介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

2018年05月

葬儀関連費用の参考にしてください

昨日、東上セレモの担当が来て、支払いを済ませました。

以下に、そのザックリとした明細と支払い金額をアップします。


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消費税込みで、954162円です。

葬祭費用やホール利用費の内訳は、別紙にて細かく記載されたものを渡されました。

上記以外での出費は、火葬場やマイクロバスへのお心づけ、これは、1万円程度でした。

それと、葬儀で飾るお花代、これは、親戚の方から実費でいただいているのがあり、僕自身の負担分は、お花3つで、48600円でした。

さらに、火葬場での飲食費はその場での支払いでした。これは、斎場に帰ってから摂る昼食までのつなぎの飲食なので、大したことはありません。

ザックリ言って、上記の合計が、102万円ほどで、これに、僧侶への支出が、36万円。併せて、138万円です。

これからかかってくるお金は、墓誌へ名前を刻む費用と、納骨時に石材店に来てもらう費用、それと、檀家の寺への寄進代くらいでしょうか。これらを合わせて10万円とすると、総計148万円ほどの出費になるかと思います。

まあ、150万円と思っておけば、大丈夫かと思います。

参考になれば、幸いです。

ただ、今は、普通の霊園に納骨するケースが増えていると思うので、その場合は、僧侶への支出は格段に安くなります。

僕の場合は、檀家の縛りがあるがゆえの、選択の余地のない僧侶への支出なので、これは、そういうものだと思って受け入れています。

幸い、父も母も、良い戒名をいただいたので、それで良しとします。

何はともあれ、大きな支出を昨日済ませて、まずは一安心です。

欲を言えば、クレジットカード一括払いで支払えれば、かなりのポイントが付いたであろうという気持ちはあります。

しかし、旧態依然たる葬儀屋の現金払い、95枚もの万札を数えたのは、久しぶりでした。

株の所有資産は半減しましたが、数か月生き抜ける程度の現金を確保しましたので、これからは、じっくりと自分を見つめる時間を持つと同時に、仕事のほうも、しっかりと探していきたいと思っています。

何があっても、明るく生きていく

昨日は、今度の月曜日に支払う、葬儀費用、95万円ほどのお金を工面するため、郵便局に行きました。

郵便局の僕の口座には、通常は、わずかばかりの現金が置いてあるのですが、株のある口座からの入金先にもなっています。

株の口座には、額面にして400万円ほどがありましたが、かなりの銘柄を売却して、お金を作りました。そしてその売却して得たお金の入金先が、郵便局の口座なのですね。

昨日、郵便局でおろしたお金は、40万円。

母の年金口座の残りが30万円(もともとは65万円ほどでしたが、僧侶への読経代などで35万円を支出済み)。

いただいたお香典の総額が、284000円。

合計で、60万円弱の現金があるので、あと40万円を何とかすれば、月曜日の、東上セレモへの支払いが可能となります。

で、今現在手元には、984000円の現金があります。これで、葬儀代の支払いは、大丈夫なはずです。

今後、用意しなければいけないお金は、49日法要の、住職への読経代8万円と、そのあとの食事代、あとは、墓誌に名を刻む費用と、お寺への協力金(たぶん数万円のはず)くらいでしょうか。


株の口座から、利益を出している銘柄を次々に売却することで、まあ、これも一種の手じまいですが、現金化が可能になっています。

当面の生活費も見込んで、200万円くらいは、現金化する予定です。すでに、50万円ほどは、お金に変えているので、あと150万円くらいでしょうか。

場合によっては、数銘柄だけを残して、もっと売却してもいいかもしれません。ただ、損失を出している銘柄だけは、売らずにそのままにしておきます。


さて、昨日は、思いがけない人から電話がありました。

僕が十代の頃に知り合って、大変お世話になった、Hさんと言う人です。今はもう、81歳だそうで、生活保護を受けながら、一人で暮らしていると言います。

よく、僕の家の電話番号をなくさずに持っていたものだと思います。その人は、波乱万丈の人生を生きた人で、子供さんは二人いるのですが、別々に暮らしているそうです。

で、将来は、死んだら検体に出して、自分の始末をつけると言っていました。

高知県出身の女性で、潔い性格の人です。

知り合った頃は、藤沢市の高台の素敵な家に住み、伊豆に別荘も所有していました。一度、その別荘にも招待されました。

また、その藤沢市の自宅にも、友人と一緒に、何度も遊びに行き、大変お世話になりました。

で、その人は、今は横浜に住んでいて、生活保護で、生活は楽ではないようですが、今度僕のほうでももう少し落ち着いたら、横浜に遊びに行きがてら、一緒に食事でもして、昔話に花を咲かせたいと思っています。

