僕の父(3年前に他界)が、母(1年前に他界した義母)と再婚したのは、僕が19歳のとき。

当時、僕の家は、世界救世教という宗教団体に入っていて、そこで、紹介されたのですね。

つまり、母も、東京で、同じ宗教団体に所属していたわけです。

実は、父は、母と再婚する前に、二人ほど、やはり、世界救世教の信者の女性を紹介されていたのですが、縁がなかったようです。

で、僕は、父が再婚したので、家を出たりして、放浪し、好きなように生きてきました。

その間、世界救世教をやめ、統一協会で、集団生活をしたり、まあ、転職と放浪の生活をしていたわけです。

落ち着いたのは、35のときですが、そのときには、統一協会はやめており、幸福の科学の会員になっていました。

父も母も、再婚した当時は、世界救世教の信者だったのですが、その後、僕と歩調を合わせるようにして、統一協会、そして、幸福の科学へと、宗旨替えしていきます。


で、その幸福の科学も、僕が53歳のときに辞めると、その後、両親も、辞めました。


まあ、しかし、どんな宗教であれ、人を惹きつけるには、それなりの理由というか、魅力があるわけですよ。

で、どの宗教にも、それなりの、心の教え、と、いうモノは、あります。

母の場合は、世界救世教の、お任せする、という教えが、気に入っているようでした。

あれこれ悩んでも仕方がないので、お任せする、ゆだねる、ということですね。

まあ、これは、仏教的に解釈し直すと、執着を手放す、ということにつながるように思います。


で、宗教遍歴の話になるとまた長くなるので、なぜ母と上手くやってこれたのかを再考すると、たぶんこれは、ウィンウィンの関係にあったのが大きいのではないか、と推測します。

つまりですね、母が、再婚もせずに東京で一人暮らしをしていたら、かなり貧しい老後になっていたと思います。職歴もわずかで、当時、板橋区のアパートに住んでおり、ちょうどそこを取り壊すので、出ていくように言われたタイミングで、父との再婚話があったのですね。


まあ、渡りに船だったわけで、こうしたタイミングというのも、ある意味、運命かなあ、と、思うのですよ。

で、父は父で、のち添えを得て、助かったところは多かったと思います。

僕もまた、父が再婚してくれたおかげで、自由に放浪できたわけですから、近江商人の三方良しの家族版、というか、そんな感じ。


で、父は、どちらかと言うと高給取りでもない、会社員というか、米軍横田基地というところに勤めていたので、準公務員に近い感じでしょうか。


で、父の世代は、ねんきん的にはかなり恵まれていたのですよ。

だから、非常にお金のかかる幸福の科学にいたときも、年金暮らしで何とかやり繰りできていたようです。


幸福の科学をやめた経緯などは、過去記事でも触れているので省きますが、そのときに大きな力となったのが、斎藤一人さんや小林正観さんの本でした。


ちょうど幸福の科学の総裁である大川隆法さんが、長年連れ添った妻と離婚するときで、支部に行くと、連日、妻への悪口を法話という形で聴かされていました。

法話である以上、それを聴くにも、お金がかかります。

お金を払って、妻への悪口を、支部に行くたびに聴かされるわけです。


それだけが原因ではないのですが、僕は徐々に精神に不調を覚えました。

それまで、大川隆法さんの妻のことを、文殊菩薩だ、アフロディーテだと、崇めていた信者たちが、てのひらを返すように、糞女とか、ユダとか、言ってののしる姿も、見るに堪えませんでした。

そうしたときに、斎藤一人さんや小林正観さんの本に出会い、普段話す言葉の大切さを、学びました。

実際、当時は本当に苦しい毎日でしたが、そうした天国的な言葉で、教祖の吐き出す毒舌の毒を解毒していったのです。


で、両親を説得し、ともに、幸福の科学を退会したのですが、実は、幸福の科学には、良い人もたくさんいて、このブログでも登場するAさんやIさん、とは、今も、親密な付き合いが続いています。


組織は離れても、人間をラベルで見ない、というのは、大事なことです。


さて、母とはウィンウィンの関係だったという話をしましたが、一緒に斎藤一人さんや小林正観さんの本を読むようになって、互いにありがとうを、言い合う機会が増えたことも、関係性の維持向上に役立ったように思います。


今日は長くなったので、ここまで。