介護離職からのおひとり様快適生活

定年まで数年を残して介護離職したのち、父を自宅で看取り、その二年後に母も天国へ。風の時代の上昇気流に乗りながら、日々の暮らしでの気づきと心象風景を綴っています。

2016年10月

父の墓参りの帰りに、建売住宅を見て思う

今日は月命日でもない、何でもない普通の日ですが、あまりにも天気が良かったので、母を連れて父の墓参りに行ってきました。

父の墓は、僕の住む町から、車で30分ほどのところにあります。

そこは埼玉県入間市というところで、僕自身も高校を出るまでそこに住んでいました。父の勤務は米軍横田基地で、通勤にも便利でした。

山を切り開いて作られたさほど大きくはない墓地で、ひな壇に墓が並んでいます。きちんと手入れされている墓もあれば、長いこと放っておかれているであろう墓もあります。

彼岸の頃にさしていた切り花が、すっかり枯れていました。そうした枯れ花を、まずは捨て、草を少しむしりました。

今回は、あえて花を飾りませんでした。

墓参りの後、青梅、飯能を通って帰りました。飯能の美杉台は、紅葉が綺麗ですが、まだ時期が早く、色づいているのは一部でした。

美杉台は、たぶん西武系の不動産会社が、住宅を建てているのだと思いますが、かなり広い土地で、立派な家が多いです。バブルの頃であれば、7000万円台で売れるような物件です。今はいくらくらいなのでしょうか。

今は金利も安く、買い頃なのかもしれません。

まあしかし、これから人口減少で空き家も増え続けそうですし、そうした空き家を再利用できれば、一番いいのですが。

僕が生まれ育った市営住宅は、家賃が、2000円くらいだったと記憶しています。2万円ではなく、2千円です。

今もまだ、その住宅は健在で、誰かしらが住んでいるようです。さすがに今の家賃は、もう少し高いでしょうが、市営住宅のような、安いところに住み、固定費を低く抑えるのも賢いと思います。

住むには収入制限があるかと思いますが、生活は普通にして、余ったお金を資産運用するのが、良いですね。


バブル絶頂期に家を買った人の悲劇

世の中には様々な悲劇がありますが、バブル絶頂期に家を買ってしまった人たちの悲劇は、痛々しいものがあります。

91年のドラマ『それでも家を買いました』の山村夫妻などは、その典型ですね。

「都心まで遠いニュータウンの中の中古団地を買う。駅からはもちろんバス便。購入価格は当時で5200万円。4200万円で30年ローン」

これが、ドラマ内での、山村夫妻の状況です。ドラマ、とりわけ、トレンディドラマというのは、その時代を映す鏡です。

当時は、中古団地を5200万円で買えたことは、勝ち組でした。

しかしその後のバブル崩壊で、見事なまでの不良資産です。三上博史さん演じる、サラリーマンの夫は、往復3時間超の通勤に耐え、その後、4200万円もの住宅ローンを払うことができたのでしょうか。

もし、子供がいれば、妻役は、田中美佐子さんで、美人ですから、子供も二人や3人、できたでしょう。とすると、住宅ローンに加えて、教育費です。

もう、三上博史さんもヘロヘロでしょう。下手したらリストラで、給料激減、家も手放し、家庭崩壊、なんてこともあるかもしれません。

これはドラマですが、日本中で、高い住宅ローンを背負いきれずにつぶれた家族は数多いでしょう。

株で言えば、とんでもない高値掴み、ということになります。株ならば損切りできますが、マイホームの損切は、痛手が大きすぎます。

僕の場合、ずっと低収入だったために、バブルの恩恵はほとんど受けなかった代わりに、バブルの痛手も皆無でした。

人生、何が幸いするかわかりません。


掃除と筋トレとストレッチそして空手

今日は、靴箱を掃除しました。一度すべての靴類を出して、棚も外して拭きました。

棚の高さは調整できるようになっています。

父の死後は、母と二人だけの暮らしなので、靴箱は余裕がありますが、さらに、4足廃棄処分にしました。まだ履けるのですが、微妙にきついのですね、履いた時に。

それというのも、僕の足は、25なのですが、幅広の4Eなのです。最近さらに幅広になったのかわかりませんが、以前は履いていた靴も、きつくなりました。サイズも、最近は、25.5のものを買っています。