幸い、81歳にしては、頭もしっかりしていて、絵も描いているそうで、元気そうでした。

電話口で、僕も両親を介護した話などし、お互いに、ずいぶん年を重ねたことなどを、実感しました。


まあ、仕事のほうも、じっくりと、長く続けられるものを探します。

何があっても明るく生きていく。

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あるいは、さっぱりとした気持ちで生きていく。

そういう心的態度と、行動が、道を切り開いていきます。

だって、良い考えというのは、明るさから生まれますからね。

履歴書とともに断りの文面が届きました

先週の火曜日の、15日、母の通夜式に行く途中で、出した履歴書と職務経歴書。

希望先からの電話を待てども来ず。

そして昨日、慇懃ながらも、断りの文面が届きました。


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僕が応募した、電気工事組合からの返事です。

応募する条件として、電気工事士の資格を持っていること、そして自家用車を仕事につかえることだったので、けっこうハードルが高いし、そんなに競争は激しくないと思っていたのですが。

まあ、仕方がありません。

僕の、数少ない取り柄の一つが、「さっぱりした性格」ですからね。

すぐに気持ちを切り替えました。


月給16万円、社会保険完備、未だ連絡なし

先週の火曜日、15日、母の通夜式に行く途中で、履歴書をポストに投函。
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16日の告別式以降、いろいろと残務に追われていましたが、頭の片隅には、ずっと仕事のことがありました。

契約社員ですが、月給が16万円で、社会保険完備の会社です。

てっきり今日、面接に来るようにとの電話があるものと思い、朝からずっと待っているのですが、連絡がありません。

待っている間も、時間を無駄にしたくないので、東京電力に電話して、40アンペア契約を、30アンペアに落としてもらう日取りを決めたり、弁当配達のアルバイトをしていた会社に、借りていた帽子とポロシャツを返しに行ったり、それなりには、有意義に過ごしていたのですが、電話を待つ気持ちが、重低音のように、心の奥で響いています。


うーん、前にもありました。

履歴書は送ったものの音沙汰がなく、だいぶたってから、履歴書を送り返されたことが。

今回も、それなのかなあ。


今日、葬儀を取り仕切ってもらった東上セレモから、請求書の見積もりが、電話で告げられました。95万円だそうです。


これにはもちろん、お坊さんへの読経料、つまりお布施は含まれません。

いずれ、葬儀社に正式に支払いが済んだ後、お坊さんへのお布施も含めて、正確な金額を公開したいと思います。

これから葬儀を上げるかもしれない人の参考になるかもしれないからです。

株の売却などで、お金は何とか工面できそうですが、それ以後の生活のためにも、仕事は早めに確保したいところです。

しかし同時に、腰掛ではなくじっくりと働きたいため、このまま音沙汰がなければ、ハローワークにも行ってみようと思っています。

頼むぞ、ハローワーク。

在宅介護中心のリタイア生活から中高年おひとり様の自立生活へ

5月15日に通夜式、16日に告別式を終え、その後火葬場に行き、お骨を持ち帰り、今は49日までの期間ということで、母が暮らしていた一階の居間に、そのお骨を安置しております。

この記事も、そのお骨の横のテーブルで書いています。

慌ただしい日々でしたが、13日の日曜日に新聞の求人広告をチェックし、仕事先の候補を3つに絞りました。アルバイトは、母のターミナルケアや、在宅での介護を念頭に入れたものだったので、自分一人になってしまった以上、アルバイトをする理由が亡くなりました。

そこで、すぐに希望先の企業に電話し、葬儀などの関係ですぐには面接に行けないため、15日には、履歴書を郵送しました。

仕事の希望先を3つに絞ったとは言え、アプローチは第一希望から順番に行います。第一希望の就職先に時間を取られて、第二希望以下の仕事先が埋まってしまった場合は、縁がなかったものとして諦めます。

