若い頃はエネルギーが横溢しているので、その必然の結果として能動的なもの、あるいは攻撃的なものへ、思考、もしくは、行動が、傾くのは当然である。

そのため、活動的でないものを軽視し、華々しいものにあこがれる。

僕の場合で言えば、格闘技や喧嘩腰の議論、海外への旅、などが、それになります。

強いモノ、アクティブなモノ、への志向から、空手や少林寺拳法、中国武術などに興味を持っただけでなく実際に道場に通いました。また、ブルース・リーへの傾倒から、香港にも3回行きました。

武道や格闘技の話をしだすと止まらなくなるので、この辺で押さえますが、要は、若い頃は、能動的攻撃的傾向があるということです。

ところが、年を取るとともに、僕の場合は、次第に受容的、内省的になっていきました。

まず、厳然とした事実として、死、というモノがあります。

3年前には、在宅で父を看取り、去年は母を亡くし、ますます、死、というモノを考えるようになりました。

そして、死を考えて思ったことは、どんなに鍛えても、強さにアイデンティティを依拠するのは虚しい、ということです。

これは、美についても言えます。

どれほど美に執着しても、年とともに容色が衰えていくことを止めることはできません。

それゆえ、美、にアイデンティティを置いている人も、早晩、苦しむことになります。

ですから、この世の移ろいやすいもの、今の例で言えば、強さとか、美とかに、アイデンティティを置くべきではない、というのが、僕の考えです。

で、まず、大切なことは、衰えていく自分、という事実を受け入れる。

その上で、自分が最善と思えることを成していく、ことではないか、と思うのですね。

で、縁あって出会った自彊術ですから、僕は、これに、今日から取り組もうと思います。

そしてできれば、自分の肉体と対話できるところまで行きたい、と思っています。

格闘技には戦う相手、つまり敵がいますが、自彊術には、敵はいません。

敵がいないことを、無敵と言うのです。