物は少なくして、自分に合ったものを使うのが一番です。

深夜に腰を痛めたのが10月の6日で、その後回復し、今は平常に戻りましたが、体の柔軟性の大切さを痛感し、ストレッチもやるようにしています。

掃除と筋トレとストレッチを生活の中に取り入れるだけで、十分な運動量になります。さらにときどき、空手もやります。

空手の良いところは、場所を取らないところです。しかも、どこでもできます。特に、自宅でのエクササイズとしては最高です。

若い頃は、前蹴りで、後ろにいる人間を蹴ることもできました。体を反らせて蹴るのですが、もちろん実践で使ったことはありません。道場で、後輩のでかい奴を相手に練習しただけです。

今では、足も大して上がらなくなりましたが、それでも、50代後半の男にしては、そこそこの蹴りはできると思っています。もちろん、人間を相手に蹴ることは生涯ないでしょうし、ただ自己満足とエクササイズでやっているだけなのですが、蹴り技のコンビネーションというのはかなりの快感です。

お金のかからない趣味兼運動で体にも良いので、空手は最高です。

でも道場に行く必要はありません。お金を使わないで、強くなれます。今は、ネットのおかげで、空手も自分で練習できます。ストレッチも筋トレも、同様です。

その点では、とても良い世の中になったと思っています。

もうサラリーマンに戻りたくはありません

今日は、投資家で花火師のSさんと、久兵衛で落ち合い、投資や今やっているビジネスの話などをして盛り上がりました。

昼間の2時から、ビールとつまみで、4時間も過ごしました。昼間から飲んでいられるのも、早期リタイアの特権です。

締めのうどんを食べた頃には、外はすっかり暗くなっていました。今回は、Sさんに御馳走になりました。普段も、ビジネスの話をするランチのときは、いつもお金を出してもらっているので、何とか僕もビジネスを軌道に乗せ、お返しができるようになりたいと思っています。

昨日は友人と3時間ほどウォーキングをして帰宅後家飲みをしてしまい、2日連続でかなり飲んでしまいましたが、早期リタイアは、眠りたいときに眠れるので、ありがたい話です。

もうサラリーマンに戻りたくはありません。

土地の所有権移転完了と過労死考

今日は行きつけのガソリンスタンドが、タイムサービスをやっていて、通常の会員価格よりも、2円安く給油できる日でした。2円でも、30リッターも入れれば、60円です。

たかが60円、されど60円。

タイムサービスが始まる13時にGSに着き、満タンにしました。

その後、今使っている中古車を買った店に行き、6か月点検をしてもらいました。

そのあとは、埼玉法務局坂戸出張所に行き、登記完了証と登記識別情報通知を受領してきました。今回は、友人に書き方を教わり、そのフォーマットに従って書類を書き、法務局の職員にチェックしてもらって、先々週の7日に、提出したものです。

無事登記が完了し、父の土地と私道分が、僕の所有権となりました。わずか30坪ばかりの土地ですが、重みを感じます。

その後は、天気が良かったので、鶴ヶ島運動公園に行き、公園内を散歩しました。平日なのに、ずいぶん大勢の人がいて、駐車場はほぼいっぱいでした。

釣り人、運動をする人、子供連れ、ウォーキングをする人など、様々でした。まだ紅葉には早いものの、多少色づいている木もあり、よい散歩ができました。

都会の生活は便利ですが、忙しないです。都内にも結構いい公園がありますが、やはり、埼玉の中西部というのは住むにはちょうど良いところです。

早期リタイアの特権で、のんびり散歩しながら、また、過労死について考えてしまいました。子供のころから競争させられ、いい大学に入っても、また就職で競争。

そして良いとされる、世間的にはですけどね、企業に入っても、また競争競争です。

競争競争競争競争。

競争は、狂想じゃあないでしょうか。
どうせなら、ともに創る、共創のほうがいいですね。

もっとおおらかな社会になって欲しいです。命より大事な仕事も、競争もありません。

のんびり散歩した後は、カインズで、地元農家の野菜を買い、そのあと大川家具に行きました。家具を見るのは楽しいものです。買いはしなくても、自分の部屋のレイアウトのヒントになります。