このブログにも記しているように、僕自身の年金の見込み額も、また老後の蓄えも、少ないので、できれば社会保険が完備している就職先が良いと思い、第一希望は、それに該当するものにしてみました。

まだ住宅ローンも、10年はあるので、これからはしっかりと働き、これまでの在宅介護中心のリタイア生活から中高年おひとり様の自立生活へと、切り替えていくことになります。

そのため、ブログのタイトルを変えるか、いっそのこと、このブログを一度閉じてしまおうかとも考えています。

話は変わりますが、昨日は、僕の友人の、花火師で投資家のSさんが、僕に、鰻重の特上を御馳走してくれました。地元では評判の鰻店で、味も最高でした。そして何よりも、Sさんの、暖かい思いやりの気持ちが嬉しく、その後、近くのスーパーマーケットの休憩コーナーで、いろいろな話をしました。

人生の晩年で、Sさんのような人と、友人になれたことは、これからの長い老後生活を考えたときにも、大きな心の安定になります。

また、Sさんの投資の師匠でもあるTさんも、Sさんとともに、母の告別式に、参加してくれました。まことに有難い話です。

今日もまだ、若干のあいさつ回りと、整理作業があり、明日も葬儀社と地元のガス会社との打ち合わせがあり、まだ、落ち着かぬ日々が続きますが、来週あたりから、仕事の面接が始められると思います。


母の死と、これからの僕

父の在宅介護をきっかけに、2年ほど前にこのブログを書き始めた僕ですが、その父を自宅で見送り、そして母も、一昨日、病院にて看取りました。

母の、あまりにも早すぎる死に、当初は茫然自失の状態でしたが、その後の対応に追われ、悲しみに暮れている暇もありませんでした。

死の前日の10日には、普通に会話ができ、トイレにも、自分で立って歩いていくことができました。

病院側の配慮で、10日から個室の病室に移してもらい、暑がりの母は周囲を気にせず、エアコンを使えるようにもなりました。

5月14日から、ターミナルケアの環境が整っている別の病院に転院することも決まっていました。

5月10日の夕方、担当医と話す機会があり、あと数週間から数か月の余命だと思われる、ということを告げられました。そして、その覚悟をしたうえで、今後どのようなケアをしていくのが良いのかを、話し合いました。

母の弱り方が加速度を増しているように感じていた僕は、ターミナルケアの環境が整う病院に転院してから、親せきや友人など、縁の深い方たちを呼んで対面する時間を持とうとの当初の考えを変更し、個室に移ったことでもあり、今の病院で迎える最後の週末の2日間を使って、僕のいとこで、母からは甥にあたる、HMさんを12日に、母と僕が何かと頼りにしているAOさんを13日に、それぞれ来てもらう手はずを整えていました。

まず、その二人に来てもらい、そして、ターミナルケアの環境が整った病院に移ったあとは、順次、縁ある方たちとの対面をしてもらう予定でした。

ところが、思いもよらぬ事態が起こったのです。

11日の朝、病院から緊急の電話を受けた僕が、母の病室に直行すると、そこには、昨日までの母とは打って変わった姿の母が、口に酸素マスクをされた姿でベッドに横たわっていたのです。

膨れ上がったおなかが痛々しく、目もうつろな状態でした。

昼頃一度帰宅した僕は、午後1時半から4時ごろまで、病室にいて、その後症状が安定してきたため、いったん帰宅したのですが、またすぐに病院に呼び出されました。

この日3度目の病室で、僕は母の遺体と対面することになりました。

その後の慌ただしい時間のことは、順を追ってここに記す気力がありません。

ただ、今日も葬儀に向けてのさまざまな準備があり、その束の間の時間に、これを書いています。

母とは、縁あって親子になって、来月でちょうど40周年になります。毎年、5回乃至7回は、泊りがけの温泉旅行に行っていますが、たいがいは一泊旅行です。

毎年、おおざっぱな年間の旅行計画を立てます。予定が変わってしまうこともありますが、だいたいは母の希望を取り入れる形で、行くことにしています。

今年は親子になって40年の節目なので、少し遠出をして、愛知県の西浦温泉に行く予定でした。そして途中か帰りのどちらかに、長野県の昼神温泉にも立ち寄る予定でした。久しぶりの、2泊3日の旅行を計画していたのです。

