長らく、グル(宗教的指導者)を求めて、彷徨ってきた人生でしたが、これは、ある種の救世主待望症候群、なのかもしれません。 

こうした傾向のある人は、その相関関係にあるメサイアコンプレックスを持つ教祖と、出会いやすくなります。

メサイアコンプレックスで有名なのは、人民寺院の教祖、ジム・ジョーンズや、ブランチ・ダビディアンのデビッド・コレシュ。日本でいえば、オウム真理教の麻原彰晃。

この辺りは、実際に事件も起こしているし、わかりやすいのですよ。

問題は、事件にこそならず、表面化していないものの、カルト教祖の言動に振り回されて、自分の人生を翻弄される人が後を絶たない現実。

日本の宗教人口は、確か、日本の人口の2倍くらいだったと思います。

それだけ、日本では多くの人が宗教とかかわっていて、また、政治にも絡みますから、義理で信者になっている人や、商売上の付き合いから信者になっている人まで含めると、2億人くらいはいるのかもしれません。

で、そのような、百花繚乱と言うよりは、魑魅魍魎の世界に、心の安らぎはありません。


では、安らぎは、どこにあるか。

それは、自分の中にあります。

いや、自分の中にしか、本当の安らぎはありません。

つまり、グルであろうと、救世主であろうと、他者に、依存していては、真の安らぎなど訪れないのです。

で、仮に、素晴らしいグルがいたら、その人は、自分を崇めなさい、とは、決して言いません。

そうではなく、あなた自身の中にある真我、あるいはハイヤーセルフ、あるいは真実在、あるいは仏性、まあ、呼び方はどうでもいいのですが、それに、気づかせるようにするでしょうね。

それこそが、グルの役目ですからね。

ところが、偽物は、自分を崇拝させようとします。

自分に依存させ、自分に服従させ、魂の自由を奪い、束縛します。

そして、そうした信仰こそが尊いのだと、信者を洗脳します。

洗脳された信者は、無批判になります。

信者のほうでも、純粋なる信仰は美しいという自己陶酔に浸れます。

まあ、ある意味、winwinの関係でもあるわけです。

僕は、これを、相互依存、と呼んでいます。

さらに信者には、選ばれたる人間、であることの無意識の優越感が付きまといます。

教祖の高邁な理想や教えを理解できる自分は悟りが高い、との、自己陶酔の優越感、ですね。

お金がなかろうが、世間から相手にされなかろうが、この優越感や選民感覚があるうちは、信者は幸福と言えば幸福なのです。まあ、偽りの、誤魔化しの幸福なのですが。

しかし、僕に言わせれば、真実に向き合わない限り、真の平安は、ありません。

勇気をもって真実に向き合うことのできる人にだけ、その先にある真の平安への道が開けていきます。

まずは、不都合な真実と向き合うこと、そこを避けていては、いつまでも、その先にある、自分自身を見つめる段階には、行き得ません。

いったい、この世界に、自分自身を見つめること以上に大切なことなどあるのでしょうか。


肝心かなめの自分自身を見つめることをおろそかにして、いったいどんな救世活動ができると言えるのでしょうか。

これは、自分自身を見つめようとはせず、走り回っている、あるいは、走りまわされている、偽りの優越感や選民感覚を持っている信者が、灯りのない状態で闇雲に動いているに等しいのです。

「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。

イエスは、宗教団体を作ろうとはしていないし、ひたすら、宇宙法則、について、述べています。

8893c661b55a2a2ad0e64156eeb4b2c1_s

法則を指し示すことが、指導者の役割であり、無私にしてその役割に徹した人は、イエス以外にも、何人かいます。

そうした話をしだすと長くなるので、やめますが、そのイエスも、後世の人たちに、都合よく利用され、再臨のイエスを語る偽メシアも、後を絶ちません。

偽メシアの特徴は、自分を崇拝させること。

ここは、国を問わず、時代を問わず、共通しています。

一方、本物の指導者の特徴は、無私であり、他からの称賛など微塵も求めず、ただ、まだ気づきを得ていない人たちを宇宙法則である神にいざなう役割に徹している、ことです。彼ら、本物は、すでに十分満たされているので、他からの崇拝や承認は必要としていないのです。

長くなったので、今日はここまでとします。