朝方、ふと昔の自分が思いだされ、 少し、過去を振り返りたい気持ちになりました。

高校時代、僕は文芸部に所属しており、詩や小説のようなものを書いていたのですが、大学には行かず、就職もせず、フリーターに。

当時はまだ、フリーターなどという言葉もなかったように思いますが、根拠のない過剰なまでの自信というか、自己肯定感を持っており、自分は必ず名のある作家になると、思いこんでいました。

無頼派の坂口安吾、その後は中上健次とか、宮本輝などに、傾倒していきました。高校時代は、ヘルマン・ヘッセなどを読んでいました。まあ、夢見る文学少年だったわけですよ。

で、ドン・キホーテのごとく、世間の荒波に突っ込んでいって玉砕。

職を転々としながらも、小説を書き続け、文学界やら群像やら、ありとあらゆる文芸誌の新人賞に投稿し続けました。

まあ、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、じゃないですが、24歳のときに、一度、ある文芸誌に、150枚ほどの小説が載ることになり、生まれて初めて、原稿料なるものをいただきました。

まあ、普通であれば、その原稿料を、親孝行にでも使えばいいのに、当時も、神様狂いしていた僕は、当時信仰していた、世界救世教に、全額献金してしまったのです。

そう言うと、何か、偉そうにも聞こえるかもしれませんが、僕の中の気持ちとしては、さらなるご利益というか、導きというか、作家として成功できるように導かれたいという野心というか、下心があっての献金ではなかったかと、思っています。

当時の僕が、そこまで明確な意図をもって献金したのか、あるいは、世に出たお礼としての意味合いもあったとも思うし、そうしたいくつかの思いがまじりあった献金だったのかもしれません。

さて、このまま書いていくと、相当長くなりそうなので、思いっきり端折って、結論を言うと、確かに、物語をつくりたい、感動を共有したいという思いはあったと思います。しかし同時に、自己顕示欲も相当あり、芥川賞をとってちやほやされたい、注目を集めたい、すごい人間だと思われたい、という思いがありました。

で、なぜ、そうした思いを強く持っていたのかと言うと、自分の中に欠落感があったからではないか、と思います。

その欠落感を埋めるためには、何かしらの名誉、が、必要だったのです。

そのような欠乏感は、焦燥感を生み、さらに拍車をかけて、自分のことだけに集中していきます。

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仕事は、身過ぎ世過ぎの手段であり、小説家こそが俺の本業なのだという自尊心から、職場ではしばしば高慢な態度をとっていたと思います。

まったくもって、今から思えば、迷惑はなはだしい高慢ちきな人間でした。プライドが高く、理屈っぽい割に、仕事はできない、そんな人間でした。

まあ、一言でいえば、世間を舐めているバカ野郎、ですねえ。

まあ、当然、こういうバカ野郎には、世間は容赦しませんから、フルボッコにされた僕は、痛い目にあいながらも、さすがに、少しずつ学んでいきましたよ。

それでも、作家になりたいという思いは、まんざら見栄ばかりでもなく、多少は真摯な思いもあったようで、結局50歳で、500枚ほどの火星を舞台にした小説を書き、それが、最後になりました。

で、なりたい自分になれない、あるいは、欲しいものが手に入らない、ことを、仏教用語で求不得苦と言い、四苦八苦という八つの苦しみのうちの一つですね。

この苦しみに、悶え続けた人生でしたが、そうした時期があったからこそ、今の平安があるのだと、思っています。

今日は、長くなったので、ここまで。