親の経済に依存する働かない子供は、日本全体だと、どのくらいいるのでしょうかねえ。

まあ、僕も、若い頃に、働いていない時期があり、ぼんやりと、このままいったら自分の未来はどうなるのだろうと、漠然と考えていたこともありました。

僕の場合は、幸いにして、35歳のときに、何とか続けられそうな仕事に巡り合い、そこから、それなりにキャリアを積むことができました。

それで、何とか、生き延びてこれたわけです。

今日紹介するのは、かなり深刻な話。



 消え入りそうな声が漏れた。窓という窓が目張りされた本島中部の木造小屋。薄暗い室内を二つに仕切るカーテンの向こう側、3畳ほどの「聖域」が、コウジさん(49)=仮名=の全てだ。

 カーテンを開け、聖域の外に出るのは週に1度あるかどうか。それでも夜中に庭まで行くのがやっとで、この地に引っ越して10年以上、自宅の庭から外に足を踏み出したことはない。

 カーテンの隙間から差し出すメモで意思を伝え、生活必需品は、隣に住む母マサエさん(83)=仮名=に買い出してもらう。買い物袋が届くと、つえを使って引き込む。聖域にはトイレがないから、用を足すときはバケツに。袋にまとめ、母にごみ出ししてもらう。水をためた大量のポリタンクも常備している。

 高校中退後の16歳からひきこもり。中学生の頃着けた銀歯は外れ、うみが出ている。体を動かさない長年の生活からか、腰痛は年々増している。

 「外に出ても『浦島太郎状態』でしょうね。自分が知る30年以上前の社会と、かけ離れすぎて」

 テレビや母名義のガラケーは壊れたまま。「外」の社会に触れる唯一のメディアは今、ラジオだけだ。

マサエさんは数年前から、コウジさんと住んでいた小屋に出入りする数段の上り下りがしんどくなり、同じ敷地内にある簡易倉庫に住まいを移った。屋根は崩れかけ、土間に板を1枚置いただけのクーラーもない空間。屋根代わりにビニールシートをかぶせ、雨風をしのぐ。

 沖縄戦を生き延び、貧しさから小学校を卒業するとすぐに実家を追い出されて働いた。離婚し、頼れる身寄りもいない中、女手一つでコウジさんを含め5人の子どもを育てた。総菜などの調理補助で1日14時間を超える立ち仕事を長年続け、日当は6千円ほど。

 「寝て起きて、すぐ仕事の繰り返し」。コウジさんの幼心に残るのは、疲れ切り、布団でぐったりと横になる母の姿だ。

 その母に今なお、心身の負担をかけ続ける。「働きものの母、できそこないの自分。母はきっと、自分を憎んでいる」。歳月の重なりが、外に向かうコウジさんの足を鉛のように重くする。

外の世界を遮断し、窓一面に張られた紙の破れた穴から、コウジさん(49)=仮名=がそっとガラス越しにうかがう母マサエさん(83)=同=の体には、日に日に老いが刻み込まれる。腰は曲がり、壁づたいに足をひきずりながら、息子のために手押し車を引いて買い出しに向かう。

コウジさんが食料品などの買い出しを頼むときの手書きメモ=2月、本島中部


 何度か転倒し、大けがをしたこともある。要介護認定を受け、周囲から施設入所やヘルパー利用を何度勧められても、マサエさんが頑として首を縦に振らないのは「息子のため」だ。「子育て」は終わらない。他の4人の子も、いつしか2人と疎遠になった。

社会から気配を消して、母を頼りに命をつないだ30年余り。コウジさんは「母と顔を合わせれば、現実に引き戻されてしまいそうで怖い」という。

 親子で対面し言葉を交わしたのはもう何年も前だ。

 マサエさんの安否を確かめる唯一の手掛かりは夜、簡易倉庫の窓に小さな明かりがともるかどうか。しかし母に緊急事態が起きても、外に出られず電話も持たないコウジさんには、外部にSOSを伝える手だてがない。




 
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うーん、 僕も、35歳までは仕事が安定せず、

働いたりぶらぶらしたりを繰り返していたし、

引きこもりのような状態のときもありました。


今、自分の人生を振り返る時期に来ており、

改めて、自分の人生を、見つめ直しています。


ラジオから流れる音楽や会話で、涙を流した日々。



本当の幸せとは、何なのでしょうねえ。