昨日は、僕が普段お世話になっている、隣の市に住むAさんのところに行き、いくつかのアドバイスをしてもらいました。

ちなみに、Aさんは、僕よりも年下ですが、精神年齢は僕よりも高く、会ったときからタメ年の友人と話しているような感覚があります。

一昨日、時間をとれる日はありますかと打診したところ、昨日の午前中が良いのでは、ということになったのですね。

このAさん、この時期は、仕事が詰まっており、また、今年は特にプライベートでもやり遂げねばならない仕事が山積していて、その忙しい日々の中に対話の時間をこじ開けてもらった、という感じでした。

対話の場所は、Aさんが長年暮らしているアパートの一室。

まあ、話の内容は割愛しますが、9時ちょっと過ぎに行って、13時近くまで話していたので、3時間半くらいは対話していたでしょうか。

中身のある対話をしているときというのは、時間が一瞬にして過ぎ去ります。

これは、会社などでの会議とはエライ違いです。

で、こうした対話というのは、いかなるレジャーにも勝る、と僕は思うのですよ。

アパートの一室で、Aさんがドリップしてくれたコーヒーを飲みながら話をしていたのですが、お互いに共通するのは、真理の求道者である、という点。

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ここは、共通しています。

ただ、違いもあって、Aさんは、今も、幸福の科学の信者、というよりも、会員。

大川隆法の言うことを何でも鵜呑みにするのが信者だとするならば、Aさんは、そういうタイプではありません。だから、会員、と言い直しました。

Aさんは、幸福の科学は、宗教組織にはなってほしくなかったそうです。そのような枠に収まらない、世直し団体、であってほしかったとのこと。

で、このAさんは、ヒトラーの研究家でもあります。

ヒトラーの影響力は、人類史を見渡してみても、稀有であるとのこと。

また、Aさんの政治や国際情勢に関する知見は広く、深いものがあり、その分野では子供レベルの僕は、質問しながら頷くくらいのことしかできません。

ただ、ともに求道者であるという共通認識が、毎回、対話を深めているように思います。

つまり、求道者ということは、道、すなわちタオを求めて歩んでいるわけで、その共通項さえあれば、お互いの気づきを交換し合うことで、また、新たな認識を加えていくことができるのですね。

この、新たな認識を加えていく喜びは、何物にも代えがたいのです。

Aさんは、日ごろから脚下照顧の精神を忘れないようにしているので、一部の信者に見られるようなオカルトのほうにねじ曲がっていくこともなく、また、一隅を照らす、ことを座右の銘にしているので、職場では常に誠意ある仕事を心がけています。

Aさんのような地に足のついた誠実な会員が増えているならば、幸福の科学はもっと足腰の強い団体になっていただろうと、思わずにはいられません。

さて、このAさんは、誰よりも早く職場に行き、黙々とトイレ掃除をしています。もうそれは、Aさんの生活の中の良き習慣として組み込まれているので、本人はそれを修行とも思っていないのかもしれません。修行などという肩ひじ張ったものではなく、良き習慣にまで昇華しているのだと思います。

Aさんのことを話すと長くなるのでこの辺にしますが、得難き良き友がいれば、長い老後も退屈しないよ、ということですね。

また、良き友との対話は、いかなるレジャーにも勝るんじゃね、ということを言いたかったのです。

僕も、Aさんの生き方を見習って、一隅を照らす、ことを肝に銘じているところです。