介護離職からのおひとり様ローコスト生活

定年まで数年を残して、介護離職したのち、父を自宅で看取り、その後、母も末期がんで亡くしました。両親の介護のために建て替えた家の住宅ローンを払いながら、ローコスト生活で生き抜く日々の暮らしと心象風景を綴っています。

2016年06月

ついに失業給付金が終了しました

 今月の12万円ほどの失業手当をもって、僕の、失業給付金の受け取りが終了しました。

 介護離職をしてから、あっという間に、5か月が過ぎようとしています。

 失業給付金の支給は、4か月。
 11年勤めて、理由が介護の離職であっても、自己都合である以上、4か月しか、失業給付金はもらえません。

 これが、会社都合であれば、11か月も、もらえるんですけどね。

 もう勤め人に戻る気はないので、起業を成功させるしかありません。
 ただ僕の場合、子供の教育費がかかるわけでもないので、ぶっちゃけ、月に、10万円も稼げれば、ローンを払いながら、何とかやっていくことはできます。

 ただ、その場合、母の年金に頼ることになるため、できれば、20万くらいは稼ぎたいとは思っています。

 会社員時代の僕の月給は、手取りで、27万円前後でしたから、もし、起業で、30万円を稼ぐことができれば、大成功だと、言えるでしょう。

 たかが失業給付金、されど、失業給付金です。
 この失業給付金に、僕は、依存していました。

 父の通夜式、告別式、そして、四十九日法要も終え、仏壇も買い替え、納骨も済ませ、怒涛のように、お金が出ていきました。しかし、少しも、惜しいとは思いませんでした。父に対してできる、最後の親孝行のつもりでしたからね。

 父は他界しましたが、僕の人生はまだ終わってはいません。
 
 ここから、ひと花、咲かせます。


父の、納骨を、してきました

 昨日は、父の四十九日法要がありました。
 残り少ない父方の親戚の、来られる人だけが来るということで、来てくれたのは、わずかに4人。
 母と僕を入れて、6人。

 友引ということで、セレモニーホールは、貸し切り状態でした。

 法要は、友引でも問題ないとのことで、この日になったのは、お経をあげる住職の予定に合わせたためです。

 仏壇も買い替えたため、開眼供養というものも行い、住職は、二度、お経を唱えました。
 お布施は、それぞれ、5万円で、10万円になりました。それ以外に、お膳代とお車代が、それぞれ1万円かかりました。お塔婆代は、3000円です

 通夜式に渡したお布施は、20万円以上になりますが、そのときは、お膳代は、5千円を包んだのですが、後日住職から電話があり、1万円にするように、ということを遠回しに言われたので、それに従いました。
 
 法要の後、食事会となり、父にも、供養膳を用意しました。これは、告別式の時と同じです。

 昨夜は、新しい仏壇に、父のお骨を納め、一晩だけ、そこに置きました。 

 そして今日、お骨と卒塔婆を、携えて、墓に行きました。
 その墓には、生後すぐに他界した僕の弟と、僕が高校生の時に亡くなった母が、眠っています。

 待ち合わせをした石材屋さんとともに、山の中腹にある墓の前に行き、納骨しました。

 母の骨壺の横に、弟の、小さな骨壺がありました。それを見たのは、初めてでした。弟を真ん中に挟み、父と母の骨壺を横に置く形で、収めました。

 今の母は、父が再婚した後の義理の母になりますが、母も、同じ墓に入りたいと表明しているので、僕と合わせ、あと二つの骨壺が、そこに収まる予定です。

雨が降ってるしだるいので会社を休ませてください

「雨が降ってるしだるいので会社を休ませてください」、そう会社に電話をし、ずる休みをした夢を見ました。

 会社員時代、もちろんそんな電話をしたこともないし、そんな理由で休んだこともありません。

「何眠たいこと言ってんねん、はよお、出社せんかい、このボケ」
 上司に怒鳴られ、雨の中を出勤していく僕がいました。

 夢の中ですけどね。

 僕の上司は、愛媛県出身で、こんな、ナニワ金融道みたいな、過激な発言をする人ではありませんでしたが、今日のように、雨の日は、本当に、会社に行く生活を卒業できてよかったと、つくづく感じます。

 僕は結婚もしませんでしたし、出世もしませんでした。

 今となっては、それでよかったと、これもつくづく実感しています。

 世の中には、何もしないでいると、退屈を感じる人もいるようですが、僕は、全然平気です。むしろ、自分が、虚になることで、外界が鮮明に見えてきます。

 生まれつき、瞑想体質なのかもしれません。

 だからこれまで、カルト宗教などにも騙されてきた負の側面もありますが、今後は、この体質は、老後の充実した生活を送るうえでの、有効な資質となりそうです。

 僕にとっての充実した生活とは、必ずしもアクティブなものではありません。

 むしろ静かで、存在感の薄いものです。

 

血と汗と涙の投資になります

 ハローワークにも通ってはいますが、50代の男を、雇ってくれる正社員の口は、極めて少ないのが現実です。

 パートや非正規ならば、ありますが、それらは若い人たちと一緒にやるような仕事なので、体力が持ちません。それでも、生活が成り立つならば、僕は、やる気があるのですが、介護との両立という第一条件は避けては通れないため、ことごとくそれがネックとなり面接にすら至りませんでした。

 そして、父の死、という出来事があり、仕事には就きやすくなったのですが、僕はやはり、起業する道を選びました。

  もう社畜には戻りたくない、という思いがあります。

 起業のためのセミナーに投資した金額は、税込みで、80万円です。

 いただいた退職金、143万円の中から、捻出しました。

 143万円から、80万円を引いた、63万円は、武蔵野銀行の住宅ローン返済口座の中に入れました。

 親の介護のために、建て直した実家は、僕の城でもあります。この城は、守り切らねばなりません。住宅ローンが払えず、年老いた親と落城、して路頭へ、というわけにはいきません。だからこそ、まずは、住宅ローンの返済は、最優先になります。