年金記事への誤解と痴呆への不安

昨日の記事、「悲しみの年金支給額がさらに減額」で、自分の受け取る年金の減額について書きましたが、あとで見て、ショックを受けました。

その記事を書いている時点で、僕は、減額に初めて気づいたと思っていたのに、その前の記事「ねんきん定期便を公開します」でも、すでにそのことを書いていました。

来年のねんきん定期便は少なくなるなあ、と思って書いたのですが、その前の記事で、そのことをすでに承知していた自分がいたことを知り、それを忘れていたことへのショックでした。

これはボケとか、痴呆とか呼ばれるものの前兆かもしれないと、戦慄したのです。

シューマンが最晩年に、やはり痴呆になり、弟子のブラームスに、いい曲ができたよ、と言って、紹介したのが、トロイメライでした。トロイメライは、すでに、シューマンの作曲で、世に出ていましたが、彼はそのことを忘れていたのです。これは映画で見たのですが、とても印象的なシーンでした。

介護離職する前に、仕事で結構ミスをするようになっていました。危険物を扱う仕事でもあり、絶えず不安がありました。

今は、自宅で、まだお金にはならない仕事を細々とやっていますが、外に出て働いていたときと比べ、やはり何かが落ちているのかもしれません。それは緊張感かもしれませんし、刺激なのかもしれません。

50代後半のおひとり様としては、痴呆だけは避けたいところです。

悲しみの年金支給額がさらに減額

毎年誕生月になると、ねんきん定期便というのが届きます。僕は3月生まれなので、来年3月に来るのですが、今日、ある重大なことに気づきました。

ねんきん定期便は、あくまでも見込み額です。僕が今現在持っているねんきん定期の見込み額は、以下の記事で書いています。

ねんきん定期便を公開します

このときは、介護離職した直後で、まあ、前年度しっかり働いていたんですよね。それで、この金額。

ここから、国民健康保険と介護保険代とかを引かれたら、どうなるのだろうと思っていましたが、今日気づいたことは、来年のねんきん定期便の見込み額は、間違いなく下がるという当たり前の事実です。

だって、収入がないんですから、今は年金の免除をしてもらっています。これはつまり、受け取る年金はさらに下がることを意味します。

今ですら年間92万円。これを6で割ると、約15万円。

年金のことを知らない人もいるかもしれないので、一応念のために言いますと、年金の支給は2か月に一度、つまり、年6回の支給なのですね。だから6で割ったわけです。

すると、2か月で15万円ですが、当然、これからは、働いていない分、年金を納めない分、減額されるわけで、仮に年間84万円で見積もると、2か月で14万円の支給です。しかし、生活保護ではないので、ここから国民健康保険や介護保険が引かれます。

もちろん、これだけ年収が低ければ所得税と住民税はゼロでしょう。

しかし手強いのは、国民健康保険や介護保険です。2か月14万円、つまり月7万円の年金収入であっても、支払いを逃れることはできません。

だから生活保護のほうが、よほどリッチであると、ときどき非難されるのです。

何とか収入を確保し、月7万円の年金が全額小遣いとして使えるように、道を切り開いていきます。

吉野家牛丼無料に見る庶民の懐具合

今日は母を高坂の整体院に送迎しました。母が整体施術を受けている間の時間に、吉野家に行ってきました。

前回は鶴ヶ島の吉野家でしたが、結構混んでいて、駐車場も狭かったので、今回はネットで調べて、東松山の吉野家にしました。

混雑を避けようと、12時前には着くようにしたのですが、店内はすでに満席。

それ以外にも持ち帰りの注文をする人で、レジの前は行列ができていました。

まさかその人たちすべてが、ソフトバンクの提供する、無用券で食べているとは思いませんが、やっぱりまだまだサラリーマンに限らず、庶民にとってはデフレなのかもしれないという思いを強くしました。

作業服を着た女性もかなりいました。ガテン系の仕事をしている女性たちです。

いったいどのくらいの人たちが、無料券で食べているのかは、正確には把握できませんでしたが、僕が観察した限りでは、半数以上がスマホですか、ソフトバンクだからアイフォンでしょうか、その画面を店員に見せて、お金を払わずに帰っていきました。

