしまうことがあります。
主イエスも、裁くなかれ、みたいなことを言っていますね。
1:「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2:あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5:偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。6:神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」聖書:マタイ福音書7章◆人を裁くな
僕はクリスチャンではないのですが(それには僕なりの理由があるから)、主イエスは敬愛しています。
クリスチャンではありませんが、聖書は複数持っていて、ときどき、いろいろなところから、生きる糧、と言いますか、指針を与えられています。
思えば、この世は裁きの念であふれている、のかもしれません。
とりわけ、コロナ禍の今年は、そうした空間が至る所にあったのではないでしょうか。
「あの人は最低だ、何もわかっていない」こんな言葉が、職場や家庭内、あるいは、長年の友人関係の中でも囁かれ、つぶやかれたことでしょう。
たとえ口には出さなくても、心の中で裁き合っているなら、それも、同じことです。
そうしたことを見つめていると、人間の持つ罪深さ、と言いますか、原罪、の考え方も、理解できなくはありません。
この年末は、深く、内省する時間を過ごしていきたいと、思っています。
40年前、通っていた高校の校門の裏門前で無償で配布されていた「聖書」をもらいました。
ボロボロになった聖書ですが、毎年12月24日と25日のクリスマスの日は、にわかクリスチャンになって、本棚から取り出して読み込みます。
tao313さんの赤字の文章、私も戒めとしています。でもなかなかできません。つい、裁き心が出てきてしまって、夜の内省で反省します。
「あなたも許されてきたのだから、人を許しなさい」とういう言葉も肝に銘じているのですが、完全には出来ていません。
真理を自分は真理を学んでいる、あの人は知らないからダメなんだと、つい裁いてしまいます。愛が足りないのです。気をつけていこうと思います。