昨夜、ぽっかり空いた一人の時間に、旅行日和カテゴリーを見ていました。そこには、このブログを書き始めて以降の、母と行った旅行の記憶が記されています。

このブログを書き始める前にも、たくさんの旅行に行きました。父が生きているときには、3人で、あるいは母の兄である、伯父を含めて4人で行くことも数多くありました。

後悔は尽きませんが、これからは一人で生きていくことになります。

お金がないと、怯えた生活になる

昨日は、運送業の巨大倉庫での、荷下ろしのアルバイトをしました。

時間は、8時から12時までの4時間でしたが、日雇い派遣の人は、12時に終われたのですが、僕と、他の3人は、その会社に直接雇用のアルバイトのため、まだ荷物があるからと、30分残業しました。

仕事は、予想以上にきついものでした。

25キロの原材料が入った袋を、ひたすら荷下ろしし、さらにそれを、ある程度形を整えて、今度はパレットに積み上げます。

最初の10分で、かなり息が上がりました。

25キロという重量は、ただ普通に持つだけならば、さして重いものではありません。

簡単に言うと、スーパーマーケットなどで売っている10キロの米を2袋と、5キロの米を1袋、を一緒にした重さの袋を高いところから降ろし、形を整え、今度はそれを積み上げる、といった作業を想像してもらえればいいかと思います。

息が上がっても、休めないので、心臓がバクバクし、空気を吸い込むために、口を開けて呼吸することになります。

すると、かなり大量に舞っているに違いない粒子も、肺に吸い込むことになります。これも、つらかったですね。

水だけは自由に飲めたのですが、とにかく休みなしの仕事で、やっと15分の休憩が取れたのは、10時過ぎ。

後半、一番きつく感じたのは、腕の筋肉が痛み、おそらく乳酸がたまったのでしょう、腕の力が落ちた分を、腰でカバーしたため、かなり腰に来ました。
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重い袋を、一定のルールに従って、5段積み上げるのですが、4段目と5段目は、もはや腕の力だけでは、引き上げることができず、腰を使います。後半は、その頻度が増えたためか、腰を傷めたらいやだな、と思いながらの作業でした。

ともあれ12時半に仕事を終え、昼食後、母の面会へ。

さらにその後、今後お世話になるかもしれないターミナルケア病棟のある病院へ行き、説明を受けました。

そこで最初に見せられたのは、トイレ無しの個室で、一日10800円の部屋でした。

その後、トイレ付きの個室を見せられました。そちらは、一日16200円でした。

その後、4人部屋を見せてもらいました。こちらは、特別な料金はかかりません。

いろいろと説明を受けたのですが、お金がないと、そうした説明を聴くときも、怯えが走ります。

できるだけのことをしてあげたいと思っても、お金があるかないかで、かなり差が付くものだと実感しました。

午前中、倉庫での重労働のとき、数人の日雇い派遣の若者を見て(中には一人、僕よりも高齢に見える人もいた)、彼らの生活の苦しさを想像しました。

一人の若者、と言っても、40代くらいだと思いますが、彼は、昨日は別の会社で働いた、と言っていました。

あるいはまた別の、30代くらいの若者は、正社員に注意されるたびに、すいません、を連発しながら、懸命に働いていました。

どこに行かされるかわからない、日雇い派遣の重苦しさを感じました。仮に行く場所はわかっていても、行きつくまでは、どんな作業が待っているかは、ざっとしかわかりません。

