喧嘩っ早かった自分が、ほとんど怒らなくなり、軽挙妄動する自分が、多少は穏やかに物事を見つめられるようになり、近視眼的だった自分が、少しは遠くを見られるようになったのは、運命そのものに、導かれてきたから、としか、言いようがありません。

というのも、いかに自分が愚かで、頭が悪かったかは、このブログでも多少は披露していますが、かなり桁外れの馬鹿者であったことは、事実で、10代20代30代40代と、それぞれ、質の違う愚かさと、共通する愚かさを持っており、50代で、いくらか、人並みの理性を持つに至ったように、思います。 

転職も多かったのですが、それ以上に、精神の旅は、思いだすだに、興味は、尽きません。

自分の人生が、なぜ、そんなに、面白く思えるのか、不思議ではありますが、ここを見つめ直すことが、今の僕の、最大の関心事、なのですよ。

どんだけ自分が好きで、自分中心のナルシストなんや、との批評も、意には介しません。

僕が知りたいのは、僕の人生が、どのようにして僕を導いてきたかの再確認を通して、生まれてくる前の僕自身の人生計画の全容に迫りたい、のです。

で、ここでいう僕自身とは、今、こうしてブログを書いている僕よりも、もっと純度の高い僕、のことです。

その僕、仮に、真我とでも呼んでおきましょう、その真我の視点に立って、今の僕を見たら、より、自分の立ち位置が明確になると、思うのですよ。

そして、自分の立ち位置が明確になれば、今後進むべき道筋も、より明確になるのではないか、と、思うのですね。

まあ、大袈裟な言い方をすると、人生の定期点検、みたいな、モノでしょうか。

で、そうした内省的な気持ちと同時に、今、僕が、深めたいと思っているものが柔弱不争。

老子の言葉で、柔弱謙下、とか、柔弱不争、は、瞑想に入りやすいキーワードのようなもの。

老子、自体が知恵の宝庫ですが、老子以外にも、向き合いたいものがいくつかあり、やはり、アルバイトなど、している場合ではない、と、感じます。

労働も尊いが、もう初老の僕には、残り時間を視野に入れながら、時間を、より価値のあるものに傾斜配分していく必要があるのです。

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死ぬときに無一文でも、心が充実し、悔いがなく、こんな素晴らしい境地にまで、よくぞ導かれたものだ、という実感の中で、静かに、死んでいきたいのです。