昨日は、小説家を目指していたころの自分について話しましたが、その夢の途中で、20代の中頃ですが、何とも言えないむなしさに襲われ、統一教会に導かれました。

新潟での生活を終え、 スキー場のアルバイトでためた100万円ほどのお金をもって、東京の板橋で独り暮らしを始めてすぐ、赤羽で声をかけられたのがきっかけで、統一教会へ。

もう、その頃には、親の代からやっていた世界救世教の教義では物足りなくなっていて、善悪についての根源的な悩みを持っていたのですね。

その悩みを解決してくれたのが統一原理だったわけです。

で、このまま、宗教的な話になると長くなるので、カットし、結論から言うと、統一教会での生活に耐えられなくなって脱走し、洗脳が解かれぬまま、再び、小説家への道を目指したのですが、その胆力もなく、30歳が近くなるにつれ、不安と焦りから、急かされるように職を転々とし、米軍横田基地に職を得るころに、小説家を目指しつつ、英語の勉強も始めました。

当時、大半の友人は、結婚もし、子供もでき、順調なキャリアを積んでいました。

大きく水をあけられたと思った僕は、みすぼらしい自己像を盛るためにも、何とかこの辺りで一旗揚げたいと小説も頑張ったのですが、上手く行かず、次第に英語学習のほうに力を入れるようになりました。

小説と違い英語は、やった分だけの成果が形に現れるのが、良かったですね。

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まずは英検2級をとり、その後、英検準一級を取りました。同時に、国連英検B級も取り、まあ、そこそこ英語は話せるようにもなり、英語能力が、僕の中にある欠落感を、ある程度は埋めてくれたように思います。

で、不思議なことですが、容姿や背が低いコンプレックスというのは、なぜか、ありませんでした。

顔は男まえでもない代わりにそんなに不細工でもない、普通だろうと思っていたし、背丈も、164センチと、ちびはちびですが、極端なちびでもない、と。まあ、十人並みだろう、と。

で、男は、もともと、容姿よりも、中身、というか、そっちにこだわる生き物かもしれませんねえ。

中身というよりも、スペック、といったほうがいいかなあ。スペックを向上させることが、生きる武器にもなるし、女にもてる要素にもなる、という、動物的本能に根差した欲求でしょうねえ。

どうも、無自覚なまま、本能的に感じているスペックの低さという欠乏感を埋めるのに、必死だったのかもしれません。


横田基地時代は給料も安く、その後も転職は続くのですが、その後も、英語は、自分にとっては数少ない武器の一つだったので、勉強は継続しました。

まあ、実際に、英語が話せて役に立ったという実利的な面もありますが、同時に英語は、自分を飾る、あるいは盛る、ための道具だった側面が強かったように思います。