また、収入も安定せず、将来を描いても、暗いものになりがちです。結婚などは、考えられない日常だと思います。

何だか昨日は、いろいろとありすぎた一日でした。

曜日感覚がなくなっていく母と、僕の明日のアルバイト

今日、病院に母の面会に行ったときに、今日は何曜日かと、訊かれました。残念なことですが、毎日病室の中で横たわっていると、明らかに、感覚のほうも衰えていきます。

それは、おそらく、僕であっても同じだと思います。たとえ病気もなく、元気であっても、毎日白い壁を眺めていたら、感覚が鈍るのは当然でしょう。

食事のときや、薬を飲む前には、看護師さんが、母に生年月日と名前を訊きます。それには、ちゃんと答えられているので、ボケの進行は、あまりないようには思います。

僕も面会に行ったときには、なるべく母と話すようにはしています。

母の病状に対する愚痴を聞き、そして、話をする、そして、膨れ上がったおなかをさする。

まあ、その程度のことしか、僕にはできませんが、バイトで疲労困憊して眠りこけてしまった日を除いて、面会には毎日行っています。

そして明日は、倉庫の荷下ろしのアルバイトの初日です。

重労働が予想されますが、何とか気合を入れて、やってこようと思います。

そしてその後、午後3時半には、次の転院先に行き、話を聞いてくる予定です。


僕は本当に、人間関係に恵まれている

僕は、つくづく思うのですが、人間関係には恵まれてします。

50代という、いい年をして知り合った花火師で投資家のSさんには、いつもお世話になっていますし、そのSさんが、投資の師匠と仰ぐTさんのところにも、何度かお邪魔し、貴重な話を聞くことができています。

また、このブログでもときどき登場する、友人Oですが、彼の紹介で入ったビル管理会社で、人生が劇的に好転しました。

Oがいなければ、僕がビル管理業界に入ることもなかったと思います。Oもまた、今、90代の母親を介護しているのですが、彼は、生涯の親友でもあります。

また、それ以外でも、僕のブログにこそ登場しないものの、何人かの、ありがたい友人がおり、彼らにも支えられています。

そして僕が、最も恵まれていたと感じるのは、親ですね

すでに他界した父は、僕が介護離職して、自宅にて在宅介護し、老衰で亡くなりました。

僕の実の母は、僕が16歳のときに亡くなりましたが、僕を大事に育ててくれました。


そして今入院中の母も、僕が19歳のときに父と再婚し、男所帯に来てくれました。


当時母は、大山に住んでおり、この町を、ずいぶん田舎に感じたようです。

川越でも田舎に感じたらしく、さらにその先ですからね。

まあ、その母も、今は入院中で、血のつながりこそありませんが、この6月で、親子になって40年になります。

幸い、相性が良かったので、仲良くやってこれました。

僕が、男なのもよかったのかもしれません。

もし娘だったら、葛藤があったのかもしれません。


まあ僕は、義理であろうが何であろうが、親子になるということは縁だと思っているので、浅からぬ因縁があるということなのでしょうね。


人の運命というものは、決まっているように思います。

しかし同時に、運命があらかた決まっているとしても、人は決して操り人形ではなく、そこから、人生の栄養ともいうべき学びをするのではないでしょうか。

僕は、永遠の命を信じているので、死んだら終わり、という唯物論者ではなく、人はこの世に、霊性を高めるために生まれてきていると信じている者です。


まあこの世は、謂わば、旅の途上です。

どうせ旅なのですから、少しでも学び多い、良い旅にしたいものです。

花火のアルバイトと母の経過

5月1日に、母のMRIの検査があり、事態は、かなり深刻であることがわかりました。

ありていに言ってしまえば、子宮癌ということになりますが、それだけではなく、専門用語で、播種と先生が言っていましたが、つまり、ガン細胞が、ばらまかれて散らばっている状態のようです。

先生の助言では、体力的な問題もあり、抗がん剤治療はリスクが大きすぎるとのことで、それは、見送り、今後は、ターミナルケアに向けての治療になるようです。

その場合は、転院先を紹介するとのことでした。

また、もう一つの選択肢として、今後体力は衰えていくので、今であれば、希望すれば家に戻って、通院しながらケアするという方法も提案されました。

昨日の、先生との話し合いでは、家に帰るのは不安があると言っていた母ですが、今日は、少し前向きな気持ちになったのか、家に帰る選択肢をにおわせていました。

今日は、病院に面会に行く前に、花火師で投資家のSさんの好意で、花火の仕事の手伝いをさせてもらいました。

3時間ほどでしたが、昼食も、会場で用意してもらい、助かりました。

その後、母の面会に行ったのですが、顔色が良く、前向きな気持ちになったのは、看護師さんに聞いたところ、今日、腹の中の水を抜いたからではないか、とのことでした。

また、検査結果を元に、新たな薬の処方も始まったようで、今日は、そのせいもあり、少し、楽になったようです。

僕のほうでは、母が退院しても良いように、このところ連日のように、部屋の清掃と整理をしています。


まあ、今後、どうなるかはわかりませんが、運を天に任せ、自分のできることをコツコツとやっていくつもりです。

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