コスパというのは大切ですが、コスパ至上主義になってしまうと、人生そのものを楽しめなくなる可能性もあります。
たとえばですね、僕の知人に、お祭りなどで、子供に屋台のものを買い与えない、という持論を持っている人がいました。
お祭りなどの屋台というと、テキヤですが、彼らは、利益率の高いモノを売っています。
それは彼らにしてみれば当然で、雨の日もあるし、大量の売れ残りが発生することもあるし、不確定要素が大きいわけです。
そうしたリスクを抱えながらの商売なので、相当な利益を載せなければ、商売が成り立たないわけです。
で、そのコスパ至上主義の知人の考えだと、お祭りの屋台などはコスパ的には最悪なので、子供がどんなにねだっても買い与えないのだ、と。
僕は、これには、反対意見を述べました。
子供にとって、お祭りの屋台は、最高のワンダーランド。
そこで、いろいろとほしいものがあった場合、その中から何かを選ばせて、買い与えたほうが良い、と僕は思っています。
たとえコスパが悪かろうと、子供には思い出というお金には換算できないものが残るわけだし、いろいろなものの中から自分で選んだという責任感というか、自覚も芽生えるので、良い教育にもなると、思います。
それを、単にコスパが悪いからと、子供の要求を突っぱねるのは、良くない、と、そういったのですが、聞き入れてもらえませんでした。
まあ、僕の子供ではないので、その子の教育はその親であるその知人の範疇なので、それ以上は言いませんでしたけどね。
何でもかんでもコスパを持ち出すのは、かえって人生をつまらなくすると、僕は、思っています。
そういう意味では、長年のカルト宗教での散財も、コスパ的に言えば最悪なわけで、それでも、いい経験をしたと思えるのは、そのときは、それがベストの選択だと思って、自分で率先してやっていたことだから、です。
で、その散財があってこその今があるので、すべては無駄ではないし、良い勉強をしたと思っています。
コスパばかりを口にするその知人は、少しも幸せそうな顔をしていなかったことだけは、今でも、覚えています。
そういえば幼い頃に祭りで、ビニール製の人形を買ってもらった思い出があります、我が家は貧しかったのに、良く買ってくれたなと、そのことは今でも記憶に残っています。
よほど欲しそうな顔をしていたのかな(笑)
その時の親の気持ちを思いますね。
親とは、いろいろあって決して折り合いはよくなかったのですが、有難いと思うことが多いです。