まあ僕も、そういう人たちの一人でしたがね。

整体の帰りは、いつもは天丼のてんやか餃子の満州か、混んでいなければはま寿司で食事をして帰るのですが、今日は僕がすでに吉野家で昼食を食べてしまったので、入西のコモディイイダで、母の昼ご飯を含んだ買い物をして帰りました。

今月はあと2回吉野家に行く予定です。もちろんソフトバンクの無料券があるからです。

でもそのあとは、吉野家に行くことはほとんどないでしょう。

牛丼は、僕は松屋派です。

理由はすこぶる簡単で、松屋は味噌汁がついてくるからです。でもまあ、早期リタイア後は、松屋に行くこともなくなりました。

六日町に行ってきました

8月9月と旅行に行っていなかったので、12日13日と、母を連れて新潟に行ってきました。
今回の宿は、六日町温泉の越路荘。通常一泊二日2食付き、12800円のプランが、ゆこゆこ秋の特別号で、8800円だったので、そこにしました。

関越自動車道の長いトンネルを抜けて湯沢に着くと雨。トンネルの手前は晴れていたのにです。
ずっと雨で、六日町温泉には早めについたので、しゃくなげ湖に行きました。ダムの人造湖です。ここもずっと雨で、早めに宿に到着。母は歩くのが苦手なので、エレベーター近くの部屋を頼んでおきました。宿は4階建てでこじんまりしていました。4階に大浴場があり、泊まった部屋は3階。お風呂に行くのは楽でした。

8800円なのに、夕食は部屋だししてくれました。量もちょうどよく、お得でした。風呂は源泉かけ流しで、これも良かったですね。

今日は、10時に宿を出ると、雲洞庵に行きました。
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その後舞子坂高原を経由して、帰りは湯沢から関越に乗らずに、三国峠を目指しました。
二十代の頃、スキーでよく行った苗場に立ち寄りましたが、まだ紅葉はしていませんでした。
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月夜野から関越に乗り、花園で下車。坂戸スマートで降りるのが一番家には近いのですが、花園からなら道もすいていて、走るのも楽ですから、群馬新潟方面の旅行で関越に乗る時降りるときは、たいがい花園インターです。


35までダメダメだった自分

これは、僕の友人の多くが知っていることですが、35歳までの僕は、本当にダメなやつでした。

何がって、ろくに働かないというか、職についてもすぐに辞めるで、35歳時点での、一番長い職歴が、マイシティハウスという不動産会社で、2年ほど、そして、もう一つが、避雷針を作っている、当時あった電電公社の下請けの会社で、そこが2年半、くらいでしょうか。

それ以外は、どこも1年未満。ひどいのは半日でトンズラ。
まあ、職種も様々で、変わり種としては、チリ紙交換、テレビ番組のエキストラ、あとは、今でいう催眠商法の高額の布団売り。

催眠商法については、途中でこんなのやってられないと、現場である山形県の天童市から、逃げ帰りました。お金は一円も稼げず、交通費の持ち出しだけ。

転職は30代のときに一度数を数えたら、135でした。これにはもちろんアルバイトも入っています。でも、135と言っても、人は信用しません。盛ってるんじゃねえの、と思われるだけです。でも、本当のことです。まあ、半日で逃げ帰ったのも、数に入れての話ですけれど。

でもはやり、それを職歴に入れるのもどうかと思うので、ある程度の期間働いたということで言えば、30くらいに落ち着くのでしょうか。

しかし35からは、安定しました。友人Oの紹介で、ビル管理会社に入ってからの人生は、ギアチェンジしたかのように、平安な日々となりました。

やはりなんと言っても、続けられる仕事であったことが大きいです。そして、決まったお金が継続して給料として入ってくることで、精神的にどれだけ安定したかわかりません。

経済の安定は、精神の安定につながります。

35以降の転職は、2回だけです。一度は46歳のときに、不動産仲介会社に入りましたが、三日くらいでやめました。その後、新宿のビジネスホテルで、11年勤め、父の介護離職で、今に至っています。

イノシシ年で、よく猪突猛進と言われます。考えもなしに突っ走る傾向は、ありましたね。今も多少はあるかもしれません。まあ、しかし、よくここまでやってこれました。自分の力ではありません。いろんな人に助けられてきました。

自分の力は小さいです。だけど、運はとても良いと思っています。


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