逃げよ逃げよ、すべてのジュネーブから逃げ出せ、と、かつてノストラダムスは言った。
僕は言う。
逃げよ逃げよ、すべてのブラック企業から逃げ出せ、と。
今朝、テレビをつけたら、電通で過労自殺した高橋まつりさんのお母さんが出ていた。まだ、50代で僕より若い。
それなのに、最愛の娘をなくし、今もその悲しみを抱えたまま生き、活動している。
彼女は、過労死がなくなるような活動をしていて、その彼女のもとには、企業で働く若者から便りが寄せられているようだ。
母子家庭なのに、母が苦労して大学まで出してくれた、だから苦しくても会社を辞められない、でも、苦しい、そんな手紙が寄せれれているようだ。
親思いのいい子ほど、親の苦労を考えたりして、ブラックな会社でも頑張ってしまう。
置かれた場所で咲きなさい、などという言葉を、狡猾に利用されることもある。
置かれた場所で咲きなさい、を書いたシスターも、理不尽な環境で耐え抜け、などという意味で書いたわけではない。
親鸞の悪人正機説にしろ、悪い奴が狡猾に利用すれば、善人は騙される。
主イエスの言葉も同じだ。
都合の良いところだけ抜き取られ、カルト教祖に利用される。
孔子の言葉なども、権力者にいいように使いまわされている。
その点、老子の言葉は、悪用されることは、ない。
タオは、道であり、無用の用を説き、付け入る隙がない。
真理とは、常に単純素朴であり、誰にでも理解できるものだ。
主イエスの教えも老子の教えも、シンプル極まりない。
そして、シルバーバーチの伝える真理もまさに同じだ。
宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。
ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。
祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか、無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。
問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
うーん、僕も、いくつかの宗教団体の中で、自分たちこそ真理を知っている選ばれた人間だと思い込み、スピリチュアルエゴに陥りながらそうと気づいていない人間を、いやというほど見てきました。
何より僕自身が、その、スピリチュアルエゴの塊のような人間でした。
スピリチュアルエゴの思考の枠の中にいたら、そこから抜け出すのは、容易ではありません。
それは、僕自身の体験からも、よくわかります。
思考ではなく、気づき、が、覚醒をもたらします。
そしてその気づきは、単純素朴なものです。
なんだ、そういうことか、と、幼子のような気持でわかる、感じです。
宇宙の理法、真理というものは、一つの団体が独占できるものではありません。
それは、公正にして無私であり、法則として働くからです。
だからこそ、スピリチュアルエゴに毒された神を信じると称する信者よりも、往々にして、彼らが蔑む唯物論者や無神論者のほうが、はるかに霊格が高かったりするのです。
ブラック企業にしろ、宗教団体にしろ、苦しいと感じたり、疑問を感じたら、このあり方でいいのかと、一度距離をとる。
そして、逃げたほうがいいと判断したら、

躊躇なく、全力で、逃げる。
それが、大切だと、思います。