今日のタイトルは、イエスの言葉です。

「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」

この、さっぱりとした心、今日だけに、さらに言えば、今、この時だけに、焦点を当てた生き方、を、イエスは説きました。

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大乗仏教で最も人気のある観音菩薩は、観音菩薩になる前の生涯で、親と生き別れ、人さらいに騙され、陸の離れ小島に送られて一生苦役を課された人生でした。

彼は、苦しみ抜いた人生の終わりに、飢えや渇きの苦しみに加えて、人に騙される悲しみを味わったからこそ、この苦しみを縁として、同じような苦しみに嘆く人たちを、来世救っていくことにしよう、と、決意しました。

苦しみの連続の生涯を逆に活用して、同じ様な苦しみを持つ人たちを救う財産に変えようと発願しました。

この逆転の発想が、観音菩薩の慈悲の源でした。

愛されなかった苦しみを、他を愛するために使う、という最も尊い慈悲の心が、喜びからではなく苦しみから生まれた、という例ですね。

仏教を表す蓮の花は、美しい場所に咲くのではなく、泥水の濃いところほど大きな花を咲かせます。

僕は、観音菩薩のことを想うたびに、蓮の花が脳裏に浮かびます。

前回の記事で、河野義行さんのことを少し書きましたが、彼が当然受け取るべき賠償金も受け取らず、仏陀釈尊の慈悲の生き方を実践しているという事実を、僕に教えてくれたのが、かつて、ああ言えば上祐とまで揶揄された上祐史浩氏でした。

実は僕は、今年1月に、上祐氏に会い、いろいろと話を聞いてきたのですね。

どうしても、僕が上祐氏に会いたかった理由は、僕自身、二つのカルト宗教を経験し、激しい煩悶の末に克服できたとは言え、その生木を裂かれるような体験は、筆舌に尽くし難いものであり、おそらく上祐氏も、同じ様な体験をしているはずだ、と思ったからです。

さらに言えば、僕は無名の凡夫ですが、彼の場合は、一時期とは言え、テレビに出続け、顔も知られ、さらには、サリン事件の被害者への賠償責任もあるという、大変な重荷を背負っています。

つまり、内面の葛藤の克服だけでは済まない立場です。

僕とは比較にならない重い十字架を背負った彼の今の本心と、その波動、を、知りたかったのです。

まあ、面談時間そのものは、そう長い時間ではなかったのですが、得るものは大きかったと思っています。

彼はかつて、麻原彰晃をグルと慕い、父親のように思っていたそうです。今の彼は、すでに偽物のカルト教祖の呪縛を超克し、仏教的な平安を得ているようでした。

僕が思うに、彼にとっての幸福は、偽物のグルと決別し、河野義行さんのような、本物の人格者と出会えたことだと思います。

河野義行さんは、上祐氏の主催する団体の外部監査人となっています。

つまり、彼は偽物のグルの後に本物の一市井の人と、出会ったわけですね。

本物は、偉ぶることなく、高ぶることなく、人を非難することなく、穏やかで平静な心を維持しています。あるいは、維持しようと心がけています。

そして、上祐氏が、あることで、河野義行さんに質問したことがあったそうです。

その時の河野さんの答えが、「これまでも何とかなってきた。だからこれからも、何とかなると思う」だったそうです。

それを聞いたときに、僕は、冒頭の主イエスの言葉を思い浮かべました。

明日のことは明日自身が思い煩うであろう、一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

だから今日も、僕は、さっぱりした気持ちで生きようと、思っています。