 血と汗と涙の結晶、という言葉があります。

 僕の、この143万円の、退職金は、通勤時間往復4時間の会社に、11年間勤めて、いただいたものです。

 それなりに危険な作業もあり、文字通り、血を流したこともありました。汗は当然、出ます。涙も、流したことがあります。だから掛け値なしで、血と汗と涙の結晶の、退職金です。

 その退職金の6割弱にあたる、80万円は、僕にとっては、身を切るようなお金です。

 そのお金と、今後1年間の時間と努力で、一年後には、自宅で稼げるようになりたいと、思っています。それが実現できれば、年老いた母との暮らしを守りながら、住宅ローンを支払って、生活していくことができます。

 すべては、自分次第ですね。

荒涼たる原野

 僕が初めて外国に行ったのは、1992年で、もう、ずいぶん前のことになります。

 少しだけ、ホームステイをし、あとは旅をしていました。

 ちょうど、バルセロナオリンピックの年で、エイズで死んだフレディ・マーキュリーが、バルセロオナアーと、ホームステイ先の家のテレビの画面で叫んでいたのを思い出します。

 チチェスターという小さな町にホームステイし、その後は、イギリス中を旅してまわりました。

 イギリス行きの、大きな目的の一つが、ハワースに行くことでした。

 ハワースは、北イングランドの小さな町です。

 そこが、小説、「嵐が丘」の舞台になったところです。

 僕が、最も感銘を受けた小説が、嵐が丘であり、曲がりなりにも、英語を勉強し続けているのも、もう一度、あの荒涼とした原野に行きたいという、思いがあるからなのかもしれません。

 1992年に、僕がハワースに行ったときは、夏でした。ヘザーというブルーの花が咲き乱れていました。

 しかし、今度行くときは、冬に行きたいと思っています。
 冬に行ってこその、嵐が丘でしょう。

 思いは、必ず、実現すると言います。

 僕はきっと、もう一度、ハワースに行きます。イギリス人が、biting wind と呼ぶ、身を切るような寒風を押しのけて、僕はあの原野を、もう一度、歩いてみたいのです。

退職金を公開します

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 父の死後の、残務整理をする中で、僕の退職金明細書も、見つかったので、公開いたします。

 従業員数20人程度の、オーナー社長が経営するビジネスホテルの、これが、退職金になります。

 公務員や大手企業に比べたら、見る影もありませんが、個人経営の会社としては、よく、出してくれたと、感謝しています。

 勤続年数、10年11か月。
 もう少しで、11年でしたが、ラッキーだったのは、10年を超えていたことです。10年未満と、10年以上では、計算の乗率が変わってくるようなことが、会社にあった規約に、書いてあったように思います。

 しかし、そこがまた、個人経営、ワンマン経営、オーナー会社の面白いところで、そうした規約なども、社長のさじ加減一つで、どうにでもなってしまうのです。

 事実、僕よりも高給取りだった、ホテルのレストランのチーフの退職金が、100万円に届かなかった事実があります。

 初めて知りましたが、退職所得控除額というのが、440万円なのですね。

 僕の退職金は、それに全く届かないので、さすがに、税金は、引かれませんでした。

 この退職金があったから、起業家セミナー代の、80万円も、払うことができたのです。

 加藤であれば、この退職金で、2年数か月は暮らせるでしょう。僕は、住宅ローンがあるので、そこまでは持ちませんが、節約を心掛けながら、慎ましく、暮らしていこうと、考えています。


深夜に、グレゴリオ聖歌を聴く

 父の死後、内省の時間を得て、いろいろなことを振り返っています。

 そうした中、今日は、深夜に、グレゴリオ聖歌を聴きました。

 全く楽器というものを使わず、ただ、人の声だけで、あのような、神聖な雰囲気を醸し出すとは、やはり、人間というものはすごいものです。

 市井に生きた、名もない人たち、歴史には残らず、世間にも知られず、まあ、父も、そうした人たちのうちの一人であったわけですが、名もなき無数の群像が、時の流れに乗って、旅をしているのだと思います。

 やがて、僕も死に、この地上から消え去っていきます。
 それは明日かもしれず、30年後かもしれません。

 間違えのない事実は、生者必滅の言葉のごとく、必ず、死んでいく、ということです。

 インターネットで、キリスト教の放送を聴いていた時期があり、その時に知った、聖グレゴリオの家に、何度か行ったことがあります。東京の東久留米市にある聖グレゴリオの家は、建築も素敵でしたが、聖堂で歌われる、グレゴリオ聖歌に、魅せられたものでした。

 当時住んでいたマンションからも、また、今住んでいるところからも遠いので、もうすっかり足を運ばなくなりましたが、冬になったら、行ってみたいと思います。


 何度か足を運んだのが、いずれも冬だったからかもしれません。

父の写真を伴っての旅行

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 6月1、2、3の3日間、母と、伊豆に、旅行に行ってきました。

 その際、父の写真を、一緒に持っていきました。

 圏央道と東名がつながったことで、伊豆までのアクセスが、格段に良くなったのを実感しました。

 1日目は、函南町にある、畑毛温泉に泊まり、2日目は、堂ヶ島温泉に泊まりました。

 写真は、堂ヶ島温泉ホテルの部屋から、見た風景です。

 テーブルの上に、父の写真を置いています。

 どこまでも続く空と、白い雲を見ながら、父を、偲びました。


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